第15話 娯楽室③

 それから私たちは、巧みな話術や美味しい食べ物を餌にして彼女たちの意識を別のものに向けようとしたり、彼女たちと一緒に玉突きをしてより友好を深めながら隙を狙っているうちに気付けば熱中していて翌日になっていたり、葉が持ってきてくれたエレキギターを一晩中かき鳴らして近所から苦情が届いたり、消火器とシールドを手に強硬手段に訴えたりした。しかし、いずれも効果はいまひとつであった。

 また彼女たちは、私たちが邪魔しようとしていることに気付き始め、三人寄れば文殊の知恵といわんばかりにいつになく固い結束で私たちに立ち向かってきたことが、成果の上がらなかった大きな要因でもあった。仮眠は一人ずつ、娯楽室の入り口には通販で買った最新のセンサーと防犯カメラを取り付けられ、ダーツの的やマットで防御を固められていた。

 そんなわけで私たちはついに金曜日の朝になっても、まだ彼女たちの魔窟をこじ開けることが出来ないでいた。しかも問題はそれだけではない。一向に熱狂が冷める気配がないばかりか、三人そろって学校をやめてしまおうかなどという話になっているのだ。

「来週には退学届けをもらいに行こうかな。数学なんて玉の数字さえ憶えられれば十分なんだから必要ないもん」「このキューと玉突き台さえあれば、私にはもう何もいらないよ」「やっと出会った、運命の女神様に」などと各々言い出しており、私たちがいくら言ってもむしろより強く意思を固めるばかりだった。

「もうどうしようもないのかしら」

 恵美がソファーの上で体育座りをしたまま言う。

「学校だけが人生ではないとはいえ、これはちょっと不安ですねー」

 葉が軽くかき鳴らしたギターの弦の音が哀愁を引き立たせる。

「どうにかしたいけど、もうどうしようもなく思えてしまうな」

 一花がいつになく弱音を吐く。

「灯ちゃんさん?」

 葉が私の方を見る。

「何かしら」

「いえ。いつもなんだかんだ言って由美さんのことをすごく心配しているのに、何も言わないので」

「そりゃあ私だって、由美のことは心配しているわよ。でもここまで来てしまったらね、由美の決断を尊重してあげるのが良いのかなと思って」

 思えばいつだって由美は私のことを一番に考えてくれていた。そんな由美が他に熱中できることが出来たのだ。少し寂しい気もするが、親友として彼女の行く末を温かく見守ってやるべきではないだろうか。

「なるほど、これが愛なんですね」

「相手の為すことの全てを受け入れる、まさに究極の愛だね」

「もしかすると私たちは、その心に触れるためにここまで頑張ってきたのかもしれないな」

「急にどうしたの、三人とも」

 私は皆の予想外の反応を示したので少し戸惑いつつも、私自身どこか慈しみとでもいうべき安らぎに包まれるような感覚を覚えていた。

 確かにそうだったのかもしれない。私たちは今、全てをありのままに受け入れることをここで学んでいる、そう考えることも出来る。学校の授業や塾では決して教わらないような、そんな貴重でかけがえのないプレシャスな体験をしているのだ……。

 私たちがそんな風に浸っていたその時、マンションのフロントからのインターホンが二度ほど鳴った。由美の家であるが、肝心の由美があの様子なので、私が画面をのぞき見る。

「ああ、由美のお母さん。私、灯です」

「あら、灯ちゃん。遠慮しないでお義母さんと呼んでくれていいのに」

「違いが分からないんですけど」

 フロントの扉のロックを解除してしばらくすると、部屋の玄関の方から鍵が開く音がした。

「ただいまー」

 由美のお母さんは大きなトランクを抱えながらも、由美が普段見せるものと同じ笑顔を浮かべてリビングに入ってきた。

「おかえりなさい」

「ああ、家に帰ってすぐに灯ちゃんが迎えてくれるなんて幸せねえ。これで、ご飯にする、お風呂にする、それとも私? なんて言葉をかけてくれたらもう天にも昇る気持ちになるでしょうね」

 期待を込めた目をされても私は呆れる他ない。何より今この場には一花たちもおり、案の定彼女たちは目を白黒させていた。それに気付いたのか、由美のお母さんはそちらを見ると「あっ、ごめんなさいね。灯ちゃんたちのお友達よね、よく来てくれたわね」と優しく声をかける。

「いえ、こちらこそ勝手にすいません。お邪魔してます」

 我に返った一花に続き、恵美も葉も恭しくお辞儀をする。

「邪魔なんてことはないわよ。ただ、私も玄関に沢山靴が置いてあるのを見てびっくりしちゃったわ。由美が灯ちゃん以外の子を家にあげるなんて小学生のとき以来だから」

「そうなんですか」

「あの子にも多少の心境の変化があるのかしらね。知らないうちに子どもは成長していくというものね。いえ、それはともかく、今はどこで何をしているのよ。向こうから帰ってくるときに悪天候で遅れることになったから携帯に連絡したのに、全く音沙汰がないのよ。あの子が携帯をあまり携帯していないことは分かっているけど」

「そうですね。でも今回は別の理由だと思います」

「もしかして、ここにいるお友達の数と靴の数があっていないことが関係しているのかしら。あと、灯ちゃんたちが妙に疲れたような顔をしていることも」

 さすがに職業柄もあって周りのことをよく見ているし、察しも良い。

「えーと、実はですね」

 私はこれまでの顛末を、由美のお母さんにソファーに座ってもらってから、恐る恐る説明する。何故、恐る恐るであったのかといえば、これまでのそれなりに長い付き合いから鑑みて、これから起こるであろうことがなんとなく分かってしまったからである。由美のお母さんは私の話を聞き終わると、おもむろに立ち上がった。

「あの、どこへ?」

「もちろん娯楽室よ。途中で通った時は扉も閉まっていたけど、向こうには何か置いてあるのかしら」

「ああ、はい。南京錠で鍵をかけているみたいです。さすがに扉の前に物を置いているとお手洗いに行く時に面倒らしくて」

「なるほど、分かったわ」

 由美のお母さんはトランクを抱えたまま、娯楽室のある廊下へ歩き出す。

「えっ、何。説得しに行くの?」

「そうなんじゃない」

「お母さんの話なら聞いてくれるかもしれないね」

 足早にリビングを出て行った由美のお母さんの後を、一花と恵美は呑気に話しながら立ち上がる。

「いえ、そういうことじゃないのよ」

 私がそう彼女たちに言った直後、娯楽室の前に着いた由美のお母さんは持っていたトランクを思い切り振りかぶると、床が揺れるほどの轟音がした。

「由美!」

 大声で自分の娘の名前を叫びながら、もう一度扉に向かってトランクを叩きつける。それを何度か繰り返し、最後はトランクを持ったまま身体ごとラグビー選手ばりのタックルを決めて、突破することに成功した。私は一人で娯楽室に入って行った由美のお母さんについていく。そしてその後ろを他の三人が明らかに怯えて私の背中に隠れながら、娯楽室に入る。

「由美! 私の声が聞こえる?」

 部屋中、いや家中に響き渡る大きな声で呼びかける。

 由美たちはやはりみかん色の玉突き台でビリヤードをやっていたが、さすがに今までの騒動は耳に入っていたようで、わずかに戸惑いながらこちらを見ていた。

「アンタがビリヤードに熱中しようが、それで学校休もうがやめようが、私は別に構わないけどね、灯ちゃんに心配かけるんじゃないわよ!」

 そのまま由美のお母さんは由美との距離を猛然と詰めたかと思うと、その勢いのまま腰を掴み、奥にあったマットに向かって思い切り投げつける。

「帰ってきたかと思ったら、突然何するのさ」

 由美は顔をしかめつつ、すぐに起き上がりながら言い返す。

「この台で玉突きを極めることが、私の運命で、天命で、宿命で、とにかくデスティニーなの。それを邪魔するというのなら、たとえお母さんだって容赦しないよ」

 由美は母親にも負けないほどの気迫をみせながら、上体をさげて低く構え、それから由美のお母さんに向けてタックルし返す。由美のお母さんも先ほどの由美と同じように顔をしかめるが、重心をしっかりと落として完全に受け止めた。

「ど、どうして効かないの」

 由美は驚きをあらわにしている。

「今の由美はてんで相手にならないわね」

 由美のお母さんはそう言って不敵に笑うと、由美を押しつぶすように容赦なく床に叩きつけた。一応床には低反発の弾力性のあるマットレスが一面に敷き詰められているが、それでも十分痛いはずだ。

「理由は単純よ」

 どうにか抜け出して一度距離を置こうとする由美をがっちりと上から抑えつけながら、由美のお母さんは口を開いた。

「今のあなたの一挙手一投足にはね、全くこれっぽっちも愛が無いのよ」

「愛?」

 由美は目を見開きながら、聞き返す。

「そうよ。あなたが私と喧嘩するとき、一瞬でも私と互角に渡り合えたのはね、あなたが本来の実力以上の力を出せていたからよ。そして何故実力以上の力が出せていたかといえば、それは愛しの灯ちゃんのことを考えていたからに他ならないでしょ。そんな当たり前のことさえも私の娘は忘れてしまったというの」

「あ、灯ちゃんの、ことを……」

 由美は這いつくばりながら、わずかに顔を上げてこちらを見てくる。久しぶりに由美と目が合った。

「由美はもう私とは一緒に遊んでくれないのかしら」

 私は自然と優しく微笑みながらそう尋ねていた。由美はその愛らしい大きな黒い目で私を捉えると、ゆっくりと溢れだした想いがそっとその目から零れ落ちた。

「そうか、そうだったんだ。私は、ずっとそばにいてくれた灯ちゃんのことも忘れて……」

 そこで由美は電池が切れたように気を失ったのだった。



 翌日、季節外れの鍋パーティーが開催された。

 場所は由美の家のリビング。参加者は玉突き騒動に関わった私を含めた七人と由美のお母さんである。

「さあ、皆いっぱい食べてね。ご飯のおかわりもたくさんあるから」

「ホントに色々ありがとうございます。せっかくのお休みなのに」

「いいのよ。若い頃と違って、休みの日は家でのんびりとお料理するぐらいが疲れなくて丁度良いから。それに明日も休みだし」

 由美のお母さんは仕事柄、月に何度も海外に行くことになるが、独身の頃は休みの日も国内外問わず弾丸ツアーを敢行していたそうだ。自社便や提携しているエアラインなら安く乗れるらしいが、それでも実際に出かけるかどうかは別の話だろう。しかし案外そういう人は多いらしい。やはりそれだけアクティブでバイタリティーのある人たちだからこそ、客室乗務員などという大変そうながらも華やかな職業を志すのかもしれない。

「灯ちゃん。その受け皿取ってくれない。こっちの、ちょっとひびが入っているみたいだから」

「ああ、はい」

 私はそばにあった陶磁器の底の浅い小皿を渡す。

「ありがとー。ほら、葉ちゃん、これなら大丈夫だよ」

 由美はもうすっかり普段通りだった。

「ああ、どうもです。さっきのはひび割れていることよりも、なんだかあまり良くないオーラを感じたので。他人様の家のものなので大変恐縮ですが」

「葉は霊感とかありそうだよね」

 由美と葉の間にいる一花が橋渡し役となって、小皿を葉に渡す。

「たしかにたまにいる胡散臭そうな占い師なんかよりは、よっぽど雰囲気あるよね」

 鍋から自分の分を小皿によそっていた橋本さんも賛同する。

「どうなんでしょうかねー」と首を傾げていた葉は小皿をひっくり返しながら、「あっ、これは良い感じです」と満足そうに頷く。彼女たちもいつも通りといっていいだろう。

「あら、どうしたのかしら。薫ちゃんはずいぶん控えめじゃない。由美が結構食べるんだって話していたけど」

「あっ、いえ、そ、そうでもないですよ。わ、私はどちらかといえば小食界で名を馳せておりまして」

「もしかしてあまりお野菜は好きじゃないのかしら。ついつい白菜やら春菊やら沢山入れすぎてしまうのよね。あっ、それともやっぱり私の作るお鍋はあんまり美味しそうじゃなかったかしら」

「い、いえ。そ、そんなことはありませんよ、お母さま。私はお鍋大好きですし、鍋奉行も泣いて喜ぶぐらい美味しそうにみえますよ。魚の出汁が利いていてぐいぐい飲んじゃいます」

 薫はまだ白い湯気がたちこめるほど熱々の汁を勢いよく飲み、案の定「あつっ」と舌を出す。

「大丈夫かい、お水あるよ」

 隣に座っていた赤沢さんがすぐにグラスを渡す。薫はそれを受け取るとそのまま飲み干す。

「それ、実は私が口付けたやつなんだよね」

 赤沢さんはにやけながら言う。薫はそのグラスを赤沢さんの顔に押し付けて突き返す。

「あら、二人とも仲良いのね。私もあなたたちともっと仲良くなりたいわ」

 いつもならここで「私もお母さまとお近づきになりたいです。ええ、そのぷっくりした可愛らしい唇と私の唇が重なるぐらいに」などと答えてもおかしくないのだが、赤沢さんは珍しく目を泳がせて「ええ、私もそう思っていますよ」とだけ答える。

「あら、薫ちゃんと話すときはじっと目を見ているのに、私には目を向けてもくれないのかしら。やっぱり王子さまは若い女の子がお好きなのかしら」

「いえ、決してそのようなことはありませんよ。何せ私のストライクゾーンはこの銀河系よりも広く果てしないほどです。それにお母さまは美しい上に溌剌としていてとても素敵だと思います。ええ、思いますよ、本当に……」

 その言葉には心なしか力が無いが、それも無理はない。

 結局、由美が気を失った後、意外なほどあっさりと二人も正気に戻った。戻ったのは良かったが、その際に由美のお母さんの迫力満点のタックルを目の当たりにしたことが軽いトラウマのようになっているようで、下手なことをすればいつ自分たちにもあれが襲い掛かってくるか分からないと今も怯えている。

「それにしても、娯楽室の扉がもう直っていてびっくりしましたよ」

 赤沢さんが話を逸らすためにか思い出したように言う。

「ええ、何事も早い方が良いでしょ。綺麗に掃除もしたし、後で腹ごなしに卓球でもやりましょう。実は今日の午前中に新しい卓球台が来たのよ。少なくともビリヤードよりは良いと思わない?」

「ええ、本当に」

「ですね」

 二人とも苦笑いを浮かべるばかりだった。念のため、あの玉突き台に敷いてあった布も代えてごく普通の深緑色のものにしたので、もうあのようなことは起こらないだろう。実際、先ほど由美とかなり警戒しながら玉を突いてみたのだが、健全なゲームとしてごく普通に楽しんだだけで、わずか二、三ゲームほどでお互いに自然ともうやめてもいいだろうという空気になった。ただ、それでも副産物としてあの間に身に付けた技術が損なわれることはなく、私はともかく由美はかなり上手く、全てのゲームで由美が勝った。

「それにしても張ってある布がみかん色なだけで、ああも変わるとはね」

「やっぱり何かの呪いだったのかなあ。まあどっちにしても当分ビリヤードはやらないよ」

「でも由美はかなり上手くなれたじゃない。あの調子で続けられたのであれば、もしかしたら本当にプロにだってなれたかもしれないわよ」

「でもさ、いくら上手くなれたとしても、自分にとって本当に大切なものと引き換えにするほどのものじゃないんだよ、やっぱり」

 由美はいつになく照れくさそうに笑っていた。



 お腹いっぱいに鍋を食べた私たちは、赤沢さんが差し入れとして買ってきてくれた私たちも食べたことのある例の海外から進出してきたアイスクリーム屋のアイスを食べて、その味の感想を言い合っていたのだが、いち早く食べ終わった由美と薫がなんだか身体を動かしたくなったと言い出したので、休憩している私たちを置いて娯楽室に行ってしまった。それから残った五人で鍋の後片づけを行い、その後もしばらく学校のことなど他愛のない話で盛り上がり、葉のバンドが今度ライブをやるというので、その時はまたこのメンバーで集まって行こうかという話にもなった。

 そうやって話しているうちに時間が過ぎていったのだが、話がひと段落したところで私は何ともなしに言った。

「そういえば、由美たちまだ戻ってこないわね。さすがにこれだけ長い時間ずっと身体を動かしていたら疲れると思うのだけど」

「確かに遅いね。でも、二人のことだからマットレスの上で眠りこけていたりするんじゃないか」

「それはあり得るな」

 一花も神妙に頷き、軽く笑いが起こる。

「じゃあ二人の寝顔でも見てあげようか。携帯で写真を撮っておけば、いざというときに使えそうじゃない」

「恵美は飄々としているようで、意外と腹黒いよね」

「ええ、そんなことないよ。普通だって」

 そんな会話をしながら娯楽室の前までやってくると、おおよそ規則正しくピンポン玉が卓球台の上で弾かれる音が聞こえてきた。

「なんだ、起きているのか。残念だったね。しかし、ビリヤードじゃなくて良かったよ」

 赤沢さんが苦笑交じりに言い、私たちもやはり同じように笑いながら、娯楽室に入る。

 するとそこには私たちが予想通り、卓球台を挟んで白球を打ち合う二人の姿があった。しかし彼女たちは予想を遥かに上回るほどに真剣な顔つきをしており、こちらを見向きもしないで掛け声と共に激しいラリーを繰り広げている。そして二人の頭には『必勝』と達筆に書かれた鉢巻が巻かれており、壁には『目指せ、世界の頂を』などと書かれた横断幕が垂れ下がっている。

「ねえ、あれ」

 一花が指を指すまでもなく、皆にとってそれは一目瞭然だった。由美たちが打っている台はごく普通の緑色や水色とは全く異なった、可愛らしいみかん色をしていたのだから。

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