第13話 トンネル①
「降りしきる雨の中、傘もささず一人で佇む少女。髪や服が濡れてもお構いなし。まだ昼間だというのに道端の街灯に明かりが灯るほどの暗い灰色の雲に覆われた空を見上げています。ではここで問題です。少女は一体何を考えているのでしょう」
雨脚が徐々に強まっている中、私たちは学校から家に帰っているところであった。すでに電車に乗って最寄り駅に着き、駅の改札口を出てから傘を差そうとしていた。
「映画やドラマでよくあるシーンね。そういうときは大抵の場合、何かやりきれないことがあって泣いていることが多いように思うけど」
「実はこれ、怪談なんだよね」
由美がドット柄の折りたたみ傘を取り出して、すぐそばにあるデパートの二階へ続く階段を指し示す。ほんの少しの距離ではあるが、直通の通路はなく、雨を凌げる屋根がなかった。
「へえ」
私も鞄から紺色の折り畳み傘を取り出す。今日の天気予報では五十パーセントの確率で夕方から雨が降ると言っていた。それは予報にはなっていないようにも思えたが、だからといって責めるのは酷な話なのだろう。きっと高性能なレーダーや優秀な気象庁の方々が苦心しながら出した統計に基づいた数値であり、それは尊重されるべきものだ。だから私は天気予報の五十パーセントを素直に受け入れ、きちんと傘を持ってきた。そもそも五十パーセントという数値を見て、傘を持って行こうと思わない人などこの世界にいるのだろうか。単純な確率としては二つに一つだとしても、当然のことながら降ってきた雨に濡れたら様々な弊害が生まれるわけであり、それは雨が降らなかったときに荷物が少しばかりかさばっているだけの比ではない。せいぜい傘がかさばるなんてつまらないダジャレを言う人が現れて、肌寒くなる程度で済む。
「あっ、今これ以上聞きたくないって思ったでしょ。違うこと考えようとしているときの顔してたもん」
以前観たSF映画では、天気どころか人間一人一人のとる行動のほとんど全てを予測することが出来るシステムが開発されて徹底した管理社会が描かれていたが、それが実現するのはまだまだずっと先のことなのだろうと思うが、最近の人工知能についてのニュースなどを聞いているとそう遠くないうちにある程度の枠に収まった行動予測ができるようになってしまう気もする。そうなればおそらく誰かが思いついたお寒いダジャレを口にする直前にアラートが鳴り響くようになってもおかしくない。
「ねえ、無視しないでよ。灯ちゃん。ねえってば」
「人間がつまらないダジャレを言わなくなるのは、一体いつの日になることか」
「何を訳の分からないこと言っているの? 話を続けるけど、ここからすぐ近くにトンネルがあるでしょ、私たちの家とは反対方向だけどさ。空が暗い雨の日の午後四時半頃にトンネルに女の子が現れるんだってよ。背格好については諸説あるみたいだけど、共通しているのは」
「ああ、手が耳から離れなくなってしまって何も聞こえないわ」
私は両手で両耳を覆う。由美は私に白い目を向けるが、やがて意地の悪い顔でにやけてみせると、「てやっ」という掛け声と共に私の隙だらけの脇に手を這わせてくすぐってきた。
「あっ、ちょっ。やめなさいって」
私は耳から手を離し、由美の手を払いのける。
「まったく、油断も隙も無いわね」
私は落とした折り畳み傘を拾い上げながら言う。
「いつも不思議に思うんだけど、なんでホラー映画やゾンビ映画は観られるのに、怖い話はダメなの?」
「別にホラー映画だって決して得意なわけではないけど、でも映画は作り話だって分かっているじゃない。いくら怖くても映画を観終わったら現実に戻ることが出来るでしょ」
「それを言ったら怪談だって大抵が作り話じゃない」
「でも現実と繋がっているじゃない」
「うーん、私は映画でも怪談でも同じように怖いけどなあ。ホラー映画観た後にシャワー浴びたりするの怖いもん。後ろから何かが襲い掛かってきそうで」
「怖いなら、どうしてわざわざ話そうとするのよ」
「それはもちろん、灯ちゃんの反応を楽しむために決まっているでしょ」
「人が嫌がることをしてはいけないって教わらなかった?」
「それでさ、せっかくだし行ってみない?」
由美はこちらの話を聞かずに、自分の話を進める。
「嫌よ。ただでさえトンネルのところって人気も少なくて気味悪いじゃない」
「二人だから大丈夫だよ。いざという時は、私が命に代えても灯ちゃんを守るから」
「そんな覚悟をされたらむしろ重いわ」
「私の灯ちゃんへの愛は地球よりも重いから仕方ない」
「それなら初めからそんな場所に連れてかないでよ」
「人生にはちょっぴり刺激的な冒険が不可欠でしょ。ついでに言えば、吊り橋効果で灯ちゃんが怖がって私にしがみつくなどのキャッキャウフフな展開を望んでいたりもするわけです」
由美は腰に手を当てて、堂々と胸を張って言う。
「私は行かないわよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「明日隕石が降ってきて地球が滅びてしまうとしても?」
「なによ、その訳の分からない仮定は。それにもし滅びてしまうのだとした尚更そんなことしている場合じゃないでしょ」
「いや、案外やることもなくて、町中を散策しているかもよ」
「やることならいくらでもあるでしょう」
「例えば?」
「……家族や大切な人と過ごすとか」
「私と出かけるのは違うの」
「別に違ってはいないけど……ってそんな話は関係ないでしょ。今はトンネルの話だったはずよ」
私は気恥ずかしくなり、仕切り直そうとする。
「いや、灯ちゃんが言い出したんでしょ。でも、まあいいや。そこまで嫌がるならやめておくよ」
由美は断られたわりには機嫌の良さそうに言う。
「じゃあ帰りは予定通りデパートに寄って行こう。灯ちゃんの探している本の新刊も出ているみたいだし、マンドリンっていうコーヒー豆も買うんでしょ」
「マンデリンね。マンドリンは弦楽器の名前よ。そうね、藤野さんが働いている喫茶店で飲んだときに美味しかったから、家でも淹れてみようと思って」
「へえ、私にはコーヒーなんてどれも苦くて味の違いなんて分からないなあ。灯ちゃんは大人だねえ」
「前にも同じようなやり取りをした気がするけど、好みに大人も子供もないでしょうに」
「まあそれもそうか。愛ちゃんなんか野菜大体嫌いだもんね」
「姉さんの主食はアイスだから」
一応モデルをやっているだけあって、健康管理の一環としてバランスの良い栄養補給のために苦手な野菜も食べはするが、大抵はお酒で流し込んでいる。その割なかなかのプロポーションを保っているので、世の中本当に適当に出来ているものだと実感させられる。
「あっ、じゃあ買い物の最後にちょっと前に入ったばかりのアイスクリーム屋に寄って、愛ちゃんにお土産買って行ってあげようよ」
「ああ、あそこね」
最近海外チェーンのアイスクリーム屋の店舗が、撤退してしまった化粧品メーカーの店のあったテナントに入ったというのを聞いていた。確か国内でもまだ片手で数えられるぐらいしかなくかったので話題となり、開店当初は遠くからも人がやってきていたのでかなり混雑していた。
「大丈夫、もしも混んでいたら私だけ並ぶからさ」
私は意図せず不安そうな面持ちを見せてしまったのか、由美は人混みが苦手なことを配慮して言ってくれる。
「そうしてくれると有難いけど、なんだか申し訳ないわね」
「謝らなくていいって」
由美はそう言うと雨の中を軽やかに歩いていく。
「さあ。買いたいものは買えたことだし、アイスを冷蔵庫に早く仕舞うためにもさっさと帰ろう」
私たちは買い物を終えて、デパートの出口の前にいた。
「そうね。誰かさんは、もうお腹の中に仕舞っているみたいだけどね」
「だって店の前で食べている人たちを見たら、一口ぐらい欲しくなっちゃうでしょ。それで一口食べたらもうやめられるわけがないでしょ。だから私のせいではないのです」
私も一口もらっており、滑らかな舌触りのバニラアイスにパチパチと弾けるキャンディがマッチして癖になる味わいだったことを知っているので、普段はチョコミント党でどちらかといえばアイスに余計なものを入れることに反対の私でも、その意見にはおおむね賛成だった。
「さあ帰ろ帰―ろお家はないけど、でんでんでんぐり返って骨折れた」
由美は機嫌良さそうに、ひどい替え歌を歌いながら傘を差し、家の方へ歩き出す。
「ねえ、由美」
「ん?」
由美がこちらを振り返る。
「やっぱり行きましょうか」
「どこに?」
「さっき由美が話していたトンネルの前よ」
「どうしたのさ、急に」
由美はむしろこちらを心配するような顔をみせる。
「別に、ただなんとなく行ってみてもいいかなって思っただけよ。アイスはドライアイスが入っているから少しぐらいの寄り道なら大丈夫でしょ」
本当は由美が自分の買い物に付き合ってくれたからというのが主な理由としてあったが、それを口にするのは何となく恥ずかしくてはばかられた。
「ふうん、まあそれなら行こうか」
私たちはそこから引き返して駅へ戻り、反対口に降りる。基本的にどちらの改札口も繁華街の向こうに住宅街が続いているのだが、こちらは小さな山や坂がいくつも見られ、その間をバイパス道路が通っている。そのトンネルはそのバイパスのさなか、正確にはその道路から一本外れた脇道にある小さなものであった。
「ちょっと風情ありすぎじゃない」
誘った当人である由美でさえも怖気づくのも無理はなかった。
トンネルの前には柳の木がお辞儀をするかのように垂れ下がり、入口付近は蔦やら何やらが小さな白い花を咲かせながら存分に生い茂って絡まりあっているせいで、昼間だというのにトンネルの中が薄暗がりで足元が辛うじて見える程度だ。
「そういえば今思い出したけれど、この辺りは近いうちに再開発されるみたいよ。ほら、ここに来る途中で通りすぎた何軒かの空き家や賃貸アパートがあったでしょ。そこを取り壊して新しく大きなマンションがいくつか建つということで、その広告がうちにも入ってきていたわ。道も整備して広くするみたいだから、きっとこのトンネルも整備されるでしょうね」
「ああ、そういえばそうだっけ。確かにそうしないと危なそうだもんね。向こうの出口すらうっすらとしか見えないし」
このトンネルは一車線よりも少し幅が広いぐらいなのでそれほど長くないはずだが、ぽつりぽつりと等間隔で設置されている常夜灯さえ、怪しく点滅していて今にも消えそうだ。
「さすがに心霊スポットになるだけはあるわね。それにしてもその女の子は入口にいるんだったかしら、見かけないけど」
「なんか灯ちゃん、私よりも全然平気そうだよね」
「そうかしら、十分怖いと思うわよ」
「いや。普通怖がっている人は、怖いと思うわよ、なんて言い方しないもん」
「それはそうかもしれないけど。でもやっぱり噂は噂に過ぎなかったということが分かってホッとしたのが大きいのかもしれないわね。頭の中で想像しているとどんどん怖くなっていくけど、実際に行ってみてそこにいないことが確認できたら、もう怖がる必要はなくなるわけでしょ」
「妙なところで合理的というかなんというか」
由美が釈然としない様子で首をひねる。
「とにかく、用も済んだことだし帰ろうか」
由美はトンネルに背を向けて水たまりを避けながら歩き出そうとする。たしかに由美から言い出したわりには、私よりも由美の方がよほど早く帰りたがっているようだ。もちろん私だって薄気味悪いところにいつまでも居座るような趣味はない。
だから私も由美と並び立つように歩き出したのだが、そこで何か本当に小さくではあったが掠れた声のようなものが聞こえた気がした。
「ねえ、由美。今、声が聞こえなかった?」
私は由美に尋ねる。
「えっ、何。急に怖いこと言わないでよ」
由美は怯えながらこちらを見る。しかし今度はさっきよりもはっきりとその呻き声が聞こえてきた。由美も聞き取れたようで、その顔から血の気が引いて青白くなる。私たちは示し合わせたかのように、同時にゆっくりと振り返った。
一見すると何もいないようだった。しかしトンネルの中にある一番手前の常夜灯の真下の暗がりには、由美のものよりもずっと白い顔に私のものよりもずっと長い黒髪を垂らした少女らしき人影があった。
「きゃああ」
由美も私も悲鳴をあげて猛然と走りだし、その場から逃げ出した。
私たちが走るのをやめたのは、多くの車が行き交うバイパス道路に辿り着いてからであった。二人ともひたすらに逃げていたので、ローファーの中まで学生服もろともびっしょりで、ポケットからハンカチを取り出す。
「大丈夫、灯ちゃん?」
由美はすでに息を整えて落ち着いた様子であったが、私はまだ膝に手を置いて肩で息をしていた。
「だ、だいじょ、大丈夫よ。ひごっ、日頃のっ、う、運動、不足が、が」
祟ったみたいね、と言おうとするがそれは声にならない。
「全然大丈夫そうじゃないね」
「わ、悪いけど、ちょっとだけ、待ってちょうだい」
「もちろん待つけど」
私はそこで、手に持っていたアイスの入った袋を忘れてきてしまったことに気付く。
「それにしてもまさか噂が本当だったとは思わなかったよ。私、幽霊なんて初めて見たよ」
「でも、あれは本当に幽霊だったのかしら」
ようやく落ち着いてきた私の頭には、改めてその疑問が浮かびあがってきた。
「でも灯ちゃんだって見たでしょ。トンネルの中にいた女の子を」
「見たけれど、冷静になって考えればあの女の子は向こうからやってきただけなんじゃないかしら」
私はそう言って、来た道を振り返る。途中に緩いカーブがあってトンネルまでは見えない。
「まさかとは思うけど、戻って確かめようなんて言い出さないよね」
由美が私の顔を不安げに見てくる。
「ここで帰ってしまっては分からずじまいになるわ。それにアイスの入った袋も落としてしまったし」
「アイスぐらいいいじゃん。むしろお供え物として置いておけば、祟られないで済むかもよ」
「由美は自分のアイスを全部食べてしまったからいいかもしれないけど、私はまだ一口しか食べていないのよ」
「アイスは今度私が奢ってあげるからやめようよー。幽霊の元に戻るなんて正気の沙汰じゃないよー」
珍しく由美は泣き言を言っていたが、私はそれを聞き入れるつもりはなかった。それどころか走ったことで血液が体中に巡ったせいか、むしろ気持ちは高ぶっていた。
「さあ、戻るわよ。私たちに解けない謎はないわ」
「いやだよお」
その場にとどまろうとする由美の腕を無理やり掴んで引き連れながら、私は来た道を引き返していく。
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