第13話 トンネル②
そうして私たちは再びトンネルの入り口近くまで戻ってきた。
「いる?」
由美は目を瞑って私の手を握りしめながら言う。もはや自分で確かめるのも怖いらしい。
「いえ、いないみたいよ。でもアイスの袋も見当たらないわ」
「ほら、やっぱりお供え物だと思って持って行ったんだよ」
「そんなわけないでしょ。これまでお墓に添えたお供え物がなくなったなんて話は聞いたことがないわ。さあ、さっそく現場検証を始めるわよ」
「灯ちゃん、すっかり変なスイッチ入っているし」
「さあ、さっそくトンネルに入るわよ」
「なんでそうなるのー」
由美は心なしか涙目になりながら止めようとするが、今晩ぐっすりと眠るためにも全力を尽くさなければならない。これは仕方がないことなのだ。決して由美が怖がっているのを見て、ちょっと楽しくなっているわけではない。
トンネルの前に垂れ下がっている柳の木の下まで来ると、もう傘がいらないくらいに雨を葉っぱが受け止めてくれるので、私たちは傘を閉じる。
「由美が話してくれた噂によれば、少女は雨の中で濡れながら佇んでいるのよね。でもさっき見た女の子はトンネルの中にいたでしょ。やっぱりあの子は幽霊じゃなくて、通りかかっただけの子どもだったのよ」
「それはただ単に雨宿りしたくなったんじゃないの」
「幽霊って雨宿りするのかしら」
「もしくはあれだよ。幽霊も人の見ていないところでは気を抜くときもあるんじゃないの」
「カメラの回っていないところで素をみせる芸能人じゃあるまいし」
私たちはトンネルの中を、ゆっくりと歩いていく。
「それにしてもすごく静かだね」
しんしんと降る雨のカーテンが外の世界の音を弾いているのか、ひんやりとした空洞の中は、人のいない静かな場所を好む私にとっては、心霊スポットであることさえどうでも良くなるほどに居心地が良い。由美も私と同じように思ったのか、多少肩の力も抜けてリラックスした表情になっていた。
「思ったよりもずっと良い場所ね」
私はその静謐さを阻害しないようにと、足を忍ばせながら言う。
「幽霊さえ出なければね」
由美は呆れたようにため息をつく。しかしそうするのも余裕が出てきた証拠に他ならない。
「女の子が立っていたのは、この常夜灯の真下辺りだったわよね」
私たちはぼんやりと照らす常夜灯に近づいていく。
「あっ。ほら、灯ちゃん見てよ」
するとその途中で由美が声をあげた。
「この辺りの地面、湿っているよ」
「本当ね」
ところどころ水滴というには大きい黒い斑点のような跡がついている。
「ということはやっぱりあの女の子は幽霊じゃなかったのかしら。身体がなかったら濡れることもないじゃない」
「いや、むしろこれは幽霊でも雨宿りをする証拠なんだよ。もしかしたら私たちは世紀の大発見をしてしまったのかもしれない」
「さっきからやたらその説を推すわね。まあそもそも幽霊なんて曖昧な定義の存在に対して、私たちが言い合ってもしょうがないわ」
「そうかなあ、あの子は雨宿りする幽霊だと思うんだけど」
「それは本当に幽霊だったの?」
「だからそうだってさっきから言って……」
由美は分かっていないといわんばかりにかぶりを振って答えるが、それを途中で止める。理由は明白で、その質問が私の声ではなかったからだ。私たちはやはり先ほどと同じように声の聞こえた背後をゆっくりと振り返ってみた。するとそこには、ある意味では予想通りに、黒髪で色白の女の子が立っていた。
「きゃああ」
またしても全く同じように悲鳴をあげた由美は、私の手を素早く掴んで一目散にその健脚で逃げだそうとするが、私は足に力を入れ、多少は引きずられはしたが、それでもどうにかその場に踏みとどまった。
「ど、どうして、灯ちゃん。早く逃げないと女の子の幽霊に取り憑かれて、金縛りにあって夜中にトイレにいけなくなっちゃうよ」
「さっきから由美の幽霊観がいまいち理解できないんだけど。それはともかくとして、私にはごく普通の女の子にしか見えないわ」
私は目の前の少女を見る。長い黒髪に顔立ちはまだ幼く、背丈は私たちの肩ほどもなくて、せいぜい小学生にしか見えない。線は細いがハッキリと輪郭があって、実体を感じられる。
「もしかしてさっき悲鳴をあげていたのは、お姉さんたち?」
その女の子は首を傾げて尋ねてくる。やはり先ほど見たのは彼女の姿のようだ。
「ええ、そうよ。ごめんなさいね、あなたのお顔を見て逃げ出すような失礼な真似をしてしまって」
「お姉さんたちは、私を見て逃げたの?」
女の子はさらに首を横に傾げて見せる。
「気付かなかった?」
私などは女の子の姿を見たばかりかその目と合ったように思ったが、少なからずパニックになっていたので、実際はそんな気がしただけなのかもしれない。
「ああ、うん。そういえばそうだったかも。ちょっとぼうっとしていたから」
「そうなの。でもどちらにしてもごめんなさいね」
私はわずかに違和感を覚えてはいたが、いずれにせよしっかりと謝らないといけない。ましてや幽霊扱いされていたと聞けば、良い気はしないだろう。
「ほら、由美も」
由美はまだ私の手を強く握り、怯えるように女の子の方を見ていた。
「ねえ、ちょっと手とか触ってもいいかな」
「こら、由美。失礼極まりないわよ。あと、そういう発言は今どき女性のものでも下手したら事案になるわよ」
昨今の世情からしても、異性へのセクハラはもちろん同性に対してですら神経質にならざるを得ない。別に私は普段からそういったことを主張する人間ではないのだが、うっかりこういった場面を第三者に見られて私たちが良からぬことをしていると思われては困る。
「それはそうなんだけど、でも……」
「別に良いよ。お姉ちゃんたちみたいに手を繋げばいいの?」
健気にも女の子は小さな右手を差し出してくる。由美はおずおずと手を出すので、私があえて非難するように白い眼を向けてから離した手で腕を突くと、ようやく女の子の手に触れた。そこでようやくホッとした顔になり、「ああ、ホントだ。柔らかい」と口にする。安心して涙腺が緩んだのか、その目じりにわずかながら涙さえ浮かべていた。
「ごめんね、私がちょっとおバカだったよー」
「う、うん。別に大丈夫だよ。お姉ちゃんの手、ぽかぽかしてあったかいね」
確かに由美の手が冷えていることは、あまりない気がする。冷え性の私からすれば、羨ましい限りだ。
「それにしても急に出てくるから、ホントにびっくりしたよ」
「私、家が近くてこのトンネルにたまに来るの」
それから彼女と少しばかり話して、いくつかのことが分かった。まず彼女の名前は、楠木凛佳といい、ここから歩いてほんの数分のところにある一軒家に住んでいる小学生であった。見知らぬ人と話しているからなのかもしれないが、話す限りでは大人しい性格のようだったが、きちんとした受け答えが出来ており、私は素直に好感を持った。
「それにしてもどうしてこんなところに一人でいたの」
由美が至極まっとうな質問をする。凛佳は少し口をもごもごとさせていたが、やがて答えた。
「私、なんていうか、その……お母さんと最近あまり上手くいってなくて、今日も学校から帰ってきた後に喧嘩して出てきちゃったの。ここは、誰もいなくて落ち着けるから」
「そうだったのね」
それを聞いて私はますます申し訳ない気持ちで一杯になったが、「ふうん。それは大変だねえ」と由美はなんとも呑気な返事をする。私の気持ちを察してか、由美は言葉を続ける。
「まあでもさ、多かれ少なかれ誰にでもあるんだよ。私だってそのくらいの年頃のときは、お母さんが家に帰ってくるたびに掴み合いになっていたし」
「由美の家の場合は、ちょっと事情が違うと思うけど」
由美のお母さんは、性格が由美と非常に似ている。特にお互いに強情で頑固なところがあり、当時かなり早めの反抗期を迎えていた由美に対して、由美のお母さんはただひたすら力づくにねじ伏せるという単純かつ合理的ともいえる教育方針を採用していたので、生傷が絶えず、母娘共に学校に呼び出されたこともあった。しかし由美曰く「あの日々があったから心身ともに強くなれた」そうで、本人がそれを糧にしているのなら私から言うことは何もない。ちなみに喧嘩の原因で最も多かったのは、由美のお母さんの仕事が休みで家にいるとき、私が由美の家に泊まりに行った際に、どちらが一緒にお風呂に入るかというものだった。目の前で繰り広げられる取っ組み合いを、私がどういう気持ちで見ていたかは言うまでもないだろう。
「皆が皆、由美みたいに出来るわけじゃないのよ。私だって凛佳ちゃんみたいに静かな場所で一人きりになりたいときもあるわ」
私はなるべく彼女の心に寄り添えるようにと、努めて優しく言う。
「でも、女の子が一人でこんな暗いトンネルの中にいたら危ないわよ。車が通るかもしれないし、幽霊が出るなんて噂もあるから」
「幽霊なんて本当にいるんですか」
凛佳はどちらかといえば、存在するはずがないという否定的なニュアンスで聞いてくる。
「普通に考えればいないでしょうね。私も怪談話はあまり信じない方だから」
「怖がるくせに」
由美が口を挟んでくる。
「信じていなくても怖いことはあるでしょう」
「何、その意味の分からない理屈は」
「少なくとも誰かさんのように何度も悲鳴を上げたりはしないわ」
「はいはい、いちいちびびりまくっている私がおバカなんですよー」
由美は唇を尖らせて拗ねる様子は小学生さながらであり、さらに「で、でも気持ちは分かります。私も暗いところで突然人が出てきたらびっくりしますから」と小学生に慰められる始末である。
そうこうしているうちに、段々と日も暮れてきたので、薄暗いトンネルにいつまでもいるわけにもいかず、家に帰ることにした。
「私がお説教してもしょうがないけど、今度からはあんまり一人で暗いところにいかないようにね。きっとお母さんも心配していると思うから」
「はい、ごめんなさい」
凛佳は素直にぺこりと頭を下げる。
「だから、もし落ち込むことがあったら、ここに掛けて頂戴。そうしたら美味しいものでも食べに行きましょう」
そう言って私は鞄からペンとメモ帳を取り出して、携帯電話の番号とメールアドレスを書いてから、その部分だけ破いてから端切れを凛佳に渡した。
「きっと余計なお世話だし、基本的に知らない人にかけるのは良くないことでしょうけどね」
「そうそう。私たちは一見すると超可愛い女子高生二人組としか思われないだろうけど、実は裏社会を暗躍するスパイ組織の一員かもしれないよ」
「何を下らない冗談言っているのよ。あと、自分で可愛いとか言わないの」
「ええ、少なくとも灯ちゃんは宇宙一可愛いよ」
「さすがにその手にはもう乗らないわよ」と言いながらも、相変わらず顔が少しばかり熱くなってしまうのはどうしようもない。
「余計なお世話なんかじゃないです。ありがとうございます、灯さん」
家まで送っていかなくて大丈夫かと何度か聞いたのだが、「ここからすぐなので平気です」とやんわりと、しかしそこだけは有無を言わせない様子で断られてしまった。
「じゃあまたね」
「はい、また」
「お母さんと仲直りするのよ」
「そうします」
それから私たちは手を振りながら暗いトンネルを抜けると、少しだけ弱まった雨の中、傘を差してから歩き出す。
しばらく歩いたところで、不意に由美が口を開いた。
「そういえば美味しいもので思い出したんだけどさ」
私は一瞬、一体どの「美味しいもの」の話をしているのかと思ったが、それは凛佳に言った言葉の中にあったものだと理解する。
「結局、アイス見つからなかったね」
「ああ、そういえばそうね」
私は今の今まで完全に忘れていた。
「おそらく猫か何かが持って行ってしまったんじゃないのかしら」
「そっかあ。あー、アイス食べたかったなあ」
「自分の分じゃないくせによく言う」
「いいじゃん、別に。私だって灯ちゃんにあげたでしょ」
「一口だけね」
「あー、そういうこと言うんだ。感謝の気持ちを忘れたら寂しい大人になっちゃうよ」
私は由美を適当にあしらいながら、ふと何かに見られているような気がして振り返る。
すでにトンネルの入り口からは遠ざかり、その空洞の中は先ほどよりもさらに暗い闇になっていて、もはや何も見えなかった。
「行ったみたいだよ」
束の間の騒々しさが過ぎ去り、静寂が戻ってきたトンネルの中を再び引き返してきた私は、いつもより少しだけ大きな声を出してみる。返ってくるのはただ風が吹き抜ける音だけだが、私がそれを気にしたことはない。
「なんだかちょっと変わった人たちだったね。たしか幼馴染って言っていたっけ。やっぱりずっと一緒にいればあんな風に仲良くなれるものなのかな」
足を忍ばせるようにして戻ってきた常夜灯の下で、腰を下ろしてしゃがみ込む。
「えっ、大事なのは時間じゃないって。うん、私もそう思うよ。私があなたと出会ってからあんまり時間は経っていないけどこんなに仲良しだもんね」
私がそう言うと、いつになくはしゃぐ。
「それにしても、あのアイス美味しかったね。お姉さんたちには申し訳ないけど、私のお小遣いだととても流行りのお店のアイスなんて買えないから許してくれるよね。ほら、美味しいもの食べさせてくれるって言っていたし、ちょっとした前借りみたいな感じで」
私が少しばかり調子に乗ったことを言うと、今度は眉をひそめられてしまい、私はすぐに話を変えた方が良いと判断する。
「でももしかしたらバレていたのかもしれないね。お母さんと喧嘩してきたっていうとっさの嘘も、髪の短い方の人にはちょっと疑われていたみたいだから、次はないかな。それに、あんまり心配させるのも悪いもんね」
私は先ほどのやり取りの際に意外にも緊張していたらしく、身体がこわばっているのを感じて、再び立ちあがると腕を上に伸ばす。するとそれを見て何か申し訳なさそうな表情を浮かべたので、私はやんわりと否定する。
「別に迷惑なんかじゃないよ。私だって、ひっそりとした静かな場所が好きなのは知っているでしょ。だからわざと幽霊が出るって噂を流して、人が来ないようにしたわけだし。まあでも、さっきみたいに興味本位で見物しに来る人も増えたから、かえって逆効果だったかもしれないけど。それはともかく、私はあなたと一緒にいたいと思う気持ちは同じなんだから、もうそういう寂しそうな顔はしないでよね。私は、さっきアイスを食べていたときみたいな幸せそうな顔をもっと見ていたいんだから」
おそらく近いうちにこの辺りはもっと整備されて、人も車もたくさん通るようになる。私は大人びているといわれることもあるけど、それでもまだ小学生だし、そういうことをどうにもできないのは分かっている。だからせめてほんの少しの間だけでも一緒にいて、彼女のささやかな願いのいくつかを叶えてあげられたら良いと思っているのだ。
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