第10話 細貝家(風邪の日)

 頑丈な重い真鍮の扉が開くと、そこには黄色い花柄のパジャマを着た由美の姿があった。

「おお、本物の灯ちゃんだー」

 由美はマスクを付けて赤い顔をしながらはしゃぐ。

「むしろどこに偽物がいたのよ」

「だってインターフォン越しだともしかしたら映像だけの灯ちゃんかもしれなかったわけでしょ」

「声も聞こえたはずだけど」

「レコーダーとかで音声を流しているだけかもしれないじゃん」

「そんなバカなことあるわけないでしょ」

「だってマンションのエントランスはともかく、ここの扉は勝手に開けて入ってくれば良かったのに、わざわざ鳴らすんだもん」

「そうはいかないでしょ、一応よそ様の家なわけだし」

「あー、その一言にはすごく傷ついたよ。私の家をよそ様だなんて言い方するんだ、灯ちゃん冷たーい。合鍵まで持っているのによそ様は無くない?」

 由美は腰に手を当てて、膨れっ面をする。たしかに由美の言う通り、私は由美の家の合鍵を持っていた。由美の母親が私にくれたのである。

 由美の両親は仕事の都合であまり家に帰ってこない。父親は船乗りで母親はキャビンアテンダントといった一体どこで出会ったのかさえ分からないような仕事をしており、二人ともそれぞれ海と空の旅に出ていく必要があるため、当然短期、もしくは長期間家を空けなくてはならない。そうなると必然的に由美は一人になる。しかしだからといって娘と仲の良い友人に家の鍵まで渡してしまうのは、だいぶ突飛な発想ではないだろうか。もちろんそこには長い時間をかけて培った信頼関係があってこそではあるが、由美の家の人たちはちょっと変わっていると少なくとも私は思っている。

「はいはい、私が悪かったわよ。とにかく由美はベッドに戻って安静にしていないと」

 私は後ろ手でドアを閉めながら適当にあしらう。下手に興奮させて、さらに熱をあげてしまうわけにはいかない。実際、目の前の由美の顔はさらに赤くなっているようにみえた。

 私はひとまず手を洗ってから、由美の部屋に足を踏み入れる。

 由美の部屋に入ったのは久しぶりだった。実は、私が由美の家に行く頻度はそれほど多くない。そうはいってもおそらく平均的な高校生同士が同級生の家に行く頻度と比べれば決して少なくないだろうが、せいぜい片手で収まらない程度のものだ。

 その最たる理由としては、二人で遊ぶときやご飯を食べるときは大抵私の家になるからである。それはやはり私の姉である愛の存在が大きい。愛は由美のことを私に対してよりも遥かに妹のように可愛がっているし、由美も愛を姉のように慕っている。もちろん用事があって遅くなることも少なくないが、木下家にいればそのうち帰ってきて、夕食を済ませていなければ一緒に食べる。

「それにしても、予想を裏切らない散らかりっぷりね」

「これでも灯ちゃんが来る前に片づけたんだけどなー」

 由美は布団に潜り込んでから顔だけを出し、首を持ち上げて辺りを見渡す。ゴミや食べかすが転がっているわけではないが、漫画や洋服など出したものが元の場所に戻されていない。

「ちゃんと寝てなさい、私が片づけておくから」

「ありがとー」

 由美の声はかすれていた。少し喋らせ過ぎたかもしれない。

 私はその後、無言で淡々と由美の部屋を片付ける。由美はその間、ときおり話しかけてきたが、私が適当に受け流しているとやがて静かに眠りについた。

 今朝は少しばかり寝坊をしたためにギリギリの時間に家を出て、早足で由美のマンションの前に向かっていたのだが、その途中で由美からの着信があった。由美の両親が共に不在であることは知っていたので、学校を休んで看病しようかとも提案したが、そこまでは悪くないからと断られた。

 私は片づけを終えるとキッチンに立って、レジ袋から買ってきた食材を取り出し、せっせと手を動かして料理を始める。

 由美も家に一人でいることが多いだけあって料理はある程度出来るが、さすがに今日はまだ使われた形跡がなかった。朝食はレンジでチンして食べられるおかゆに梅干をのせただけで食べて、紙パックに入った野菜ジュースを飲み、それから夕方までずっと寝ていたと聞いている。寝ていたおかげで具合は良くなってきているようだが、お腹はかなり減っているはずだ。

「おはよー」

 由美が目を覚ましたときには、外はもうすっかり暗くなっていた。

「良く寝ていたわね」

 実際何度か由美の様子を見に行ったが、途中で目を覚ますこともなくスヤスヤと眠っていた。

「今日は泊まっていくわ」

「ええっ、別にいいよー。風邪うつっちゃうよ」

「由美っていつもは図太いのに、弱っているときは妙に遠慮するわよね」

「女の子に太いなんて言っちゃダメだよ、灯ちゃん」

「そういうボケはいいから。それに大丈夫よ、私は。ほら、遺伝的に」

 木下家の人間は滅多に風邪を引かない。一番軟弱だと自負している自分でさえも、これまで片手で数えられるぐらいした風邪を引いたことはない。丈夫な内臓を有していることは、姉や母親らが身をもって証明してくれている。愛はこの前もリビングで酒瓶を抱えて腹を出して眠りこけていたが、翌朝にはけろっとした顔で仕事に行っていた。

「夕ご飯は何を作ってくれたの」

 由美はキッチンのコンロの土鍋と鉄鍋を指差す。

「けんちん風味の煮込みうどんと生姜スープね。あと、りんごのすりおろしも冷蔵庫にあるわよ」

「前に風邪引いたときも同じメニューだった記憶があるなあ」

「不満かしら」

「いや、うどんは好きだから良いんだけどさ、灯ちゃんの作る生姜スープってほとんどネギスープと言ってもいいぐらいにネギばっかり入っているでしょ」

「身体に良いからね」

 由美がネギを苦手なことは知っていたが、私はそれを聞き入れる気はなく、由美はぶつくさと言っている間に、テーブルに食器を並べお椀によそってしまう。もちろん由美の器にはネギをてんこ盛りにする。

「うへえ」

 由美は露骨に顔をしかめる。

「さあ、食べるわよ」

「いただきます」

 私も由美の正面に座ると、自然に声を合わせた。それから由美はまずスープに口をつける。

「あったまるねえ」

「でしょ」

 由美はしばらくの間、喋ることも忘れて黙々と食べていた。やはりかなりお腹を空かせていたようで、あっというまにうどんを平らげてしまう。

「おかわりしてもいい?」

「よそるわ。でもその前に残したネギも食べなさい」

「ぐえ」

 由美は何だかんだと文句を言いながらもどうにか完食すると、ソファーに寝転がる。私は洗い物をしながら由美にベッドに入るように勧める。しかし由美はぼーっとこちらを見ているばかりだったので、水流の音のせいで聞こえなかったのかと思い、もう一度注意しようと口を開きかけたが、由美の方が先に口を開いていた。

「いや、重要なことに気付いたんだけどさ」

 私は何の話かと思い、手を止めそうになる。

「二人で暮らすようになったら家事の分担ってどうするのかな」

「はあ?」

 私は思わず手を止める。蛇口の水が流れっぱなしのまま、排水溝に吸い込まれていく。

「だってそうでしょ。片づけは私には不可能だから灯ちゃんがやってくれるとしても、他のことはどうするんだろ」

「何の話をしているわけ?」

「えっ、将来一緒に住むときの話以外の何だというの?」

 由美が首を傾げる。

「どうして由美が疑問形で返してくるのか私には理解できないのだけど。そもそも一緒に住む予定なんてないでしょ……あるの?」

 私はむしろ自分が何か重大なことを忘れているのかとさえ思えてきた。

「例えば大学生になったときとかさ」

「都心ならここからで十分通えると思うけど」

 姉の愛が良い例である。

「由美は地方の大学でも目指しているの?」

「まさか。私、都会好きのシティーガールだし」

「それなら下宿する必要もないじゃない」

「じゃあ就職したときとか」

「それって二人とも同じ地方に勤務になるとかじゃないと無理じゃないかしら」

「もういいもん。私、寝る」

 由美は立ち上がって自室に戻ろうとリビングから出て行こうとする。

「おやすみなさい。ちゃんとお布団かけるのよ」

 私は言いながら、まるで母親みたいな言い方だと我ながら思った。

「そこは普通止めるところでしょ」

 由美は突然振り向いて私を指差して叫ぶ。しかしすぐにゴホゴホと咳込む。

「いえ、病人は早く寝るべきよ」

「そういうことじゃないよー」

 由美は脱力した様子でこちらを見る。

「何? もしかして私、由美を怒らせるようなこと言ったりした?」

「別にそうじゃないけどさー。いや、ある意味そうとも言えるんだけどね」

「ちゃんと説明してくれないと分からないわよ、私。洗い物しているんだし」

「いや、だからさ。つまるところは、私が一緒に暮らすことを遠巻きに提案しているのを悟って欲しかったんだよ。ついでに言えば、新婚生活の話とか照れ隠しと願望がないまぜになった返しの一つでも聞きたかったのよー、もうー」

 由美は地団太を踏んで、暴れまわりだす。

「えっ、えっ?」

 私はあまりに唐突な由美の行動にひたすら戸惑ったが、とりあえず泡立ったスポンジを置いて由美の方に行く。

「なんだい、灯ちゃん。私のこと、愛おしくてたまらなくなって抱きしめる気にでもなったのかい」

 やたら芝居がかった口調で由美は何故かその場で身体をくねらせる。

「でもホントは私が抱きしめてほしい気分なんだ。ああ、今夜は月がとても綺麗だ。あの月を包み込む雲のように優しく私を抱きしめておくんなんし」

 由美は蛍光灯を指差して言う。第一、今日はかなり曇っていて月も見えないはずだ。

「ああ、このまま月が沈んでこの夜が終わってしまうなら、私はもう」

 そこで由美がよろめく。私は受け止めようとするが、それよりも早く由美が私に飛び掛かるように抱き着いてきた。その衝撃で倒れそうになるがどうにか踏ん張る。

「えへー、灯ちゃんの汗の匂いがするよう」

 由美はそのまま私の首筋に鼻を押し当てる。私は恥ずかしさから思わず引きはがそうと由美の顔を掴むが、すぐにその熱さに驚いた。

「すごい熱じゃない」

 私はそのまま由美を抱きかかえてベッドに運ぶ。由美はと言えば、「お姫様抱っこしてー」などとはしゃいでいる有様だった。

「なんだか酔っ払っているみたいね」

「そんなことはーないでーす」

「それとも熱が出過ぎて頭がおかしくなったとか。体温計どこにあるの?」

「家!」

「の?」

「どこか!」

 私は由美に聞くのは諦めて探す。するとすぐにリビングのテーブルに置いてあったのを見つけた。そして脇に挟ませ熱を測らせると、夕食前よりも少し上がり気味であった。私は不安を見せないように平静を保って由美をなだめる。

「とにかく今は大人しく寝ましょう」

「イエス、マイプリンセス」

 やたら威勢のいい返事だ。しばらく由美は何故か熱が上がっているわりには楽しそうにおしゃべりを続けていたが、やがて急に電源が切れたかのように静かになりものの数秒の内に眠りについてしまった。

「大丈夫かしら。なんだか妙な様子だったけど」

 由美に布団をかけ直してから、改めて首を傾げる。しかしだからといって特に思い当たることもなく、やはり熱のせいかと一人で納得し、洗い物を再開するためにキッチンに戻った。



 目を覚ますと窓の外からは眩しい陽光が差し込んでいた。

「あれ、リビングのソファーで寝てしまったのかしら」

 いつの間に眠っていたのか思い出せなかった。そして身体を起こそうとした。しかし私は自分の身体が鉛のように重く感じ、起き上がることもままならなかった。さらになんだか熱っぽい気もする。

「あ、あかりぢゃーん」

 私が戸惑っていると、リビングに由美が入ってきた。一晩寝ていたはずなのにも関わらず、由美の様子は良くなるばかりか昨日よりもさらに顔が真っ赤になっており、鼻声で呼吸も荒い。

「ちょっと、由美。大丈夫?」

「えっ、もちろん気分は絶好調先生って感じだよー。でもちょっとだけ、喋りにくいというか呼吸しづらいかもー、えへへ」

 何がそんなに嬉しいのか、由美は頬がゆるゆるに緩んでいる。

「とりあえずベッドに戻りなさい、私がすぐに朝食の支度をするから」

「でもー、あかりちゃんもなんだかー林檎みたいに顔が赤いよー。でもその顔もとってもキュートだね、ベイベー。それにしても眩しいね、この部屋。溶けてしまいそうだよー、アイス食べたいなあ」

 私は脈絡のなくなってきた由美の話しぶりに正気を疑う。いや、疑うというよりこれはもう確信めいていた。ただの風邪でこうなるとは思えない。何かがおかしい。しかし原因を解明する前に、朝食の準備をしなくてはいけない。

「ねえ、もしかして灯ちゃんも楽しい気分になってきた?」

「えっ、何のことよ?」

 取り合っても意味がないと思っていたが、それでも気になることを言われて反射的に返事してしまう。

「だって灯ちゃんもなんだかにやけているんだもん」

「そんなこと」

 私は自分の手で口元を触ると、驚いたことに口の端が吊り上がっている。そしてそれを確認した途端、急に身体が宙に浮かび上がってくるような感覚を覚え、私は起き上がった。身体は先ほどまでと変わらず鉛のように重いだけに奇妙な感覚だった。私はそのままキッチンに向かう。

「うふふ」

 その声が自分の口から漏れたことに、私は気付かなかった。

「あっ、朝ごはんだよね。私も手伝うよー」

 由美は上機嫌なウサギのように飛び跳ねながら、キッチンにやってくる。

「いや、由美は病人でしょ。休みなさい」

「病人?」

 由美が首を傾げる。

「いや、だってあなた、昨日の朝から風邪を引いて熱を出していたでしょ」

「えー、そうだっけ? でもこんなに身体が軽いんだよ、うへえー」

 由美はだらしなくにやけてから、私に抱き着くがやはりすごく熱い。しかし不思議と由美の身体もなんだか軽く感じられた。

「今日の朝ごはんは何だい、あかりん」

「昨日の残りよ。うどんの無くなったけんちん汁ね。それからあとは、なんだったかしら」

 私は冷蔵庫に開ける。そこには二つの鍋があった。片方は茶色い土鍋であり、中身がけんちん汁であることは分かっている。しかしもう一つの鉄鍋に何が入っているのか思い出せない。そして土鍋を取り出しコンロにかけ、もう一つの鉄鍋も熱するために蓋を開けようとした。しかしその時、私の頭で警報が鳴らされたようにぐおんぐおんと低い音がうねるように鳴って揺さぶられる。

「どうしたの、あかりぽん?」

 由美は相変わらず締まりのないにやけ顔をしている。

「もしかして食欲無いぽよ?」

「ぽ、ぽよ?」

 私は聞いたこともない語尾に戸惑う。今さらだが由美はこんな風に変なキャラクターみたいに喋ったりはしない、稀にふざけているときにしか。

「いえ、そういうわけではないわ。お腹は減っているもの」

 私はそこで何気なく、というか何も考えずに鉄鍋の蓋を開けた。するとそこには……。

「鶏の生姜スープ?」

 薄黄緑色に彩られた液体には所々に鶏の白いささ身が沈んでいた。

「ああ、そうだったわね。私、生姜スープを作ったんだったわ」

 私は納得して火を付ける。しかし先ほどの違和感や頭が揺さぶられるような音はなんだったのだろう。私はそれとはなしに由美の方を見た。私は思わずぎょっとした。

「ゆ、由美……」

「どうしたの、あかりぽん?」

「そ、その背中に背負っているものは何よ」

 私が由美の方を振り向くと、由美の背中には丸太ほどの大きさもある緑色の筒状のものがあった。

「ああ、これはねえ、ネギだよー」

 由美はいたって明るく答える。強烈なネギの青臭い匂いが漂ってきて、私は思わず顔をしかめる。

「ね、ネギ?」

 そんな大きなネギは見たことがなかったし、そもそもどこから取り出したのか不明だ。

「うん。ほら、カモがネギを背負ってくるでしょ。その真似をしているの」

「なんでそんな真似をする必要があるのかは知らないけど、それをどうするつもりよ」

「もちろん食べるんだよ。ネギがカモを背負ってきたところを漁師が捕まえた後は、美味しく頂くでしょ。あっ、でも私のことまで食べようとしちゃダメよ。まあどうしてもと言うなら……いや、今日はネギだけ食べるの。なんてったって私はネギ大臣だもん」

 さっぱり意味が分からない。

「だからその生姜スープに入れないとね」

 由美はそう言うと、キッチンの棚から包丁とまな板を取り出し、丸太みたいなネギを軽く持ち上げてまな板の上に載せると、ものすごい勢いでみじん切りにし始めた。由美が楽しそうに歌いながら切っていく様子を、私はただ唖然として見ていたが、そこでようやく大事なことを思い出した。

「そういえば、昨日私が作ったのは生姜スープには、鶏肉ではなくてネギをたくさん入れたんだったわ。由美の風邪が治るようにと思って」

 そこでようやく私の中で記憶がつながってくると同時に、ある疑問が浮かび上がった。

「由美はネギが苦手だったはずじゃない」

 そう、由美は昨晩の食事の際もネギのたくさん入った生姜スープを嫌がっていた。しかしそれでも私がうどんをお代わりするなら、ちゃんと残さずネギも食べなさいと言っていたはずだ。もしかして、由美がおかしくなったのは私が由美にネギを無理矢理食べさせたからなのだろうか。まさかそんな馬鹿なことがあるのかと思うが、今はそうとしか考えられない。

「ほら、あかりぴょん。ネギ切り終わったから鍋に入れるよ」

 瞬く間に由美は大量のネギを切り終えたが、まな板に載るはずもなくキッチンがネギの山で埋め尽くされていた。

「そんなに入るわけないでしょ」

「ああ、それもそっか」

 由美は今さらそのことに気付いたように頷く。

「じゃあこのまま食べちゃおう」

 由美はネギを両手ですくい上げるとそれをそのまま大きく開けた口に流し込むように詰め込み、咀嚼する。

「うん、おいしー、おいしーよー。ネギさいこーだよー」

 満面の笑みを浮かべて幸せそうにネギをモリモリと食べていく。私はなぜ由美がそんなにネギが好きになっているのか全く分からない。

「そうだ、あかりぽんも食べなよ。ほら、遠慮しないで」

「いや、私は」

「ほら、いいから。遠慮しないで」

 由美は手に持っていたネギを私の口にねじ込む。私はどうにか飲み込むが、由美は「ほら、こっちの青いのもすごく美味しそうだよ」などと言って矢継ぎ早に詰め込もうとする。

「ちょ、ちょっと由美。これじゃあキリがないわ。いえ、その前にちょっと落ち着かせて」

 私は一刻も早く逃げ出したくて、後ずさりをする。すると背中が何かにぶつかった。おそらく冷蔵庫だろう。私はとりあえず口直しがしたいと思い、飲み物を取り出そうと考えて振り返る。しかしそこにあったのは水色の冷蔵庫ではなく、先ほど由美が背負っていたネギよりもはるかに大きな緑色のネギだった。

「きゃあ」

 私は思わず悲鳴を上げるが、由美はそれを見ても全く動揺することもなく笑っている。私は慌てて周りを見るが、そこら中にネギが生えてきており、鬱蒼と茂ったネギの森と化していた。

「そうだ。私が手で運んでいてもキリがないし満足できないよね。というかもうネギだけあれば生きていける、まさに万能ネギだよ、あかりぽん」

 由美は笑顔のまま私の首根っこを掴み、そのままネギの山に顔ごと突っ込ませようとする。

「いやあああ」

 私は必死の抵抗を試みようとするが、何故か強力な緑色のオーラを発する由美の圧倒的な力の前に為す術もなく、そのまま視界が緑一色になった。



「はっ」

 突然視界が変わり、白い天井が見えた。

「あっ、目が覚めた?」

 私の顔を由美が覗いてくる。

「もう心配したよー、灯ちゃん。朝、電話がかかってきて風邪引いたから休むって言われたから、今日の授業は全く身に入らなかったよ。あっ、どうせいつも授業なんて聞いてないでしょとか思ったでしょ」

 そう言って由美が布団越しにつついてくる。私はその様子をポカンと眺めていた。

「どうしたの、もしかしてまだ気分悪い?」

 由美が心配そうに尋ねてくる。

「でも無理もないよね。灯ちゃん、滅多に風邪ひかないのに、今回は三十九近くも熱があったみたいだし、さっきもなんだか苦しそうな顔してうなされていたもん。あれ、どうしたの。そんなに見つめられると照れちゃうんだけど」

 由美はわざとらしく身体をくねらせる。由美の顔は特に普通に見えた。周りを見渡すと、見慣れているいつも通りの私の部屋だった。もちろん机や椅子がネギになっていたりはしない。

「夢、だったのね」

 私は安心して大きく息を吐いた。

「変な夢でも見たの?」

「まあ、そんなところね」

 さすがに内容は説明する気にもなれなかった。風邪を引いたのは由美ではなく私であり、今まで見ていたのは全て夢だったということだ。それさえ分かれば十分だった。

「あっ、さっき灯ちゃんのお母さんと一緒に生姜スープ作ったんだよ」

 由美が思い出したように言う。

「ほら、私が風邪引いたときに灯ちゃんがいつも作ってくれるやつ」

「も、もしかしてネギも入っていたりするのかしら」

「そうそう。私はネギ苦手だけど灯ちゃんはわりと好きでしょ」

 由美はいたって明るく言う。

「いや、わ、私も今は、ネギはあんまり食べたくない気分というか」

「食べなきゃダメだよ。ネギは風邪に良く効くって、灯ちゃんもいつも言っているじゃない。もしも食べなかったら私が無理矢理でも口に詰め込んであげるからね」

「い、嫌よ。それだけは、それだけはどうか勘弁してください、ネギ大臣様」

 私は夢での光景を思い出しながら恐怖で身を震わせるばかりであった。

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