第8話 公園

「たぶん一年で今が一番アイスの美味しい時期だと私は思うんだよねー」

 由美は鉄製のブランコに腰を下ろすと、おもむろに袋とじになっているスティック状のシャーベットアイスの封を開けた。

「年中美味しそうに食べている気がするけど」

 私も隣のブランコに座ると、手に持っていたコンビニ袋からバニラ味のオーソドックスなカップアイスを取り出す。

「もちろんアイスはいつ食べても美味しいものだけどさ、やっぱり食べ物には旬ってものがあるでしょ」

「その使い方は間違っているわよ。旬っていうのは食材に対して言うのであって、調理された食品に対しては言わないわ」

「とにかくアイスが美味しいのは今なんだよ。うん、旨い」

 都合の悪い話は聞かなかったことにして、由美はシャーベットアイスにかぶりつく。私としても日本語の正しい使い方講座を開催する気はなかったので、それ以上は何も言わずに辺りを見渡す。

 私の家で愛も交えて一緒に夕ご飯を食べた後、冷凍庫にあったアイスが残り一個しかなかったため、私たちは愛にお金をもらって近くのコンビニまでアイスとお酒のつまみを買いに行かせられ、その帰り道に由美がすぐにアイスを食べたかったという子どもみたいな理由から、この住宅街の中にある小さな公園に立ち寄ったのだった。公園には小さなブランコと鉄棒、それから砂場があるだけだが、ちょっとした桜の花見スポットとしても近隣の住民には知れ渡っている。しかしその木々の枝には今や青々とした葉っぱがついており、夜に薄着で外に出られるぐらい暖かくなっていた。

「昔はよくここで遊んだよね。砂場でお城作ったり、鉄棒で逆上がりの練習をしたりしてさ。そうは言っても、灯ちゃんは外で遊ぶのはあまり好きじゃなかったか。私が連れまわしていた感じだったし」

「だって服や手が汚れるじゃない」

「でもいつも最後までやめなかったのは灯ちゃんだったよね。私が時間だから帰ろうって言っても、お城の水門を完成させるのに夢中になって帰ろうとしなくて、何度も困らされたものだったなあ」

 由美はニヤニヤと笑みを浮かべながら私の方を見てくる。

「それは途中でやめたら気分が悪くなるからであって。いえ、その節はご迷惑をおかけしました」

「いえいえ。お気になさらず」

 言い訳をやめて謝る私を由美は満足げに眺めてから、またアイスにかぶりつく。

「それにしても、子どものときはこの小さな公園がすごく広く見えたなあ」

「そうね。身体が小さかったからなんでしょうけど、こうやって改めて見渡すと本当に狭く感じられるわ」

「私たちも歳をとったわけだ。きっと今度ふと我に返ったら背中の曲がったお婆ちゃんになっていて、それからすぐに病床に臥して走馬燈を思い浮かべながら深い眠りにつくんだろうねえ」

 由美は遠い目をする。

「そうは言っても、さすがにまだまだ死ぬまでに色んなことがあるでしょうよ」

 いくらなんでも気の早すぎると思ったが、母さんや愛も年末ごろになると一年があっという間だったとよく話しているし、大人は子どもより時間の進みが早く感じるというのは聞いたことがあるのであながち間違いではないのかもしれない。

「色んなこと、ねえ。私はあんまり事件とか起きてほしくないけどなー」

「別に事件とまでは言ってないけど」

「私はさ、これから波風の立たない余生を穏やかに過ごしたいわけですよ。なんだったらずーっと高校生のままこうして呑気にアイスを頬張っていたいぐらい。いや、さすがに成人は迎えたいか。愛ちゃんとお酒飲みたいし。まあそれはともかくさ、私はこうやって灯ちゃんとまったりできるだけでいいわけ。それに、何か刺激的な事件が起こってほしいと考えるからこそ、そう考える人の身の周りに事件や波乱が起きているんじゃないかなって私はときどき思うんだよね。自分はそうでないと思っている人でも、実は心の奥底では今の生活を退屈に感じていたりしてさ」

「まったく分からない話ではないけど、不幸な事件や事故に巻き込まれた人に対してそういうことを話したら怒られそうね」

「確かにそれはそうかもしれないけど。でも例えばさ、私と灯ちゃんの間を引き裂こうとする邪魔者が現れるとするでしょ。もちろん私としてはそんなこと望んでいないつもりだけど、その一方でその邪魔者をお掃除する過程で灯ちゃんとの関係を今よりもさらに深めることが出来るかもしれないとも考えられるでしょ。で、私は灯ちゃんと世界一深い仲でいたいと思っているわけだから、下手をすれば世界一の困難に巡り合う可能性もあることになるわけよ。もちろん実際は、恐怖感やら何やらがセーブしているだろうからそこまではいかないだろうけどさ」

「よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく言えるわね」

「本心だから恥ずかしくないもん。あっ、もしかして照れちゃった?」

「いまさら照れないわよ、別に」

 強がりを言っているように思われたのか、由美はアイスにパクつきながら私のことを面白そうに眺めていたので、私はわざと咳払いをしてそれを蹴散らす。

「でも話の内容自体は興味深いわね。きっとお互いの関係がある程度深まると、たとえ良好な関係でもマンネリになったりするんでしょうし、そうするとどちらか、もしくはお互いに何か刺激を欲しがるようになって、由美の言う邪魔者であったり困難なことが訪れるのを自覚のあるなしに関わらず望むようになるかもしれない。それで由美が言ったように、二人の関係がより深まるか、もしくは深まらずに唐突に終わりを迎えたりもするわけね」

「えっ、終わるのは嫌だよ」

 先ほどまで余裕の表情をみせていた由美が顔を歪める。

「例えばの話よ。でも終わりを迎えたとしたらきっと時間の問題だったのかもしれない。多くの人が出会ってきた人の大半とは疎遠になっていくわけだから、きっといつまでも続く関係っていうのはほとんどないのでしょうね」

「ええ、灯ちゃんがいつになくドライだよ」

 珍しく由美は怯えた声を出す。由美の持っていた棒アイスの残りがポトリと地面に落ちた。しかし由美はそれに見向きもしないで、こちらを不安そうな目で見ていた。私はそこで由美が半ば本気で心配していることが分かり、戸惑うよりも軽率なことを言ったことに後悔の念が湧いてきた。だからだろう、私は安心させられる言葉を探した。

「わ、私だってそういうのは嫌よ。将来どうなるかなんて誰にも分からない。だからこそ、自分にとって大切なものは絶対に手放してはいけないということよ。もちろん由美のことだって一生手放すつもりはないんだから」

 由美は覚えていないが、前に酔ったときに由美が言ってくれたことを私も由美の手を力強く握って言い、由美の方を見た。

 すると驚くことに、由美は暗がりでも分かるほどに顔を真っ赤にしてうろたえていた。いつもとはまるで反対の立場になってしまったようであったが、その理由はすぐに由美が教えてくれた。

「な、なんかさ、プロポーズの台詞みたいだよ」

 私はそこで初めて、自分が言った言葉の意味を由美がどうやって受け取ったか気づき、猛烈な勢いで耳まで熱くなっていき、いつになく鼓動が早まる。私は慌てて今言ったことの弁明をしようとする。しかし喉元まで出かかっているのに、どういうわけか次の言葉を吐きだせなかった。

「ねえ、灯ちゃん」

 由美は囁くように私の名前を呼び、少しの怯えとそれを上回る期待のこもったはれぼったい目を向けてくる。由美はブランコから身を乗り出してこちらに顔を近づけてくる。私は無意識に立ちあがっていて、その由美の瞳にまるで吸いよせられるかのように何かを考えることもなく歩み寄る。そして二人の吐息が吹きかかるほど近づき……。

「あっちぃーねえ、もう夜だっていうのにさ」

 突然聞き覚えのあるしゃがれた声が聞こえてきた。私と由美はビクリと身体を震わせて、声のした公園の入り口の方を振り向く。すると覚束ない足取りでフラフラと歩きながらこちらにやってくる見慣れた人物の姿が見えた。

「こんなところで何しているのよ、姉さん」

 私は眉をひそめて言う。

「だってー、私の酒のつまみがなかなかやってこないじゃない。それでさー、なんだかお腹減ってきちゃったから代わりにお酒でお腹を満たそうと思ったら、いつのまにかボトルがぜんぶ空になっててー」

 どうやら家にあったお酒を全て飲み干してしまったらしく、酔っ払いと化していた。

「遅くなったのは悪かったけど、そんな姿で外を出歩いたら危ないでしょ。いくら近所だからって、変な人に絡まれないとも限らないわよ」

「だーいじょーぶだって。私、灯と違って空手やっていたことあるしー、アウトドア派だしー」

「それは幼稚園の頃の話でしょ。ちゃんと姉さんが頼んだものは買ってきているから、このまま帰るわよ。あと、今日はもうお酒はやめておきなさい。明日も仕事あるって言ってたじゃない」

「ええー、灯のケチ、頑固頭。ほら、由美ちゃんもなんか言ってやってよー」

「いやー、まあどうだろうねえ」

 由美は曖昧に言葉を濁し、苦笑いを浮かべる。私は愛の右腕を自分の肩で支える。

「由美、姉さんの反対の肩を持ってくれるかしら。私一人だと重くてしんどいから」

「なんだとー、重いとは失敬な。私はモデルなんだぞー、ちゃんとシェイプアップぐらいやっておるわい」



 私たちはそのまま騒いでいる愛を連れて家まで帰ると、ベッドに寝かせた。すると愛はすぐに眠ってしまった。寝顔はそれなりなのに中身のせいでもったいないと身内ながら思ったがそれはどうでもいい。

 そしてその後、姉さんの散らかしたテーブルの周りを由美と片づける。私は散乱したワインの空きボトルを拾い上げながら、先ほどのことを思い出す。

 あのとき、由美の目に吸い寄せられた私は何をしようとしたのか。魅惑的に思え、何も考えられなかったことだけは覚えている。あのとき、もしもその何かをしたとしたら、私たちの関係は変わってしまっていたのだろうか。

 由美はあれから特にいつもと変わった様子もなく普通に振る舞っている。まるで何もなかったかのように。いや、実際何もなかったわけだからおかしいことなど何もないわけだが、それでも胸の内にはモヤモヤした気持ちがずっと残っていた。

 いつものように泊まっていくのかと思ったが、由美は「今日は帰るね」と言った。

「明日は朝からお母さんと親戚の法事に行かないといけないんだ」

「ああ、そうなの」

 由美は玄関で靴をつっかけるように履く。

「じゃあ、おやすみなさい。愛ちゃんにもよろしくね」

「ごめんね、色々と手伝わせて」

「別にいいよ。愛ちゃんにはいつもお世話になっているわけだし」

「そう、じゃあまた」

 私はまだ由美のことを真正面から見ることができず、ぎこちない喋り方だった。

「ねえ、灯ちゃん」

「な、なに?」

 改めて声をかけられてようやく私は由美の方を見た。

「私もね、将来何が起こったとしても灯ちゃんのことは絶対に手放さないよ。灯ちゃんは世界で一番大切だから。だからきっと大丈夫」

 由美が優しく微笑んだ。私もそれにつられて何故か笑みがこぼれ、それがおかしく思えて二人で笑った。私の抱えていたモヤモヤはその笑い声と共に静かに消え去って行った。

「おやすみ、由美」

「うん、おやすみ、灯ちゃん」

 玄関のドアが閉まるまで、由美の幸せなそうな顔を見ていた。きっと私も同じような表情を浮かべていたのだろうと思う。

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