第5話 裏庭

 昼休み、私は由美に連れられてお弁当を両手に校舎の裏庭にやってきていた。

「部室棟の近くというのもあって、あまり人が来ないみたい。だからここならいちゃつき放題なんだよ」

 目の前にはところどころ塗装の剥がれ落ちたコンクリート壁の建物があり、正面に横たわっている土の見える芝生には植えられているカエデの木などのほかに簡易なベンチが置かれている。

「確かに校舎の方よりはずっと静かね」

 吹奏楽部の生徒による楽器の音が聞こえるぐらいで、にぎやかで活気の溢れる校内とは違い、ゆったりとした時間が流れていた。しかし私はそんな安穏さとは裏腹に、何やら不穏な気配を感じとっていた。

「座らないの?」

 由美は目の前のベンチに腰を下ろしてさっそく弁当を開けようとしていたが、私は誰かしらに見られている気がしていた。

「早くしないと食べちゃうよ、せっかくの愛妻弁当なのに」

 作ったのは私なので決して愛妻弁当などではないのだが、それを指摘する前に由美が座っているベンチのすぐ後ろに植っている木の陰からこちらを見てくる人影に気付いた。

「ばれてしまっては仕方ない」

 そう言って木の陰から颯爽と現れたのはショートカットの背の高い女の子だった。

「あれ、赤沢さん」

 由美も背後を振り向くと少し驚いた様子を見せる。

「どうも、こんにちは」

 赤沢さんはにこりといかにも人当りの良さそうな笑みを浮かべて挨拶してくる。その一方で、裏庭を吹き抜ける風でなびく髪をさりげなく押さえながら、辺りを警戒するようにきょろきょろ見ている。

「噂通りの美男子だね」

「男じゃないけどね」

 相変わらず赤沢さんは落ち着きなく辺りを見回している。彼女がそうしていると、さながらスパイ映画の主人公のようであった。

「誰かに追われているの」

 由美が尋ねる。

「まあそんなところだ。私のことを追いかけてくる雛鳥のように賑やかな女の子たちから逃げていたところなのさ。せめて昼飯ぐらいはゆっくり食べさせてほしいのだけどね」

 私は同じクラスなので返答を聞かずとも理由は大方見当がついていた。

 赤沢真紀は、漫画などでよく見かけるいわゆる学園の王子様と呼ばれるような女の子であった。いかにも女の子に受けそうな端正の整った顔立ちに体型もスレンダーで背が高く、その外見は王子様として非の打ちどころがない。だから彼女の周りにはいつもワーキャー騒いでいる女の子たちがいるため、同じクラスであるにも関わらず私は彼女とほとんど話したことがなかった。

「そういえば、木下さんとはまだ話したことなかったよね」

 丁度同じことを赤沢さんも考えていたらしい。

「えっ、同じクラスなのに」

 由美は先ほど赤沢さんが木陰に隠れていたことを知ったときよりも驚いているように見えた。

「私は由美とは違うの。誰にでも気さくに話しかけたりできるわけじゃないわ」

「でも同じクラスになってから結構経っているよ。ああ、私はB組の細貝由美ね。よろしく、赤沢さん」

「ああ、キミがそうなんだ」

 赤沢さんが由美のことをまじまじと見る。

「もしかして私のこと知っているの」

「ああ、キミたちの仲の良さはかねがね聞いていたからね。学年一のバカップルだともっぱら評判だよ。噂によれば婚約届も届けているのだとか」

「何をバカなこと言っているの、ただの幼馴染だから。それに誰よ、そんな噂流したのは」

「ああ、たぶんそれ私だ」

 由美が手を挙げる。犯人は予想以上に近くにいた。

「ほら、幼稚園のとき画用紙に書いたやつあったでしょ。それを愛ちゃんに見せたら、愛ちゃんがふざけて市役所で婚約届もらってきて私たちに記入させてさー」

 由美は楽しそうに話す。

「あのねえ、由美。そんな絶好の餌を噂好きの女子高生たちに与えたら、都合よく話を変えられて、あることないこと言いふらされるのは目に見えていたでしょ」

「私は良いよ」

「私は良くない。そもそも女の子同士じゃない」

「じゃあ私が婿に入ればいいのかな」

「そういう問題じゃない」

「ヒモにはならないよ」

「当たり前でしょ」

「でも灯ちゃんの方が仕事できそうだからなー、私は専業主婦の方が良いような気がする」

「そう言って、うちに来た時も私にほとんど作らせているじゃない。料理ができないわけでもないのに」

「だって灯ちゃんの作るご飯は世界一美味しいんだもん」

「そうやって褒めても何も出ないわよ」

「これが噂のバカップルのやり取りなんだね」

 赤沢さんは軽快に笑った。彼女の笑った顔は、確かに女の子たちが見惚れるのも頷けるほどに格好良く、言い返すのがなんとなく憚られる。

「とにかくお昼ご飯食べないと、時間無くなっちゃう」

 由美は持っていた弁当の包みを解いていく。つくづく切り替えが早いものだとすっかり弁当の方に意識を戻している由美に対して呆れながらも、私は赤沢さんの方を見る。赤沢さんはこちらの視線に気付くと微笑んでみせてくれる。いつもは話したことのない人の相手を由美に任せてばかりいるので、たまには自分から誘ってみようと思い立つ。

「えーと、良かったら赤沢さんも一緒にお昼にしないかしら。さっきお昼まだって言ってたでしょ」

 しかし赤沢さんは難しそうな顔をする。

「あー、私昼飯無いんだよ。逃げていたから買ってないし、今から購買行ってもこっちに戻る間にどうせ見つかってしまうからさ。まあ、あの子たちにも悪気がないのは分かっているんだけどね」

 赤沢さんは相当に優しい人であるというのは、なんとなく察していた。教室で見る彼女はいつも周りの女の子の話をこれでもかというほど親身になって聞いてあげていた。そんな性格だからこそハッキリとは断りづらく、コソコソ逃げ回っているのだろう。

「そっかー、それは残念だね」

 由美は言葉と裏腹に全く残念がっている様子もなく、目の前の弁当に気を取られているままだ。

「悪いね、わざわざ誘ってくれたのに」

 赤沢さんはそのまま立ち去ろうとした。私は反射的に声を出していた。

「それなら私の弁当を食べない?」

「えっ」

 私の言葉に赤沢さんだけでなく由美も驚いてこちらを見てくる。

「ほら、代わりに私が購買に行ってくれば、赤沢さんが見つかる心配しなくていいでしょ」

「いや、それはそうかもしれないけど」

「じゃあ先食べてて。由美は見つからないように見張っておいてあげてね」

 私は赤沢さんが行くはずだった方へ早足で歩いていく。こういうときはきっと相手に何かを言わせる前に行動してしまった方が良いのだ。ましてや赤沢さんは優しい人で、そんな彼女が一瞬だけ見せた寂しげな表情を見ては、動かずにはいられなかったのだ。



「私、中学の頃は今みたいにチヤホヤされてなかったんだ。身長も今より低かったしちょっと肥満気味だったからさ、どちらかというと教室の隅でイヤホンを付けて音楽を聴いていることの方が多かったぐらいでね。それがかなり遅い成長期で中三になったばかりの頃ぐらいかな、急に背が伸びて自分でも驚いたよ。しかも何故か身長が伸びるにつれてダイエットなんかしなくても痩せていったし、そうしたら周りの反応もこれまでと百八十度変わったというわけさ。だからこそ今でもこういう状況に慣れなくてね。だから相手との距離感というか、その匙加減がいまいち分からないところがあるのかな」

 私が戻ってきてしばらくすると、赤沢さんは饒舌に話すようになっていた。

「それこそさっき二人が話していたことじゃないけどさ、皆が皆、誰とでも分け隔てなく接することが出来るわけじゃないだろう。ましてや言い寄られるのは緊張するし、上手くいなす方法なんてまるで分からない。だから今こうして逃げ出してきてしまったわけなんだけど」

「そういえばどうして逃げてきたの?」

 いつもはなんだかんだあっても逃げ出したりはしていなかったように思う。

「ああ、それはね、キスしてほしいって言われてね。周りも囃し立てて唇同士ですることになっちゃってさ」

「さすがに嫌だったわけね」

「キミらを見かけたとき、実はちょっと期待していたんだ。ここら辺は人気も少ないしキミたちの噂は聞いていたからね。熱いベーゼを交わしてもおかしくないと思って観察していたのさ」

「これは私が怒っても良い案件よね」

 私は顔を引きつらせながら言う。

「それは違うよ、灯ちゃん。むしろ赤沢さんの期待に応えてあげられなかったことを悔やまないと」

 それまで黙々と食べていた由美がようやく会話に参加してきたかと思ったら、言ってきたのはそんなことだった。

「意味のわからないことを言わないで」

「でもキスしないと死んじゃう病にかかったら私としてくれるでしょ」

「そんな病気は無いから」

「もしもの話だよ」

「そうしたら運命を受け入れて死を待つわ」

「ひどい、そんなに私とするのが嫌なの? もしやこれが倦怠期なのね、昔はあんなに情熱的に求めてきてくれたのに」

「でも確かにそういうとき、なるべく穏便に解決出来たら良いわよね」

 嘘泣きに興じる由美を無視して、赤沢さんに同意する。

 人間関係の問題のほとんどが意見や感情の食い違いをどのように解決するかにかかっているといっても過言ではないはずだ。そもそも他人から嫌われることを躊躇わない人は悩まないだろう。嫌われるとまではいかないにしても、軋轢を生むであろうことを率先して言える人はそう多くない。それはつい最近も普段はあまり物怖じしない身内にさえ似たような悩みがあったことを聞いているだけあって、理解できた。

「でもさー、言い方は良くないかもしれないけど自分の嫌がることをする人とは、それなりに距離を置くようにした方がいいんじゃないかな。誰にだって気が合う人とそうでない人がいるでしょ。ちゃんと自分の思っていることを話した方が、お互いにとっても良いと思うけどなあ」

 由美の意見は至極もっともだし、由美ならそれが出来るだろう。しかしそれが簡単に出来ない人もいる。赤沢さんもそうなのだろう。しかし赤沢さんの口から出たのは少し違う話であった。

「昔だったらね、すんなり言えたと思うんだ」

 赤沢さんは遠くを見るような目で言う。

「さっきも話したけど、私は元々こうだったわけじゃない。だから賑やかにしている人たちのことが嫌いだったんだ。嫉妬してますます自分の世界に閉じこもるようになったことで余計にその拍車をかけたね。それで、そのときはもう絶対に誰とも仲良くするもんかってぐらいの気持ちになっていて、私は他の人とは違うんだ、大人なんだって強がってさ」

 そこで赤沢さんは私が買ってきたお茶を口に含んだ。喉を鳴らしながら美味しそうに飲んでから、また口を開く。

「でもね、いざ自分に話しかけてくれる人がいるとさ、すごく嬉しいんだ。たしかに好きな音楽の話とかできないのは残念だし、皆のする遊びとかいまだに慣れないけど、ただ一緒に時間を過ごす人たちがいるっていうだけですごく気持ちが楽になる。これまで友達がいなかったからこそ、もう一人になるのは嫌だなって思うんだよ。ほら、女の子ってちょっとしたことでも気が移ろいやすいし……分かっている、私は本当にどうしようもなく臆病なんだよね……ああ、どうしてこうも不甲斐ないんだろうか」

 赤沢さんは物憂げな顔をするが、それもまた画になっていた。

「うーん、困ったねえ」

 こうなると由美もどうやって励ませばいいのか分からないらしく唸っている。

「あっ」

 やがて何か思いだしたように声を上げた。私は由美が何か良いアイデアを思い付いたのかと期待した。

「そういえば用事があったんだった」

「えっ」

 私は困惑する。

「ほら、私今日日直だったのに朝寝坊したでしょ。だからその代わりに昼休みに先生の事務仕事を手伝えって言われてたの」

「どうしてよりによって今になって思い出すのよ。ここまできたらすっぽかせば良いじゃない」

「灯ちゃんは見かけによらず不良だなあ。まあ私もそう思ったけど、すっぽかしたらきっと放課後居残りさせられるんだよね。今日は二人で新しく出来たドーナツ屋に行く予定だったでしょ。遅くなったら目当ての『トリプルレインボーアイス乗せドーナツ』が売り切れちゃうもん」

「そんなのまた別の日にすればいいじゃない」

「ハッキリ言うけどね、灯ちゃんと過ごす貴重な放課後の時間を少しでも減らしたくないの。だからごめんね」

「えっ、ええっ」

 私が唐突な発言に戸惑っている間に、由美はさっさと行ってしまった。

「顔が赤くなっているね」

「分かっているわ」

 赤沢さんに指摘されるまでもなかった。

「細貝さんってとても面白い人だね。自分の言いたいことはハッキリ言うし、天然なようで大事なことは分かっていて迷いがない」

「そうかもしれないけど、いつも振り回されてばかりよ」

 私は肩をすくめる。

「私も二人みたいに何でも話せる仲の良い人がいれば、こんなに臆病にならずに済むのかな」

 赤沢さんはため息をつく。そうやって憂いているのを見ると、いつになく無性に力になってあげたいと思えてくるのは、彼女の魅力さ故のものなのだろうか。

「それなら私がその役を引き受けてあげるのはどうかしら」

「木下さんが?」

 赤沢さんは私の顔を見てくる。

「臆病なのは悪いことじゃないと思うわ。私だってきっとあなたに負けず劣らず臆病よ。誰かと話すときは気後れすることが多いし、そういうことは本当に由美に頼りがちだから」

 先ほど半ば無意識に由美が何か良い解決方法を見つけ出してくれるのではないかと、期待していたのがその証拠だ。

「そうかな。私はそんなことは無いと思うけど」

 赤沢さんは首を傾げた。それが逆に私には首を傾げたくなるところだった。ただその理由はすぐに話してくれた。

「さっきだって私のことを助けてくれたじゃないか。ほら、このお弁当」

 そう言って赤沢さんはすぐ横に置いてあった弁当箱を持ち上げる。彼女にあげたお弁当だった。

「すごく嬉しかったよ。クラスメイトとはいえ、初めて話した人に何の見返りもないのに咄嗟に助けてくれただろ。だからこそ私は自分の気持ちを素直に話せたのさ。木下さんはとても勇気のある素敵な人だよ」

 赤沢さんははにかむ。やはり彼女の笑顔は魅惑的だった。

「ただの話し相手では足りないと思ってしまうぐらいにさ」

 彼女はぐっと顔を近づけてくる。

「た、足りない?」

 私はそれだけで狼狽してしまう。そしてここでようやくこの状況に少しの違和感を覚えた。

「ああ、木下さんが言ったんだよ。私のすべてを受け止めてくれるってね」

「えっ、いや。引き受けるとは言ったけど」

「受け止めて欲しいんだ。私の全部を」

 いつの間にか赤沢さんは私の両腕を掴んでいてもはや逃げることも敵わず、彼女は悪い笑みを浮かべながら私に覆いかぶさってくる。そのまま彼女の艶やかな淡いピンク色の唇がお互いの息が交わるほどに近づいてきてそのまま……。

「これでも喰らえええ」

 その時、赤沢さんが飛んだ。否、飛んだのではなく蹴り飛ばされたのだ。そして芝生に転げ落ちた赤沢さんの上に馬乗りになったのは由美であった。

「初めからアンタの魂胆はお見通しだったんだよ」

「まさか女の子に飛び蹴りをされてから、喉元に手刀を突きつけられる日が来るとは思わなかったよ」

「灯ちゃんに近寄ってくる虫ケラどもは、私が追い払わないといけないからね。灯ちゃんを怖がらせる輩には容赦しないよ」

 由美はじわじわと手刀を喉に差し込んでいく。そこで赤沢さんは両手を上げた。

「降参だ、私の負けだよ。いやー、いつにない絶好のチャンスが来たと思ったんだけどねえ」

 赤沢さんはこんな状況にも関わらず、あっけらかんとしている。

「どういうことかしら、話が全く見えないのだけど。そもそも由美は職員室に行ったんじゃなかったの」

 私は、今にも赤沢さんという捕えた獲物を今にも仕留めようとしている怖い顔の由美に話しかける。

「灯ちゃんの鈍感さを今さら責めるつもりはないし、悪いのはこの嘘つき女狐なのは分かっているけどね、先が思いやられるよ」

「とりあえず私の弁明のためにも上からどいてくれないかい、由美ちゃん」

「気軽に名前を呼ばないでほしいね。私がいなくなってほんの数分で手を出すなんて油断も隙もあったものじゃないよ。噂には聞いていたけど、その外見を使って女の子に思わせぶりな態度をとって唇を奪っていくって話、やっぱり本当だったんだ」

「可愛い女の子の唇ほど、この世で尊くて美しいものなんてないんだ。そういう意味ではキミの唇だって奪ってみたいと思っているよ」

「私の唇は灯ちゃんだけのものなの。大体、あんな白々しい嘘で同情を引こうなんて安っぽい策略に騙されるわけがないでしょ」

「半分以上の女の子はこの麗しい顔を曇らせて頼っただけですぐに流されてしまうよ。不思議なことに、人は自分を頼ってくれた人に惚れていくものでね」

「きっと自分に自信のない人ほどそうなんでしょうね」

 私を置き去りに話はどんどん進んでいくが、ようやくその概要はつかめてきた。

 つまり赤沢さんは初めから適当な嘘で私の同情を引き、頃合を見計らって距離を縮め、しまいには唇を奪おうとしていたのだ。

「でもそれならどうして由美ちゃんは木下さんにそうやって教えなかったんだい。キミの性格からして私に遠慮することはあるまい」

 赤沢さんの質問はもっともであり、私が分からなかったことだ。

「それは灯ちゃんに思い知らせるためだよ。世の中にはくだらない同情を誘って悪いことをしようとする人もいるってことをね。灯ちゃんは人が良過ぎるんだよ」

「まるで保護者みたいだ」

「どんなことがあっても私が灯ちゃんを守る存在であることは間違いないね」

 そこでようやく由美は赤沢さんの身体の上にまたがるのをやめて立ち上がった。

「全部嘘だったの?」

 私は赤沢さんに尋ねる。

「私は生まれついて美しかったよ。おかげでずっと女の子には困って来なかった。何もせずとも、私の周りはいつも女の子たちが集まってくる。昔から今までずっと、そしてこれからもね。おっと、嘘を吐いたことは恨まないでくれよ。私にとってはほんのジョークのようなものさ」

「ずいぶん質の悪いジョークですこと」

 由美が非難するが私は違うことを考えていた。

「それなら良かったわ」

「良かったというのは何のことだい」

 どうやら予想していなかった言葉だったようで赤沢さんが聞き返す。

「だって、あなたの話が嘘なら、臆病な自分に悩んでいた女の子は、どこにもいなかったことになるわけでしょ。一人になることを怖がりながら、色んなことを話せる友達がいないと嘆くあなたはいなかった。たしかに嘘を吐かれた上に無理やりキスを迫られたことは良く思っていないけど、結果的に誰も傷ついていないわ」

「……まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったな」

 赤沢さんは肩の力が抜けたのか少し緩んだ笑みを浮かべた。しかし由美は仏頂面のまま言う。

「嫌な目に合わないですんだのは、私が素早く走り込んでドロップキックを食らわせたからじゃない」

「そう。私には少なくとも由美がいてくれる。だから余計な不安を感じなくていい」

「灯ちゃんはずるいなー、いつもそうやって私の矛先を鈍らせていくんだもん」

 由美も赤沢さんと似たような緩んだ笑みをこぼした。

「由美ちゃんに聞くけど、木下さんは無自覚でこういうことを言うのかい?」

「まあね。灯ちゃんは心が清いから、ときどき天然記念物ばりのピュアハートを発揮することがあるんだよ」

「そうなんだ」

 赤沢さんは私の顔をちらりと見てくる。そのときチャイムが鳴った。午後の授業が始まる予鈴だった。

「ああ、もうそんな時間か。さっさと教室に戻ろ、灯ちゃん。私、次の時間移動教室だったの今思い出したよ」

 私たちは芝生に座り込んだままの赤沢さんを置いて、教室に駆け足で戻る。もちろん私は走る必要などないがこういうのは付き合うものだろう。ましてや私を助けてくれた後なのだから。赤沢さんは私たちが走っていくのを黙って見送っていた。



 翌日、寝坊した由美に付き合って門限ギリギリで学校到着すると何やら下駄箱の辺りが騒がしかった。由美と二人で何かあったのかと話しながら昇降口を入ると、そこには薔薇の花束を右手に持ってひざまずいている赤沢さんがいた。

「おはよう、木下さん」

「お、おはよう。何かイベントでもあるのかしら」

 私はどうにか挨拶を返しながらも、周囲の女子生徒たちの騒がしさに異質なものを感じ取っていた。由美も同様のようで、さっさと行こうと言わんばかりに手を引っ張られる。しかし私は赤沢さんに呼び止められた。

「待って」

「昨日の今日でいくらなんでもしつこいよ」

 そのように言いながら由美が赤沢さんに詰め寄ろうとしたときだった。

「木下灯さん、私は昨日から胸の高鳴りが止まらず、寝ても覚めてもあなたのことばかり考えてしまいます。どこまでも優しい心を持っているあなたと私では、まるで不釣り合いなことは分かっています。ですが、まずはお友達からでも良いので私と付き合っていただけないでしょうか」

「へ?」

 薔薇の花束を差し出しながら昨日とは打って変わった緊張した顔で顔を赤らめている赤沢さんの前で、私はさぞかし間の抜けた顔をしていただろう。

「……この展開は予想してなかった」

 由美が私の横で嘆く。周囲からは甲高い悲鳴と歓声がいっぺんに聞こえてきて、朝の昇降口は大騒ぎとなった。

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