第4話 木下家
「ただいまー」
玄関の扉を開けて、由美は私の横をするりと抜けて先に入って行った。ここは木下家、つまり私の家なので、本来は「お邪魔します」の方が正しいのだが、それは今さら指摘するようなことでもない。
「はーい、おかえりー」
そして返事が私の後ろから聞こえ、そのままやはり私の横をすり抜けて家の中に入っていく。
「二人とも靴を脱ぎっぱなしにしないの」
「いやー、今日行ったお店美味しかったねー。でもホントに大丈夫なの、結構高そうなお店だったよ。私メニュー表の文字読めなかったもん」
「イタリア人オーナーの本格的なお店だからね。でも事務所の社長の知り合いの店だからちょっとサービスしてもらったし、可愛い妹たちに御馳走を食べさせてあげるのは姉の特権なんだから気にすることは無いのよ」
「一生ついていきます、愛お姉さま」
「ったく、私の話は聞きやしないんだから」
私は脱ぎ散らかされた黒いブーツと白いスニーカーを並べ直し、手をきちんと洗ってからリビングに赴くと、すでにテーブルにはつまみとワインボトルが置かれていた。
「まだ飲む気なの」
「むしろこれからが本番だって」
「愛ちゃん、注ぐよー」
由美は高校生とは思えない手際の良さでコルク栓を抜き、片手でワイングラスに注ぐ。
「ありがとう、次は私が注いであげよう」
「ちょっといいかげんにしなさいよ。いくらお母さんたちが帰ってこないからって羽目を外し過ぎよ」
「相変わらず灯は頭が固いなあ。アンタたちも大学生になったらどうせ飲ませられるんだから、早いうちに慣れておいた方が良いわよ」
そう言って大して味わうこともせずにグラスの中のワインを飲み干してしまったのは、他でもない私の姉の木下愛である。
「でも愛ちゃんは、いくら飲んでも酔わないからすごいよね。さっきも小さなワインボトル一人で呑んじゃっていたし」
「姉さんはバッカス顔負けの酒豪だからね。正月に親戚で集まったときも一日中飲んでも酔わなくて呆れられていたわ」
「まあ私にとっては、水とほとんど変わらないね」
今度は自分でグラスに赤色の液体を注ぐ。
「それよりも私としては、そんなに酒や食べ物をお腹に入れても全然太らないところが信じられないけど」
「それは、モデル仲間と飲みに行くたびに羨ましがられるね。まあ私はアマチュアのようなもんだから、少しぐらいなら体型が崩れても良いんだけどさ」
愛は身長こそそれほどだが小顔で体の各部位のバランスが良く、中学生のときからファッションモデルをやっていた。女性向け雑誌の編集者である母親の知り合いがおり、その人から手違いで空いてしまった紙面の穴を埋めるために頼まれたのを気まぐれに引き受けたのがきっかけで、大学生になった今でも続けている。彼女自身はモデルになりたかったわけでもないので、それほど意識が高いわけではなく、本人もバイト感覚だとよく話している。
「愛ちゃんがそういうことを言っても全然いやらしくないよね。なんていうか粋な感じだよ」
「なんたってあたしゃ生粋の江戸っ子だからね」
「東京の下町なんて観光以外で行ったことないでしょうに」
「それじゃあ、何しようか。とりあえず借りてきた映画でも観る?」
由美は手提げ鞄の中を探りながら言う。
「ええー、映画はいいよー。私、もっと可愛い妹たちとおしゃべりしたいもん。アンタたち、なんか面白い話ないの?」
お喋りしたいなどと言う割に、話の振り方が雑なところもいつものことだ。
「そんな急に言われても」
「ああ、そういえばこの前良さそうなバーを見つけたよ。映画館のそばのビジネス街にあるんだけどね、昼間は喫茶店になっているから入ってみたんだよね。オーナーの人が、いかにも大人の女性って感じで格好良かったなあ」
由美が先日あった話を切り出す。
「ああ、もしかして『ブルーローズ』のこと? あの隠れ家っぽいところでしょ」
「知っているの?」
「そこのオーナーもウチの社長と高校の同級生で仲良かったみたいでちょくちょく呑みに行っているみたいよ。私は何度頼んでも一緒に呑みに行かせてもらえないから、行ったことないけど」
「へえ、世間は狭いもんだねー」
由美は感心しているが、私はそんなことよりも姉が社長さんにも酒代をたかっていることを知り、社長さんに申し訳なく思う。
「言っても少なくとも場所的にはそんなに離れているわけでもないからね」
「そうだねー。まあでも私だったらたとえ地球の反対側に飛ばされても、灯ちゃんの働く職場まで会いに行くから問題ないね」
「問題大有りよ」
「いっそ同じ職場にすればいいんじゃないの」
「さすが愛ちゃん、現代のバッカス神。もう一杯注がしていただきます」
「何をバカなこと言っているのよ。そもそも由美は私と同じ大学に行けるかどうかも危ういのに」
「灯ちゃんが受験勉強教えてくれるから大丈夫だよ」
「そういえば高校受験のときも、本番前の三か月ぐらい猛勉強して合格していたわね。あのときの由美ちゃんはすごかった。毎日のようにウチに泊まり込みで勉強していたものね」
「土壇場で帳尻を合わせるタイプだからね。これでも合格者平均よりも十点以上高かったんだよ」
今でこそ由美は誇らしげに話しているが、当時は毎日のように私と同じ高校に受からなかったらどうしようと泣きじゃくっていたので、呆れて物も言えない。
「今度は教えないわよ。それに、大学受験はもっと範囲も広いんだからそんな短期間でどうにかなるものじゃないでしょ」
「まあそれなら私でも推薦が取れそうなところを、灯ちゃんも受けてくれれば良いだけだよ」
「よくそんな斜め下の発想を思いつくわね」
「でもこの前の中間試験は灯ちゃんと大差なかったし、まだまだ先の話だけど、この調子で行けば、それほど志望校のランクを落とさなくても大丈夫じゃないかな」
「それも私が試験の二日前から付きっきりで教えてあげたからでしょ」
「次の試験は三日前からお願いします」
「せめて一週間ぐらい前にしなさいよ。それから、そのプリンは私のでしょ、姉さん」
冷蔵庫から取り出してあったプリンの蓋を何食わぬ顔で開けようとしていた愛を注意するが、彼女は無視して銀スプーンですくって食べ始める。
「なんか甘いもの食べたくなっちゃってさ。はい、由美ちゃんもあーん」
「んー、美味しい。カラメルソースがビターなところがいかにも灯ちゃんのチョイスだね」
「私は姉さんのアイス食べるからね」
そう言って、私も愛のアイスを手元に持ってくる。
「じゃあ私にも一口頂戴」
由美にたかられ、愛がしていたのと同じように、スプーンによそって由美の口まで持って行く。
「うん、爽やかなミント味でこっちも美味しいよ。じゃあ今度は私が灯ちゃんにあーんしてあげよう」
どうせ断っても由美はごねるのでされるままになるしかない。
「美味しい?」
「まあまあね」
「えー、せっかく私が愛情をこめて、あーんしてあげたのに酷いなー」
「はいはい、由美が食べさせてくれるアイスは世界一美味しいです」
「えへへ、そこまで言われると照れるなー」
まったく感情をこめずに言ったのにもかかわらず、由美はすごく嬉しそうに笑みをこぼす。なんだかんだその顔が可愛いことは認めないでもない。
「いやー、それにしてもアンタたちは昔からずっと仲良しよね」
愛はテーブルに置いてあったコーダチーズをつまみながら愉快そうに言う。
「なんてったって、私と灯ちゃんは運命の赤い糸でぐるぐるに巻かれているもんね」
「窒息しないぐらいには、緩めてほしいものね」
腕を絡めて思い切り抱き着く由美を押さえる。
「ところでさ」
由美が私の腰に手をまわしたまま、突然真面目な顔になると、声を落とす。
「愛ちゃん、何かあったの」
私は愛の方を見た。いかにも上機嫌そうに鼻歌を歌っていたのを愛は止めた。
「さすがに由美ちゃんは鋭いね」
愛は参ったと言わんばかりに手を背中に回す。
「いつもよりもお酒呑むペース速いだし、ご馳走してくれるのもいつものことだけど、今日はどちらかと言えばお金を使う口実に私たちを連れ出したって感じに思えたもん」
「私はいつも通りだと思ったけど」
「灯ちゃんは鈍いからね。ほら、こうやっても全然痛くないでしょ」
由美はそう言って私の脇腹をつまんでくる。私はすぐに由美の頭を軽くはたき返してやる。しかし由美はさらに私の二の腕を引っ張るので、今度は私が由美の手の皮膚を思い切り引っ張ってやると、「うぎゃあ」と悲鳴をあげてソファーの陰に逃げていく。私は勝利の余韻に浸りながらアイスを口に含んだ。
「あははっ、ホント仲良いな」
愛はケラケラと笑った。思えば今日は、愛がそうやって笑うのを見たのは初めてだった。
「灯はもしかしたら覚えているかもしれないけど、私の高校の頃よくつるんでいた服飾部の子たちいたじゃない」
彼女達の名前はうろ覚えだが、何度か家にやってきたことがあり、灯も会ったことがあった。
「喧嘩でもしたの?」
私の隣に座り直した由美が尋ねる。
「いや、喧嘩じゃないよ。ただ、今日の昼間に久しぶりに会ったときにさ、一緒に会社をやらないかって誘われたんだよね」
「えっ、どういうこと? 愛ちゃんと同い年だったらまだ学生なんじゃないの」
「たぶん学生起業するということじゃないかしら。今は別に珍しい話でもないみたいだし」
「自分たちで作った服や雑貨を置いた店を出そうとしているみたいでさ、元々は学園祭のときにその友達らで出した店の売り上げが思いの外良くて。私は丁度そのとき仕事があって行けなかったから、後から聞いて知ったんだけど」
「ほえー、なんだかすごいねえ」
由美が感心するのも無理はない。
「まあ起業なんて言ったら少し大げさで、実際はサークル活動の延長なんだろうけど、少なくとも本人たちはすごく意気込んでいるみたいでさ。それで私には作った服を着てモデルをやってくれないかって頼まれたのよ」
「そこまで聞くと特に問題はないように思えるけど。手伝ってあげればいいんじゃないの」
「それがただの手伝いなら良かったんだけどね」
「どういうこと」
「だから、彼女たちが求めているのは、それ以上のことだった話よ。私は意識の低いなんちゃってモデルだけど、多少は雑誌の関係者とかとつながりがあるから、そういった人たちに売り込んで欲しいみたいでさ。そのことはだいぶ遠回しに言われたけど、もう明らかに期待されていてさ。あと出資金も一部負担してくれないかって頼まれたし」
「それは、ずいぶん本格的なのね」
「そうそう、軽い気持ちで手伝えるようなお遊びじゃないんだよ。だってこっちとしては仕事をもらっている人たちに売り込みをするわけで、一度ぐらいなら喜んで聞いてくれるかもしれないけど、よっぽど向こうの利益にならなければ何度もしつこく頼んだりできないでしょ。私としてはそういうので関係がおかしくなったりするのは嫌だし、その、何て言うか……ちょっとがっつき過ぎているというかさ、まあ本気で商売にしたいならそういうのが必要なのは理解できるんだけどね」
いつもは呑気でさっぱりした言動の姉が珍しく言い淀む。
「まだ返事はしていないの」
「保留中だね。今週までには決めて欲しいって言われている」
「今週までって明日しかないじゃない」
今日は金曜日であり、明日が休日だからこそ食事の後も由美が家まで来ているのだ。
「そういうこと。だからこうして高校生のアンタたちに愚痴っているわけ」
「私たちから有益なアドバイスが聞けることはないでしょうね。むしろお母さんに相談すればよかったんじゃないの?」
「どうせ、自分で決めなさいとしか言わないでしょ」
愛はちびちびとワインを注ぎ直す。信じられないことにすでにボトルはほとんど空になっていた。
「私は起業とかそういう話は全然よく分からないしピンと来ないんだけど、今までの付き合い方と変わっちゃいそうだよね。お金も絡んでくることだし」
由美の言葉に、愛は「そうそう」と頷く。
「久しぶりに会ってさ、雰囲気も結構変わっていてびっくりしたんだよね。見た目とかもだけど、それ以上に話が噛み合わないというか」
愛はワイングラスのふちを撫でる。
たぶん愛の中では、もうすでに結論づいているのだろう。ただ、だからこそ言い出すのには勇気がいることも理解できた。そして高校生の私たちにも話すぐらいだから、誰かに背中を押してほしいと思っているのかもしれない。しかしその言葉を容易に口に出来ないことに、私は気付く。
「さっき喫茶店に行った話をしたでしょ」
由美が唐突に言った。
「ブルーローズのこと?」
「そう。そのときそこで京ちゃんっていう私たちの同級生が働いていたんだけど、京ちゃんはバーテンダーになりたいって話していてね。それで私もさ、少しだけ自分の将来について考えてみたんだよ」
いたって呑気な口ぶりだったが、私も愛も黙って聞く。
「私もやっぱり変わっちゃうのは嫌だなって思ったんだよね。大学生はともかく社会人になったら友達と遊べる時間もかなり減っちゃうだろうし、こうして灯ちゃんたちと会うことだってあんまり出来なくなっちゃうかもしれないでしょ。それは死ぬほど辛いなーって」
私も概ね同じような気持ちだった。だが由美はさらに続ける。
「でもそうやって離れている時間があると、また会えた時にそれ以上に嬉しい気持ちを感じられるんじゃないかとも思うんだよね。もしかしたら話や感覚が合わなくなっちゃっているかもしれないけど、私だって昔のその人に何か影響を与えていて、そうやって今までの積み重ねの一部になっているってことを実感できるんじゃないかなって。だからそういう時間があっても、ときには悪くないのかもしれないというか。うーん、あんまり上手く言えていないかもしれないなあ」
由美が自分の言葉に首を傾げる。
「ううん。由美ちゃんの言いたいこと、分かったと思うよ。ありがとね。そうだね、今はちょっと距離を置くときなのかもしれない。うん、そう思うことにしておこう。あー話して良かった、すっきりしたよ。これで安心して酒盛りができる」
姉はさらに冷蔵庫から日本酒の瓶を取り出す。私はまだ飲むつもりなのか咎めようとしたが、今日ぐらいは好きに飲ませてやってもいいかもしれないと思い直した。
「さすがに飲み過ぎたみたいね」
ソファーで酒瓶を抱きながら眠ってしまった姉に毛布をかけてから、私たちはテーブルの上の酒瓶やグラスを片づけていた。
「やっぱり辛かったのかしら」
「辛かったというよりは、寂しかったんじゃないかな」
由美は洗ったグラスの水滴を布巾で入念にふき取る。
「きっと何もかも変わっていくのね、歳を重ねれば」
私は由美のようには考えられなかった。むしろ愛の話を聞いて一層不安に思えた。時の流れはいつだって何かを変えている。連綿と続く今は、決して永遠じゃない。誰も同じままではいられないのだ。果たして私はそれを受け入れられるだろうか。
「灯ちゃん」
馴染みのある声に名前を呼ばれる。私は何故か振り向くのが少し怖くなった。
「大丈夫だよ」
優しく包み込むように、由美は後ろから私を抱きしめた。
「どんなに周りが変わっても、私の気持ちはずっと変わらないよ。いつでも、どこにいても、私は灯ちゃんのことを想っているから。それに、私はどんなことがあっても灯ちゃんのことを手放すつもりはないからね」
「……由美」
「なあに?」
「もしかして酔ってない?」
「ええー、そんなことーぜんぜーんないよ」
由美は私にもたれかかってくる。私は由美の身体を支えながら振り返ると、由美の顔は赤く、呼吸はゆっくりで眠たげな目をしていた。
もちろん由美はお酒を呑んだわけではない。しかしこのリビングにはワインやら日本酒やらの匂いが充満している。私は愛や母親がよく呑み比べと称して明け方近くまで飲んでいるので慣れているが、由美もよく家に来るとはいえ、今日ほど飲んでいる日はあまりなかった。
「片づけはもうほとんど終わったから、私の部屋に行くわよ。一人で歩ける?」
「灯ちゃん、おぶってー」
「しょうがないわね」
私は由美をおぶって階段を登り、自分の部屋まで行く。幸いにして由美の意識はあり、私の背中にちゃんと掴まっていたのでそれほど苦労せずたどり着き、私のベッドに転がせた。
「由美」
「んー」
布団をかけたこともあって由美はほとんど眠りかけていた。
「ありがとね」
「えへへー」
由美は頬を緩めて笑うとそのまま眠りに就いた。未来のことは分からないが、今はその顔を見られただけで今は十分だと思えた。
「さて、片づけの続きをしますか」
私は由美の頭を軽く撫でてから立ち上がるのだった。
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