第2話 保健室

「失礼しまーす!」

 由美は勢いよく扉を開けると足を踏み鳴らして入っていく。

「ここがどこだか分かっているの?」

「もちろんだよ、灯ちゃん!」

「分かっているならもう少し静かにしなさい」

「でも、誰もいないみたいだよ」

 由美は保健室の中をうろうろと歩き回って確認している。

「扉に先生不在の札が掛けてあったでしょ」

「……ああ、うんうん。そうだったそうだった、私は見てたよ、ちゃんと」

 由美は、人差し指と親指で両目を大きく見開いてみせる。

「見てなかったなら素直に認めれば良いじゃない」

「それは出来ません、灯大佐!」

「なんで突然私が大佐になったのよ」

「灯大佐を保健室に連れていくのがワタクシの任務だからであります」

 全く答えにはなっていないが、こういうやり取りは日常茶飯事なので指摘するまでもない。

 由美は私の腕を手に取る。

「一応傷口は水で洗い流したけど消毒しなきゃだもんね。灯ちゃんは普段しっかりしているのに結構ドジを踏むよねえ。何もないところで転ぶなんてさ」

「何もなくはなかったでしょ、五十メートル走の記録を測った後で疲れていたし、由美が変な顔して私を笑わせようとしていたし」

 私は自分の顔が赤くなるのを感じとり、それをごまかすために仏頂面を浮かべようとしたがあまり上手くいかない。

「ごまかすのが下手な灯大佐もとても可愛いのであります!」

 由美は額に手をかざして敬礼のポーズを取る。

「今すぐグラウンドに戻ってくれないかしら」

「ノンノン、まだ治療が終わっていませんよ、灯大佐。ほら、椅子に座って」

 由美はテキパキと棚から消毒液と脱脂綿を取り出してから、脱脂綿に液をつける。由美は幼い頃はよく外で遊びまわっては膝小僧をすりむいていたので、傷の手当てには慣れている。

「ちょいと沁みるよー」

 丸椅子に座った私の腕を軽やかな手つきで取ると、そのまま脱脂綿を傷口に当てた。

「うひゃ」

 私は思わず変な声をあげてしまう。

「……ぷっ」

 由美は堪えようとしていたようだが、すぐに噴き出した。

「笑わないで」

「うひゃはないでしょ、うひゃは」

 そう言って由美はけらけらと笑い続けた。私は恥ずかしくて耳まで熱くなり、由美のことを睨みつける。しかしその間にも由美は手を止めず、さっさと消毒を済ませて絆創膏を貼り終えた。

「そろそろ戻るわよ」

「ええ、もう少しゆっくりしていこうよ」

「何言ってるの、授業中じゃない」

「だってせっかく灯ちゃんと一緒にいられるんだよ。普段はクラスが違うから休み時間になるまで会えないでしょ」

「今は合同授業なんだから戻っても一緒じゃない。さっきも煩わしいぐらいくっついてきたおかげで、同じクラスの子たちにからかわれてしまったじゃない」

 私が嫌がる素振りを見せても由美は全く意に介することなく、私の耳まで口を近づけてから、「二人きりが良いの」とささやく。

 由美は顔を離してこちらの顔を覗き見てくる。いつもはそうやられると慌てふためく私だが、今回は予想できたので両手で由美の頬を掴んで引っ張ってやった。由美は頬の緩みきっただらしない笑みを浮かべてから言う。

「いやー、実を言うとさー。さっき笑い過ぎたせいでお腹が痛くなっちゃったんだよね」

「嘘でしょ」

「本当だって。なんかお腹の肉がつっちゃったみたいでさ。まあ少し休めば良くなるとは思うんだけど」

 由美はお腹をさすっている。本当に嘘ではないらしい。

「全く、しょうがないんだから。じゃあ、しばらくそこのベッドで横になっていなさい」

「うん。そうする」

 由美は素直に私の言うことに従い、よろよろとすぐそばにあるベッドに入り込んだ。

 ほんの片時であるが沈黙が流れてから、由美が口を開く。

「先に戻っていいよ」

「このままいるわよ。腕もまだ少し痛むし」

「そっか。それにしても芹沢ちゃん、全然来ないね」

 由美は天井を見つめながら話す。芹沢ちゃん、とは保健医の先生のことだ。

「そうね。先生の噂は聞いたことあるけど、かなり自由奔放な人らしいわね」

「この前、体育の松倉ちゃんと化学実験室で、アルコールランプを使って炙ったイカを食べていたのを同じクラスの子といるときに見かけたんだけど、私たち全員に分けてくれたし良い人だったよ」

「そう」

 学校の備品を私用で使うことが良いことであるはずはないが、少なくとも気前の良い人ではあるらしい。

「あとは、合コンでいかにお金を払わないでただ飲みできるか話してくれたよ。ちょっとお酒呑ませて下心をくすぐるようなことを言えば、すぐその気になってくれるから、それで浮つかせておいて、会計を済ませている間にすっといなくなれば、自分の酒代を浮かせられるんだって自慢してた」

「やっぱり噂に違わない人なのね」

「まあ私には合コンなんて行く意味がないから一生役に立たない話だね」

 その後も二人で他愛のない話をする。

「まだ良くならないの」

 会話が途切れたところで私は由美に尋ねた。すでに保健室に来てから十分ほどは経っている。

「あっ、お腹痛かったこと忘れてた」

 由美は片目を瞑って舌を出してみせる。先ほどから楽しそうに話す由美を見て、そうではないかという気はしていた。

「でもなんだか眠くなっちゃってさー。ほら、今日はあったかいでしょ。もうちょっとこのまま寝ていたいかなあって」

「バカなこと言ってないで授業に戻るわよ」

 私はかけてあった布団をはぎ取ろうと手を伸ばした。しかしそこで由美は布団を自ら半分ほどはぐと、私の伸ばした手を掴んで思い切り引っ張った。

「えっ、ちょっと」

 そのまま私はベッドに引きずり込まれ、由美は私がベッドに倒れると同時にもう片方の手を使って布団を覆いかぶせた。

「ふむふむ、こりゃ最高の抱き心地ですのう」

 由美は布団の中で私に抱き着いてくる。

「何やってるのよ、由美」

「いやあ、抱き枕が欲しくなっちゃってさ」

 由美は何の悪びれもなくそう言いながら、私の背中に身体を当ててくる。なんだか怒るのも馬鹿らしく思え、私は脱力する。

「こうやって胸を当てれば男なんていちころなんだって、先生言ってたなあ」

 私の背中には小ぶりながらも柔らかい感触があった。

「でも灯ちゃんは全然オチてくれないよね」

「私は女じゃない」

「だよねー」

 由美は身体を少し揺すりながら冗長に伸ばした返事をする。

「昔はこうやって同じ布団で寝てたよね」

「そうね。由美は今以上によくウチに泊まりに来ていたし、幼稚園生ぐらいの頃は二人で一つの布団に入れたものね。もちろんだからといって今同じ布団に入る必要性は微塵も感じないけど」

 由美は今でも少なくとも週に一度は私の家に泊まるので、由美のパジャマや普段着が私の洋服ダンスの一角に入っている。

「でも最初に一緒に寝ようって言いだしたのは灯ちゃんでしょ。ほら、愛ちゃんから夜中に赤く光った目をしたぬいぐるみが襲い掛かってくる怪談を聞かされてさ」

 愛ちゃんというのは私の姉のことで、昔からよく家に遊びに来る由美を可愛がっており、由美もずいぶんと懐いていた。

「あのときの灯ちゃんは可愛かったなあ。もちろん今も可愛いんだけど、なんていうか小動物っぽい感じがまた今と違った味わいを出していたよね。それが今では私より身長高くなっちゃってさ」

「少しだけでしょ」

 私と由美の身長差はせいぜい二、三センチぐらいのものである。

「その少しが大事なんだよ。話すときとか目線を上にしないといけないでしょ。私は灯ちゃんの目を見て話したいんだもん。だからこそ灯ちゃんを寝転がしたわけさ」

 由美は軽快に話す。

「でも今は私が由美の方とは逆を向いているから、目が見えないじゃない」

「そういえばそうだった」

 軽快さは瞬く間に失われた。

「相変わらず由美は何も考えないで話しているわよね」

「それじゃあこっち向いてよ」

 由美は背中を指で突きながら要求してくる。

「嫌よ」

「えー、ちょっとぐらい良いじゃん」

「忘れているかもしれないけど今授業中だから。ふざけてないで早く戻らないと」

 そう言って私は布団から出ようとしたが、由美に腰に抱き着かれる。

「少しだけでいいから。灯ちゃんがこっち向いてくれたら戻るよ」

「どういう理屈なの」

「この想いは理屈じゃないの。私、灯ちゃんがこっちを向いてくれるまで離さないから」

「白々しい演技は良いから」

「えへへ」

 由美は照れくさそうに笑う。

「少しだけだからね」

 私はさっさと済ませようとその場でくるりと反転した。するとちょうど目の前に由美の顔があり、目が合った。私は吸い込まれるように由美の綺麗な黒い瞳に見入る。

 良く見ると黒目の向こうにはそれを覗く私がいた。私の姿は自分が思っているよりも少しだけ大人っぽく見えるが、次の瞬間には子どもっぽくも見えた。まだ大人ではないのだろうが、もう子どもとも言えない年頃なのかもしれない。

「あの、さ」

 由美の声で思考の海から現実に引き戻された。

「食い入るように私の目を見てくるから、びっくりしちゃったよ」

「ああ、ごめん。由美の黒目の中の私を見ていたから」

「ほほう、つまり私の目を鏡代わりにしていたわけですな。私も手鏡を忘れたときは灯ちゃんの目を使わせてもらおうかな」

 由美は言質を取ったとでも言わんばかりににやけた。

「でもちょっと肩透かしだね。私は灯ちゃんの照れた顔が見たかったのに」

「もしかしてそのためにおねだりしてきたの」

「せめて灯ちゃん成分を補給してから授業に戻ろうと思ってさー。まあでもいいや、こうしているだけでとっても幸せだし、十分補給出来ている感じするもん」

「それなら、まあいいけど」

 さすがにそんな風に言われて照れないわけにはいかない。

「たださ、この状況って傍から見たらどう見えるんだろう」

 由美はふと思いついたようにつぶやく。

「二人で授業抜け出して、誰もいない保健室のベッドで同じ布団をかぶって向かい合っているわけでしょ」

「急に冷静にならないでほしいんだけど」

「ごめんごめん。まあ私も冷静になったところで授業に戻ろ……」

 その時、保健室のドアがおもむろに開かれた。そしてそれを聞いた瞬間に由美は素早く私を自分の胸に抱きかかえるようにして布団で覆った。おかげで全く口を挟む間もなかった。

「ん? 誰かいるのか」

 少しざらついた低い声が聞こえてくる。

「私です私、芹沢ちゃん」

 由美はとても病人とは思えない様子で元気よく返事をする。

「ああ、もしかしてこの前のイカ焼きパーティーにいた奴か。名前は忘れたけど」

「由美です、細貝由美です」

「ああ、そうか。それで、なんで寝てんだ」

 芹沢先生がこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのが足音から分かる。私は一層身動きしないように気を付ける。

「それはですねー、ちょっとお腹が痛くなっちゃってですねー」

「制服じゃないみたいだけど」

 何か怪しんでいるのか少し声のトーンが変わる。

「体育だったんですよ」

「ああ、そういうこと。じゃあこれで熱でも測っておけ」

 布団越しに何かが当たり、それに驚いて思わずビクッと震えてしまった。

「なんか今布団が動かなかったか」

「えっ? ああ、私が腕を動かしたんですよ」

「両腕とも布団の外に出てっけど」

 私は頭を抱えたくなる。

「いえ、足です足。私、足と腕を言い間違えちゃいました」

 丁度私の耳は由美の胸に当たっており、その心音が早まっているのが分かる。

「なんか顔も赤いけど大丈夫なの」

「余裕で大丈夫です。私、健康なんで!」

「ああ、そう」

 突っ込みどころしかなかった気がするが、あっさりと流された。そしてありがたいことに言及はそれだけだった。

 その後、芹沢先生はしばらく由美と雑談をしながら、机の前の椅子に座って事務仕事をしていたようだ。由美もあまり不自然な態度を見せることなく気さくにしゃべり、微妙に噛み合わない会話ではあったがそれなりに盛り上がっていた。やがて芹沢先生は椅子から立ち上がると、ドアの方に歩いていったのが足音で分かった

「細貝」

「いたっ。いえ、はい、なんですか?」

 先生との会話が途切れてから由美は何故かリラックスして、そのまま眠りかけていたので、私が腹をつねって起こした。

「ちょっと事務所に取りに行くものがあるからまた空けるけど、何かあったら頑張って自分でなんとかしといて」

 何かあったときのために先生がいるのでは、と思わずにはいられない話である。

「分かりました。この身を賭してでも保健室は私が死守してみせます、大佐」

「おまえ、変な奴だな」

「それほどでもないですよ」

「また今度化学室で、燻製チーズとベーコンを焼こうと思っているから良かったら来いよ。私も今度こそ酒を忘れないようにするからさ。ああ、でも持ちこまなくてもなんとかできるかもしれないな。アルコールランプあるし」

「行きます行きます。お酒も持参します」

 由美はやはり元気よく返事をした。

「量はあると思うから、お友達も連れてきていいぞ。それじゃあな」

 それだけ言い残して先生は保健室から出て行った。

「もう行ったよ」

「分かっている」

 私は布団から這い出る。

「いきなりお腹をつまむなんて酷いよー」

「なんであの状況で寝そうになっているのよ。それにあの誤魔化し方といい、ばれなかったのが不思議なくらいよ」

「助けてあげたのにそういうこと言うんだ」

「そもそも布団に引きずり込んだのは由美じゃない。いや、そんな言い合いをしている場合じゃなかったわね。さっさと保健室から出ないと、授業ももうすぐ終わりそうだし。ほら、行くわよ」

「えっ、でも私は芹沢ちゃんと保健室を敵から守る約束しちゃったよ」

「敵って誰のことよ」

「全国イカ保護組合とか?」

「何でもいいけど、そもそも由美は私の付き添いで来たんでしょ。私だけ戻ったらおかしいわよ」

「ああ、確かに。いや、でもお腹が痛かったとか仮病を使えば良いような。今痛いのは事実だし」

「良くない。さあ今のうちよ」

 私は由美の手を取る。すると由美は急にスクッと起き上がり、私の方を見てから「イエッサー」と言って笑顔で敬礼のポーズをとった。



 保健室に戻ってくるともう誰もいなかった。

 椅子におもむろに座り込んでから、煙草の火を付けようとライターを取り出すがこの間も教頭に保健室が煙くさいと怒られたことを思い出す。それから一瞬だけ迷ったが、結局煙草に火をつけてから、窓を開け放ちグラウンドの方を眺める。

「どうせ外に出たなら、酒とつまみでも買ってくれば良かったな」

 煙草をくわえたまま、手ぶらの両手をしげしげと眺めながらつぶやく。

「随分と仲睦まじいことで。顔は見られなかったけど、今度見せてくれるのだろうからその時を楽しみにしておくか。しかしまあ、いつの時代もあまり変わらないものなのかねえ。なんだか懐かしい気分にさせられちゃったわ」

 タバコをふかすその横顔には、うっすらと笑みが浮かんでいたのだった。

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