あかりとゆみ
城 龍太郎
第1話 目的地
「ねえねえ、灯ちゃん」
由美は読んでいた漫画本をベッドの上に放り投げながら言う。ちなみにその漫画は私のものだ。
「何?」
私は数学の参考書に目を落としたまま一応返事をしておく。
「うーん、そうだなあ」
由美はそこで考え込む。
「せめて話す内容を決めてから口を開いたらどう?」
「えー、別にいいじゃん。出たとこ勝負っていうかさ、そういうの、意外と大事だと思うんだよねえ。ほら、いざというときのために鍛えておかないと」
「私、勉強しているんだけど」
「今日は休日だよ。休日っていうのは、その名の通り休む日なんだよ。それなのに勉強するなんて下手したら犯罪だよ?」
「課題が出ているんだからしょうがないでしょ。大体、由美だって同じものが出ているでしょうに」
クラスは違えど、それほど進度に差はないはずだ。しかし由美は、「んー、課題なんてあったかなあ」と首を傾げる。今までも私に言われる前に課題等を済ませていたためしがないので、予想通りの反応ではあった。
「まあ、どうにかなるでしょ」
「そんなこと言って、いつも前日の夜に泣きついてくるじゃない」
私は呆れるしかない。
「それはむしろ逆だよ。灯ちゃんが助けてくれるのが分かっているから、私は今こうやって灯ちゃんのベッドの上でゴロゴロしながら休日を満喫できるんだって」
「たまには自分でやりなさいよ」
このやり取りもいつものことだ。そしてなんだかんだ毎回手伝ってしまう私はやはり甘いのだろう。
「あーそれにしても暇だなあ」
由美は私のベッドに転がりながら唸るように言う。
「そう思うなら大人しく課題やったら?」
「灯ちゃんが構ってくれたら暇じゃなくなるんだけどなあ」
「休みの日に家に押しかけてきて言うことじゃないわね、本当に」
「あんまり構ってくれないと、私何するか分からないよ」
「それはどういう脅しなの」
「たとえば、この灯ちゃんの枕に顔をうずめてスーハースーハーしちゃうよ」
「今すぐ追い出すわよ」
「冗談だって」
「まったく冗談に聞こえない」
「それはしょうがないでしょ。私はこうしている間も、必死に自制心を抑えているんだもん。本当は灯ちゃんのことを一日中抱きしめながら、その体温や息遣いに触れていたいと思っているんだから」
「……よくそういうことを恥ずかしがらずに言えるわね」
「灯ちゃんはすぐ恥ずかしがって顔が真っ赤になるもんね。ほら、今だって」
「分かっているなら言わないで」
私は熱くなった顔をどうやって冷ますか必死に考えていた。
「私には恥ずかしいとかそういう気持ちはあんまり無いからなあ。むしろ今こうして灯ちゃんと一緒にいられるのは私にとっては本当に奇跡そのものだから、後で心残りにならないようにこの溢れんばかりの想いを、灯ちゃんにいつでも受け取ってほしいと思っているからね」
「ああ、そう」
私はそっぽを向いて答える。何故なら由美の魂胆は、そのにやけた顔を見ればすぐに分かるからだ。
「やっぱり灯ちゃんは可愛いですなあ」
由美は私の顔を覗き込もうと身を乗り出してくるので、私はその顔を手で鷲掴みにしようとするが、俊敏に避けられてしまう。
「課題みせてあげないわよ」
「ごめんなさい、調子に乗りました。どうか慈悲深い審判を」
由美は素早い身のこなしで、絨毯の上に額を押し付けて許しを請う。
「そなたの罪は大変重い。それは分かっておるな」
「ええ、もちろんでございます。ですが一言だけ弁明させていただくならば、その罪に勝るものがあります」
「なんだ? それはもしかして昨日の帰り道、私のバニラアイスを一口と言いながら三口ぐらい食べたことか」
「違います。それは五口です。しかしそんなことではありません」
「そんなことって何よ、大事なことでしょ」
私は思わず素に戻る。しかし由美は神妙な声のまま続ける。
「いえ、それもこれも全ての元をただせばある一つの大罪に行き着くのです。すべてはそこから派生した現象にすぎないのです。ええ、そうです。これすなわち、灯ちゃんが可愛すぎることこそが人類最大の罪なのです」
そう言って由美は顔をあげる。もちろんそこには悪戯げな笑みを浮かべていた。私は不意のカウンターパンチを食らったことで、思考が停止し、先ほどとは比べ物にならないぐらい顔がかっと熱くなっていく。
「灯ちゃーん、機嫌直してよー」
由美の声が後ろで聞こえるが、私は部屋の角に向かって体育座りでしゃがんでいた。
「冷蔵庫からアイス持ってきてあげたでしょ。灯ちゃんの好きな歯磨き粉味……じゃなくてチョコミント味のやつ。早くしないと溶けちゃうよ、私が食べちゃうよ」
ここは私の家であり、つまりはアイスもお茶も私の家の冷蔵庫から取り出してきたものであって、間違っても由美のものではなく、むしろ私のお小遣いで買ったものだ。
「あっ、もしかして飲み物の方が欲しかった? それなら私が愛情たっぷり込めた甘々なはちみつレモンを作ってあげるよ。灯ちゃん、好きだったでしょ」
「……私、あんまり甘いのは好きじゃないんだけど」
「ようやく返事してくれた」
「いつまでも拗ねていてもしょうがないし」
そこで私は向き直り、折り畳み式の小さなテーブルに載せられていたカップアイスに手を伸ばす。
「灯ちゃんは優しいねえ」
「優しくなんてないわよ。ただ、せっかくの時間がもったいないと思っただけ」
「私と一緒にいる時間が?」
私は由美の方を見やる。由美はからかっているわけでもなく、素直にそれを知りたがっているといった様子だった。
「まあ、そうね」
するとその顔に満面の笑みが浮かぶ。別に大して怒っていたわけでもないが、それを見るだけで、全てが許せてしまうような気がする。もちろんそれを由美に言うつもりはないのだが。
「えへへ、そっかー。そうだよねえ、私もそうだもん」
由美は先ほどまで読んでいた漫画を拾い上げると本棚に戻すと、テーブルを挟んで私の前に座り直す。
「課題終わりそう?」
「もうすぐね。最後の問題にちょっと手間取っていたけど、もう分かったから」
「じゃあこの後どうしようか。灯ちゃんは行きたいところとかある?」
「特にないわね。今日は休日だから外は人も多いだろうし」
「灯ちゃん、人混み苦手だもんね」
「由美は特に行きたいところはないの」
「別にないかな。灯ちゃんがいるところが私の行きたい場所で、それでいて私の最終目的地だからね」
「そう」
私たちはそれからダラダラと時間を過ごすことになる。しかしそれに対して不満を言う人もいないわけで、由美も私も他愛ない話をしながら、ゆったりとした時の流れに身を任せるだけだ。
「そういえばさ」
そう口を開いたのは由美だった。
「さっき読んでいた漫画で、女の子が質問していたんだけど」
「どんな?」
「多くの人が人生には山や谷があると考えてようだけど、じゃあどんな人生にも他のどの日よりも幸せな一日があるってことになるよね?」
「たぶん、そうなるでしょうね」
「だとするなら、もしその一日がもう過ぎてしまっていたらどうすればいいんだろう、ってさ」
私はほんの少し考えてから、ひとまず思ったことを口にしてみる。
「その前に、最良の一日がいつかハッキリと分かることはないじゃない」
「それはそうなんだけどさ、でも案外分かってしまうんじゃないかって私は思うんだよね。それはきっと唐突に、でもじわじわと感じさせられるように知らしめてくるんだよ。そうなるのが二十代なのか三十代なのか、もしくは八十代ぐらいなのかはともかくね」
「うーん、いまいちピンとこないわね」
「灯ちゃんは元々鈍いところあるから仕方ないよ」
事実ではあったが、私は少しだけムッとする。
「いや、別に馬鹿にしているんじゃなくてさ、それこそ死んでしまうその日まで実感することのない方が幸せ、というより賢い生き方なんじゃないかと思うんだよね」
「気付かないでいられることが、実は一番の幸せだったってこと?」
「結局そんなことは全部私たちの考え方や受け取り方次第でどうにでもなるんじゃないかな。だから私はさ、なるべく山も谷も無いなだらかな人生を生きたいんだよ」
「少し話が飛躍している気もするけど」
「私としてはさ、わりと今日までそんな感じにやっていられたと思うんだよね。今日という一日が、灯ちゃんと一緒にいるこの時間が、私の人生に必要なことを全部叶えてくれているんだもん。これ以上は望まないし、もちろんこれ以下も嫌だから、私の目標は必然的に一生現状維持になるんだよ」
由美は誇らしげに言い切る。
「まあ私だって今に不満があるわけじゃないけど、私たちも高校生になったわけだし色んな事が変わっていくかもしれないじゃない」
「だからこそ、私は今ここで宣言しているんだよ。ずっと今日みたいな日が続いたら良いと願って、いや、実現していくためにね」
「ふーん」
私はなんとなく素っ気なく答えてしまったが、由美の気持ちはよく分かったし、私だって同じ気持ちだった。
何も変わらない、ということはないのかもしれない。でもこうやって二人で安穏と楽しく過ごせればいい。そうなるように願っている。
これから私と由美のちょっとしたささやかな日常が紡ぎ出されていくだろう。だから多少のうねりがあったとしても、大きな事件や胸躍る大冒険といったものはほとんど見られないと思う。何故なら、今言った通り、他ならぬ私たちがそう願っているから。
そうはいっても、私たちの行く末はもちろん、その道中でどんな人に出会い、どんなことに遭遇するのかは分からない。いつも私たちの思い通りにいくとは限らない。
だからこそ、これからもずっと平穏であることを願う私たちの、身の周りで起こった出来事の数々が、夜空に浮かぶ無数の星々の一つ一つのように小さ煌めいて、やがてそれらが確かな軌跡となることを、私たちはまだ知る由もないのだ。
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