第14話 莉桜、乾
カーテンの隙間から細く差し込んだ日差しが、部屋に白い光の筋を刻んでいる。莉桜は寝不足の頭の重さに顔をしかめながら、なんとか身を起こした。
あれから「声」が聞こえる頻度はめっきり減った。しかし完全に聞こえなくなることは無く、今までのように莉桜に語りかける訳でも無くどこか遠くで呟くような、不明瞭な台詞が時折頭に響いてくる。しかしそのどれも要領を得ず、そしていつその声がするかもしれない緊張から、以前より更に眠りは浅く、夜もなかなか寝付けずに夜空を見上げる日が続いていた。
さすがに両親に黙っている訳にもいかなくなり、一度家に諸々のお見舞いで訪れた乾を伴って話せる部分だけ報告したが、父も母もただぽかんとするだけで何も進展はしなかった。仕方がない事だ、両親は只の一般市民であるし、元々莉桜の事も放任当然に放ったらかして育ててきた。
愛情を感じなかったわけではないが、両親が初めての子どもをどう扱って良いか考えあぐねているのが莉桜当人にもはっきり伝わってきた。だから彼女は幼いころから何でも自分で調べ、自分ひとりでこなす癖がついていたし、もとより能力の高い莉桜の事である、それで全く困りはしていなかったのだ。
だから両親はますます彼女を放置するようになったし、彼女もそうした自由を次第に謳歌するようになっていった。中学に上がる頃には、オンライン教室で時折開かれる授業参観や学習発表会といった催しにすら、両親はまるで顔を出さなくなっていた。
特に寂しいと思った事もない、そもそもその頃の学校教育は完全に生徒や保護者にとって「義務」と成り果てていたから、他の生徒の親もそれほど真剣に学校に介入する事はなかったのである。
昔はPTAなどという保護者の役員会が存在したと、年老いた教授がぼそぼそ語っていたのを覚えている。そんなものがあった所で学校側と揉めるばかりではないかと莉桜には思えたし、実際その役員会の実態も教師、保護者両者にとって然程ありがたいものではなかったとその教授はこぼしていた。「今は良くも悪くも”自由”な時代になった」というのが専らの口癖だったのである。
今日はまだ朝食も取っていない。もう時計は八時半を差していたし、後三十分もすれば毎日の学習時間が始まってしまう。多少急がなければならない刻限だったが、莉桜は鈍る思考をそのままにただぼんやりとベッドの上に座っていた。
すると、傍らに投げ出されていた携帯端末がぶるぶると震えて着信を告げる。乾から毎日のように掛かってくる心配のコールだ。
人と会話するのすら怠くなっていたここ数週間であったし、考える事が多過ぎて部屋に閉じこもっていてもまるで気持ちの整理がつかなかった。しかし、乾と話している間は少し気持ちが和らぐのも事実である。あの日、乾が発した「友達だよ、僕らは」という言葉が、ただ一本の心もとない命綱として自分を支えているのがよく分かった。
携帯端末を取り上げ、通話ボタンをタップする。やがて遠慮がちに乾の声が流れ出した。
『…もしもし、莉桜。今日はちょっとは眠れた?』
「うん…二時間くらい…」
『そっか…』
乾も自分に掛ける言葉がなかなか見つからないでいるのが解った。しかし、今頼れるのは乾以外にいなかったし、この数日はもう自分の身体が自分の物とは思えず、度々嘔吐を繰り返す程度には衰弱している。沈黙も特に気にしてはいられない程になっていた。
『あれからテンジン君にも協力して貰って手当たり次第情報筋を当ってるんだけどね…何しろ国やラグナが裏で何か動いてる案件だから…。全く実態が掴めない』
「そう…ごめんね…」
『莉桜が謝る事じゃない…むしろ僕のほうこそ、こんなに近くにいたのに、何も出来なくて』
そこまで言い掛けた乾は、自分の弱音にようやく気付いたのだろう、はっとして言葉を切る。もう毎日のように繰り返してきた無言の時間がぽつぽつと降り積もって行く。
『ねえ、莉桜』
やがて意を決したように乾は切り出した。
『今日、運動プログラム中に模擬戦やらない? 久々にさ』
まるで異物のような自分の身体を引きずりながらいつもの狩場に出向くと、乾が心持緊張した面持ちで、しかし至って普段通りに振る舞おうと手を振る。
「莉桜、おはよう」
「おはよう…」
「今日は真琴と空には外してもらったよ。偶には二人でじっくり語り合おうかと思って」
そう言いながら乾は端末を操作してごくごく自然にアバターをロードする。その体に纏うナノマシンを微かに認めて、莉桜は自分の体が小刻みに震え出すのを感じていた。
乾の顔はアバターに覆われて良く見えない。最近ではもう神器を纏った姿であっても乾のおおよその感情が予想できるくらいにはなっていたが、しかしその日の彼からはなぜか何の気持ちも読み取れなかった。
不気味さから、莉桜の全身を冷や汗が滑り落ちて行く。しかし乾の気持ちを無下には出来ない。震える手を無理やり動かして、自身も端末を操作しアバターをロードする。
スサノオとビシャモンテンは、気が付くともう久方ぶりになる二人だけの対峙を果たしていた。
「じゃあ、行くよ」
ビシャモンテンが小さくつぶやくと同時、端末から戦闘開始を告げる電子音がして、音もなく乾の姿が消える。しかしこの数か月、何度も相手にして来た相棒の動きだ。目で完全に追えなくてもおおよそ先が読めてしまう。
スサノオが完全に勘で右手の盾を振り回すだけで、乾の細かい連撃は完全にシャットアウトされていく。それでもビシャモンテンは最高スピードを維持したまま、ただただ攻撃を繰り出す。莉桜は黙ってそれを受け止める。
(速度と攻撃の威力が上がっている…?)
その事実に気づいた時には、スサノオの装甲は削り倒され、ビシャモンテンの槍の切っ先が僅かに体の中心部を掻き切っていた。
『GAME SET!!』
莉桜のアバターが霧散して行く。また束の間満ちた沈黙を破って、正面に居を構えたビシャモンテンがゆっくりと歩み寄ってくる。
「…やっと勝てた」
「アバター狩りをしたの? 私のアバターも強化されてる筈なのに、攻撃が重かった」
「言ったでしょ。僕は強くなりたかったんだ」
ようやくアバターを解除した乾の、奇妙にゆがんだ顔が、霧散していく神器のまにまに垣間見えた。
「言ってなかった事がある。僕の兄、乾守は、ラグナの主任技術者だ。アグリノーツにも関わってる」
「…で?」
「僕は、昔から兄の後ろ姿を見て育った。本当に凄い人だった。何でも出来たし、欲しい物は自分の力でおおよそ手に入れてしまう。ちょうど少し前の莉桜みたいにね」
立ち尽くしたまま、乾は静かな声音で語り続ける。莉桜は何となくさえぎってはいけない気がして、ただその話を促した。
「だけど、兄が高校生、僕が小学校高学年くらいの頃からだったかな。兄は段々目的の為には手段を択ばない、冷たい人間になっていった。両親も優秀な人間でね、兄の活躍しか見ていなかったから、その異常にも気付いてなかったみたいだ。そして、兄と違って自分一人では何も成し得ない僕の姿も、両親の目には映ってなかった」
「だから強く成りたかったの?」
「初めはね。兄にアグリノーツのテストプレイを依頼されて、本当に嬉しかった。あの兄が僕を頼ってくれることなんて初めてだったから。僕がアグリノーツのβテストに参加してた事は、上澤も知らない。当時このプロジェクトは完全に極秘で進められてた。僕も口外しないように固く念を押されていたよ」
「βから参加してた割には戦闘慣れしてないよね、君」
ようやくふっと笑った莉桜の顔を、心から眩しそうに見つめて、乾は莉桜を手招いた。
二人は特に会話も無いまま、黙々と歩き慣れた狩場を進んで行った。良く晴れた、風も雲もない日だった。強い日差しがさんさんと降り注ぎ、周囲のアスファルトがその熱を反射して辺りはじりじりと焼けるように暑い。体温調節機能があるアシストスーツ越しにも、その日差しはほんのりと温かかった。
やがて、いつか二人が向き合ったビルの屋上に立ち、乾は眼下に街を見下ろした。人の往来がほとんど無くなったビル街は、丁寧に整備されてはいたもののどこか廃墟のように見える。この国はどこに行ってもおおよそこんな感じだ。この街並みがアグリノーツの世界観を強烈に象徴しているのだった。
「兄に、お嫁さんが嫁いできたんだ」
やがて、乾の言葉がようやく沈黙を破る。
「兄が選んだ人だったから、本当に素敵な人だった。きっと自分に欠けてるものを補おうとして彼女を選んだんだと思う。凄く人の事ばかり気遣っている人なんだ」
「…好きなの?」
尋ねる声がなぜか震える。
「…うん。でも、今はそれ以上に、莉桜や、真琴や、空の事が大切だ」
いつか、乾がランクマッチバトルを提案してきた時のように、彼の声は熱を帯びている。
「今は莉桜達の為に強くなりたい。君を、守りたいんだ」
「…うん」
それからはもう言葉もなく、日が暮れるまで二人は黙って屋上から青空を見つめ続けた。
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