第13話 亜久里、美里

 寝不足の目元を抑えながら伸びをすると、美里は短く溜息を吐く。いつからか眠りが酷く浅くなり、眠ったとしても悪夢を見て頻繁に目を覚ますようになっていた。

 夜中に帰宅しては食事と軽い仮眠だけを済ませ再び仕事に出る夫はともかく、家で長時間共に過ごす乾に悟られるわけにはいかない。隈が浮き青白く尖る顔にファンデーションを塗りたくり、なんとか場を誤魔化していた。


 自室に運び込んだコンソールセットを操作していると、また亜久里から通話が入る。

 亜久里は極端な合理主義者であり、不必要な会話は滅多にしない子である。それ故に美里も彼女に隠し立てをする必要を全く感じず、素のままの自分で接し続けていた。それは亜久里のほうも同様であったようで、二人は不思議な連帯感で結ばれていた。…亜久里が事の発端である「アグリノーツ」の原典であったとしても。


『やあ、美里さん…あれからどんな感じ…?』


「ええ、そうね、芳しく無いわ。”アグリノーツ”は莉桜ちゃん以外の触媒も探し始めてる。このままだと、うん、きっと、シンギュラリティは加速する事になる」


『そしてアグリノーツは完成し…僕たちの努力は水泡に帰す…』


「うん、まあ、そうならないようにしないとね」


『最近、思うよ…』


 僕らがこんなことに巻き込まれたのも、何かこの世界を動かしている大きなものの導きなんじゃないか…って…。その彼女らしくない呟きを聞きとがめ、思わずちょっと笑った美里は、しかし眉を寄せて通話相手をそしる。


「”大きなもの”なんてのは、そう、前時代の人間のたわ言なのよ。まあ、でも、私も信じたことはあったけどね、そういう、うん、人知を超えた物の存在を」




 美里の両親は、熱心な”自然派”の市民として昔から国の政策などに対する反対運動やデモを繰り返してきた。幼かった美里の価値観にそれら両親の教えが濃い影を落としたのは無理もない。やがて美里自身も、自然派の一員として様々な活動を起こし、大学の学部も活動の後押しになるよう敢えて理工学部を選んだ。

 そこで出会ったのが現在の夫であるいぬいまもるという男だった。


 守は、奇妙な男であった。常に飄々として自身の感情を悟られず立ち回っているかと思えば、何か学部内で問題が起きると真っ先にそれを処理しようと動き、それらは毎回ある程度成果を上げていた。元々持ち得た能力と大学内で築き上げた巨大な人脈が、彼に、それは大きな力を与えていた。

 いつからか守は、学部内で強い裏権力を持つようになっていき、次期助教授、またその先の教授着任が確実視されるようになっていく。




 彼の周りでは、絶えずその権力のおこぼれを預かろうと、様々な人々が奔走するようになっていた。そうした人々の中に美里もいた。

 誰もが守の魅力と権威に憑りつかれ、守は守で彼らを自らの駒のように扱い、しかし自分の役に立つ人間にはそれにふさわしい愛情を注いでいた。彼についていけば自分や両親の悲願である人間社会の刷新も格段にやり易くなるに違いない。

 美里はそんな思いから、積極的に守にアプローチした。


 やがて聞こえてきたのは、守が当時研究室のスポンサーであったラグナの事業に携わり、何か巨大なプロジェクトの進行に関わっているという噂だ。守の傍らでプロジェクトに対する彼の入れ込みようを見ていると、それこそが守がこの長年志してきた本当のゴールであるらしい事が解った。

 彼の熱意の程は異常とすら言えた。今まで以上に人を駒として扱い始め、それを彼の周囲の人間も善しとした。寝る間も惜しんで研究に取り組む姿には狂気を感じ、そして元々優秀であった守の執拗な努力は実を結ぶ事となる。


 それが彼が大学院から正式にラグナに所属した直後に発表された、ゲームタイトル「アグリノーツ」とそのためのシステムであった。




 彼が何を考えて「それ」を始めたのか、美里には今もって理解出来ない。彼の並外れた頭脳と才覚が、「それ」を可能としてしまったことがそもそもの事の発端だったのか。

 そうして美里は、守の目的を生涯阻止し続ける為に彼と添い遂げる事にした。それが自らの使命だと感じていた。


 だが、守と籍を入れて訪れた彼の自宅で、美里は乾司と出会う。守とは対照的に素直で何もかもを肯定する司と接しているうちに、美里の心に靄のように疑問が纏い始めていた。


 自分は何の為に、誰の為にここまでの事を為して来たのか。この企てが成功しようと失敗しようと、恐らく今までの生活…司との日々を失う事になる。だとしたら自分にとって何が最善と言えるのか。




「まあ、でも、こんな思いをするのは私達だけで良いと、そう、思うの」


 美里は眠気にまかれた目でモニターを見据えると、ぽつりぽつりと懺悔する。


「だって、司君たちはあんなにキラキラして、うん、真っ当に生きてるんだから。私達が彼らの生活を守るの。そう、すべきなのよ」


『僕には美里さんがそんなに難しい理由で動いているようには思えないけどね…』


 通話相手は相変わらずのらりくらりと事実を告げる。


『美里さんは他人を愛する事が出来る人って事でしょ…僕たちと違って…』




 亜久里の母親は、当時企画が持ち上がったAVR技術の主任研究員として、ラグナに赴任してきた技術者であった。母には何らかの巨大な展望があったらしい、その頃はまだ、自分を娘らしく可愛がってくれたが、次第に亜久里を見る目が険しく、感情を伴わない物になって行くのが解った。


 亜久里は父親似の娘であった。父は極端な合理主義者で、家庭を顧みずひたすら仕事に打ち込み、そしてそこで得た成果を味わう事もないまま病床に伏し、現在は植物化している。寝る間も惜しんで事業を起こし、人間関係を取り持ち、あらゆる問題を理屈でねじ伏せてきた。その結果残った物は、周囲からの冷たい目線と彼の妻と、そして愛娘。

 母は父親についぞ一言も文句を言う事もないまま、彼の後を追いその訳の分からぬ研究に呑まれて行った。




 やがて、亜久里は自分の人格をベースに構成されたAI「アグリノーツ」と邂逅する。

 母親は彼女に、「アグリノーツ」の成長と育成を任せ、その完成をひたすらに望んだ。もう母にもその研究の行く末をコントロールできていないのは明らかであった。


 やがて中学生となった亜久里は、母親と繋がっていた幹部の勧めでバトルロワイヤル「アグリノーツ」の世界に没頭するようになる。

 その戦闘漬けの日々の中、彼女は母の目的の先にある「ソレ」と、美里と言う一人の女性と出会った。


 それからの目が覚めるような美しい日々。小さい頃から家庭に居つく事が無かった父と母の代わりに、美里が、そしてアグリノーツが沢山の感情を彼女に教えた。彼女は思った。アグリノーツは、母が、父が自分にくれた最初で最後の贈り物だと。



『だから僕は美里さんの夢を叶える…それから、”アグリノーツ”を永遠のものに…」


 今日は随分余計なお喋りをする通話相手は、自分でも違和感に気付いているのだろう、照れたように笑うと、


『じゃあ、また…明日…』


 と言い残し通話を終了する。やがて画面に流れて行く通話ログをぼんやり見つめ、美里の夜も更けていくのであった。


「私たちはもう、きっと、そう、前に進むしかないのね」


 清潔な室内の空気を吸い込み、美里は再び作業に没頭して行く。

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