第1話 退屈

 オンラインの仮想空間に作り出された講堂で、莉桜はつまらなそうにペンをくるくる回していた。

 今日はプログラミングの授業である。理系の彼女にとってはそこそこ得意な部類に入る科目だったが、しかし高校で教えてくれるくらいのレベルであると、応用も発展も無く基礎ばかりで非情に退屈だ。今日の授業も正面のモニターで教授が実例を上げてバグについて解説するだけの座学であり、もっぱら実務向けの莉桜にとっては寝ていないだけマシな状態だった。


 携帯端末のモニターを展開しデジタルキーボード操作に切り替えると、莉桜は教授や周りの真面目な学生にばれないようにそれを操作した。ほどなくグループチャットアプリで乾にメッセージを飛ばす。


莉桜:やっほ。授業超ヒマ。なんか面白い話ない?


乾:あのね…僕も授業中なんだよ。単位落としそうなの、解る?


莉桜:ゲームも弱いし頭も弱いとは…おぬし救いようがないな。


乾:…あとでボコる。


 ゲームで出会った、お互いの私生活もほとんど知らず学校も別々の間柄ではあったが、乾とは妙に気が合った。恐らくお互い自分とも今まで付き合ってきた人間とも違うタイプの相手であったから、刺激が尽きないのだろう。


 そもそも莉桜には歳の近い友人が乾以外にいない。

 学校はこの通りオンラインで授業を行うだけの、コミュニケーションを削ぎ落した実体のないものと化してしまっている現代であったし、厚労省から定められた運動プログラムをこなす時くらいしか家から出ないのである。どうしても友達を作りたければネットに頼るしかない。


 しかし、莉桜は現代っ子でありながらネットにはなかなかなじめない性分なのだった。毎日毎日くだらないニュースに一喜一憂しては大声で持論を展開するネット民達を見ていると、驕りであると解ってはいたが彼らが頭の悪い猿の親戚くらいにしか思えなかった。小中学時代こそ、莉桜も彼らに異を唱える持論をSNSなどで発信していたが、もう十六歳にもなった現在、その行為にもほとほと興味を失くしていた。

 そんな折、ラグナがアグリノーツを発表したのである。



 それからは、その刺激的な世界観とバトルの爽快感にどっぷりハマってしまった。今まで生きている感覚がどこか希薄だった。毎日人工調味料の効いた栄養配分完璧の味気ない食事をもそもそ摂り、大して興味もない学業をこなし、ただ生きるためだけに生き延びる生活。そこに初めて色がついた気がした。


 定められたプレイ時間ぎりぎりまでアグリノーツで戦闘を繰り返し、結果何でもコツを掴むのが早い彼女はどんどんランクを上げて行った。今では中堅と言って良い位置につけている。最も程よくゲームを楽しめるポジションと言う訳だ。


莉桜:そういえば、例の神堕ちはなんか続報あった?


乾:だからさあ…もういいや、あとで補修受けるよ。


莉桜:良いから情報クレ。


乾:…。そだね、最近聴いた話で言うと、その神堕ちはランク二位につけてるらしいよ。


莉桜:え、そんなに強いのに一位じゃないの?


乾:一位のプレイヤーは誰も見たことがないらしい。戦闘から逃げ続けてるのに破竹のポイントを維持してるって噂。


莉桜:ほえー。



 アグリノーツは、プレイヤーが戦闘によってポイントを奪い合い、所持ポイント数によってランクが付けられるシステムになっている。一位のプレイヤーは「日ノ本」と呼ばれ、全てのプレイヤーから崇拝と嫉妬と畏怖を向けられる存在だ。多くのプレイヤーが日ノ本を目指し、そして高ランクプレイヤーともなると非常にランクの入れ替わりが激しい。それだけ多くのポイントが行きかう戦闘を繰り返していると言う事だ。

 莉桜もアグリノーツをプレイしているからには高ランクを目指していたが、しかし彼女にしてみれば日ノ本にまで上り詰めるのはいささか現実的ではなかった。

 上位陣は現実の各分野でも目覚ましい活躍を見せる著名人が占めていたし、彼ら一芸に秀でた人間には彼女らのような一般人は手も足も出ないだろう。だから今くらいの順位で長く遊ぶのが丁度良いのである。


 …しかし、乾はいつも勝敗に酷く拘る。彼にとってみれば男の子の血が騒ぐと言うやつなのだろう、何度か「日ノ本ってカッコいいよね、憧れだよ」などとつぶやくのを聞いていた。彼は本気でそれを目指していると見える。


(ゲームなんだから楽しまないと損だと思うんだけどなあ)


 相変わらずだらだらと板書と講義を展開している教授を見つめていると、少しずつ眠くなって来た。最近乾との模擬戦が楽しく、オーバーワーク気味である。気が付くと莉桜はチャットを展開したまま、オンラインに繋いだままで眠りに落ちていた。




『誰か…誰かいないの…?』


 人が心細そうに囁く声が聞こえる。誰だろう、なぜこんなに悲しそうなのだろう。


『寒い…寒いよ…』


 そうか、寒いのか、じゃあ私が…。



「おい、狛坂こまさか


 その声ではっとして顔を上げると、教授のオンラインアバターが目の前まで迫り、酷く呆れた視線をこちらに向けていた。


「お前にとって授業が退屈なのは解るが、そう堂々と居眠りされてはな…」


「…あ、すみません…」


 クラスメイトがくすくすと笑う声に、いたたまれず頬を赤くした莉桜は、今見た夢の事をすぐに忘れてしまっていた。

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