平成三十一年二月 夜(下)

 一通り、田中君に触れられて。彼の気持ちをこの体に伝えてもらえた。

「豊橋さん」

 ぎゅっと、田中君は余韻に浸る私を覆いかぶさるように抱きしめてくれた。バスローブ越しのさっきよりもダイレクトに彼の温もりと息遣いが伝わってくる。

「田中、君……」

 そのまま、触れ合うだけの軽いキスをした。 

「すごくかわいかった」

「うん……」

 少しずつ息が整ってきて、記憶が蘇ってくる。自分でもあんな可愛い声を出すとは思わなかった。

 でも、これでよかったのだ。この触れ合いは田中君一人の頑張りだけじゃ足りなくて、私との共同作業なのだから。

「……ありがとう」

 田中君は一旦、体を起こす。

「えっと、あれ、ここにもないな……」

「何をお探しで?」

「そりゃ……って、あった」

 あぁ、ゴムか。

 …………。

 ……。

「待って」

 箱に手を伸ばそうとした田中君を私は制した。

「いい」

「えっ」

「つけなくて、いい」

 どちらかといえば自分は理屈で物事を考える人間だと思っていた。一時の感情に流されることなんて……それこそ、ドラゴンズが好投していた先発を見殺しにして0-1で負けたときくらいしかないんじゃないかって。

「さすがにそれは」

「平安時代にそういうものはなかったよ」

 この期に及んでの理屈なんて空虚なものにすぎなかった。

 男なんてみんな子孫を残したがる生き物だと思い込んでいたけど、人間ってどうもそういう単純なものではないみたい。真剣な眼差しで私を見つめてくる彼を説得するには、心も裸にしないといけないみたいだ。

「……そういうことじゃない、ってか」

 書かれている登場人物の気持ちを読み取ることよりも、はるかに自分の気持ちを言葉にする方が難しい。


「初めてくらい、あなたを直に感じたい」


 年相応にエッチなことに興味があるからといって、誰でもいいわけじゃない。

 この人だから裸を晒し出しても。

 この人だから痛い思いもさせられても。

 そして、ここに来て、彼と時を過ごしてきた今わかった。

「それと……あなたにも私を直に感じてほしい」

 この人だから自分の体内に爪痕を残されてもいいって思えたのだ。 

 今の私のこの気持ちを恋だというのなら、頭ではなく子宮で考えるものなのかと感じさせられる。

「一応、周期からしても大丈夫、とは言っておく」

「……豊橋さんが望むならそうする。でも、万が一のことがあったら責任は取るつもりだから」

 すぅ、と田中君は大きく息を吸う。そして。


「君の処女はじめて、もらうからね――七華ちゃん」


「――――っ!」

 お腹がうずいたのが自分でもわかった。

 なんなの! 普段はぶつくさ文句を言うし、何を考えているのかわからないくせに。どうしてさっきから、こんなときだけ……こんなときだけ、漫画みたいなことをしてくるの!

「お願い、します……」

 さっきと同じ、ベッドに横たわる私に田中君が覆いかぶさる格好になって……熱いものが触れたのがわかった。

 いくら自分が望んだこととはいえ、心臓はバクバクいってるし、体はカチコチに強張っている。

「七華ちゃん」

 田中君がもう一度私の名前を呼んで、左手が頬に触れる。少しくすぐったいと思ったその刹那。

「……んぐぅっ!」

 やっぱり……痛い! なのに。

 真っすぐに彼の瞳を見つめる。逃げるな、と。

「い゛っ……いだっっっ!!!」

 じんじんと広がる裂けるような痛みと、異物が入ってきた圧迫感が半端ない。

 息をするのも苦しいというのに。

「感じ、る……」

 彼の顔のさらに向こうに見えたのは白い天井。シミを数えているうちになんて言い出したのは誰か知らないけど、とてもそんな余裕なんてない。

 でも。

 私ではない他人を体で受け入れるということ。それは痛みを伴うけど……この気持ちは間違いなく、喜びだ。幸福と言ったっていいのかもしれない。

 だって、痛みの中で、走馬灯のように彼と隣合わせで過ごした楽しくて胸が躍る日々がよぎったのだから。

 誰一人として同じ人間はいない。だから他人と交わることは衝突もあるし、傷つくことだってある。それでも、人は一人で生きていけないから、他人の存在を心から求める。

 人と人との付き合いを象徴する行為がセックス、なのだ。きっと。

「仁詩君」

 体が繋がっているからか、さっきから何も言っていないのに想いが通じてくれる。仁詩君は私の望みの通りに、唇を重ねてきてくれた。

「んっ……」

 私はこの人と今、この世界で生きている。それを痛みが教えてくれていた。

「はぁっ……」

 唇を離すと、仁詩君はまた頬を撫でてくれた。

「優しくできなくて、ごめん」

「もう、全部入ってるの……?」

「うん」

 そっか。一思いにやってくれたんだ。彼らしい。

「いや、本当は少しずつ慣らしていきたかったんだけど」

「それだけ私があなたを受け入れたかったってこと。あなたが気にすることじゃない」

 おかげで忘れられない初体験になりそうだ。

「これからも僕は七華ちゃんに甘えっぱなしになるのかな」

「うん。それは私もそう思う」

「自分で言うのかよ」

 ははっと私達はお互いの目を見て笑い合った。


 そこからは仁詩君に全てを委ねた。

 ふと。私は自分の上に乗っかっている仁詩君の顔を見た。仁詩君の必死なその表情は……かわいくって、愛おしくって……私以外の誰にも見せたくないな、って思った。


 全てを終えてから。ぎゅっと、息遣いが荒くなっている仁詩君を今度は私が抱きしめてあげた。

 素敵な初体験だって胸を張っていいと思う。お互いに。

 あっ。

「そういえば……仁詩君も今日が初めて?」

「言ってなかったっけ。そうだよ」

「そっか……仁詩君の童貞はじめて、もらっちゃったね」

 襲ってきた微睡みの中へとこのまま身を任せたくなった。

「あのね」

 細かいことは起きてから考えよう。その前に今伝えないといけないことがある。


「あなたのことが好きです。私とお付き合いしてください、仁詩君」


 「セックスから始まる恋」という中島らもさんのエッセイがあったのを思い出す。

 お見合いで結婚してその後にセックスする方が野蛮だというのはいかにも中島らも節だが、セックスのときの全てを晒し出した男を見て、そこから惹かれていく……というのは、なるほど、わかった気がする。

 私の場合、セックスしたいと思うようになるまでに既にそこそこの好感度を重ねていたような気はするけど、それはともかく。


「はい。僕も好きです、七華ちゃん。順番ぐちゃぐちゃになっちゃったけど」

 恋人としての初めてのプレゼントは、その話が載ってる中島らもさんのエッセイ集にしようかな。明日にでも買いに行こう。

「早速だけど、次の休みにデートに行かない?」

「うん。大須がいいな。行ってみたいカフェがあるの」

 楽しみだ。

「あと、シーズン始まったらナゴヤドーム」

「……それはデートスポット?」

「私にとっては東京ディズニーなんとかよりも、よっぽどデートになるから。覚えておいて」

 本当に、楽しみだ。

「でも中日の野球見てて面白くな」

「私の貧乳を愛でられる仁詩君なら、貧打線も愛せ……あ、ごめん。愛してはない。野手は謝れ」

「何の話ぃ!?」


 たとえ、この幸せな日々をあと二年少しで終わらせてしまうことになったとしても。

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