第九話 退却戦
某刻。闇の中を、小柄な騎兵が一人、長く伸びる隊列に逆らって駆けていく。騎兵も歩兵も、隊列の兵士たちは皆、憔悴した、怯えた表情をしていた。
それを見て逆走する騎兵がぐっと唇を噛む。晩秋の夜風が、頬に痛い。
戦場には勿体無いほどの、一点の曇りない、星月夜である。月の光が、その騎兵の行先を眩いほどに照らしていた。
まるでこの後のことなど考えていないかのように、力の限りに馬を走らせている。右の手に槍を、そして左腰には奇妙な長剣を下げて、その瞳を、星々よりも爛々と輝かせて駆けて行く。
疾走を続けるうちに隊列が随分と細くなった。それを横目で見て、騎兵は一層その足を早めてゆく。腰の長剣が、大きく上下に揺れる。
敵兵の灯りが遠くに見えた。戦場が、近い。
◇
砦にたどり着くや否や、その兵士は馬を降り、その頭を優しく撫でてやった。よう走った、と言葉をかけ、しばらく名残惜しげにしている。そしてしばらく考えた後、その馬をもと来た道に向けて、離してやった。
放たれた馬が来た道を孤独に駆けていく。一人と一頭が、一人になった。
日の沈むまで兵に満ち溢れていたこの砦も、この闇夜で随分と寂しくなった。今は合わせて百もいないであろう兵士たちが、慌ただしく中を動き回っている。
魔法部隊の号令も、弓兵が弓を引き絞る音も、聞こえてこない。ただ足音だけが暗闇に響いている。
砦に入った小さな兵士が辺りを見回していると、その目の先に見知った顔が映った。顎鬚を蓄えた中年の男が、周囲に檄を飛ばしていた。
「ニクラスさぁ、ではないか」
「おお、これはサツマ殿。退却と聞いとりますが、どうしてここへ?」
「おいも、
そう言ってカラカラと笑う姿に、この戦場への悲壮感は微塵も感じられない。むしろ、ここにいるのが至上の喜びだと言わんばかりである。
「ニクラスさぁは、どうしてここん残っちょるんかのう」
「この戦は、前払いで給金を頂戴してましてね。傭兵稼業とは、まったく損なもんですわい」
「退いても、ようごわすぞ」
「それはできませんなあ。我々にも、意地ってもんがありますんでね」
それを聞いて小柄な兵士は、もう一度、高らかに笑い声をあげた。
「よう、申した! こんよか
異国の兵も捨てたもんではないのう、と上機嫌である。
「じゃっども、おんしらが倒れるんは、おいが後ぞ。おいが、
兵をば集めてくれんかの、との声に、傭兵団の長は首肯を返し、周りを見回し団員を呼び集めるのだった。
◇
砦に一際大きく燃える松明のもとに、傭兵団の面々が集まってきた。
小柄な兵士が、炎を背中に指示を出す。その指示は、まるでどこかで見てきたかのように具体的で、的確だった。
「隊をば、三つに分けもす」
「三つに」
「そんうち一つは、先鋒じゃ。敵の出足ば、挫く」
「なるほど、奇襲ですな」
「残りん隊は、砦で待機でごわ。先鋒が戻れば、あん丘にば、引く。」
そう言いながら、砦の裏手にある丘を指で指し示して見せる。砦の人数を隠すには、もってこいの大きさだった。
「次は二つ目ん隊が行く。引くんは、あん奥の林じゃな」
「なるほどのう」
「そん次はあん丘にしもっそ。こっして交代で敵ば止める」
「それからは?」
「後はおいおい隠れるとっを探しながら、こいを繰り返す。
「わかった、従おう。サツマ殿の活躍は、この目で何度も見てきた。お前さんになら、命を預けられる」
他の団員たちも、黙ってこの髭男の言葉に従って頷いている。彼らの目にも、炎と、小さな影が映った。
傭兵団長はテキパキと隊を分けると、指示を出していった。一部の兵を残して、他は武器を携えて命令通り丘へと去っていく。
ただでさえ少数の砦の人数が、一層少なくなった。
「そいと、ニクラスさぁ」
「サツマ殿、まだ、何かありますかな」
「おいが止まれば、後はおんしじゃ。下知をば、頼みもす」
「……! 承知した、任せておけい」
◇
団員たちが、慌ただしく配置についた。巨大な砦が、闇に飲まれて静寂に包まれていく。
砦に残った一団は、数十人で一番端の防柵の影に隠れるかたちになった。暗闇の中、一際小柄な影も見える。あの小柄な兵士のものに違いなかった。
「おいが合図を出すまで、音ば立てるな」
敵軍の一部隊が、砦に近づいて来た。辺りを注意深く窺いながら、ゆっくりと進んでくる。抵抗がないのが予想外だったのか、何か不気味なものを感じ取ったのか、後ろの仲間に向かって何やら合図を送っている。
それを見て、他の部隊もざわざわと砦に近づいてくる。存外楽に進軍できたのが拍子抜けだったのか、その目から緊張感が失われていくのが、遠目にもわかった。
「狙うは、あん旗の部隊じゃ。首ば不要ぞ。乱すだけで、よか。乱せば、あん丘まで、引く」
小声で小さな兵士が確認をとる。横の兵らも、こくりと頷き、唇を舐める。緊迫した空気が、夜風に紛れて宙に消えていった。
その一団が防柵の陰に息を潜めているとはつゆ知らず、敵部隊はあまりに不用心であった。ゆっくりと緩慢に、柵の間から列を作って歩みを進めていく。安心したのか、隣の兵と軽口を叩きながら、進軍してくる。
標的となった旗持ちの部隊も、後に続いて進軍を始めた。慎重ではあるが、進軍というにはあまりに気の抜けた歩みをしている。
それを物陰から数十の瞳が、獲物を狙うが如くじっと息を殺して見つめている。
旗持ちの部隊が砦に接近してから、数拍後。兵士が腰の刀を抜く。刀身が、闇夜に消えていく。そして--。
「キィエエエエエエィィーーーッ!」
咆哮と共に、ひとつのけものが、
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
馬蹄の音がけたたましく響く遥か後方で、わあっという鬨の声が聞こえます。キーレと別れてから、もう数十分も経ったでしょうか。
声の中に、どこか、あの懐かしい奇妙な咆哮も、聞こえた気がしました。
「若。砦の兵が、敵部隊と交戦を始めたようです」
「……そうか。急がねばな」
「……」
「マリアンヌ、キーレの、彼らの頑張りを無駄にするな。駆けるぞ」
「……。はい」
わたしは涙を抱えたまま、ただただ馬を走らせていました。彼が、必ずまた戻って来ると信じて。
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