第八話 西方寮のとある一日
例の決闘騒ぎから幾日かたった、ある秋の日の朝。
早くに目が覚めてしまったので散歩でもしようとぶらぶらしていると、西方寮の裏庭の辺りから、どこか聞き覚えのある獣のような咆哮が聞こえてきました。
「キィエエエエエエィィーーーッ!」
この叫び声を朝から聞かされては、たまったものではありません。人間の体のどこを使えばそんな声が出るのだろう、と不思議になりながら、声のする方を覗いてみることにしました。
例の絶叫とともに、どこから持ち出したのか丸太を地面に埋め込み、キーレはただひたすらに剣を打ち込み続けています。
汗を飛び散らせて取り憑かれたかのように剣を振り続けるキーレの横で、ヨーゼフも剣の素振りを繰り返していました。朝から一緒に訓練だなんて、仲良くしているようで何よりです。
「キィエエエエエエィィーーーッ!」
この心臓に悪い叫び声を聞きながら、わたしはしばらく二人の特訓を眺めていました。
◇
しばらくすると訓練が終わったのか、こちらに気づいたキーレがぺこり、と頭を下げました。
「おはようございます、キーレ。朝から精が出ますね」
「体が鈍っちょってな、鍛錬ば、せんと」
「ヨーゼフも一緒に訓練しているのですね」
「ヨーゼフさぁは、まだ
ヨーゼフに対して何やら師匠面をしているのが、微笑ましくもあります。
「マリアンヌ姉さんじゃないですか」
こちらは秘密の朝練を見られたからか、気恥ずかしそうです。
「こいつに触発されたわけではないですが、もっと強くならねば、と思いまして」
「それはいいことですね。伯父上もきっとお喜びになられると思いますよ」
褒めたつもりだったのですが、ヨーゼフは何やら少し不満げなようです。
「ずっと木を叩くのがジゲンとやらの訓練なのか?」
「おう、こいだけでごわす」
「防御は、どうするんだよ」
「
「避けられて、反撃されたら?」
「議を、
呆れたような顔をしているヨーゼフを尻目に、キーレはわたしに何か用があるようでした。
「あん魔法の壁とやら、出してもらうことはできもすか」
「魔法障壁のことですか、はい、もちろん。
ほう、と呟き魔法障壁を触ったり叩いたりしながらあれこれ観察しています。
「こん壁は、どれぐらい保ちもすかの」
「使い手の魔力にもよりますが、数十分は展開できると思いますよ」
「刀ば、通すかの」
「剣や槍で破るのは難しいですね。攻城砲も防げますから」
「大筒も、でごわすか」
うーん、と唸りながら難しい顔をしています。先日の決闘で魔法障壁に木剣を折られたのが、それほど悔しかったのでしょうか。
「対応策はありますよ、魔法障壁も万能ではないですから。わたしが説明するよりも、戦術論の本を読んでみる方がいいかもしれませんね」
「ほう」
「わたしが持っているのを貸してあげます。後でお渡ししますね」
ゴーン、と起床を告げる鐘の音が鳴ります。いつのまにか朝食の時間が近づいていました。訓練の余韻に浸るまでもなく、わたしたちは慌てて西方寮の方へと向かうのでした。
◇
学校は相変わらず、キーレの噂でもちきりになってしまっているようでした。決闘騒ぎがあってからというもの、サツマの名は瞬く間に学校中に広まり、あることないこと噂に尾鰭が付いてしまいました。もはやキーレは、校内で知らない者はないほどの有名人となってしまっています。
「サツマだ、サツマが来た」
「化け物みたいな大男と聞いていたが、随分と小柄なんだな」
「なんでも変わった剣術を使うらしいぞ」
「いや、俺は異国の魔法を使って攻撃するって聞いたが」
「何でも防御魔法を粉砕しちまったらしいぜ」
どこに行くにも、見物人がぞろぞろと付いてきて、好奇の目に絶えず晒されてしまいます。
多くの人からは単純な好奇心が、また一部の一般兵科の平民からは尊敬の念が、そして帝都貴族の子弟からは怯えのような憎悪のような目線が向けられているのを感じます。
キーレのついで、と言ってはなんですが、わたしにもよくない評判が立つようになりました。なんでも、鬼サツマを従える西方の魔女、とかなんとか。
「勝手に言わせておけば、よか。そう長くは続かん」
「少年もだいぶプロシアント語が上手になったねー」
「そうなんです。この間は歴史の本を一人で読んでいたんですよ」
すこし得意げな顔をしているキーレ。
「でもこの喋り方はそのままなのよねー。これはこれで面白いからいいんだけど」
「……。通じれば、そいでよいではないか」
◇
キーレは授業ではまだだいぶ苦労しているようでした。講義の内容がわからないことも多々あり、時折わたしのノートを見て、ふむふむと頷いて先生の話を聞いています。
そこまで熱心にする必要はないと思いますが、人一倍好奇心が強いのか、四回生の授業もある程度は理解してきたようです。
特に戦術論と歴史学には興味があるようで、放課後に暇さえあれば本を借りて熱心に机に向かっているのをよく見かけます。
授業を終えて西方寮へ戻ると、談話室で一人キーレが本を読んでいました。わたしが先ほど貸した戦術論の教科書のようです。傍らに辞書を置き、ウンウン言いながら真剣な眼差しでペンを走らせています。
そんなキーレを横に、わたしは趣味の編み物をすることにしました。談話室には暖炉が備えられており、とても暖かいのです。
「すまんが、障壁ちうもんの、こんところが、ようわからんのじゃが」
キーレが苦戦している文章を片手にこちらにやってきました。
「いいですよ。えーっと。ここは巻末に注釈があって、そちらの方の図解を参照するとわかりやすいです」
「あいがとごわす。む、こっじゃろうか」
「魔法障壁は正面からの衝撃には強いのですが、側面まで同時に展開するのは難しいのですよ」
「ほう、そうでごわしたか」
「側面まで障壁を広げようとすると、今度は障壁全体の強度が下がってしまってしまうんです」
キーレは熱心にわたしの解説を聞いていました。想像したくもないですが、本気で魔法障壁を物理的に破る方法を考えていたのでしょうか。
もしかすると朝の訓練も、その一貫だったのかもしれません。これから当分あの叫び声で目をさますとなると、ゾッとしません。
「おんしはここで、なんをしよっとかの」
「寒くなってきたので、マフラーでも編んでおこうと思って」
「こん国はもっすい寒かのう。
「まだまだこれから寒くなりますよ」
キーレはまだこのプロシアントの気候に慣れていないようでした。
「おいは朝鮮にもおったが、そいよりえろう冷えもすか」
「ええ、チョウセンとやらは知りませんが、おそらくは。サツマは暖かいところなのですか」
「うむ、海が
「まあ、海が」
「よう、水練ばしおったもんぞ」
わたしの故郷のエンミュールは内陸で、海なんて見たこともありません。ましてや泳ぐだなんて。プロシアントの海で泳いだりしたら、凍ってしまいそうです。
「よかったらキーレにもマフラーを編んであげましょうか」
「不要じゃ。
自慢げに胸を張っていますが、その両手と顔はしっかりと暖炉の方に向けられています。
その姿が可愛らしく思えて、マフラーをもう一人分追加で編んでおこうか、と思ったのでした。
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