初雪

阿賀沢 周子

第1話

 道路沿いのポプラの並木から、セミの声が湧いてくる。平松ふきは通学かばんを路上に置き、制服のひだスカートのポケットから白いハンカチを出した。汗ばむ額と鼻の下を拭く。

『今日の試験はやっぱり駄目だろうな。お母さんがなんて言うだろう』

 夏休み前の学期末試験の最終日は国語と音楽だった。音楽は、歌唱だったのでなんとかなった。歌うのはまんざら嫌いではなかった。

 ふきは、小学校に入学した当初から、読み書きの習得に時間のかかる児童だった。それでも小学から中学と落第もせずに来たが、中学生になると試験の結果が出るたび『もう少し頑張らないと仕事に就けないよ』とあせる母にせっつかれ、自分の不甲斐なさを思い知った。

 ポプラ並木の中ほど、左手にイチイの生垣に囲まれたふきの家が見えてくる。

「ただいま。お母さん」

 開け放しの玄関から母に声をかけた。たたきに男の靴が並べてあった。

「おぉ、ふきか。お帰り」

 母ではなく、母の同僚で最近頻繁に家へ出入りしている山下真治が居間から返事をした。半年前父親が亡くなってから、母の静子は農協へ働きに出ていた。土曜だから、母は半日で帰っているはずだった。ふきは、掃除当番やら図書室の片付けで遅くなったのだ。

「こんにちは。おじさんいらしてたんですか。お母さんはどうしたの」

 真治は、ランニングシャツとステテコ姿だ。ふきを舐め回すように見つめ、のっぺりした白い顔で薄ら笑う。ちゃぶ台に小鉢や徳利が載っている。

「静子は、嵐屋商店に酒を買いに行った。ふき、途中で会わなかったか」

 嵐屋商店は、この村落で唯一の雑貨や食品を扱う店で、通学路の途中にある。

「会いませんでした」

 居間から自分の部屋にしている仏間へ入り、勉強机の横にかばんを置いた。経机に並ぶ父の真新しい位牌と写真に向い、いつものように『ただいま』と手を合わせる。父、巌は照れたような笑顔で、出稼ぎ先の制服で映っている。

 真治が、手にぐい呑みを掲げ部屋へ入ってきた。

「ふき、付き合えよ」

「わたし、お昼ご飯作らないと。もうすぐお母さんが帰ってきますから」

 とても嫌なのに笑顔で返事をしている自分がいる。

「まあいいから、静子が帰ってくるまで付き合ってくれ」

 ふきより、頭二つ分上背のある真治が腕をつかんだ。二の腕から鳥肌がはいあがってくるのを感じていたが、微笑みは、顔に張り付いたままだ。

『お母さんの大事なお客さんだから』

 引っ張られて居間へ行くのかと思ったら、その場で押し倒された。

 ふきは真治がふざけているのか、なんだか分からず手で押しのけようとした。セーラー服の前がはだけ、シュミーズ越しに乳房をわしづかみにされて初めて悲鳴をあげた。真治の手がふきの口を塞ぎ、唇が続いた。抵抗する両腕も頭の上で抑えつけられた。


 蝉の鳴き声が変わらず騒がしい。真治はふきから降りて仰向けになった。窓から射す陽が汗ばんだ男の胸と肩を照らす。

「ふき、しゃべるなよ。俺は静子と所帯を持つ。母さんを幸せにしたかったら言うなよ」

 真治は肘をついてふきの顔を覗き込む。桜色の乳首に触れ耳元で囁く。

「静子は怒ると怖いからな」

 酒臭く息が耳に熱い。

「お母さんが帰ってくる」

 ふきはおろおろと真治の手を払い、立ち上がろうとするが膝に力が入らない。頭にあるのは母のことだけだった。

 やっとのことで立ち上がるが、パンツを履く手が震える。ふらつきながら普段着を身に着け、制服で目と鼻をぬぐう。しわくちゃになった制服をハンガーにかける。真治は寝そべって自分をじっと見ている。母の足音がしないか何度も外を窺った。

「あっちへ行って。もうお母さんがくる」

 ふきの声は絞り出された嗚咽に近かった。真治は素直に起き上がり居間へ戻った。

 ふきは仏間を見まわし、真治が使ったちり紙をかき集めてくずかごへ捨てた。すぐにくずかごから紙を拾い集め、学校のカバンへ移し変えた。無我夢中だった。自分に起こったことが信じられなかったが、学校の保健体育の授業で教えられていて、どういうことかはわかっていた。

 母に知られたら、という恐怖心がふきを支配していた。ふきは経机の前に坐った。初めて下腹の痛みを自覚し前屈みになった。

『お父さん。私どうなっちゃうの。どうしたらいいの』


 玄関から母の声がした。

「ただいま。あら、ふき帰っていたの。途中で会わなかったね。嵐屋さんにいるときすれ違ったんだ。真治さんに、何かおつまみでも作ってくれていたらよかったのに」

 静子は仏壇の前に座っているふきに後ろから声を掛けると、真治の横に坐り、抱えてきた一升瓶とつまみのカンカイを取り出した。


 ほぐされたカンカイが放つ異臭の漂う居間で、二人は酒をのみ喋っていた。酔うにつれ、ふきを気にするでもなく静子は男にしなだれかかかる。

 ふきは二人に遅い昼飯を作り、自分は台所で少しの湯漬けを口にした。身体は腹がすいたと言っていた。膳を出すとき、母が見とがめなかったのでほっとした。真治を見ないでいるのに必死だった。自分の部屋に戻り父の前で手を合わせ、祈り続けた。


           ・・・


 家から飛び出して、ポプラ並木まで走った。母の静子の怒鳴り声が聞こえてくる。『許さないからねぇ』ふきは突きあたりを左へ折れた。中学校の小豆色の体操着の上下だけだった。誰にも遇わないように、と祈りながらうつむいて走った。昼下がりで日は射していたが、山から吹き下りる風が冷たかった。

 ポプラ並木が終わった角は、同級生の山田の家だった。そこを左に折れて間もなく、枯れたイタドリが並ぶ農道へ入った。そのまま南へ進むと空知川へ出る。

 山田家の田んぼの端で息が切れて立ち止まった。

『ふき、お前が誘ったって真治さんが言ってた。何食わぬ顔して、お前って子は』

 先刻、球技大会が終わって学校から帰ると、母は家にいた。通勤に使っているバッグを膝の上に抱えて、玄関の上がりがまちに腰掛けていた。

 ふきを見るなりこめかみに青筋を立てて仁王立ちになった。

「早引けして帰ってきたら、あんたの部屋に真治さんが寝ていた。『ふきか、待っていたぞ』って。母さんを裏切ったね」

「お母さん」

「あんた、自分が何したか分かっているの」

 巌の一年忌が済んですぐの11月23日に静子と真治は結婚することになっていた。

 夏休み前の学期末試験の最終日、家にいた真治に悪戯されて以来、母のいない週末何度か関係を持った。

 はじめは精一杯の抵抗をしたが、力には勝てず、相談する相手もなくずるずると関係が続いた。真治がいつも言う『静子の幸せのために内緒でな』という言葉は、いつしか自分の言い訳にもなっていた。

 来春には集団就職で愛知県へ行くことになっている。やっと何とか成ると思っていた矢先の発覚だった。母にだけは、知られたくなかった。知られたら生きてはいけないと思っていた。

 裏切りといえばそうに違いなかった。真治を好きではなかったが、情交を重ねあきらめ慣れて、土曜日学校から帰る道々、真治の裸や声がふきの心に現れる。母も同じことをして、同じように思っているのかと苦笑することさえあった。

 自分の中にこんな感覚があることすら、夏まで知らなかった。

 母の叫び声がふきを現実に戻す。もう聞こえるはずはなかったが『ひとでなし』『泥棒猫』とふきのジャンパーの袖をつかんで叫ぶ母の声が聞こえる。びんたを食らってジャンパーを脱ぎ捨てて家を飛び出した。

 川に近づくにつれ枯れた葦や、葉を落としてむき出しの枝を張る雑木林が深くなった。日差しは雲に隠れ、空気はいっそう冷え込んできた。

 雑木を両手で掻き分け、枯れ枝を踏みながら水音のほうへ進んだ。

 幼い頃、春になると父とフキノトウを摘みに来た場所だ。春はイタドリが小さく見通しが良い。フキノトウがいたるところに顔を出す。雪解けで増水しごうごうと流れる空知川を父と並んで眺めた。

『ふき、水は怖いよ。ここへは一人で来たら駄目だよ』

 ネコヤナギがびっしりと生えて川面に枝を張り出している。ヤナギの枝をつかんで幹へ渡る。網目のように絡まったノブドウの蔓がふきの足を捉える。両手は冷たさのせいか、強く枝を握り締めているためか真っ白だった。踏んだ枝が大きくはねてむこうずねを打った。ふきはうめいた。片手を離しズボンを捲り上げると十センチほど皮が剥けて、点々と血が滲んでいた。

 空知川の水嵩は低かったが流れは荒々しい。空も水面も灰色だ。ふきはもう一方の手も離した。体の重みで足が滑り仰向けに倒れた身体を、ブドウのしなやかな蔓が支えた。すぐ下を川がうねり、水滴が背中を濡らした。

 ふきを問い詰めながら母は、ふきの唇、胸、太股を見た。汚いものを見るように眉間に深い皺を刻んで。

『勉強もろくに出来ないくせに』

 幼い時から読み書きが苦手なふきを、けなしたことの無い母が言いつのる。

 底の無い空の真ん中から、小さな影がたくさん降りてくる、とふきは思った。その拍子に冷たいものが頬に触れ、唇に触れた。

「雪だ。雪が降ってきた」

 声に出して言った。出血が続くすねの傷に、胸の上で組んだ両手に、小豆色の体操着の上に雪が降る。目が開けていられないくらいに降って来る。自分に降り積もる雪の白さが嬉しかった。

 ぎしぎしと背の下で枝が鳴る。ふきの体が右へ左へと小さく振られ、つるりと下へ落ちた。


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