第40話 特訓の前奏 ①
体幹強化のストレッチはすでに終わっていて、他の部員たちは体力と速力強化の走り込みを始めている。
走ってきた亮に気付くと、莉央は振り向き、短いポニーテールを揺らした。
「ちーっす」
「
「悪い、遅れた」
「朝練も来なかったんで、今日はお休みかと思いました」
「あー、ちょっと寝坊して」
莉央は、それ以上は聞かず、激励するような笑みを見せる。
「さ、頑張りましょう。皆もう走ってますよ」
「ああ、朝練の分も取り返さなきゃ」
亮はすぐに体幹強化のストレッチに取りかかり、それから5000メートルを走った。
時折、莉央がさりげなく水筒を渡し、水分補給をさせる。その後、110メートルハードルを何度も繰り返していった。
開始が遅れた亮が運動場を離れたのは、誰よりも遅い時間だった。
夕日はとっくに地平線に沈み、半月よりも少し太った、十一日の月が東の空に上がっている。
部活棟に戻ってシャワーを浴び、シャンプーもする。
ロッカーで着替えをする時、程良く筋肉の付いた体を見るともなく見る。制服を着て襟を正すと、すっかりリフレッシュした亮の目に、もう一度、火が付いた。
――よし、本番はこれからだ。
部室の事務室に戻ると、莉央が備品の片付けをしていた。
「お疲れ」
莉央は亮の姿を目に留めると、仕事をしていた手を止めた。
「あっ、矢守先輩、お疲れ様でした」
「
「はい、タオルの洗濯や備品の片付けがあるので、大体いつもこの時間になっちゃって。そろそろ帰ります」
「そっか、いつもこんな時間まで……。お世話ありがとうな」
「そんなそんな、選手の皆さんが快適に練習できる環境を作るのが私の仕事ですから。あ、そうでした、先輩、これお一つどうぞ」
可愛らしい紙の箱に包まれて、茶色の塊が入っている。
「何だろう」
「キャラメルを作ったんです、ミネラルたっぷりで元気が出ればと思って」
「ありがとう」
部員みんなに渡したのだろう、箱には三個しか残っていない。
すぐに一つ口に入れて「うまいな」と言うと、莉央は嬉しそうに微笑んだ。
「先輩ももう帰るところですか?」
「いや、ちょっと寄るところがあるんだ。暗いから、道中気を付けろよ」
「分かりました、また明日」
亮は部室を後にすると、部活棟の階段を降りていく。その時、木管楽器の演奏が聞こえてきた。
どこかで聞いたことのあるような、懐かしく柔らかい音楽に、心癒される気分になる。
部活棟を離れ、亮は武道館に入った。静寂の中、執事服のピコルスが正座して待っている。
「来たか」
亮は自然と背筋を伸ばし、一礼する。
「お待たせしました。こんな時間まで待っていただいて申し訳ありません」
「構わん。体力、体幹の鍛錬は基礎だからな。強健な身体能力を持っていなければ、強力な武器は無用の長物となる。武器の力に頼るのでなく、それを扱う者自身が武器と同等の技量を持っていなければならないとよく覚えておけ」
「分かりました。俺の訓練に付き合ってくれている間、神宮寺さんたちのお世話は大丈夫でしょうか?」
「心配無用。お嬢さまたちの送迎、夜食の手配等は別の者に任せた。早速だが本日の鍛錬を始める」
「よろしくお願いします」
「うむ、まずは柔術だ」
亮はなぜ洋弓場でなく武道館を指定されたのか分かっていなかったが、柔術と聞いてさらに謎が深まった。
「弓術ではなくて、柔術ですか?」
「ああ、君はまだ、一日に一度しかオカスソリスを着装できん。その一回で事態が収束すれば良いが、それ以上に敵が手強かった場合、今の君では何も守れず、容易く負けることになる。無論、
亮は昨晩のことを思い出す。オカスソリス解除後にやってきたピコルスを相手に、自分がいかに無力であったか。
「それに、弓矢というのは射撃武器だ。もしも敵が矢を躱し、至近距離まで攻めてきた時のことも考えねばならん。そのために君は、接近戦に対応できる術を身につけるべきだ」
亮は納得し、ブレザーを脱ぎ捨てた。
「分かりました、師匠、ご指導お願いします」
「付いてこい」と、ピコルスが立ち上がった。
亮はピコルスの後について、道場の真ん中まで踏み入る。
三メートルの間を取り、ピコルスと亮は向き合った。
「まずは投げ技の基本から教える」
「はい」
「ではかかりの作法から。君はしっかりと立っていろ。私の動きをよく観察し、作法を盗め」
「分かりました」
ピコルスは左手で亮の袖を、右手で後ろの襟を掴んだ。
一つ目の技は、左足を重心にして右足を擦り、そのまま後ろに伸ばして一気に攻める。自分の腰を亮の腹に密着させるようにして、投げる直前で止めた。
二つ目は、両足を開いて立ち、左足で床を蹴ってから、右足を相手の足元に踏み込む。そして、太ももで相手の腰を蹴るように打ち込んだところで止めた。
「今のは釣込腰と大外刈りだ。左右それぞれ50回、やってみろ」
「はい!」
ピコルスが拍を取るのに合わせ、亮は繰り返し練習する。左右を変え、200回に達すると、「そこまで」と声がかかった。
亮はピコルスから手を離し、一定の距離を獲る。日頃しないような動きばかりで息が荒れ、体は熱く、全身から汗が噴き出す。感情が昂ぶり、抑えきれないような高揚感もあった。
「では感覚を覚えているうちに実戦だ。私から一本取れるまで続けろ」
「分かりました。お願いします」
やる気満々の亮は、すぐに一本を取ってみせると決意した。
忠実に教わったことを試そうと攻め込むが、ピコルスを掴むどころか先に掴まれ、すぐに投げ倒されてしまう。
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