第3話 月高の名人たち ①
新暦 100年 9月
新暦になり再建されたヒイズル州において、新都は重要な港である。
関東で二番目に大きいこの都市は、新東京よりも歴史が長く、現在は物流と重工業の集まる副都心として知られている。海外への民航に、資源貨物の輸出入のための飛空船艦。さらには海や海底を運航するマシンが停泊する、一大拠点となっている。
早朝、スズメの鳴き声が響くここは、海を遠く臨む高台の住宅地だ。和洋の調和した三階建ての一軒家の玄関扉が開き、少年が現れる。しっかりとネクタイを結んだブレザーの制服。右肩にはエナメルバッグをかけた、逞しい少年は、「行ってくる!」と家族に声をかけた。
玄関を閉め、数段の階段をリズム良く降りると、門扉から出て家を後にした。
少年が見上げると、下弦の月が低く西方の空に傾いている。一台のマシンが頭上を通り過ぎた。この時間はまだ、マシンが飛び交う通勤ラッシュには早い。
「よし!学校まで走るか!」
少年は眉を高く上げ、爽快に走り出した。車は全て、空を飛んでいる。太陽が上がったばかりのこの時間は通学路に人も少なく、ウォーミングアップには最適だった。
少年は真剣な表情で走る。階段やフェンスもペースを落とさず飛び越える様は、ヒョウやレイヨウのようだ。首元のペンダントは後ろに飛ばされ、宙を揺れながら青い光を放っている。
この町の上空には線路が張り巡らされ、マシンが飛び交う。だが、線路よりも高い位置に、空の色と同化した一台のマシンが留まっていた。特殊な技術でできているのか、そのマシンは誰にも気付かれないまま、通学路を走る少年にズームインした。
マシンの中では黒いスーツの男が光るキーボードをタイピングしている。映像が宙に投影され、そこに地球のものではない文字が書き加えられていった。
――
監視目標は現在も健康を維持。マナの量も日に日に伸びているため、戦士の素質ありと判断。
――
同時に送付された隠し撮りの映像には、少年の特徴的な部分が大きく映され、首にかけたペンダントもよく見えるように映されていた。さらに、少年に関する実に個人的なデータも同送された。
――
亡命中の姫の奪還任務を実行せよ。君に預けた例の物の使用を許可する。どんな手を使ってでも、必ず連れ戻せ。
――
男がやりとりをしているうちに、リアルタイムで盗撮中の映像は市街地から学校へと移っていた。
丘の上に築かれた校舎からは、通学路の坂を見下ろし、さらにその下に港の風景を眺めることができる。校門の柱には『私立
正面玄関から長い廊下を通り過ぎると、ガラスが多用された新築棟へと抜ける。幾何的な曲線の多い校舎で、三階部分からは直接中庭へと繋がる階段と渡り廊下があった。
映像は敷地をくまなく散策するように盗撮していく。敷地内には体育館のほかに野球場、サッカー場、プール、グラウンド、テニスコート、部活棟、さらには洋弓場や武道館まであり、かなり設備が充実している。
高校の一番裏手には、他校では見かけないものもあった。それは神社だ。和式庭園の広がるその神社は月読邸と呼ばれ、理事長とその家族が居を構えている。
ようやくカメラが少年の元へと戻った。「TSUKUYOMI」の刺繍が入ったユニフォームに着替えた少年は、運動場に姿を見せた。朝練らしい。赤いレーンに立った彼は、号令を聞くと同時に両手を大きく前後に振り、加速したままハードルを飛び越える。インターバルで三歩使い、同じ足で次のハードル、またその次のハードルとテンポ良く、猛スピードを維持したままで駆けていく。
少年の走るフォームを見守っていたコーチが、隣に立つタイム係の女子に笑いかけた。
「
少女は赤いリボンを結んだ制服姿のままで、腕にタオルをかけている。
「そうですね、このペースならベストタイムかもしれません」
話しながらも、少女の目はストップウォッチと少年とを行き来している。
「まだ二年で、すでに110メートルを13秒台か。彼は月読陸上部のエースだな」
最後のハードルを越えると、少女は気を引き締めた。
少年がゴール線を越えた瞬間、少女の親指が時を止める。
「どうだ?」
「13秒37です」
「高校生どころか、一般のプロの成績じゃないか……」
コーチは予想以上の成績に嘆息した。
「矢守くん、ちょっと来てくれるか?」
亮はユニフォームの襟を引っ張って、汗まみれの顔を拭きながら手を挙げ、「はい!」と清々しく応じる。
息もほとんど整い、亮は小走りでコーチの元へと向かった。
「どうしたんですか、コーチ」
「自己ベスト更新だ」
「本当ですか?タイムは?」
女子マネージャーが、亮にタイムウォッチを見せる。
亮は口を開けてしばらく放心していたが、こみあげる喜びから、自然と笑顔になった。
「よくやったな」
「コーチが訓練を積ませてくれたおかげです」
亮が力のこもった目で見ると、コーチは発破をかけるように続けた。
「次の陸上大会、君を主力選手にしたいと思っている」
「期待に応えられるよう頑張ります」
亮の返事にコーチは気をよくして、何度も頷いた。
「よし、それなら午後は400メートルハードルを試してみないか?」
「ぜひやらせてください!」
「うん、じゃあ筋トレやストレッチの強化メニューも調整しておこう。午後に小栗さんから伝えてもらうようにする」
「はい、分かりました!」
亮はコーチにお辞儀をすると、グラウンドの脇の手洗い場に向かった。センサー式の蛇口に手を翳すと、水が流れ出す。
両手で水をすくい、顔を洗い、頭にも水を浴びる。汗臭い髪を洗い流して頭を上げると、爽快な息を吐き出した。
「先輩、タオル」
亮が振り返ると、タイム係の女子生徒がタオルを渡してきた。
「サンキューな、小栗さん」
女子マネの
莉央は両手を後ろに組み、楽しげに話しかける。
「矢守先輩、自己ベスト更新おめでとうございます!」
そう言われてようやく亮は自分の走りを振り返り、実感がわいてきた。
「うん、たしかにいつもより体が軽い気がするかも」
「凄いですよ、次の陸上競技大会は、うちの部のエースだって、コーチも言ってましたよ。代表選手はばっちり内定ですね」
「いや……次の関東大会代表選抜権を取るまでは油断できない。夏の二の舞にならないように注意しないと」
夏の郡大会。月読高校では基本的に、三年から選抜していく方針がある。それでも亮は、110メートルハードルに絞り練習を増やして、何とか選ばれないだろうかと努力を重ねていた。だが、校内で代表選手を決める日に限って体調を崩し、思うような成果を残せず、代表入りすることは叶わなかった。その悔しさを彼は忘れていない。
「ハードルでは出られなかったですけど、でも先輩、幅跳びは銀、走り高跳びでは銅を獲ったじゃないですか」
「……ハードル以外じゃ、何枚メダル獲ってもなぁ」
亮は一番自信があり、好きなハードルで出られないことが悔しかったのだ。
タオルや水の補給、部員それぞれの成績の記録、自主練メニューを伝えること、筋トレに付き合うのもマネージャーの仕事だ。莉央は亮の努力を毎日見てきた。
「先輩!」と莉央は亮の両手を握り、胸高に挙げる。
「気持ちは分かります。でも、先輩はこれからですよ!」
激励の声は明るく、莉央の目は朝日を浴びてきらきらと輝く。
「陸上大会は来年もあります。一緒に頑張りましょう!」
眩しいほどの希望の満ちた顔を見て、亮は微笑んだ。
「そうだな。小栗さんたちマネージャーのおかげで、俺はいつも全力で走れるよ」
「先輩、そんな言葉、私にはもったいないです。私はただのマネージャーですよ」
「はは、ありがとう。じゃあ、午後の訓練もよろしくな」
「はい、喜んで」
亮は水筒に残った水を一気飲みし、タオルを使用済みのバスケットに投げ入れると、部活棟へ行き、陸上部の更衣室で制服に着替えた。
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