第14話
航海日誌
1905年5月10日
快晴
インドリア海域を出、サンシル海へと舵を切ってから10日が経過した。
本艦隊は、いよいよ決戦の海域へと近づきつつある。
水兵たちの士気は蒼穹を突くが如く、艦隊は猛々しく煙を上げながらサンシル海を進撃している。
我が艦隊は必ず勝利し、祖国に凱旋する。
それ以外に道はない。
第一西部艦隊司令 エリナ・ジェスロンス
鋼の鯨たちが、夜の暗い海を駆ける。
エリナは、その群れを指揮する一等大きな鯨の艦橋甲板に立って双眼鏡を構えていた。
「敵の姿は無しですか。もうすぐウラーグス港の海域ですよ。あと4日もすれば、我々の長い旅も終わりです」
ノーグは、エリナの隣でそう呟く。
無線封鎖と灯火管制がされているためか、あるいは決戦を前にして参謀たちも休んでいるからか、艦隊の中枢を担う旗艦の艦橋甲板も今はほとんど人がいない。
「いや。まだ続くよ。これから我が艦隊は
「えっ、生きて帰るんじゃないんですか?」
ノーグは、驚いたようにそう言った。
「私だって帰りたいさ。だが、艦隊が死ぬのであれば共に死ぬのは司令官たるものの務めだ。水兵たちを死なせておいて、自分だけ生き残るようなことはできないよ」
「ですが、あなたは」
「いいんだ。私は覚悟を決めた。せめて、この覚悟を持ったまま行かせてくれ。それと君は艦を降りろ。はっきり言って足手纏いにしかならない」
エリナの表情は、晴れ晴れとしていた。
「いや、俺はあなたの監視役ですから」
「君にとっては本当に無駄死にになるぞ。どちらにせよ我が艦隊が殲滅されれば君の有無や判断に関わらず第22師団と輸送船団は降伏せざるを得なくなる。誰も生き残った君に責任を問うたりはしない」
「そんなことは関係ないです。俺だって軍人だ。死ぐらい覚悟しているし、責任を問われることを恐れたりしない。流石に怒りますよ」
「これは命令だ。王政側にも確認は取った。貴様ら情報部の人間を海軍と心中させるつもりはないらしい」
エリナは、ノーグに命令書を渡す。
ノーグはそれを受け取ると、震える手でゆっくりと開いた。
近衛師団長のサインが記されたそれには、エリナの監視命令を解くことと、輸送船への乗り換えを命じることが青黒いインクで示されていた。
電報ではない。出港前に出されたものだ。ノーグが死ぬことは初めから許されていない。
「どうして」
「ノーグ君は優しい人間だ。だが、命令には逆らえまい」
「エリナ少将殿、もしかして」
「ああ、思い出したよ。相変わらず君は天邪鬼だな。教えてくれればよかったのに。いや。あの小さな村で君と育った記憶を忘れる私は、ひどい薄情者なのだろう」
ノーグはかすかに俯く。
「子供の頃はよく一緒に遊んだものだな。懐かしいよ」
「‥‥ははは、なんで俺は今更悔しいんでしょうね」
ノーグは自嘲した。今更、そんな後悔がノーグの胸を締め付ける。
「あの戦争の日、国境紛争で村が砲撃される中、君は私に言ったね。絶対に離れるなと。必ず守るからと」
エリナは、嬉しそうな笑顔を見せる。
子供の戯言といえばそれまでだ。だが、あの時のノーグにとっては必死の思いで溢れた言葉だったし、今でもその熱を覚えている。
「そんなことまで、覚えていたんですか」
ノーグは、喉から声を絞り出した。
「ああ。忘れるわけないだろう。あれから10年以上、私たちは離れ離れだった。多分今この瞬間まで、離れ離れだったんだろうね」
「なら最後くらい、あの日の約束を守らせてください」
「いや。それは君の自己満足だよ。私は君に約束を守って欲しいなんて思っていない。ただ、君に生きていてほしい。私は逃げられないけど、君には逃げることができるんだから、せめて君だけは逃げてくれ」
エリナの笑いに、ほのかな寂しさが混ざった。
「エリナ‥‥さん」
「だから頼むよ。この夜闇の中であれば、敵艦に見つかる心配もない。だから、きっとこれが最後の機会だ。輸送船に移動してくれ」
いつの間にか、艦橋甲板で警備をしていた水兵たちがノーグの方へと近づいてきていた。
実力行使も辞さないということか。
「エリナさん」
「何?」
「帰ってきてくださいね」
「‥‥分かったよ。でも、私は君ほど強くないから」
エリナは、一呼吸おいた。
「約束できないな」
ノーグは俯いたまま、水兵と共に艦橋甲板を立ち去る。
エリナは、その後ろ姿を見送った。
最後まで笑顔で。
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