第8話

 航海日誌


 1904年12月25日

 雨


 イグランド連合王国海軍フリゲート2隻が接近、威嚇射撃にて追い返す。

 補給状況の悪化が食料状況に直結しており、水兵たちの不満が非常に高まっている。アフガルア大陸のどこかで補給をする必要があるが、可能な場所がない。

 補給予定だったゲルマニア帝国領カルメ港は、政治的圧力により使用不可となる。

 現状、戦争に関わりのないフランシス共和国領での補給を検討する。

 石炭が不足しており速度が出せない。

 状況が改善しなければ、最悪、海の上で水兵たちに反乱を起こされる。

 何もかもが足りない中、不満だけが溜まっていく最悪の状態だ。

 明るいニュースとしては、不愉快な行動の多かった陸軍士官に対し海軍式の教育を行ったところ、指揮系統を遵守した行動が増加するようになった。

 後は全てが悪い。

 まだムガル洋にすら出ていないというのに、この調子で大丈夫なのだろうか?

 強い不安を感じる。


 第一西部艦隊司令 エリナ・ジェスロンス




 暑い赤道を通り抜けて数週間もすると、空気は随分と冷たくなってくる。


 海の上にはうっすらと霧が漂い、昨日まで降っていた雨で甲板は少し濡れていた。


 そろそろ今年も終わりだ。


「エリナ少将殿、少し働きすぎでは?」


 ノーグは冬用の戦闘服に分厚いトレンチコートを着て、特に防寒対策もせず艦橋甲板で双眼鏡を構えるエリナに声をかけた。


 エリナはノーグを見る。


 灰桜色の髪の間に、疲労に淀んだ翡翠色の瞳がのぞいた。


「いや。この状況下では休んでなどいられない」


 彼女は艦橋甲板を見回した。


 高級将校たちは、皆ほとんどが不眠不休で艦隊指揮にあたっている。


 正面の30センチ連装砲と広い甲板では、水兵たちが明らかな疲労を浮かべつつ、半分眠りながら清掃にあたっていた。


 彼らは、もう限界だろう。


 連日のように接近し挑発行為を行ってくるイグランド連合王国の海軍への対応と、慢性的な食料、水不足。


 それらが、第一西部艦隊の首筋を徐々に締め上げていた。


「最後に寝たのはいつですか?」


「さあな?貴様は覚えているか?」


 最近は四六時中監視なんてことはしていないから全ては見ていないが、ノーグの記憶の範囲では、5日ほど前に執務机に突っ伏して眠っていた気がする。


 それ以降は分からないが、多分寝ていない。


「俺に聞かないでください。そんな状態じゃあ、いざ敵艦に直面した時に衝角攻撃でも開始しそうで怖いです。少し休んだ方がいいですよ」


 衝角攻撃とは、かつての海軍で多用されていた戦法で、艦首に取り付けた衝角で敵艦の腹部を突き刺す戦法だ。


 木造艦時代と装甲艦黎明期には、盛んに行われていたが、艦載砲の発展によって衰退し、現在は慣習的に衝角が残されているだけだ。


「衝角攻撃は至上の攻撃方法だな。貧弱な艦載砲などで戦艦が沈められるものか」


「本当にまずそうですね。完全に頭に疲労が入っている」


 ふらふらと40年前の常識を語り出しているあたり、疲労はもう限界なのだろう。


 補給の目処が立ったフランシス共和国領までは後2週間ほど。


 持つといいのだが。


「うっ」


 エリナがふらつく。


「大丈夫ですか?」


 ノーグは慌てて支えようとして


「触るな」


 エリナの一言に、ノーグは彼女を放置することにした。


 疲れた足ではろくにバランスをとることもできず、エリナはどさっと音を立てて艦橋甲板に倒れる。


 流石に疲労が祟ったか。


「司令!」


「エリナ少将!」


 甲板の参謀たちは、慌てて医務室に連絡を入れた。ただでさえ疲労した参謀たちは、すぐ大騒ぎに包まれる。


 艦橋甲板の警備を担う水兵がエリナに駆け寄り、彼女の体を抱え起こす。


「あーあ」


 エリナが倒れたらパニックが発生することぐらい、ノーグにも分かっていた。


 あの時、ちゃんと支えておくべきだったかもしれないが、自分に何かあったら艦隊の高級将校たちがどうなるのか理解させないと、エリナは自発的に休むことをしなさそうだし、むしろこれはいい機会かもしれない。


「大丈夫だ、まだ仕事が」


 エリナはそう言うと立ちあがろうとしたが、体から力が抜けたらしくがくんと膝をつく。


「医務室でゆっくり休んでください」


 エリナは、そのまま水兵たちに支えられて医務室へと運ばれていった。


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