第9話

「ただいま」そう、力なく言いながら、瞳と三千男が半同棲しているアパートに、瞳はふらふらと帰って来た。既に深夜を過ぎていた。

「おかえり。遅かったな」そう言って、三千男は玄関の方を振り向いた。すると、そこには服と髪が乱れ、顔や腕が傷と汚れにまみれた瞳の姿があった。

「どうしたんだよ!」

 泣き崩れる瞳。

「泣いてちゃ分かんねーだろ。理由を言えよ! 誰にやられたんだよ!」

「……レイプされた」やっと、小さな声で言った。

「……誰に?」

「アメリカ兵、……二人」それを聞いて、三千男は蒼ざめた。

 そして、今までの勢いが急速になくなっていった。

「ええ……」

 泣き続ける瞳。三千男は無言のままで、かける言葉が見つからなかった。


 それからも、瞳はずっと泣いていた。何かを思いついたように、やっと三千男が瞳に声をかけた。

「な、なあ、瞳。……俺の実家がさあ、温泉宿やってるんだけどさあ、……その、け、結婚して、二人でそこで暮らさないか?」

 瞳は、相変わらすしくしく泣いていたが、それを聞くと、泣きはらした赤い眼で、キッと三千男を睨み付けた。

「都会からも遠いしさ、危ない目に会うこともないよ」

 三千男はそう言ったが、瞳の表情は段々と怒りを帯びてきた。そして、彼女は言い放った。

「もういい! 出て行って!」

「はっ?」

「私があんたに期待したのは、そんな答えじゃなかったのに」

「ちょ、ちょっと、何言ってんだ?」

「私は、あんたに立ち上がって欲しかったのよ。私のために、立ち上がって、いっしょに闘ってほしかったのに……」そうして、瞳はまた泣き始めた。

「えっ、えっ、一体俺の何がいけないんだよ……。俺が悪いんなら謝るよ。でも、俺の何がいけないのかが分からない。俺に対して泣いてるのか? レイプした米兵に対して悔しくて泣いてるのか? 何に対して泣いてるんだよ」

「私のこの涙は誰のためでもないわ。私は自分自身に対して悔しくて泣いてるの。あんたみたいな男を選んでしまった自分が情けなくてしょうがないのよ」

 これを聞いて、あたふたとする三千男。何も言えない。

「もういい。別れましょ。出て行って」

 立ちつくしている三千男。

「早く出てけー!」泣きじゃくりながら瞳は叫んだ。


 大阪。NPO法人・日本人の人権を考える会の事務局。そこへ瞳が入って来た。

「あれっ、瞳」美姫が声をかけた。

「私も仲間に入れてください」そう、瞳が言った。

「一体どうしたのよ、急に! あー、もちろん歓迎する。嬉しいわ。でも、何かわけがありそうね」美姫が言った。

「……私、レイプされたの。アメリカ兵二人に。そして、三千男とは別れてきた。彼とはもう同じ場所に立てない」そして、その場所で再び瞳は泣いた。

 一同は絶句していた。

「大丈夫ですか……? 斎藤さん」最初に声をかけたのは、東京から命からがら大阪に戻って来たばかりの彩子だった。

「あ、あなた、確か名村さんでしたよね。東京に旦那さんが出張されてて……。無事に戻って来れたんですね。そちらこそ、大丈夫だったんですか?」瞳が聞いた。

「夫は、先の東京の事件で亡くしました。出張中の夫は、銀座の事件で御神乱に食われていました。やっと、先日東京から帰って来たばかりです」

「そうだったんですか……。あ、あの……、何て声をかけて良いの分からないですけど……、あの、気の毒過ぎて……」泣きだす瞳。そしてそれに近寄りお互いに肩を抱き合う彩子。

「あ、あのね、瞳。それと、……メンバーじゃないんだけどね。ウイグル人のクルム・モハメドさん」そう、美姫が紹介した。

「どうも、クルムです」

「えっ、クルムさんて、……あの講演会のときの?」

「そうよ、驚いたでしょ。クルムさんね、アメリカによる再占領下で海外への空路も航路も全部ストップしちゃったでしょう。それで、アメリカに帰れなくなってるのよ」

「えっ、だって、クルムさんはアメリカ国籍なんじゃ……」

「そうなのよ。アメリカは、外交官レベルの公人は空母に乗せて引き上げさせてるんだけど、留学生や旅行者については、ほったらかしてるの。しかも、未だに渡航許可が下りないのよ。一体どうなってんだか!」憤りを隠せない様子の美姫。

「アメリカは自由の国。民主主義の国。多民族国家の移民の国。だけど、今回のアメリカの処置には、少し失望しています」そう、クルムは言った。


「キャー。キャー」女性たちの悲鳴が聞こえていた。

 ここは大阪の繁華街、道頓堀。若い人たちが逃げている。アメリカの軍用車が暴走しているのだ。最近の米兵は、繁華街でやりたい放題になっていた。

 そして、とうとうひき逃げ事故が起きた。軍用車に若い女性がはねられた。宙を舞い道頓堀に浮かぶ女性の身体。

「おい、車のナンバー覚えたか」「通報せー」「現行犯で捕まえない限り、罪に問えへんからな」男たちが叫んでいる。パトカーがかけつけたときには、既に軍用車は逃走しており、その後軍の施設に帰って行った。

「もう、最近はこんなことばっか。沖縄って、昔からこうだったんやろか」ある女性がつぶやいた。

「アメリカ軍とのトラブルを集約している専用ダイヤルがあるらしいわよ。さっきそこのアーケードでチラシ配ってたの。これを」そう言って、友人らしい隣の女性がビラを見せてくれた。

 そこには、こう書いてあった。

「アメリカ占領軍による被害はこちらへ。泣き寝入りしない、させない、許さない。私たちが窓口になります。現状を集約して暫定政府に訴えます。専用ダイヤルは0120ー○○○○ー○○○○、NPO法人『日本人の人権を考える会』」


「どうして採用しくれないんですか!」三〇代後半くらいの男性が某会社の応接室で声を荒げていた。

「もう他の人達に採用が決まりましてな。それに、今、大阪の求人はほとんど無いし、働き手の方が大幅に余っている状態でっしゃろ?」

「しかし、私はこの業界は長いし、スキルだって高いはずだ!」

「だって、あなたは住所不定状態になってはるし……。これじゃあ、うちかて採用できひんよ」

「住宅難なんです。東京からの難民に貸してくれるアパートが不足してるんですよ」

「しょうがありませんな。お引き取り下さい」


 大阪市内のある小学校の職員室での会話。

「また転校生でっか! 東京から?」「でも、もう机も椅子も、なーんもあらしませんよ。教科書とかの請求だって大変やし……」


 また、ある別の小学校の教室での子供たちの会話。

「あんた、東京から来たんやろ? うちらのクラスではな、東京弁使うたらあかんからな!」

「そや。喋れへんかったら、うち帰って、大阪弁勉強してからきいや」


 ある会社のオフィスでは、東京から来た社員に対し、課長が小言を言っていた。

「君なあ! かかってきた電話は鳴るか鳴らんくらいの速さで取らんかい! 時は金なり。タイムイズマネーや。それからなあ、先方に出向くときには、最低でも五分くらい前に到着しとくのが関西の礼儀や。東京では違ってたかもしれんがな。東京の人間は動きが遅い!」


 また、別の会社での会話。

「おーい! このチラシのデザインやったの、誰や!」部長が怒っている。

「君かいな。これなあ、余白部分が多すぎる! 白い部分に金は出さんからな」

「いや、この方がおしゃれかと思いまして……」

「だめや、だめや! もっとこう、派手で目を引くようなもんにせんとあかん。東京風の気取ったデザインは、関西では受けへんのやで」

「あー、はい。……分かりました」

 そう言うと、男はチラシを持って自分のデスクへ戻って行った。その後ろ姿に向かって、部長は小声でつぶやいた。

「ちっ、東京もんが……。難民のくせして」


 大阪府庁内に設けられた日本国暫定政府の部屋。その部屋の主となっているのは、今や日本を牛耳っているルー・ハミルトン最高司令官だ。彼は、アメリカがよこした派兵司令官だった。そして、いつも傍らの机に陣取って仕事をしているのは、通訳のジョン・浜村。日系人だ。

「ピンポン」と来客を知らせる音がした。

「誰だ?」ハミルトンがマイクで聞いた。

「松倉栄次郎暫定総理がお見えです」インターホンの声が応えた。

「入れ」

 ドアが開いて、松倉が入って来た。

「どうした?」ハミルトンが言った。

「はい、ここのところ、日本国内、特に市街地での米軍による暴行やレイプなどが増えておりまして……」松倉は、おそるおそる用件を切り出した。

「……で?」

「はい、逮捕しようにも、日米地位協定があるため、現行犯でない限りは逮捕できません」

「お前たちの警察が来るのがのろいからだ。もっと早く現場に来れば済むことだろう」

「はい、しかしながら……」

「……一体、何が言いたいんだ? 我々に何を要求したいんだ?」

「このままだと、住民の不満や怒りが大きくなり、いずれは大きな動きにつながりかねないかと……」

「大きな動きとは?」

「……まあ、例えば、デモとか暴動とかですが」

「それを取り締まるのは、お前たちの仕事だろうが」言い放つハミルトンだった。


 ハミルトンのいる司令官室から出て来た二人。鹿島が松倉に対して言った。

「松倉さん、彼らはああ言いますが、国民の為にも、我々だけでも、何か手を打たないとまずいんじゃないでしょうか?」

「アメリカに刃向かって、米兵を取り締まれと言うのか?」

「はい、結果的には、そういった手段をこうじることもありうるかと……」

「いや! だめだ、だめだ。今そんなことをしたら、我々の立場が無くなるぞ」

「しかし、このままだと米軍による国民への被害が増すだけです。逆に、我々に対する国民の不信感が募りますよ。ひいては、政権崩壊にさえ結びつくかも」

「いや、ここは我々がアメリカを怒らせないようにしておくべきだ。そうでないと、場合によっては、一気にアメリカに日本を併合されてしまうなんてこともあるかもしれないからな」

「松倉さん!」鹿島は憤懣やるかたないという表情で言った。

「何だ?」

「あなたは、いつもそうやって及び腰だ。一体いつまで、そんな人の気をうかがうような態度で生きていくつもりですか? あなたは、いつだって忖度の人生だ。このままアメリカの言う通りのことを遂行しているだけだと、ナチスドイツのアイヒマンみたいになりますよ」

「どうした? 急に。忖度ではなく、俺は気づかいの男だ。これまで、私はずっとそれを美徳として生きてきたし、これからもそうやって生きていくんだ。私はそうやって今の地位を得た。だから、これは正しい生き方なのだと思うよ」

「それで、毎日のように殴られたり、死んだり、レイプされたりしている国民には、目をつぶっていろとおっしゃるんですか!」鹿島の怒りは増長していた。

「……いや、そうは言っとらんよ。だけどな……、鹿島くん……」わなわなと応える松倉。

「……いや、もう結構です」

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