第5話

 和磨は、いつものように康煕の家庭教師を行っていた。

「ベトナムは、中国と同じ社会主義国家だ。まあ、中国は共産党独裁によって政治を運営しているので社会主義となってるんだが、現実的には、もはや社会主義じゃないだろうな。現在、社会主義体制の国家は、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮だよね。それから、ラオス、ベトナム、それから中米のキューバと、まあ、主なところはこのくらいかな。あとの国は、基本的に資本主義国家だ」

 そう言うと、康煕はこう言った。

「なんだよ! 社会主義もっと頑張れよ」

「康煕君は、資本主義が嫌いなのか?」

「ああ、もちろんだだよ。社会主義は中国の味方だもん」

「じゃあ、社会主義、共産主義の意味は、どういうものか知ってるのか?」

「いいや。でも、中国がやってることだもん。絶対に良いことに決まってる」

「そうか……」

「じゃあ、ベトナムについて、話を続けるよ」「ベトナムは昔、一九五〇年代から七〇年代にかけて、二十年間も南北に分かれて戦争をしていたんだ。ベトナム戦争という。資本主義国家を目指す南ベトナムはアメリカ合衆国、社会主義国家の樹立を目指していた北ベトナムはソ連の支援を受けていたんで、実質、米ソを始めとする資本主義陣営と社会主義陣営の代理戦争になったんだ。一九五五年から一九七五年までかかった」

「どっちが勝ったの?」

「北ベトナム。社会主義陣営の方だ。だから、今でもベトナムは、社会主義国家だ」

「アメリカが負けたんだ。ざまーみろだ」康煕は、吐き捨てるようにそう言った。

「……」

「君は、アメリカのことが嫌いなのか?」

「もちろんさ」

「どうして嫌いなのかな。」

「どうしてって……、アメリカは中国の敵国でしょ。悪いことをしてきた国でしょ。上海のおばあさんが言ってた」

「そうか……」

「あのさあ、日本だってアメリカに原爆を二発落とされて負けたわけでしょ。それで、しばらくはアメリカに占領されたわけでしょ。日本もアメリカに占領されてアメリカを恨んでるでしょ?」

「いいや。日本はどちらかと言えば、戦後はずっとアメリカが好きな国だな。いや、つい最近までは、確かに好きだった。しかし、今のアメリカの日本に対する」

「ええー! 何でだよー!」

「だって、アメリカによって日本は民主主義の国になれた。日本は自由な国になれたわけだしな。アメリカには、感謝こそすれ、恨んでなんかないさ」

「……」


 大阪市に住んでいる中学一年生の安村里穂もまた、和磨が家庭教師で教えている生徒だ。

「ねえ、なぜ、アメリカを嫌っている国があるの?」里穂が和磨に尋ねた。

「里穂は、アメリカは好きな国か?」

「もちろんよ。自由な国、世界で最も豊かな国、あこがれないはずがないわ」

「そうだな。アメリカは西側陣営諸国のリーダー的存在だ。そして、もともと西側を嫌っている国々というのは、西側列強諸国の植民地として支配されていた国々。例えば、中国、インドなど。これらの国は、西洋諸国に良いように支配された。」

「ああ、そうか。ねえ、どうして日本はアメリカと戦争なんかする羽目になったの?」

「それは愛国精神の怖いところだ。もともとは国民がそれを望んでいなくとも、愛国者とか独裁者を民主的なシステムで選んでリーダーにしたが最後、国民は彼のカリスマ性に溺れていくようになるんだ」

「じゃあ、そんな人間を選ばないことが大事なのね」

「ああ、その通りだ。それでも、人間は彼の言葉巧みな言説に騙されてしまう」


 瞳は、谷町四丁目の喫茶店でお茶をしていた。

「この前は、ごめんね。うちの男連中、うっとうしかったでしょ? 何かというと、すぐに上から目線で蘊蓄をひけらかすし……」美姫が言った。

「ううん。楽しかったわ。美姫は、和磨さんが嫌いなの?」

「いや、そんなことはないけどね。まあ、昔から、ちょっとムカつくタイプかな」

「じゃあ、美姫は、どうしてあのNPO法人に出入りしてるの?」

「和磨さんはね、私の中学から高校時代に家庭教師で家に来てた人だったの」

「そうだったの」

「政治経済、歴史、哲学、文学、数学、科学、美術、音楽、その他の芸術、とにかく、その話題で一冊本が書けるほどの、とんでもない知識の持ち主で、私の疑問に何でも答える人だったわ。ていうか、何か質問や悩みを持ち掛けただけなのに、すぐに自分の方に話題を持って行くタイプの嫌なタイプね。でも、彼自身に悪気はなく、お題を振られただけだと思ってる。たまに、知ったかぶりが鼻につくこともあったわ」

「へーっ!」

「私は、最初は護憲・反戦・反核だったの。一般的にリベラルと呼ばれている人たちの一人ね。学校で平和教育学習とか人権教育とかやってても、それに対して、学校でやってるのは表層的なことだとか、何だかんだ言って、批判してたわ。それで、私もあの人に対して、人権や平和はは大切なものだとか、戦争はダメだとか反発してたの。ところが、あの人、それについて、いちいち論破してきた。もう、悔しくて、悔しくて! いつの日か、この人を逆に論破して、鼻をあかしてやりたいと考えるようになったのよ。ところが、大学に入学したら、和磨さんの方から連絡が来て、NPO法人を立ち上げるから、手伝って欲しいって言われて、今に至るってわけ。でも、まだまだ彼を追い越せてないわね。悔しいけど」

「そうだったのね」「ところで、この前、あのNPOが、人権擁護団体ではあるけれども、必ずしも反戦・反核・護憲ではないと言ってたけど……、あれって、どういうこと?」

「そうよね、今言ったように、私も和磨さんに出会う前までは、護憲派の考えだったの」

「そうなの」

「日本では、反戦・反核・軍縮・護憲を唱える人たちは、同時に平和・人権・ジェンダー問題・LGBTを唱えている。それは、あたかも、軍隊を持たないことは平和であり、それが人権擁護とイコールになるという論理の飛躍によるものね」

「はあ……」

「これに対して、防衛・国防を主張する人達の多くはナショナリストである場合が多く、もれなく愛国主義や、場合によっては軍国主義の考えが付属して付いてくる」

「まあ、そうね。日本人て、何でも二元論の型にはめたがりますよね」

「そうなのよね。……では、防衛戦争の反対は平和・人権なの? 反戦・反核は、必ず平和をもらたすの? 非武装中立は、必ず人権を守ってくれるの? 侵略戦争によって人権が凌辱されても、そう言いきれるの? ウクライナ戦争を見ても、それはありえないわ。私たちは、防衛・国防も大事だと考えてる。でも、それは国民の人権を守るためなの。もしかして、国民の多くは、国防は大切だと考えているが、愛国主義はごめんだと思っているのかもしれない。ここにジレンマがあるんじゃないかしら。私たちは、愛国主義や軍国主義はとらない。統一や排除ではなく、多様性との共存を目指してるの。そして、もちろん、ジェンダー問題やLGBT問題も大事だと考えてるの」「防衛は大切。でも、愛国主義ではない。人権やジェンダーやLGBTは改善しなくてはならない。今、この国に、この方向性を唱えている団体は存在しない。でも、私たちは、意外に、この辺にサイレントマジョリティーがいるのだと考えてる。マジョリティーに合致する政党が無い事が、投票率の低下につながっているのかもしれない」

「美姫達の考えがよく分かったわ」瞳が言った。

「でも、和磨さんの一方的な講義だけは、勘弁して欲しいわ」


 数日後、国会議事堂が崩壊し、多くの国会議員が亡くなった。無政府状態になった日本。朝から大勢の人たちが避難に追われていた。新幹線と飛行場はもちろんのこと、JR、私鉄、地下鉄はいずれも大きな荷物を抱えた老若男女で満員状態になっており、朝から駅への入場制限が敷かれていた。バスもなかなか来なかった。バス停は、どこも長蛇の列ができていたし、幹線道路と高速道路は車で動かなくなっていた。幹線道路と高速は、入場禁止であるはずだったが、ほぼ無政府状態になりつつある東京では、皆それを無視して立ち入っていたのである。

「何立ってんだ! 入れろー!」「早く出せー!」「全くもう! 遅いのよ!」なかなかスムーズに動かない交通機関にいらだった群衆は、どこででも罵声と怒号を上げていた。東京の機能は失われつつあった。

 それとともに、都民の良心もまた失われはじめていた。巨大化した御神乱による東京東部の破壊が始まり、あちこちで火の手が上がり始めた。逃げ惑う人々。その光景を目の当たりにすることによって、人々はさらにパニックに陥っていったのである。各地で暴動がおこり、人のいなくなったコンビニや商店が襲撃されたり、放火されたりしていた。あちこちで起き始めた都内の火災は、御神乱によるものだけではなかったのである。そして、これらの光景を見下すかのように、多くの報道各社のヘリコプターが東京の上空を舞っていた。それは、あたかも腐りかけていく食べ物にたかるハエの様だった。

 そんな中、彩子は夫の遺骨を胸に抱えながら、大阪に向かう長距離バスに乗っていた。前日、まだ国会議事堂が崩落する事件の前に切符を買って乗っていたのだ。既に御殿場を超えたところまで来ていたのだが、渋滞は激しくなるばかりで、このあたりから、バスは遅々として進まなくなっていた。


 その日の夜、議事堂が壊滅した。

和磨は、急遽彩子に連絡を取ったが、既に携帯はつながらなくなっていた。


 アメリカのホワイトハウスに東京の一報が入った。

「大変です! 日本時間の昨夜零時前頃、御神乱により首相官邸および国会議事堂が破壊され、多くの議員が死亡した模様。矢島首相や多くの閣僚も亡くなっているとの情報です。現在、日本は無政府状態にあるとのことです」大統領補佐官が執務室に電話をかけてきた。

「何だと!」サンダース大統領が驚いた。

「詳しい情報は、駐日アメリカ大使館から収集中ですが、大使や駐在員たちも東京から避難せざるをえない状況になっておりまして……」

「とにかく、在日の大使館員たちは厚木や横須賀に避難させろ。そして、場合によっては、そのままアメリカへ帰還だ。基地から救出ヘリを出せ」

「現地にいる旅行者や留学生はどうします?」

「それは後回しだ。公人を優先しろ」

「日本政府への対応は、どうしますか? 暫定的に副総理が指揮をとっているようなのですが……」

「そうだな……。少し様子を見る。しかし、第七艦隊は東京湾周辺に集結させておけ、それから、東シナ海とオホーツク海にも注意しておけよ。中国やロシアに日本を好きにさせるな」

「了解しました」

 電話を切った後、サンダースはつぶやいた。

「これは、うまくやれば、アメリカにとって利益になるな」

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