第4話

 大阪市に住んでいる中学二年生の町田康煕は、和磨が家庭教師で教えている生徒の一人だ。和磨は国数社理英のどれも教えることができたが、その日の夜は理科のプレートテクトニクスを教えていた。

「北太平洋側のプレートは、ユーラシアプレート押し続けているから、二億年もすると、日本列島は再び大陸にくっついて、大陸の一部になるという説があるんだ」

 和磨がそう説明すると、康煕は、突然喜々として叫んだ。

「やったー! 日本が中国の一部になる。あいつら、ざまーみろ、中国のことバカにして。先生、この話、もっと詳しく聞かせてよ」

「ちょっと待ってくれ。日本が中国にくっつくと、どうして日本は中国になるんだい? 中国にくっついている国が、みんな中国になっているわけではないよね」

「え、だって、中国大陸にくっつくわけだから……」

「でも、今の中国の隣にあってくっついている国、例えば、モンゴルとかベトナムとかは中国じゃないよな」

 すると、康煕は急に黙りこくって、和磨を睨み始めた。


 帰りしな、和磨は母親から息子のことについて聞かされた。

「あの子は、中国と日本のハーフなんです。私は上海の出身なんですが、夫が会社の仕事で中国に赴任中に知り合い、結婚しました」

「ああ、そうだったんですか。どうりで……」

「やっぱり、息子は中国びいきの発言をしてるのでしょうか?」

「ええ、……まあ」

「あの子は、小学生のときはずっと、上海の日本人学校にいたんです。中学校に上がるときに日本にやって来て。そこで結構ないじめを受けてきたみたいで……」

「中国人だからということでですか?」

「それもあると思いますが、それよりも日本語が不慣れで、コミュニケーションがとりづらいことが大きいのだと思います。中国の方が良かった。中国の人の方が優しい。中国に帰りたいと言っています」

「日本人学校は、日本の文部科学省の管轄で、教える内容も教科書も日本のままのはずです。違うのは、北京語の授業があるくらいで……」

「そうなんです。学校の登下校も送迎バスでしたから、息子は、本当は中国のことは良く知りはしないのです。ただ、あのときの環境が自分にとって生きやすかったというだけなんですが……」「ただ、上海にいたとき、私の両親が、日本の悪口を息子に吹き込んでいたみたいで……」

「なるほど……」

「それで、学校でも、日本の悪口を言ったり、中国を褒めたりするような発言をして、友達とうまくいってないんです」

「そうでしたか……。なかなかやっかいな問題ですね。お母様は、康煕君に対して、中国についてどうお話をされているのですか? ウイグルについてとかも……」

「私は何も……。良いも悪いも……」自身の中国に対する意見を求められると口ごもる母親だった。「ウイグルのことは、よく分かりません。私、政治の専門じゃないので……」

「……なるほど。そうでしょうね。分かりました」


 その日、アメリカ大統領のジョン・サンダースは、ホワイトハウスの執務室にいた。

「大統領報道官! 最新の世論調査の結果はどうなんだ? 間もなく大統領選挙の選挙活動期間に入るんだからな」サンダースが報道官に聞いた。

「今回は、あまり芳しくありませんね。四ポイントでゲイル候補に負けています」報道官が答えた。

「四ポイントだったら、まだ巻き返しができるな。それに、我が国の大統領選は、得票数で勝ったからといって勝利できるわけではないしな。選挙人さえ多く抑えればよいわけだからな。前回もそうだったしな」

「それはそうなんですが、今回は、我が党の支持層にも政策に対する批判がありまして、移民の排除問題とか、ご自身の女性暴力問題とか……」

「けしからんやつらだ! 俺がどれだけ経済効果を上げてやってると思ってるんだ。失業率だって、俺の期間中には、随分減ってるじゃないか」

「はあ、まあ、そうなんですが……」

 報道官が執務室を出て行った後、一人になったサンダース大統領の機嫌はなかなか直らなかった。彼は、執務室にある大型のテレビをつけた。すると、ニュースが日本で起きた秋葉原の事件を大きく流していた。


 名村彩子は東京築地の小学校体育館にいた。そして、彼女はそこで遺体の確認を行っていたのだ。夫の遺体との対面は、新婚の彩子にとって受け入れがたい現実であった。白い布で覆われて横たえられた遺体。ほぼ下半身は食いちぎられており、顔も半分ほど損失していた。呆然とする彩子。やがて、彼女の眼からは涙がこぼれ落ち、遺体の横に泣き崩れた。

「奥さん、現在、東京はとても危険な状態です。今日も、今度は秋葉原で同じような事件があったばかりで、避難指令が出ている地域もあります。ご遺体は大至急火葬しますので、なるべく早く、御遺骨を持って東京を離れてください」担当の警察関係者らしい男が彩子に近づいてきて言ったが、彩子は泣きじゃくるだけだった。


 その日、瞳が自分のアパートに帰宅すると、そこには三千男がいた。しかも、今日は友達を連れて来ていた。勝手に二人でソファに座っていた。「勝手に他人を自分の部屋に連れてくるなんて、いくら恋人とは言え失礼な男だ」そう、瞳は思ったが、それを口に出すことはしなかった。

「俺の先輩の山中だ」三千男が言った。

「山中です」

「あ、どうも。…で、何かご用でもあってここに?」

「このあいだの件でな……」

「このあいだ?」

「ウイグルが大切だってこと」

「ああ、それが何か?」

「私の意見を言わせてもらうとですね……」唐突に友人という男がしゃべりだした。「政治っていうのは、政治家に任せていれば良いと思うんですよね。彼らは、政治の専門家ですしね、我々素人が色々と意見を言ったって、専門家にかなうわけがないじゃないですか」

 ははーん。この前、自分に言い負かされたのが悔しくって、この先輩とやらを連れて来たんだな。そう、瞳は思った。

「だいたい、専門家に任せておけば、我々大衆は楽ですから」山中はそう言った。隣では、三千男がうなずいている。

「そうは思いません。我々市民がチェックをしていないと、彼らは、もしかすると独裁政治、専制政治の道を選ぶかもしれないじゃないですか」瞳は反論した。

「そうかもしれませんが、それは私たちが投票した人物ですし、安心と言えるんじゃないですか?」

「あのですねー! ナポレオンもヒットラーも、それにプーチンだって、一応は民主的な手続きによって選ばれているんです。それでも、独裁者になっていったんです。日本は民主主義の国です。私たちは、それを選んだんです。そして、民主主義というものは、楽なものではないんですよ」

「民衆が政治に参加すると言ったって、見てごらんなさい。民衆が政治になんか参加するから、今の政治家なんて芸能人とかばかりで、はたしてあんな人達に任せて良いのか心配になりますよ」

「それを選んだ人に文句を言って下さい。選挙に出るのも自由。誰に入れるかも自由です。ただし、そこには選ぶ責任を伴うんです。それとも、あなたは、そもそも選挙に行ってない? いや、そもそも政治に興味が無い?」

「それなら言わせてもらうけどな。西洋発祥の議員の公選制による民主主義自体にも問題があるんだからな」山中が反論してきた。

「はあー? 選挙による議員の公選制の一体何に問題があると言うんです?」」

「考えてみろよな。地元から選ばれた国会議員は、地元の人間から選ばれる。だから、結果として国全体の利益よりも、地元の人間の喜ぶようなことしかしたがらなくなる。地元の人間が東京の地元出身議員に陳情にやって来ては、地元に有利になるような政策をしてくれとお願いをする。議員として、地元の人間に好意的に思われないと、次回の選挙で落選するかもしれないから地元の要望を優先するんだ。これは事実だ。結果、田中角栄のような人間が出てくる。地方の高速道路はガラガラだし、地方の新幹線もガラガラ。利用客の少ない訳の分からないような田舎に立派な駅舎ができたりするんだぞ」

「なるほど! そうですよね、先輩」三千男が言った。

 これに気を良くした山中がさらに続ける。

「それに比べると、徳川吉宗の享保の改革のときに考案された目安箱は素晴らしいぞ。これは、自分だけの利益のためとか、特定の人間の利益になることは書いてはいけないことになっていた。みんなの困っていること、みんなの利益になる意見しか書いてはいけなかったんだ。しかも、目安箱は毎日夕方になると回収され、この箱の鍵は将軍しか持っていず、他の者は一切開けて見てはいけなかったんだ。だから、途中で誰かが開けて抜き取ることはできなかったんだ。ある種、現在の民主主義よりも優れていると思いませんか? 優れているからこそ、明治六年まで続けられたんだぞ」

「……」

「ところが、議員選挙が始まると、贈賄と収賄が始まった。票を集めるためにできもしないことを公約にしたり、金品を有権者に送り届けたりすることなどが始まった。そして、当選すれば、あとは知らん顔だ。これじゃあ、政治家としての資質とか人間としての人徳とかは関係無くなってしまう。だったら、我々なんかの政治の素人ではなく、最初から人徳のある為政者に任せた方が良いんじゃないですか? 目安箱みたいにね。これについては、いかがお考えですかな?」

「おっしゃることは、いかにも正論に思えますし、一部否定できない部分もありますが……。そこには致命的な問題点があります」

「何だって!」

「あなたの論理は、為政者は人徳のある人間である、もしくは、人徳のある人間であるべきだという前提で展開されています。しかし、実際には、為政者がいつも人徳のある人間とは限らないではないですか。では、どうすればよいのですかね? 私たちが人格者とか政治家としてふさわしい人間を選ぶというシステムによってしか、これは解決しないのでは? 確かに私利私欲のため、権力欲や支配欲の為だけに立候補する人間だって後を絶ちません。でも、それは候補者だけの問題ではなく、有権者側にだって問題があるからでしょう? じゃあ、どうすれば良いのですか? 私たちが政治に対して無関心になったり依存したりすることなく、もっと政治の知識を身に着けなくちゃならないわけでしょう? だから、こうやって……」

「井村、もういいわ。こいつ手強いわ。俺帰る。お前、よくこんな女と付き合ってるな」山中は、そう吐き捨てるように言うと、ソファから立ち上がって部屋を出て行こうとした。

「え! ちょ、ちょっと待ってください」それを止めようとする三千男。

しかし、山中は部屋を出て行った。

「あんた、もしかして、自分一人じゃ私の意見に負けるから、弁の立つ先輩を連れて来たってこと? サイテーね!」瞳が三千男に言った。

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