2.ネモフィラ
二階のリビングに戻ると、碧さんはダイニングテーブルでパソコンの画面を見つめていた。「よっ」と手を挙げて手招きをされ、言われるがまま向かい合わせの席に座ると、グッとテーブルに身を乗り出す。
「で、どうなった?ここに住むの?」
「はい、そうします。」
「ふふ、良かった良かった。海月はいつもあんな感じでフワフワしてるし、いろんな人とも出会えるから楽しいよ。」
なるべく出会いたくない、なんて彼の前では言えなかった。どうせみんな、いつかは俺に呆れて離れていくんだ。
「そういえば、他にもここに住んでいる方はいるんですか?」
「うん、あと二人住んでる。だけどあんまり姿を見たことはないかな。あ、でもたまに、夜中に一階のカフェに現れるらしいよ。」
俺が海月さんに助けられた日の夜、カフェのカウンターに男性が二人座っていた。もしかしたら、ここの住人なのだろうか。碧さんに確認したいけど、身なりや特徴など何も覚えていないため聞くことができない。
「僕は基本リビングにいるから、何かあったらいつでも聞いて。そうだ、なんか飲む?コーヒーでもジュースでも自由に飲んでいいよ。お菓子もどんどん食べちゃって。」
昨日まで生き抜くための食料を探し求めることで精一杯だったため、好きなだけ飲んだり食べたりできることに新鮮な驚きを覚える。冷蔵庫から缶に入ったオレンジジュースを一本取り出してテーブルに戻ると、碧さんのスマホがピロンと鳴る。職を失ってから曜日感覚が薄れていたが、ホーム画面に浮かび上がった「金曜日」という文字を見て今日が平日だったことを思い出す。
「あの、碧さんは在宅で仕事をしているんですか?」
「そうそう。僕、フリーランスなんだよね。カフェやレストランから内装デザインの依頼を受けてて、ここのカフェとシェアハウスも僕が担当させてもらった。」
ここに来てから外に出ていないため、外観を見たことは無いが、恐らく二階建ての一軒家のようだ。築年数が古そうな割に小綺麗なのは、碧さんのおかげなのだろう。
「それで、ここに住むことに?」
「当たり!仕事で初めて来たけど、下町って感じで素敵なところだよね。ずっとこの辺りに住んでるの?」
「生まれた時からずっとここです。古臭いし、ごちゃごちゃしてますよね。もっと綺麗なところに住みたいんですけど、家賃が高くて俺には無理みたいです。」
変わり映えのしないこの町に、気付けば二十六年も住んでいる。バイトを辞める度に行きづらい店が増え、生活範囲が狭くなる。会いたくない人が増え、怯えながら町を歩く。いつしか俺は古びたワンルームに引き篭もるようになった。
「じゃあさ、明日一緒に散歩しない?紹介したい場所がたくさんあるんだよね。」
見慣れたこの町を今更散歩したところで意味はないと思ったが、海月さんが言っていた"良いこと"を一つでも増やした方がいい気がして承諾してしまった。
次の日の朝、碧さんに教わりながらコーヒーマシンに豆を入れ、芳ばしい香りに包まれながら食パンを二枚トースターに入れる。
「そういえば自己紹介してなかったね。麗央さん、だよね?海月から聞いちゃった。改めてよろしくね。」
「よろしくお願いします。碧さん、俺も海月さんからお名前聞いちゃいました。」
「なんだ、じゃあ自己紹介要らなかったね。
食べ終わったら早速行くか!」
朝日に照らされたリビングで二人で朝食を食べる。海月さんに借りたコートを羽織って外に出ると、ドアの近くに看板が立てかけてあった。黒板に手書きでメニューやイラストが描かれており、海月さんの器用さが伝わってくる。
「ここ、ヒラソルカフェっていうんですね。」
「そうだ、カフェの名前教えてなかったね。スペイン語で『ひまわり』っていう意味らしいよ。海月にぴったりだよね。」
俺は、向日葵のように明るく自信に満ち溢れた海月さんの姿を見て、ここに住むことを決めた。自分には無いものを持ち合わせていて羨ましくなったからだ。
「あの、今日はどこに行くんですか?」
「特には決まってないかな。」
「でも碧さん、『紹介したい場所がたくさんある』って話してたじゃないですか。」
「確かにあるんだけど、僕は街全体を紹介したいんだよね。麗央さんにとっては当たり前の風景かもしれないけど、僕にとっては全てが新鮮で歩いていて楽しい。ほら、例えばここ。」
碧さんの目線の先に映るのは、小さな駄菓子屋だ。小学生の頃、店主のおばあちゃんと話すことが大好きだったが、もう十何年も足を踏み入れていない。そんなお店に躊躇いなく入っていく碧さんを呼び止めようとしたものの、店内にいたおばあちゃんと目が合ってしまい、引き返せない状況になってしまった。
「あらいらっしゃい。もしかして麗央くん?大きくなったわねぇ。」
「え、覚えててくれたの?」
「もちろんよ。毎週のように来てくれてたじゃない。まだこの辺りに住んでるの?」
「うん。この人と一緒にシェアハウスに住んでて…。」
お金がなくてタダで住まわせてもらってるなんて、口が裂けても言えない。
「あら、一緒に住んでくれてるなら安心ね。元気そうで何よりだわ。」
「…ありがと。」
「まあ、麗央くんが生きてくれてるだけで私は幸せだけどね。」
「生きてるだけで?」
「そうよ。私なんてもうすぐお迎えが来ちゃうんだから。」
ケラケラと笑うおばあちゃんを見ていると、幼い頃の純粋な気持ちが蘇ってきて、心が少し軽くなった気がした。碧さんにチョコレートをひとつ買ってもらい、おばあちゃんに手を振って店をあとにする。
「素敵なおばあちゃんだったね。」
「はい。俺が小学生一年生の時に両親が離婚して、母親は夜遅くまでパートで働くようになったんです。家に一人でいるのが寂しくて、よくここに通ってました。」
「じゃあ、第二の家みたいな感じだったんだね。久々におばあちゃんに会えて良かったね。こういうお店って最近減ってきてるけど、この辺りはまだまだ残ってる気がするんだよね。それだけ街の人に愛されてるって事だよね。」
昔から何も変わらない退屈な街だと思っていた。前向きな考え方ができる碧さんを羨ましく思うのと同時に、自分の思考の浅はかさを思い知る。言いようのない苦しみから逃れるように、碧さんに声をかける。
「あの、そろそろお昼ご飯にしませんか?」
「そうだね。駅前の中華もいいし、この先のカフェもおすすめだし、あとは…。あ、ごめん。麗央さん食べたいものある?」
「いえ、碧さんにお任せします。」
「じゃあ、歩きながら決めようか。」
路地裏を歩いていると、碧さんがラーメン屋の前で足を止める。
「僕、このお店も好きだよ。昔ながらの味噌ラーメンが美味しいんだよね。」
「ここは駄目です!他のお店行きましょ!」
碧さんの腕を引っ張り、近くにあった定食屋に入る。
「俺は親子丼にします。碧さんは?」
「えっと、じゃあトンカツ定食で。」
注文を取り終わると、心臓の鼓動が収まってくる。向かいの席に座った碧さん見ると不思議そうな顔をしており、慌てて理由を説明する。
「すみません急に!昔、あのお店でバイトをしていたんです。店主のおじいちゃんに怒られてばっかりだったので、あまり顔を合わせたくなくて…。」
「そうだったんだ。ごめんね、思い出させちゃって。」
「いえ、碧さんは悪くないです。俺、いろんなバイトを転々としてるんですけど、怒られたり呆れられたりして、人間関係に疲れて辞めちゃうんですよね。なのでこの辺りは、行きたくないお店がたくさんあります。結局は自分のせいなんですけどね。」
この街がどんよりとして見えるのは、古い街並みのせいだけではない。嫌な思い出の詰まったこの街での生活は息苦しく、心も自然と閉ざされていく。
「それは、麗央さんがその環境に向いてなかっただけじゃない?僕も会社員だった頃は怒られてばっかりで、自分は駄目な人間なんだなって思ってたよ。」
「そうなんですか?」
海月さんのカフェをデザインした碧さんが、駄目な人間なはずがない。
「だから、麗央さんにもきっと向いている仕事があるはず。…そうだ、海月のカフェで働いてみなよ!麗央さん、今バイトしてなくて収入無いんでしょ?」
「そうですけど…。でも俺、知識も何もないから、海月さんに迷惑かけちゃうと思います。」
迷惑をかけて呆れられたら、今までのバイト先みたいに辞めることになるだろう。このシェアハウスに住めなくなったら、俺は生活すら危うくなる。
「海月さんなら大丈夫だって。実は僕、海月のカフェをリフォームをする時に結構やらかしちゃったんだけど、今でもこうやって関係を続けてくれてる優しい人だよ。いやー、あの時はどうなるかと思ったよ。」
罰の悪そうな顔をしつつもケラケラと笑う碧さんを見て、海月さんとなら上手くやっていける気がした。
「じゃあ俺、海月さんのところで働いてみます。」
「お、さすが!じゃあ帰ったら早速交渉だね。その前に、もう一ヶ所だけ行きたいところがあるんだけどいい?」
お会計を済ませて店を出ると、碧さんはシェアハウスと反対方向に迷いなく歩いていく。そして足を止めたのは、滑り台とブランコだけがある小さな公園だ。
「ゾウさん公園…。」
小さな声で呟くと、碧さんが不思議そうな顔でこちらを見つめる。
「ゾウの滑り台があるので、みんなそう呼んでます。」
「そういう事か!ここ、春になると桜が咲いて綺麗なんだよね。」
錆びたベンチに座り、葉の落ちた木を見つめる。
「麗央さんも子どもの頃よく来たの?」
「はい。おばあちゃんとよく来ました。」
「お母さん、パートで忙しかったんだよね?」
「忙しかったっていう理由もあるんですけど、実は小学生三年生の時に母が過労で亡くなって、俺はおばあちゃんに引き取られたんです。」
話していると涙が溢れてくるが、今は碧さんに話を聞いてもらいたい気持ちが大きくて、周りの目なんてお構い無しに話を続ける。
「離婚した父は生活費をろくに渡していなかったみたいで、母はそれを誰にも相談できず一人で必死に働いていました。何十年も一緒に生きてきたはずなのに、離婚した途端にまるで他人のように扱う。そんな父が許せなくて、俺は人と深く関わるのが怖くなったんです。」
「だから、バイトもすぐ辞めちゃうの?」
「そうです。例えば俺がミスをしても、最初は優しく許してくれるんです。でも次第に怒られるようになって、最後は呆れられて何も言われなくなる。それが父と母の関係性に似ていて怖いんです。だから、これ以上関係を悪化せたくないと思って辞める。それの繰り返しです。」
きっと呆れられるのは、仕事が出来ない俺のせいなんだろう。だけど、母は家事や育児が出来なくて父に呆れられたんじゃない。母の努力を知らないだけだ。だから俺も心のどこかで、自分の努力を知って欲しいと思っている。全部が全部、俺のせいじゃないって思い込もうとしている。新しいバイト先に行けば、俺のことを分かってくれる人がいるかもしれないと少し期待しているのかもしれない。だけど現実はそんなに上手くはいかなくて、いつも振り出しに戻ってしまう。
「海月さんのところで働きたい気持ちはあります。だけど、海月さんに呆れられたらと思うと怖いんです。」
「海月はそんな人じゃないよ。そりゃあミスしたら多少は叱られるかもしれないけど、それで呆れたり嫌いになったりはしない。それでも不安なら、いつでも僕に相談してよ。僕は仕事仲間じゃなくて、友達なんだから。」
「『友達』で、いいんですか?」
「もちろん。あ、『一緒に住んでいる人』くらいに留めておいた方が良かった?」
「いえ、友達がいいです!」
高校を卒業してすぐに働き始めた俺は、もう何年も友達と呼べる人がいなかった。嬉しさと恥ずかしさで顔がほころんでしまい、急いでベンチから立ち上がって気を紛らわせる。
「そろそろ帰ろうか。海月にバイトの交渉もしないといけないし。」
「はい。もし働くことができたら、お給料で碧さんと海月さんにご飯奢ります。」
「やったあ!何食べようかな。やっぱり焼肉?」
「そ、それはちょっと足りないかも…。」
「冗談だって。楽しみにしてるよ。」
カフェに戻ると、ドアプレートが未だに『CLOSE』になっている事に違和感を覚える。
「あの、このカフェって何時から開いてるんですか?」
「確か十八時だったかな。午前零時くらいには閉めてる気がするけど、お客さん次第かな。」
「そんなに遅いんですか!?そんな時間にお客さん来てくれるんですか?」
「まあ、ぼちぼちかな。赤字にはなっていないみたいだし、海月は夜の落ち着いた雰囲気が好きらしいよ。」
カランと音を鳴らしてドアを開けると、海月さんは店内のカウンター席に座り、幾つものコーヒーカップを並べて頭を抱えていた。
「海月、何してるの?」
「あ!丁度良いところに帰ってきた!実は新しいコーヒー豆を使おうと思っているんだけど、どれが良いか分からなくなってきて…。二人も飲んでみてくれる?」
「飲みたい飲みたい!」
碧さんと一緒にカウンター席に座ると、海月さんがコーヒーカップを三つずつ目の前に並べる。
「一番右が、今までお店で出していたブラジル。真ん中がブルーマウンテンで、一番左がキリマンジャロね。」
名前を聞いてもあまりピンと来ないため、とりあえず一口ずつ飲んでみる。
「飲みやすいのはブラジルとブルーマウンテンだと思います。キリマンジャロは酸味が強いんですかね?」
「確かに、酸味が強いと好みが分かれそうだよね。でも僕はキリマンジャロ好きだな。それぞれの良さがあるから、海月が悩む気持ちも分かるよ。」
「あの、これって全種類出すことはできないんですか?人によって好みも違うと思いますし。」
「気分によっていろんな味を楽しめるのも良いよね!」
俺たちの話を聞いて、海月さんの顔が一気に明るくなる。
「それいいね!二人ともありがとう!麗央さんが一緒に働いてくれたら、このカフェもいろいろ変えていけるかもね。…なんて、冗談だよ。麗央さんもそろそろバイト探し始めてるの?」
俺と碧さんは顔を見合わせ、クスクスと笑い合う。
「え、僕なんか変なこと言った!?」
「いえ、言ってないです!実はさっき、海月さんのカフェで働きたいって碧さんと話してたんですよ。海月さんが良ければ、ここで働かせて貰えませんか?よろしくお願いします!」
姿勢を正して海月さんに深く頭を下げる。
「是非!よろしくお願いします!」
俺の手を握り、ブンブンと激しく振り回す海月さん。断られたらどうしようかと思ったが、想像以上にスムーズに話が進んで胸を撫でおろす。
「明日から働く?」
「え、そんなに早くから働いて良いんですか?」
「もちろん。あ、でも雇用契約書作らないと!エプロンもいるよね。あとはえっと…。とりあえず、明日までに準備しておくから!一日何時間働きたい?週何日がいい?」
あたふたしている海月さんを見て、少しだけ不安になる。その様子を一歩引いて見ていた碧さんが、海月さんの肩に手を置く。
「海月、落ち着いて?とりあえず、どのくらい働くかを決めた方がいいよね。」
「そ、そうだよね!一日六時間営業だから、まずは週三日くらいから始めてみる?」
「はい、それでお願いします。チェーン店のカフェならバイトした事あるので、少しでもお役に立てたら良いんですけど…。」
「即戦力じゃん!いやぁ嬉しいな。」
こんな俺がどこまで仕事をこなせるかは分からないし不安もあるけど、海月さんの笑顔を見ていると活力が湧いてくる。この瞬間俺は、無職期間で緩んだ気持ちを引き締め直した。
ヒラソルカフェには向日葵が咲き誇る 橋野美衣 @mii_novel
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