ヒラソルカフェには向日葵が咲き誇る

橋野美衣

1.向日葵

 冷え切ったコンクリートの塀にもたれかかり、煌めく夜空を眺める。静まり返ったこの世界では、俺に手を差し伸べる者は誰もいない。コンクリートから伸びる小さな花に目を落とすと、夜空のように辺りが煌めきを放ち始める。

 俺は、この花のように一人で強く生きていけるのだろうか。

 かじかんだ手を伸ばしたと同時に、世界はプツンと暗黒に包まれる。一輪の花が、暗闇の中で光り輝く。そっと花びらをなぞると、凍てついた身体が温もりに包まれる。

 ユラユラと揺らめく暖色の光に目を移すと、パチパチと心地よい音を鳴らす。その暖かな光に触れたくて、そっと手を伸ばすと、「危ない!」と高い声が鳴り響く。


 何者かに勢いよく腕を掴まれ、世界は一気に彩りを取り戻す。俺はいつの間にかソファに寝転び、ふかふかの毛布にくるまっていた。

「よかった~!火傷したらどうしようかと思ったよ。」

 暖色の光は炎となり、メラメラと煉瓦の中で燃えている。その光に照らされているのは、ふわふわのパーマをかけた、可愛らしい男性。彼から向けられた眼差しは、冷え切った心を優しく包み込む。

「おはよ。コーヒー飲む?」

「えっと、ここは…」

「僕のカフェ。ほら、アイスかホットか選んで?」

「じゃ、じゃあホットで…」

「りょうか~い!」

 彼を目で追うと、ちょうど午前零時を指す時計が目に入り、慌てて身体を起き上がらせる。木製のカウンターには男性が二人座っており、談笑しながらコーヒーを飲んでいる。

「はい、どうぞ。お腹も空いてるでしょ?」

 湯気の立ったコーヒーとナポリタンが、目の前のテーブルにコトンと置かれる。コーヒーカップを手にしてゆっくりと口に運ぶと、身体の芯まで温もりが染み渡る。フォークを手にしてナポリタンを巻き取り、恐る恐る口にすると、自然と涙が溢れてくる。

「どう?美味しい?」

「うん、とっても。」

 遥か遠い記憶が蘇ってくる。ボロボロのアパートで、大好きな母に作ってもらった、いつも通りのお昼ご飯。

 その日以降の母との記憶はない。

 食べ進めるほど、ナポリタンは涙でしょっぱくなっていくけれど、そんなことはお構いなしに次々と口に運ぶ。

「ごちそうさまでした。」

「どういたしまして。今日はここに泊まりなよ。」

「え?でもお金ないし…」

「そんなこと気にしなくていいから。こっちおいで?」

 歩くたびにキッと軋む階段を登ると、幾つかある木のドアのうちの一つを開けて明かりを灯す。木の温もりを感じる部屋には、ベッドやデスク、テレビなど生活に必要なものが揃っている。

「ベッドにパジャマとバスタオル置いてあるから、勝手にお風呂使っていいよ。あと、朝起きたらリビングにおいで。誰かしらいると思うから、朝ごはん準備してくれるはずだよ。」

 彼の話を聞く限り、どうやらここはカフェでもホテルでもないらしい。

「あの、ここって…。」

「一階はカフェ、二階はシェアハウス。どっちも僕がやってる!」

 恐らく二十五歳前後で俺と歳が近いはずなのに、自分は彼みたいに働けなかった。上手く生きられなかった。自分の情けなさに目を瞑りたくて、「そうなんだ」とだけ呟くと急いでパジャマとバスタオルを手にして脱衣所に向かう。

 ヨレた服を脱いで浴室に足を踏み入れると、檜の香りが心を落ち着かせる。シャワーを手にしてお湯を頭から被ると、その懐かしさにまた涙が溢れてくる。家もお金も無くした俺が、この温もりに触れられるなんて思ってもいなかった。

 こべりついた垢を落とし、先程案内された部屋に戻る。お金は気にしなくていいって言ってくれたけど、シェアハウスなら多少なりとも家賃は必要だろう。一銭も払うことが出来ない俺は、明日からまたいつも通りの生活が始まる。今日限りの幸せを噛み締めるように、フカフカの布団にくるまって眠りについた。


 目を覚ますと、パジャマと一緒にベッドに置いてあった白色のスウェットに着替え、昨夜言われた通りリビングに向かう。古びた木の柱がこの家の歴史を物語っているが、所々リフォームされているのか、フローリングの木はまだ若くキッチンはシルバーに輝いている。木製のダイニングテーブルに目を移すと、スマホを触っている男性と目が合う。

「あ、起きた起きた。パンかご飯どっちがいい?」

「えっ、どっちでも…。」

「じゃあパンね!」

 男性は椅子から立ち上がってキッチンに向かうと、トースターに食パンを一枚入れてダイヤルを回す。ジリジリという音に、ポタポタとコーヒーを淹れる音が混ざり合い、無言でありながらも心地よい時間が流れる。

「はい、どうぞ。好きなジャム使っていいよ。」

 黄金色に焼けた食パンが乗った丸いお皿と、湯気の立ったコーヒーが目の前に置かれる。苺のジャムを食パンに染み込ませ、サクッと音を立てると口の中にほのかな甘みが広がる。

「美味しい…。」

「でしょ?これ、海月が焼いてるんだよ。」

「ミツキさん…?」

「あっごめん、昨日会ったお兄さんのことね。今日からよろしくね。」

「いや、俺は今日だけなんで…」

「そうなの?今朝海月が、『またタダで住まわせることになっちゃうよ!』って焦りつつも少し嬉しそうにしてたよ。」

 俺の記憶が正しければ、その海月さんという人とタダで住むという話は一切していない。しかしながら、家賃が払えず3日前にアパートを追い出された身からすれば、こんなに嬉しい話は無い。それに、「また」ということは今までもタダで住んでいた人がいたのだろうか。

「まあ、あの人突っ走っちゃうところもあるから、あとでちゃんと話聞いてみたら?僕はイケメンなお兄ちゃんが一人増えて嬉しいけどな。あ、変な意味じゃないからね?」

 男性は俺が食べ終わった食器を重ねてシンクに運ぶ。慌てて立ち上がって食器を洗うが、頭の中は先程の話で埋め尽くされている。

 

 食器を洗い終わり急いで一階に降りると、海月さんは食器を棚に片付けているところだった。

「あ、おはよ!よく眠れた?」

「はい、おかげさまで。あの、俺がここに住むっていうのは…。」

「もしかして碧から聞いた?嫌だったら言ってくれていいよ。」

 恐らく、先程会った男性のことだろう。やはり、海月さんはこの話を俺にはしていなかったようだ。

「住まわせてもらえるならこれほど嬉しいことは無いです。でも俺、仕事してなくて家賃払えないし、家事もできないし、ほんと何もできなくて、だから…。」

 言葉にすると、改めて自分の情けなさを実感する。こんな俺に優しくしてくれる人など誰もいないことは、今までの人生で分かりきっている。

「別にそれでもいいじゃん。」

 瞬時にその言葉の意味が理解できず、続ける言葉が見つからない。

「生きているだけで十分なんだよ。ここにはいろんな境遇の人が来る。お兄ちゃんみたいに生死を彷徨った人だっている。みんな何かしら生きづらさを感じているけど、生きていれば必ず良いことがある。」

「俺に良いことなんて一つも…。」

「さっき碧に会えたことも、良いことなんじゃない?」

 "良いこと"とまで言えるのかは分からないけれど、悪いことではないことは確かだ。俺がこの場所にいることも、海月さんにとっては"良いこと"なのかもしれない。

「でも、なんでこんな俺を住まわせてくれるんですか?」

「なんでって、お兄ちゃん住むところ無いんでしょ?」

「えっ、なんでそれを…。」

「ここでいろんな人たち見てたら、大体分かるようになっちゃったんだよね~。」

 "凄いでしょ"と言わんばかりの笑顔は、太陽に向かって伸びる向日葵のように明るく自信に満ち溢れている。そんな彼を見て俺は決心を固め、頭を深く下げる。

「こんな俺でよければ、ここに住まわせてください。よろしくお願いします。」

「うん、よろしく!そうだ、これソファの下に落ちてたよ。えっと、レオ…さん…?」

 カウンターに置かれたレザーのキーケースと鍵を俺に差し出す。明るいベージュのレザーは黒く染まり、無数のシワがこべり付いている。そこに刻まれたReoという名前を彼は目にしたのだろう。

「綺麗の麗に、中央の央です。このキーケースは、二十歳の時に祖母から貰ったんです。」

「そっか。麗央さん、もう落としちゃ駄目だよ?そうだ、シェアハウスの鍵も渡しておくね。」

 アパートを追い出された三日前から中身は無くなり、ポケットの中で眠っていたキーケース。手渡された鍵をカチッとはめたと同時に、俺の新たな生活が始まった。

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