泡沫にさえなれない

苺どん

第1話泡沫にさえなれない

「将来の夢は、人魚になることです!」

 変わり者のクラスメイトの原野海咲は教卓の前に立って『将来の夢について』という作文の一行目を読み上げた。

 一瞬教室が静まり返り、その後すぐに笑いに包まれた。

「なれるわけねーじゃん!」

「真面目に作文書けよ!」

「お前化け物になりたいのかよ!」

 無数の野次が飛び、教師もため息をついていた。それでもなお作文の続きを読もうとしているが、野次と嘲笑のせいで誰にも届いていなかった。

 馬鹿な奴だ。本当にそれなりたかったとしても、中学二年生になってこんなことを言えば馬鹿にされることくらい少し考えればわかるはずだ。

「静かにしろ! 授業中に大声を出すな!」

 呆れていた教師がようやく注意し始めた。大声で笑ったり野次を飛ばす生徒はいなくなったがまだクスクスと小声で笑っている奴が何人かいた。

「原野は席に戻れ。きちんとした作文を放課後に書き直して明日提出。次、広瀬」

 原野は不満そうな顔をして席に戻っていった。

 次に僕の名前が呼ばれたが返事をしなかった。なぜなら手に持っている作文用紙は真っ白だからだ。別に怠けたわけではない。真面目に、徹夜してまで考えたが一文字も書けなかった。

「広瀬?」

「……すみません。まだ書けていません」

 教師は原野の時よりも呆れたため息を吐いた。

「広瀬も居残りをして書くように。次は――」

 僕と原野は飛ばされ次に別の生徒が作文を発表し始めた。

 仕方ないだろ。書けないものは書けないんだから。

 そんなふうに心の中で悪態をつけながら、他の生徒の発表を聞き流していた。



 放課後になり、僕と原野は教室に残り作文を書いていた。

 だが僕はもちろん一文字も進まないし、原野の方からはシャーペンで作文を書く音が聞こえてこなかった。

 原野はあのまま明日も同じ作文を提出するつもりなのだろう。

 なぜ原野はあんな作文を書いたのだろうか。馬鹿にされることも、書き直しと言われることもわかっていたはずだろう。

 僕は自分の作文を書くことよりも、原野の作文の方に興味を持ってしまった。

「なぁ、原野」

「何? 広瀬くん」

 席は離れているが、教室には僕と原野しかいなかったから声は聞こえたようだ。

「なんであんな作文を書いたんだよ」

「宿題の通り、将来の夢を書いただけなんだけど」

「そうじゃなくて……」

 なぜ人魚になりたいだなんて書いたんだと聞く前に、原野は自分の席から立ち上がり僕の隣の席に座った。

「私はね、人魚になりたいの。こんな二本の足じゃなくて綺麗な鱗の尾鰭が欲しい。騒音まみれの地上よりも、綺麗で静かな海の底にいたい。ねぇ、人魚姫っていう話は知ってる?」

 僕は頷く。原野がこんなに楽しそうに、目を輝かせながら話している姿は初めて見た。

「人魚姫は泡になって消えるでしょう? それが羨ましいの。私は火葬なんかされたくない。灰になってまでこの世に残りたくないの。できることならぱったりと、この世から消えたい」

 原野はまるで、恋をした少女のような赤ら顔をして人魚になりたい理由を語った。

 原野のことを、僕は不気味に感じた。尾鰭が欲しいとか、ずっと水の中にいたいとか、死ぬ時は泡になりたいとか、普通に生きていたらこんなこと考えない。だから恐怖すら感じた。なんでこんなことを嬉々として話すのだろう。

「広瀬くんの夢は?」

 唐突に僕のことを聞かれて驚いている間に原野は僕の机の上にある作文用紙を覗き込んだ。

「ほんとに何も書いてなかったんだ。恥ずかしいから発表しなかったのかと思ってた」

 失礼な誤解をされていた。そんな小賢しいことをするような奴に見えているのだろうか。

「将来の夢、ないの?」

「ないよ」

「ほんとに?」

「うん」

 小さい頃は確かにあった。だけど成長するにつれてそんなものはほぼ叶わないのだと気がついた。

 だから夢を見るだけ無駄なのだ。夢を追い続けて、引き返せないところまでいってそれでも叶わないなんてそんな無様なふうにはなりたくない。夢が叶って生きた証を刻めるのはごく一部の選ばれた人間だけ。

 絶望するくらいなら夢なんてない方がずっと生きやすいんだ。

「つまらないね、広瀬くんって。夢ってね、追い続けてる時が一番楽しいんだよ。本当は何になりたかったの? 聞かせてよ」

「だから将来の夢なんてないんだって」

 言えるわけがない。ずっと昔に抱いた夢だ。今も叶わないと思いながら捨てることもできずに重石のように僕にのしかかってくるのだ。

「誰にも言わないから言ってよ」

 これは言うまで問い詰められるのだろうか。ないと言っているのにどうしてここまでしつこく聞いてくるのだろうか。

 なかなか退かない原野に負け、僕は口を開いて小さな声で言った。

「宇宙飛行士になりたかったんだよ。でも僕は生まれつき目が悪いからなれない」

 宇宙飛行士は矯正していても一定の視力に達していればなれる可能性がある。だけど僕はメガネをかけても必要な視力には届いていない。なれないことが明らかなのだ。だから口に出したくなかった。惨めだから。

「なれないなら、別のものを目指せばいいじゃん。宇宙が好きなら、宇宙飛行士以外の宇宙に関わる仕事。歴史に名を刻みたいなら科学者とか総理大臣とか。色々あるよ。私だって、なれないから別のものになるの」

 人魚と同じような、別のもの? 疑問に思って原野に聞こうと口を開いたのと同時に完全下校のチャイムが鳴った。

 原野は自分の席に戻り、帰りの支度を始めた。

 腑に落ちないまま僕も帰る準備をする。結局作文用紙は白紙のままだ。このままだと怒られる。今日の夜に適当なことを書いて提出してしまおう。

 そう考えていると鞄を背負った原野が近づいてきた。

「広瀬くん。私明日学校休むから、この作文用紙を先生に渡しておいて」

 原野は書き直した痕跡のない作文用紙を僕に渡して帰っていった。

 結局原野の言葉の真意がわからぬまま僕は白紙の作文用紙に悩ませられながら帰路についた。



 次の日、僕は原野の言葉の意味を理解した。

 原野が昨日の夕方に入水自殺をし、水死体となって見つかったということを、学校に登校してから教師に告げられた。

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