君が予定を狂わせる。

夷也荊

プロローグ

 私はある日、動けなくなった。出張のために早起きするはずの朝の事だった。目覚めた瞬間から、頭を少し動かすだけで激しい頭痛と猛烈な吐き気に襲われた。何とかスマホに手を伸ばし、一緒に出張に行くはずだった先輩に電話を掛けた。状況を伝え、会議に出られないと断った。先輩は私を気遣ってくれて、お大事にと言ってくれた。私は何とかタクシーで最寄りの総合病院に行き、すぐに入院することになった。いろいろな検査をしたが、全て異常はなかった。ただ、体重が以前のものよりも十キロ痩せていた。この数字を見た時、体重計が間違っていると思った。しかし考えてみれば、最近のどにつかえたような違和感があり、飲食がままならない日が続いていたから、当然の結果だった。私の担当医師は、内科的なことではないからと、脳神経外科や精神科を勧めてきた。


 私は勤めていた会社を辞め、帰郷して治療に専念することになった。脳外科で検査したり、脳神経内科にも通ったりした。どこも私の病気に名前がつかず、最終的に流れついたのは、精神科だった。この頃には私の症状は悪化の一途をたどっており、精神科の専門病院に、即刻入院が決まった。そこで私は初めて自分の病名を知った。統合失調症だ。精神科の医師に告げられたのは、病名だけではない。この病気が一生治らないと言う事実も、ここで告げられた。


「嘘でしょ。嘘だ……。そんなこと、絶対に……」


 私は精神科の病棟の個室で、人知れず泣いた。


 入院生活から抜け出した時、私は今までの私とまるで異なる私になっていた。障害者になったのだ。障害者手帳を取得したとき、私は冊子状の物をイメージしていたが、違った。障害者手帳はたった一枚の小さな紙きれでしかなかった。そしてそこに書かれた二級の文字が、重く感じた。こんなもので、私のすべてが説明され、規定されてしまうと思うと、やはり悔しかった。


 さて、障害者でも生活は送らなければならない。生活するためにはお金がかかる。そうなれば必然的に働かなくてはならない。しかし、障害者の自分をまだ受け入れられない私は、障害者用求人ではなく、一般求人で仕事を探した。ハローワークでも、それは変わらなかった。一般的には公開されていない障害者求人には、見向きもしなかった。その反面、自分が障害者であることは隠さなかった。それでも、ある店が私を雇ってくれた。ところが、やはり以前のようには働けなくなっていた。アルバイトで身に着けたはずの接客やレジ打ちができない。指示に思うようについていけず、何度も間違え、新たらしいことを覚えるのが困難だった。もしかしたら、統合失調症の他の人は上手くできたのかもしれないが、私には無理だった。私はその店をクビになり、心が折れかけた。

ハローワークに行くこともできずにいた私は、家で悶々としていた。そこに両親が打診してきたのが、猫を飼わないかということだった。


 私の家は断然猫派だった。代々猫を飼ってきた。農家だったから、ネズミ捕りとしての役割も担っていたらしい。しかし、今はほとんど農業をしなくなった。田んぼは他の人に貸して、畑は家庭菜園ほどだ。だからネズミ捕りようの猫も必要がなくなったはずだ。このまま、ペットはもう飼わないと家族全員が思っていたと思う。

しかし両親は私の意見など参考にせず、私の為にと、一匹の仔猫を連れて来た。ロシアンブルーの特徴的な青い目が、青くなかったというだけの理由で、ペットショップで激安になっていたという。命がたったそれだけの理由で安売りされるなんて、と憤りを覚えながら、靴箱ほどの大きさの小箱をゆっくりと開けた。小さくてか弱く、灰色の毛がふわふわとしていて、少しの力加減で壊れてしまいそうな一匹の仔猫が入っていた。くりりとした黄色の双眸で、私をじっと見つめたり、周りを見回したり、小さいながらもこの家に馴染もうと観察していた。


 それが、君だ。

 

 きっと両親としては、アニマルセラピー的な意味が強かったのだと思う。しかし、そんなことで私の心は全く癒えなかった。だって、私の心の病気は一生治らないから。それなのに、一時的な気休めのために、経済的にも厳しいのに、ペットを飼うなんて。そう思った私はその仔猫も、それを連れて来た両親も、無視することにした。





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