第48話 美しい世界

 神という存在は、夕陽の中にあるインザラーガ山のようなものだと、ある名もない詩人が例えたという。

 その姿は誰の目から見ても威風堂々とし、畏敬の念を抱かざるを得ないほどに神々しく、これから迫りくる闇にも動じない。その眼下には闇に飲まれる寸前の存在があるというのに、そんな我々には見向きもしない、まさに無慈悲な神そのものだ――と。


「全くな例えじゃないか? いざという時に神といった存在なんて、少しの役にも立たないんだから。そう思わないか、レシィ?」


 主である金髪の少年――セレファンスに同意を求められ、黒髪の女騎士レシェンドは困ったような表情を浮かべた。


「ですがセレファンス様。こうして無事にここまで辿り着けたのは、神のご加護というものかもしれませんよ」

「へえ、レシィは随分と信心深かったんだな」


 少年のからかうような、だが嫌味とも取れる声音。すると彼らの横で話を聞いていた青年カルカースが口を挟む。


「神を忘れた者は傲慢になるもの。気をつけられよ、セレファンス皇子。……まあ、盲信する者もしかりだが」


 こうして周囲の同意が得られなかったセレファンスは肩を竦める。


「別に、ちょっとした愚痴じゃないか。こうもずぶ濡れ状態で草陰に長く身を潜めていると、皮肉の一つでも言いたくなる」

「行動は暗くなってからのほうがいい。もう暫くは辛抱してもらおう」

「だけど、このままじゃあ、本当に風邪を引いてしまいそうなんだが」


 カルカースの言葉に、セレファンスはわざとらしく鼻をすすってみせる。


 彼らは今、インザラーガ離宮の中心部に位置する宮の中庭に身を潜める。そこは皇族の滞在や居住を目的とする建物で、その一室にイルゼは閉じ込められているとカルカースは言った。


 ここインザラーガの離宮は、個別の宮が寄り集まって一つとなる宮殿で、それぞれの宮を繋ぐ唯一の通路を頑丈に閉鎖してしまうと、そこは外から完全に隔絶された砦となる。


 いわゆる不法侵入者であるセレファンスら三人が、そんな場所へと入り込むためには、かなりの苦労を要した。もちろん正当な通路は使えないので、彼らが侵入に使った道は、どの宮にも繋がる水路だったのだ。


「そろそろ、いい頃合いだ」


 薄暗くなった辺りを見回し、カルカースは身を隠していた茂みから静かに出る。そしてセレファンスとレシェンドを庭先から建物の中へと導く。


 彼らは回廊を歩き始める。庭にも建物内にも人の気配は全くない。通路を形ばかり照らす仄かな灯火台は、自動的に点火されるもののようだった。


「……奇妙なほどに静かですね」


 そう言いながらレシェンドは油断なく周囲を窺う。


「こんな人気のない場所にイルゼは本当にいるのですか? 警備さえも敷かれていないように見えますが――」


 その声音には、ここまでの案内を担当した青年への不信感が含まれている。それに気づいているのかいないのか、カルカースは淡々と答えた。


「この離宮にいる人間は、私とイルゼのほかに、この離宮を維持するために働く下仕えの者しかいない。ここでの生活は基本的に自給自足で、外の人間が出入りするのも月に一度がせいぜいだ。こんな何もないような陸の孤島に、警備兵など置く必要性はないだろう。それに下仕えの者達は、夕刻以降は出歩くことを固く禁じられている」

「なるほど……それで今の刻限は、これほどまでに人の気配がないというわけですか」


 レシェンドは納得したように頷き、続けてセレファンスが問う。


「なあ、カルカース。ここには、そういう下仕えの者達が何人程度いるんだ?」

「さて……これだけ大きな離宮だからな。百人とは言わないが、数十人はいるだろう」

「数十人か……結構いるな」

「セレファンス様? 何か心配事でも?」

「ん? ああ、いや――彼らを巻き添えにするようなことにならなきゃいいなって思ってさ」

「ああ、確かにそうですね。これからここで何が起こるのか、分からないわけですし……」


 セレファンスの憂慮にレシェンドも同意する。


 彼らはカルカースの案内のもと、更に建物の奥へと導かれていった。幾度となく階段をのぼり、狭い裏通路を通り抜けていく。


 ほどなくして、広い大理石の廊下へと出た。そこを道なりに歩いていくと、突き当たりに大きな両開きの扉が見えてきた。


「――ここに、イルゼが?」


 明らかに目的地であろう扉の前で、セレファンスはカルカースを振り返る。それに答える代わりに青年は、入室を促すように扉を開いた。


 扉の先に現れた室内は廊下よりも一層、灯火が弱々しくて暗かった。金髪の少年は眉を顰めながらも、その暗い空間に足を踏み入れる。それにレシェンドも倣い、最後にカルカースが続いた。


 扉が閉められ、外からの明かりも遮断されてしまうと、彼らはお互いの顔さえも確認するのが難しくなった。


「イルゼ、いるのか……?」


 セレファンスは窺うようにして声をかける。だが、それに返事はない。


「カルカース、もう少し明るくできないのか?」


 焦れた様子でセレファンスが注文をつけると、


「……灯火台の油量を調節する。少し待て」


 どこか渋っているようなカルカースだったが、少年の要望を受け入れる。この部屋の勝手を知っているのか、暗い中でも彼は滞りなく部屋の明かりを強めることに成功した。


 途端、今までの数倍は明るい光が空間の様子を露わにした。そこは重厚な家具の揃った瀟洒で大きめの居室だった。


「イルゼ!」


 セレファンスが歓喜と驚愕の入り混じった声を上げる。ちょうど部屋の中央辺りに、鳶色の髪の少年が座り込んでいるのを発見したからだ。しかし――


「イルゼ? どうしたんだ?」


 セレファンスは彼の異常に気がついた。その横顔は虚ろで、セレファンスの存在に少しも反応を示さない。


「セレファンス様? 一体、イルゼに何が……?」


 レシェンドも何か良からぬことが起きているのだと察した。そして、赤毛の少年の前に置かれた『大きな存在』に眉を顰める。


「これは――鏡?」

「……この鏡、前に見たことがある。アドニスの皇城の宝物庫にあったものだ。これを覗き込んでいたディオニセスは、おかしな言動をとっていた。まるで、死んだ母親と対面でもしているかのような――」


 セレファンスはカルカースを鋭く見やる。


「何故、これがここにあるんだ? なんでイルゼは、こんな状態になっている?」

「……イルゼは、この世を創世の姿――混沌という名の海に戻すための〈鍵〉だ。だが、あくまで〈闇からの支配者〉が必要とするのは彼の魂に宿る力のみであり、そこに伴う意思は邪魔になるだけ。それらを消すために用意されたのが、それだ」


 カルカースはこうしている今もイルゼが覗き込み続ける大きな鏡を見つめて言った。


「その鏡はエスティア王国に伝わっていた秘宝の一つだった。覗き込む者に深い因縁のある過去が、その者の心に否応なく映し出されてしまうという――。過去に触れることで救われる者もいれば、あまりにも重過ぎる内容に心を壊されてしまう者もいる。イルゼは、後者だったのだろう」


 カルカースは感情を堪えるようにして双眸を伏せた。


「私には、どうすることもできなかった。何度、揺すって呼びかけても、イルゼは目を覚まさなかった。当然といえば当然だろう。ここまで彼を追い詰めたのは、他ならぬ私自身でもあるのだから」

「いつからだ? この状態は」

「一週間になる。だが、口元に粥や水を運べばすするので命に別状はない」

「鏡を壊すという選択肢は?」

「恐らく、その時点でイルゼの心も壊れてしまう可能性が高い」

「そっか……でも、イルゼはまだ、生きることを放棄しているわけじゃないんだな」


 セレファンスは安堵したかのように溜め息をついた。それにカルカースは一瞬、理解しがたいような表情を浮かべた。金髪の少年の言葉が楽観に感じたのかも知れない。するとセレファンスは軽く笑うと、


「大丈夫さ。あいつはきっと戻ってくる。今は少し道に迷っているだけだろうからな」


 そう力強く断言したのだった。




「――どうかしたの? 妖精様?」


 アラリエルが大きな瞳で不安げに自分を覗き込んでくる。


「あ……ううん、なんでもないよ」


 イルゼは心配をかけまいとして微笑んでみせた。するとアラリエルは「そうなの、良かった」と言って素直に安堵する。


「それでね、私、いっつも王宮を抜け出してはカルカースを困らせていたわ。悪いことだとは思っていたけれど、それをやめようとは思わなかった。だって、私を捜している間のカルカースは、私のことばかりを考えてくれるでしょう? それにカルカースが私を見つけてくれた時の表情が、すごく好きだったの。とても自分を大切に想ってくれているんだって、実感ができたから――」


 そう言ってアラリエルは薄く頬を染めた。


 先程から彼女は、カルカースに関することばかりを話している。それを語る様子は幸せそのものだ。


 母である少女は、あまりにも無垢で無邪気だった。イルゼの虚言を信じ切って心を開いてくる。本来のイルゼを知らず、いや、知ろうともせず、彼を汚れのない妖精であると信じて疑わない。


(……なんて残酷な無垢さなんだろう)


 疑ってくれれば、妖精だなんて嘘だと非難してくれれば、こんな馬鹿げた振りを自分は続けなくてもすむのに。


 何も知らずに微笑みかけてくる少女を見ていると、何故、自分ばかりが辛い思いを抱えなければならないのかと妬ましくさえ思えてくる。何もかもをぶちまけて、このどす黒い感情を共有してくれと叫びたくなる。あなたは僕の母親なんだからと縋りたくなる。


 だが、やはり最後には、この永遠に少女のような人を汚したくないとイルゼは思ってしまうのだ。


「あのね、妖精様」とアラリエルがイルゼへと微笑んだ。


「私、今までずっと、とても苦しくて悲しかったわ。でも、それがどうしてなのかまでは分からなかったの。だけど今、やっと分かった。何故、私が苦しくて悲しかったのか――。それはきっと、あなたに出会えてなかったからだわ」


 イルゼは思わず目を丸くした。すると母である少女は柔らかく微笑んだ。


「あなたって不思議。何故かあなたを見ていると、とても優しい気分になれるの。どうしてかしら? なんだか懐かしいような、温かいような、とてもフワフワっとした気持ち。良く分からないけれど、きっとあなたが妖精様だからなのね」

(違う!)


 イルゼは叫びたくなった。そう感じるのは、僕が貴女の子供だからだ――と。


 だが次の瞬間「本当に?」と自分の中で誰かが嘲笑った。それこそ有り得ない話ではないのかと。好きでもない男に無理やり孕まされた子供など、どうして温かく懐かしく感じられるのか。ならば虚言こそが、今の汚れのない美しいアラリエルを保っているのではないか?


「見て、妖精様!」


 アラリエルが歓喜に叫んだ。


「ああ、やっと帰ってこられた……! 私の美しき故郷エスティア! あそこに見える草原は、いつもカルカースと一緒に過ごしていた場所よ。でも、今は早く王宮へ戻らなくちゃ。きっとみんな、お父様もお母様も、カルカースだって、私の帰りを待っているはずだから!」


 喜ぶアラリエルを前にイルゼは茫然としていた。やはり、こんなのは馬鹿げていると思った。エスティアは、すでに滅びた国だ。彼女の家族は全て殺されている。カルカースだってあそこにはいない。どれもこれも欺瞞だ。全ては虚構だ。過去など変えられるわけがないではないか。分かりきっていたことなのに、何故自分は、馬鹿げた奇跡を信じてしまったのだろう?


「妖精様、本当にありがとう! 私、やっと帰りたいところに帰ってこられたわ。それもこれも、あなたのおかげ」


 アラリエルは幸せと感謝に満ちた笑顔を閃かせる。


 イルゼは上手く笑い返せなかった。自分の浅はかさで、彼女を幸せな虚構に引きずり込んでしまった。いや、それとも、この世界自体が自分の夢想なのか。美しいアラリエルという存在は、自分の願望から生まれたものなのか。


 目の前のアラリエルに、真実を告げるべきなのか、それとも欺瞞を通すべきなのか。どちらが正しいことなのか分からない。ただ確かだと思えるのは、嘘が壊れた瞬間、きっと全てが霧散し、目の前の幸せそうなアラリエルは絶望に突き落とされるのだろう。


(そんなのは、嫌だ)


 そう、はっきりと思う自分をイルゼは認識した。この世界が例え自分の創り出した空想であっても、アラリエルの見る夢であろうとも、今の自分と周囲が虚構だろうがなんだろうが、この美しい母が無邪気に笑っていられるのならば――嘘が彼女を守るのならば、自分はその苦しみと罪の重さに耐え抜きたい。


「……良かった、あなたが望む場所へお連れすることができて」


 イルゼはおもむろに、懸命に微笑んだ。


「これで僕の役目は終わりです。どうか、今後はお健やかに――」

「ええ、ありがとう。妖精様もお元気で」


 アラリエルは、やはり無邪気に微笑み、優雅に会釈をした。そして待ちきれないとでもいうように、草原へと向かって駆けてゆく。


 イルゼは遠ざかるアラリエルの背を見つめる。それが、だんだんと遠ざかってぼやけていく。


(これで良かったんだ、きっと)


 自分は確かに、この世界で存在したアラリエルの笑顔を守れたのだから。


「さようなら、お母さん」


 その言葉を境にして、イルゼは自身という存在が消えていく感覚を感じていた。


(……ああ、やっと、僕は自由になれるんだ)


 安堵はあったが、最後まで本当の自分を認めてもらえなかった悲しみが深かった。それを補ったのが、無垢なままに美しく保たれた母の姿だ。


(所詮、自己満足に過ぎないのかも知れないけれど……まあ、いいか)


 そう考えながら、イルゼは少し笑えた。その諦念とした思考が、誰かに酷く罵られそうだと思えたからだった。




「イルゼ?」


 セレファンスは驚きの声を上げる。

 彼は赤毛の友人の目覚めを信じて、その傍らで見守り続けていた。しかし、唐突に起こり始めた異変に目を疑う。


「これは……」


 同様に彼らを見守っていたレシェンドも戸惑いの声を洩らす。


「おい、命に別状はないはずじゃなかったのか!」


 セレファンスは非難の声を上げてカルカースを振り返った。


「この鏡に人の命を奪う力はない。そして〈闇からの支配者〉も〈鍵〉であるイルゼを失うことなど望むまい。だが――」


 カルカースはイルゼに近づき、異変の起こっている彼の身体――まるで蜃気楼のようにあやふやな様相となっている少年へと触れる。


「っ……!」


 途端、カルカースは顔をしかめて手を引っ込めた。触れた瞬間、イルゼを形作る輪郭が激しくぶれて不安定になったからだ。


「だが? なんだっていうんだ? こんなの普通じゃない……! 今にも霧散してしまいそうじゃないか!」


 それを見たセレファンスは焦燥を隠さない。それにカルカースは続ける。


「だが、イルゼ自身がそれを望むのならば、己の存在を拒絶して消そうとしているのならば話は別だ。イルゼは今まで、これ以上はないというほどに傷つけられてきただろう。己の出生、最愛の者と故郷の損失、自身が持つ力への恐れ、実父との確執……。そして極めつけが、自分の存在がフォントゥネルの存亡に大きく関わるという事実。それら全てを投げ出したいと思ったとしても、なんら不思議ではない」

「そんな、馬鹿なこと」


 セレファンスが苦しげに呻く。それに、とカルカースはセレファンスの苦渋を遮った。


「良く良く考えてみれば、これこそが君にとってもイルゼにとっても一番、穏健な方法ではないのか?」


 そこまで言ってカルカースは視線をセレファンスに向けた。


「その表情を見たところ、君も気がついているのだろう?」


 一瞬、セレファンスは忌々しげにカルカースを睨みつけると「ああ、気づいてたさ。気づいた時、自分に嫌悪したけどな」と吐き捨てた。


「この世からイルゼを消してしまえば――この手で殺すなりなんなりしてしまえば、〈闇からの支配者〉は新たな〈鍵〉を一から探さなくてはならなくなる。それは容易なことではなく、人間は一時の猶予を得ることができる。そうなれば少なくとも、俺達の時代でフォントゥネルが滅ぶことはなくなる――」


 そう言ってセレファンスはイルゼを見た。鳶色の髪の少年は過去を映し出す鏡に心と双眸を捕らわれたまま、そこに座り込み続けている。


「……きっと、それを知ればイルゼは思い悩むだろう。そして最後には、自分を切り捨てることを選ぶんだ。こいつ、へたれた馬鹿だしな」


 セレファンスは悲しげな表情を浮かべて、おもむろにイルゼの頬へと手を添える。するとカルカースが触れた時と同様に、その輪郭が不安定となる。しかし、それは先程よりも緩やかな変化だった。


「だけどイルゼ、俺はそんなのは望まない。俺はこれ以上、大切なものを失いたくないんだ。だからさ、早く戻ってこいよ、イルゼ……!」


 金の髪の少年は、目の前で座り込んだままの鳶色の髪の友人に、請い願うように呼びかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る