第二章

第47話 彷徨う記憶

 暗い……ここはどこだろう? 寒い……どうして僕は、こんなところにいるのだろう?


 いや、それ以前に『僕』とは一体、なんだっただろうか……?


 何も分からない、何も理解ができない。ただ『自分』という存在があることだけは漠然と理解ができた。ただし、この墨で塗り潰したかのような空間において、どこからどこまでが『自分』という存在で他との境界線なのか、それを見出すことは不可能だった。このままだと何もかもを見失ってしまいそうだ。でもそうなれば、それはもしかしたら、とても幸福なことなのかも知れない――……


(駄目、そんなふうに思っては駄目よ)


 それは『自分』ではないものから生まれる声。


(聞こえる? 分かる? あなたは感じることができている? 自分と、そうではないものの区別が。ちゃんと『自分』というものを確かめてみて。あなたがあるべき姿を思い出して。そうじゃないと、あなたは内側から暗闇で塗り潰されてしまう――)


 それは歌うような幼子をあやすかのような優しい声。だが、その人の言う『自分』というものを、どうにもはっきりと思い出せない。それはとても嫌なものだった気がする。それこそ、ずっと暗闇の中に沈めておきたいような――


(駄目! じゃあ今は深く考えないで。今、感じられる感覚だけを信じて。あなたの器は、あなたのあるべき形を知っている。あなたという無二の魂を包んで守っていたものだから)


 ――感覚?


『自分』というものが、ふと思う。感覚とは――感じられるものとは、この心地の良いものを言っているのだろうか……?


(ああ、そういえば、すごく柔らかくて温かくて、とても良い香りがする――)

「……良かった。私の存在があなたに届いて」


 そんな女性の声を境に『自分』の見る世界が急速に広がった。


「もう少しであなたは闇にまかれて、完全に自我を失ってしまうところだったのよ」


 目の前に現れた女性が、自分を覗き込んでニッコリと微笑む。


「え……あ、あの、あなたは? それに僕は」


 イルゼは(ああ、そうだ『自分』とは『そういう』存在だった――)目と鼻の先で、柔らかく微笑む美しい女性を唖然と見つめる。


 透き通るような瑠璃色の双眸と、けぶるような金色の髪。肌は陶磁器のように滑らかで輝き、柔らかな笑みを湛える唇は甘く色づいている。


 ここでイルゼは気がついた。柔らかくて温かだったのは、女性から伝わる身体の感触だった。良い香りだと感じたのは、そこに伴う馥郁とした彼女の香気だ。


「――あっ、ご、ごめんなさい!」


 イルゼは慌てて女性から離れる。まるで幼子が甘えて縋るかのように、イルゼは彼女の胸に身を預けていたのだ。


「もう大丈夫みたいね?」


 女性は少し首を傾げながら、イルゼの頬に指先を軽く触れさせる。


「ええと――は、はい……」


 イルゼは内心どぎまぎしながら頷いた。実のところ、いまいち状況が良く飲み込めていなかったが、この女性の存在が近くにあるというだけで今は何もかもが十分だと思えた。


 自分は今、とても赤い顔をしていることだろう。彼女はイルゼよりもずっと年上に見えるが、湛える微笑は少女のようにあどけなく、見とれてしまうほどに美しかった。


「それじゃあ、行きましょうか」


 すっと女性が音もなく立ち上がる。


「――え? どこへ? 何をしに?」


 女性の温もりが傍らから消え、イルゼは一気に心細い気分となった。


「本当のあなたを取り戻しに」

「え……い、嫌だ!」

「何故?」

「な、何故って……怖いから」


 イルゼは心細げに呟き、それから甘えるようにして女性を上目遣いに見た。


「ねえ、ここにいましょう? ここならきっと嫌なことはないと思うから。それにあなたと一緒なら、僕はさっきみたいに訳が分からなくなることもないから」

「いいえ、それは駄目よ。私はあなたの中の存在じゃないから。ずっと一緒にはいられないの。このままここにいると言うのなら、あなたは本当に一人ぼっちになってしまうわ。それでもいいの?」

「……じゃあ、あなたは何故、ここにきたの? 僕と一緒にいてくれるためじゃないの?」


 イルゼの問いかけに、女性は憐憫を含んだ表情でかぶりを振る。


「どうしてだよ……みんな、いつだってそうだ! 最後にはいなくなってしまうくせに! だったら始めから何もないほうがいいじゃないか!」

「いなくなってなんか、いないわ。あなたが自分から遠ざかっているだけ。あなたは今、闇から与えられた一面の記憶だけで、今までの人生で得てきた全てを消し去って終らせようとしている。それはとても哀しいことよ」


 女性はイルゼの癇癪を優しく受け止めて諭すように言葉を継ぐ。


「そうやってあなたが遠ざかるばかりでは、見失ってしまうのは当たり前。他者のほうだって、あなたを忘れ去ってしまうわ。今はあなたから動き出さなければ、物事は限られた側面からしか見ることができないの。隠された真実を知る機会は得られないのよ」

「そんなこと言ったって……やっぱり怖いよ」

「怖いと感じてしまうのは仕方のないことだわ。あなたは今、全てを奪われている状態だから。でも大丈夫。あなたはまだ、全てを諦めているわけじゃない。だからこそ私の声に気づいてくれたのだから。さあ、あなたがこのまま一人ぼっちにならないために、あなたのものを取り戻しに行きましょう。そして、闇に隠されてしまった真実を見つけに行くのよ。あなたには、それを目にすることのできる力がある」

「…………」


 イルゼは暫くの間、黙っていた。そして恐る恐る、問うてみた。


「あなたは何故、そうまでして僕に構うの? あなたも何か、僕に望むことがあるの?」


 この美しい女性も、自分に何かを求めているのだろうか。自分を利用しようとするだけで近づいてきたのだろうか――?


「あの子があなたを捜しているから」


 金髪の女性は静かな微笑を湛えて答える。


「あの子もまた、あなたを見失いそうなの。自分の存在があなたの助けにならなかったと思って傷ついている。でも、まだ、あの子もあなたのことを諦めてはいないから大丈夫」

「……『あの子』って?」


 イルゼは問うたが金色の髪の女性は答えず、ただ柔和に微笑んだ。


「私は、あなた達の手助けをしたかったからここにきたのよ。私の愛しい子が、あなたと再び出会えるように。あの子はあなたのことが大好きだから」


 クスクスと女性は楽しそうに笑った。そんな彼女を見てイルゼは訊ねる。


「ねえ、あなたは、その子のものなの?」

「ええ、そうよ」

「……いいな、その子は。あなたのような人がいて」

「あなたにだって同じように大切な人達がいるはずよ。今は闇に隠されて見えなくなっているだけでね」


 金の髪を持つ女性はニッコリと笑った。一瞬、イルゼは何かを思い出しそうになる。自分は最初から彼女を知っていた。……いや、そうじゃない。彼女と、とても良く似た笑顔を自分は知っているような気がする――


「私もあなたを良く知っているわ、イルゼ。意地っ張りで強がりで、泣き虫のほうっておけない子――。私のいる場所は、あの子が大切だと想う存在しか、いられないところだから」


 そう言って彼女は微笑むと、イルゼに手を差し伸べた。




「セレファンス様? ご気分でも優れないのですか?」


 レシェンドは自身の主である金髪の少年――セレファンスを慮るようにして見た。


 ここはインザラーガ離宮の薄暗い廊下。そんな中を金髪の少年が険しい顔つきで黙々と歩き続けていたからだ。


「あ……いや、ちょっと、色々なことを考えてただけだ」


 なんでもないといった表情をレシェンドに向けてから、セレファンスは少し前を歩く青年に声をかけた。


「なあ、カルカース、あんたってさ、末端とはいえエスティア王族の血を引いてるんだよな? だったらある程度は〈マナ〉や〈ディア・ルーン〉については詳しいんじゃないのか?」

「知識はある。だが、どちらも私は使うことができない」

「使えない?」

「そうだ。私は君達のように〈マナ〉を顕現できる才能を持たない」


 隣を歩き始めた少年を目線下に見やってカルカースは言った。


「んー……じゃあさ、俺には〈ディア・ルーン〉を扱うことはできないんだろうか?」


 そんなセレファンスの疑問を聞いて、カルカースは不可解そうに眉根を寄せた。


「君はすでに理解していると思っていたが? 〈ディア・ルーン〉は知識があるからといって誰もが扱える代物じゃない」

「分かってるさ、それくらい」


 セレファンスは不機嫌そうに口元を引き結ぶ。


「俺は何度か試しに〈ディア・ルーン〉を口にしたことがある。だけどイルゼのように何らかの現象を起こすことはできなかった」


 セレファンスは苦々しそうに溜め息をついた。


「あいつは、ただ歌うように口にするだけでいいのに。あんたはエスティアの人間だろう? 他の人間でも〈ディア・ルーン〉を上手く扱える方法を何か知っているんじゃないのか?」

「君は何故、その力を望む? 祖国リゼットのためか、それとも己の優越のために強大な力が欲しいのか?」


 カルカースの冷ややかな声にセレファンスは眉を吊り上げた。


「そういうんじゃない! ……そりゃ、あいつが〈ディア・ルーン〉を扱えるのを見て少し悔しいとは思うさ。できることなら俺は、自分の力で母の遺志を継ぎたかったんだ。でも今はそんなことより、あいつが苦しそうな顔をするから……イルゼはセオリムの一件以来、力を使うことを極端に怖がってるんだ。だけど〈闇からの支配者〉が望む〈界の秩序の崩壊〉を回避させるためには、どうしても〈ディア・ルーン〉の力が必要だ。だったら、そんなに嫌な思いをさせるくらいなら、代わってやれるものなら代わってやりたいって思うじゃないか」

「残念だが、あの力は君には扱えない」


 カルカースは結論から言った。それにセレファンスは肩を落としながらも更に詰め寄る。


「どうしてだ? そりゃあ、俺は未熟だけど〈マナ〉を扱うことはできる。だったら少しくらい、可能性は――」

「君の顕現できる威力の強い〈マナ〉は、君の資質はさることながら、それ以上に風の精霊からの深い寵愛があるが故だ。風の精霊達が純粋に君という存在の魂を愛し、手を差し伸べて力を貸そうとする。……まあ、精霊から深く愛されるというのも類稀な天性だろうが」


 そう言ってカルカースは諭すような眼差しを金髪の少年へと向けた。


「だが、イルゼは次元が違う。あの子は精霊に頼らずとも〈ディア・ルーン〉を詠唱することによって神の領域から〈神に属する力〉を譲り受ける資格を持つ。そうして手にした強大な力を無属性の〈マナ〉に顕現することができる。それは何物にも縛られず、どんな色にも染まる自由な力――いわば、創造にも破壊にも繋がる力だ。だからこそ〈闇からの支配者〉はイルゼを欲する。生まれながらにして、あの子は類い稀な特質を持つんだ。だがエスティア王族であれば誰にでも備わる資質ではない。恐らく今の世で、あの子だけが〈ディア・ルーン〉を扱えるのだろう」

「つまり俺の力じゃあ、あいつの助けや支えにはならないってことか」

「いいや、そうじゃない。イルゼにはイルゼの、君には君のできることがあり、やるべきことがある。それさえを見失わずに理解していれば、君は君の為すべき時に為すべき事が分かるはずだ」


 そう言ってカルカースは穏やかに澄んだ双眸を金髪の少年へと向けた。すると彼はおもむろに鼻じろんだ顔つきになる。


「なんだ?」

「いや、別に。ただ、なんか――イルゼが俺よりも、あんたを頼ってアドニスまでくっついていった理由が良く分かったような気がするって思ってさ」


 面白くなさそうに呟く少年に、カルカースはどこか渇いた調子で笑った。


「イルゼは私に、養父の面影を無理やり見出そうとしていただけだ。彼にとって養父であるダグラスは、無条件で自分を愛してくれる存在だったのだろう。全てを失い、絶望の淵にいたイルゼが無意識のうちに望んだのは、すでに失われて久しい養父のそれだった。そんな時に丁度良く傍にいた私に目が向いただけだ。イルゼは私に幻想を抱いていただけに過ぎない。私も彼の望むように振舞っていたところがあったしね」


 そんな穿った青年の言い分に、セレファンスは特に何も言わなかった。ただし、物言いたげな表情は浮かべていたが。

 少年の視線に気がついたのか、カルカースは自嘲気味に苦笑する。


「……どうも君には余計な話をしてしまうようだな。だが、のんびりとお喋りができるのもここまでだ」


 そう言ってカルカースは振り向いた。


「セレファンス皇子は泳ぎはお得意か? それにレシェンド殿は?」

「は?」


 出し抜けの質問に、セレファンスは間の抜けた声を出す。レシェンドも怪訝な表情で青年を見た。




 イルゼは暗闇に浮かぶ光景に心を捕らわれていた。それは金色の髪を持つ謎の女性に導かれて、最初に捜しあてた『もの』――


「お母さん」


 光景の中にいる人物を見て、イルゼは知らず知らずのうちに呟いた。そうやって言葉にすると、心には様々な感情が満ち溢れた。今までどこに失っていたのかが不思議なほど、それは確かにイルゼの中から生じた『もの』だった。


 だが、その大半は悲しみで、取り戻したことを後悔するほどに苦かった。イルゼの双眸からは感情に比例して大粒の涙が零れ続ける。


「何故、泣くの?」


 金の髪を持つ美しい女性がイルゼへと訊ねた。


「だって……アラリエルお母さんは、僕を疎んでいたから。恨んでいただろうから。僕のせいで、死んでしまったから」


 イルゼは悲痛に答えた。すると女性は、いいえ、とかぶりを振る。


「あなたのお母様は、あなたのことをそんなふうには思っていらっしゃらなかったわ。ほら、見てご覧なさい――」


 女性が指さす先には、アラリエルがいる。以前にも見た場所、同じような風景。生まれたばかりの緑葉が光に透け、柔らかな風が煌めきを躍らせる。


 ただ違うのは、アラリエルの傍らにいるのは養父ダグラスではなく、凛然とした気品を持つ黒髪の女性だった。そしてもう一つ違うのは、椅子に腰かけるアラリエルの姿と表情――


 アラリエルは僅かに膨らんだ腹に手を添え、少しばかり眠たそうに、だが柔和な微笑みを浮かべながら小さく何かを口ずさんでいた。大型の椅子に預ける彼女の身体は儚げで細々しく、決して健やかとは言い難かったが、その表情は安らかな慈愛に満ちていた。


「アラリエル様? お歌を歌っていらっしゃるの?」


 傍らの芝生に座る黒髪の女性が、不思議そうにアラリエルを見上げる。そして、ほうっと感嘆したように溜め息をついた。


「なんというか、とても不思議な響きの言葉――。意味は分からないのですけれど、知らず知らずのうちに聞き惚れてしまいました。それはエスティアに伝わる子守歌ですか?」


 首を傾げて問う黒髪の女性に、アラリエルは微笑んでかぶりを振る。


「いいえ、これはこの子を守るための祈り。私がいなくとも、この子が守られ、この世界を生きていけるように――」

「……そんな、いなくともなんて」


 黒髪の女性は顔を曇らせる。


「お身体のほうなら、きっとすぐに良くなります。ですからこうして毎日、陽光に当たるようにいたしましょう。暖かくなってきましたから、東屋で茶会を開くのもいいですね。お気弱になられることなど、何一つありませんわ」


 黒髪の女性の励ましの言葉に、アラリエルは儚く霞むような微笑を返す。


「私の心は、もはや闇に捕らわれています。私は一人の女として、愛する人に添うことはできませんでした。ですがせめて母親としては、この子を愛して最期まで守りたいの」

「……アラリエル様……」


 彼女達が存在する眩い光景がイルゼの前から徐々に薄れていく。それが完全に闇の中へと消え去った時、イルゼは茫然と「こんなのは嘘だ」と呟いた。


「何故、嘘だと言えるの?」


 イルゼの傍らに立つ金髪の女性が問う。それにイルゼは顔を歪めて言葉を吐き出す。


「だって、お母さんが僕を愛してくれるわけがない。あなただって女の人だから良く分かるでしょう? 愛してもいない男の子供を身に宿す苦しみと辛さが」


 悲愴な少年の声に、金の髪の女性は微かに双眸を伏せた。


「確かに苦汁の末に宿ったあなたを愛することは、アラリエル様にとって難しいことだったでしょう。ですが今、あなたが見た光景は紛れもない真実。何故ならば、それこそがこれからあなたが生み出す最大の奇跡だから」

「――え?」


 イルゼの怪訝な問い返しに、金髪の女性は微笑んだ。


「さあ、行きなさい、イルゼ――あなた自身を救いに。あなたの母に闇から耐えうる希望を与えるために。そしてこの世界を、フォントゥネルを救う術を得るために」

「なっ……! ま、待って!」


 途端、移ろい始めた女性の姿にイルゼは慌てて手を伸ばす。だが、その手は空を切って地に落ちた。その瞬間、イルゼは置き去りにされた自身を認識する。


「まっ、待って……! 待ってよ! 置いていかないでよっ!」


 イルゼは小さな子供のようにして泣き叫ぶ。


「どうして――どうして、みんなして僕を苦しめようとするんだっ……? もう、どうだっていいじゃないか! もうこれ以上、なんで辛い思いをしなきゃ……っ!」

『もう嫌っ……! もうこれ以上、私を苦しめないで!!』


 イルゼの嘆きを遮るかのように、悲痛な叫喚が暗闇に響き渡る。


「――え……だ、誰?」


 イルゼは悲しみを忘れて周囲を窺った。


『……あなたこそ、誰?』


 悲痛な声の主が、驚き戸惑ったように問い返してくる。

 途端、周囲を強風が巻き、見渡す限りが広い草原へと変化した。


 どこまでも続く緑の絨毯、雲一つない薄い色合いの青空。だが、どこか平面的で現実感がない。光はあるが輝きがない。そこには虚無感のような薄っぺらい空気が漂う。


 そんな風景の中にただ唯一、存在感と美しさを併せ持つ少女――アラリエルは立っていた。彼女の姿は恐らく十六、七歳の年齢。それはちょうどイルゼを身ごもる頃合いだ。


 イルゼは相手を、相手はイルゼを、驚愕の表情で見つめる。


「……あなたは、誰……?」


 アラリエルが再度、同じ質問を繰り返す。


「僕、は……」


 イルゼは答えられなかった。当然だ、なんと答えればいいというのか。いや、それよりも何故、アラリエルが自分を認識できるのか。今まで巡ってきた風景の中で、彼女の双眸がイルゼを捉えることなど一度だってなかったというのに。


「迷子? だから泣いていたの……?」


 恐る恐るといった様子で、アラリエルはイルゼに近づいてきた。だが少年のほうは反射的に後退ってしまう。


 と、ここでイルゼは妙なことに気がついた。自身の身体が、あまりにも頼りなげだったことに。


 イルゼは思わず自身の体型を顧みる。目にしたそれは一つ一つの部位が細くて小さい。目の前にかざした両手の平は面積が狭く指も短かった。それらはまるで小さな子供のものであるかのような――いや、まるでも何も、そのものの姿をイルゼはしていたのだ。


 イルゼは愕然とする。自分の身に何が起こっているのか、全く理解ができなかった。


 戸惑う少年の姿を目にしながら、アラリエルは小さく首を傾げた。そして幼い子供の姿になってしまったイルゼを覗き込むようにして見る。


「迷子なのなら一緒に行きましょう? 私も迷子なの。帰りたいところがあるけれど、帰れないから――」


 哀しそうに呟き、アラリエルは白くほっそりとした手を差し伸べてきた。イルゼには何がなんだか分からなかったが、その手を拒むことはできなかった。


 イルゼとアラリエルは連れたって歩き始める。どこへ向かうとも知れずに。


 暫くしてからイルゼは、母である少女をそっと見上げてみた。今の彼はアラリエルの腰辺りの背丈しかなかったので、それにはかなり首をもたげる必要があった。アラリエルの手はイルゼの手と繋がってはいたが、彼女の視線は懸命に何かを探し続けており、少年に向けられることはなかった。


 これほど近くにいるというのに、イルゼは母である少女を遠くに感じた。


「……ねえ、何を捜しているの?」


 イルゼは母の関心を引きたくなり、遠慮がちに問うてみた。するとアラリエルは初めて彼を見下ろした。


「私、エスティアに帰りたいの。エスティアは私の国よ。そこには私の大切なものが全てあるから」


 エスティア――それはアドニスに攻め入られ、この世から消されてしまった彼女の故郷。


 ではこの少女は、すでに失った故郷を捜し求めて彷徨っているのだろうか?


(それにしても、ここは一体、なんなのだろう? もしかして過去の世界とでも? でもそれなら僕が存在するのはおかしいし……だったら単なる僕の見ている夢?)


 夢を夢だと認識できる夢をイルゼは時に見ることがある。だが、それにしてはあまりにも鮮明な夢だ。


(……大体僕は、なんでこんな夢を見ているんだろう? それに、いつ眠ったんだ? ……ええと――あれ? そういえば――ああ、そうだ、誰かに何かを言われた気がするな。僕にはするべきことがあるから、だから行けって。――うん、そうだ、なんとなく思い出してきた。でも、そのするべき内容は、忘れてしまったけれど……)


 イルゼが煩悶として考え続けていると、急にアラリエルが立ち止まった。


「どうしたの?」と問う前に、アラリエルはイルゼの手を放し、行く手に見えていた小川まで駆けていく。


 川の向こう岸には長く連なって、一方向に向かって歩いていく人々の集団があった。


「ああ……! お父様、お母様! それにターナも! 良かった――やっと会えたのね!」


 アラリエルは喜色満面に叫ぶと、躊躇いなく小川へと足を踏み入れた。


「だ、駄目!」


 イルゼは薄ら寒いものを感じて思わずアラリエルにしがみつく。


「――何? 邪魔しないで。放してちょうだい」


 アラリエルは咎めるようにしてイルゼを見下ろした。そして、そのまま構わずに小川を渡り始めようとする。


「駄目だったらっ……あっちへ行ったら! だって、あそこにはカルカースさんはいないよっ!」


 イルゼは懸命に叫ぶ。

 そうだ、あそこにカルカースはいない。いるはずがない。あれは死者のみが加わることのできる葬列なのだから。


 イルゼの必死の制止にアラリエルは動きを止める。


「何故、あなたがカルカースを知っているの?」


 大きな瞳を更に大きくして、母である少女はイルゼを見る。


「ぼ、僕は……」


 そこまで言い淀み、イルゼは突如として思い至った。


(ああ、そうか、分かった――僕が、ここにいる理由が。自分の為すべきことが)


 それは以前、アラリエルと同じ刻に自分が存在できるのならば、望むべくことだと思ったのだ。


(これは確かに奇跡だ。今の僕が、彼女の過去を変えることができるのならば)


 きっと今ならば、自分はアラリエルの心を救えるのではないか? アラリエルをカルカースの元へと連れて行ってあげることができるのではないか?


(だったら、それを為せるのならば、僕はどんなことでも甘受できる)


 イルゼは心の中で嬉しくて泣き出したい感情を抱く。思いが定まると、とても晴れやかな気分になった。


 イルゼは微笑んでアラリエルを見上げた。そして穏やかに告げる。これほど真摯で滑稽な言葉もないだろうとイルゼは思った。


「アラリエル様、僕は神様に遣わされた妖精なんです。だから、あなたをあなたが望む場所へと連れていって差し上げます。あなたが唯一、愛する青年のもとに。それが僕の役目なのですから」


 そう言ってイルゼは、この上もなく優しくアラリエルに微笑んでみせたのだった。

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