第44話 過去を巡り

「先程もお教えしたことですが、フィルファラード大陸の主であったのは〈闇からの支配者〉ではなく〈神の使い〉達でした。聖皇シエルセイドの真なる姿は〈闇からの支配者〉を倒した英雄ではなく、神の代理人たる彼らを害した『神への反逆者』だったのですよ」

「……そんな話、神話には少しも出てこない――」


 聞かされた説明にイルゼが唖然として呟くと〈闇からの支配者〉は容赦なく嘲笑した。


「歴史は勝者が創るもの。たとえ神の眷属であろうとも負ければ悪徒にされる。事実など勝者の前では無に等しいものです。いわば貴方達は神を侵しながら生き続けてきた者達。神に刃を向けた悪徒シエルセイドの血を引く忌まわしき一族――ですが同時に、神に属する聖血をも宿している」


 秘密事を囁くような声で〈闇からの支配者〉は言った。


「貴方達の始祖は、アステカ国の王子であったシエルセイドと太陽神の娘とされるリースシェラン。彼らという素材を用意するために私は様々な根回しをしたものです。まずアステカ国王に弟王子であるシエルセイドへの不信感を植えつけ、王都から彼を遠ざけさせました。次にシエルセイドには当時は〈神の使い〉によって管理されていたフィルファラード大陸に攻め入り、自身の支配下に置くことを勧めました。兄王からの不当な扱いに不満を募らせていたシエルセイドは、容易く私の思惑へと乗ってくれましたよ。私はシエルセイドの大陸侵攻が上手く進むよう、あらゆる手助けをしました。最たるのが〈神の使い〉を無力化する呪術を伝授したこと。彼らは〈神に属する力〉という不思議な力を持つ者達でしたからね。それを封じ込めないことには、シエルセイドの大陸平定は有り得なかったのです」


 それからさほどの年月を必要とせず、シエルセイドは大陸の平定に成功したという。そして同時に多くの〈神の使い〉の奴隷を得て、その中にいた一人の美しい少女を皇妃として召し上げた。それがリースシェランだった。


「もちろんリースシェランは、望んで皇妃となったわけではありませんでした。奴隷として捕らえられた仲間達の身の保障を得るために、仕方がなく甘受した条件だった。リースシェランに限ったことではありませんが〈神の使い〉には〈神に属する力〉のほかにもう一つ、特殊な能力があった。それをシエルセイドは強く望んだのです。その力とは不老不死。〈神の使い〉である者と定期的な交わりを持つ者は、彼らと等しく不老不死が得られる――。それが三百年もの間、シエルセイドが老いることなく、フィルファラード大陸を支配し続けられた理由です」


 だがフェインサリル建国から三百年後、その御世に終わりが訪れる。しかし、それも〈闇からの支配者〉である彼の意思によるものだった。


「〈神の使い〉達は三百年間、一般の人々の目に触れることなく、フェインサリルの地下に捕らわれ続けた。大陸の歴史に彼らが存在しない理由はこのためでしょう。シエルセイドは〈神の使い〉を最大の機密事項として隠し続けていましたから。いわば歴史の闇に葬り去られた存在だった。一方のリースシェランは、聖皇シエルセイドの皇妃として歴史の表舞台に立っていました。その立場は違えど、彼らは常にフェインサリルの地に張り巡らされた呪力によって捕縛され、それぞれの運命から逃げ出すことはできなかったのです。ちょうど、この部屋に捕らわれる今の貴方のように」


〈闇からの支配者〉はイルゼの無念さを見透かしているかのように笑った。


「正直、シエルセイドは地下に捕え続けている〈神の使い〉達を持て余し始めていた。彼にすればリースシェランだけで事が足りたのですからね。とはいえ〈神の使い〉達を野放しにすることはできないし、かといってリースシェランの手前、彼らを幽閉する以上のことはできなかった。当初は不老不死が最大の目的だったのでしょうが、シエルセイドは三百年もの時を共有したリースシェランを深く愛して慈しむようになっていました。だからこそ彼女が悲しむような真似はできなかった」


 リースシェランは度々、地下に捕らわれていた仲間の元に訪れていたという。それに対してもシエルセイドは良い顔をしないまでも、リースシェランを咎めることはしなかった。


「シエルセイドは不老不死を得たとしても、やはり感性は人間のものだったのでしょう。三百年という刻を悠久のものだと錯覚してしまった。同時にリースシェランが自分を唯一無二の伴侶であると認めるのに十分な時間だとも考えていた。しかし生まれながらにして不老不死の生命を持っていたリースシェランにとれば、三百年は永遠の中の極一部でしかなかった――」


〈闇からの支配者〉は何かを思い出したかのように苦笑した。


「リースシェランには元々、永遠の愛を誓った伴侶がいたのです。相手は同じ〈神の使い〉の青年で地下に捕らわれていた一人。人間の愛は身体の結びつきを重要視しますが、元々は〈叡智界〉という精神だけの世界に存在していた彼らは違う。魂同士のまぐわいを愛の形としてきた者達です。永遠に魂で結ばれあった二人に、シエルセイドが敵うはずもありませんでした」


 その裏切りを〈闇からの支配者〉に知らされたシエルセイドは激怒して〈神の使い〉を皆殺しにしようとした。しかし時はすでに遅く、三百年の間、フェインサリル脱出の機会を密やかに狙っていた〈神の使い〉達は、呪術を破ってリースシェランと共に姿を消した。


「その後は神話の通り。シエルセイドはリースシェランを捜し求めてフェインサリルをあとにし、それから頻発するようになった地震で皇国周辺の地殻変動が始まり、果てはインザラーガの主峰が隆起して聖皇国は壊滅――そうして落ち延びた皇統は、東西南北に散って分裂するに至ったのです」

「それが、皇国の真実……でもリースシェランと〈神の使い〉達は一体どこへ?」

「彼らは元々、精神のみの存在。肉体を捨てて故郷である〈叡智界〉に戻ることが可能なのです。すでに〈神の使い〉は〈現象界〉にとどまる理由を失っていましたから」

「……失っていた?」

「この世界は、すでに神々の関心から外れて見捨てられています」


 この世界は神々から見捨てられている――その言葉にイルゼは息を飲む。だが〈闇からの支配者〉は大したことではないかのように話を続ける。


「それを知っていたからこそ、私はシエルセイドにリースシェランの裏切り――いえ、真実を明かしたのですからね。解放された〈神の使い〉が、この世界を去るであろうことは予見できました」

「それじゃあ、シエルセイドは」

「不老不死を維持するためには〈神の使い〉との定期的な交わりが必要です。リースシェランを失ったシエルセイドには、それを維持する術はありませんでした」


〈闇からの支配者〉の答えを聞いてイルゼは溜め息を禁じを得なかった。聖皇とまで讃えられた男の知られざる運命の結末。幼い頃から聞き親しんだ英雄譚は全て欺瞞であり、その憧憬を崩された感覚はディオニセスとアラリエルの真実を知った衝撃に似ていた。だがシエルセイドはディオニセスとは違い、少なからず伴侶を想っていたという。それを考えるとイルゼは完全に彼を侮蔑することはできず、その哀れな末路に憐憫を抱かずにはいられなかった。


「哀れだと思われますか? シエルセイドが」


〈闇からの支配者〉はイルゼの心中を察したかのように言った。


「ですが、ご心配には及びません。彼には希望が残されておりますから」


 その説明なき気休めに対してイルゼは怪訝に眉を顰める。そんな彼に〈闇からの支配者〉は続けた。


「シエルセイドの願いは〈叡智界〉に帰還したリースシェランを再び取り戻すこと。それを叶える手段が、たった一つだけあるのです。それこそが、私の渇望する〈界の秩序の崩壊〉というもの――」


 そう言って〈闇からの支配者〉は恍惚とした表情をイルゼに向ける。


「それは全ての隔たりが消失する現象。〈叡智界〉や〈現象界〉といった界の個体は消失し、神や精霊、妖精や人間といった区別さえも無くなる。そうして区別のなくなった総てが混じり合い、一つに収束し、その結果として誕生するのが万物の海。かつて全ての界の創始にあった混沌なるモノであり、それこそが唯一至高と呼べる存在。それが具現化した時にこそ『我ら』は総てを手にし、無二の存在となれる――」


 ここで恍然とした表情を浮かべていた〈闇からの支配者〉がイルゼを見た。


「イルファード皇子、貴方は〈界の秩序の崩壊〉を実現するのに必要な〈鍵〉なのです。そしてシエルセイドは最愛の存在にして憎悪の対象であるリースシェランとの融合を望み、我が意思を受け入れた〈破壊の王〉」

「……何を、言って」


 咄嗟にイルゼは理解できなかった。だが、そこに自分が重大な関わりを求められており、その思惑が成就した時、想像を絶する凶事が巻き起こるのだと予想はできた。


「あの時、シエルセイドは自分を捨て去ったリースシェランに対する慕情と憎悪で心を乱しながら、刻一刻と死に向かっていた。そんな絶望の淵にいた彼に私は慈悲の手を差し伸べたのです。そしてシエルセイドは、その手を迷わずに取った。彼は今、ここインザラーガの地下で〈鍵〉である貴方の訪れを待ち望んでいます」


 無慈悲に容赦なく〈闇からの支配者〉は続ける。


「全てはそのため。そのために貴方はここにいる。本来ならば、ここまで回りくどい状況になる予定ではなかったのですがね。セオリムの村では思わぬ邪魔が入ったおかげで、貴方を闇に捕らえる機会を失した」

(……セオリムの村……!)


 それは陋劣な欲望に蹂躙され、炎の中に消えたイルゼの故郷。少年の日常を優しく包んでくれた人々があり、いつも最愛の笑顔があった幸福そのものの場所。


「……そうか、そうだった――全ては、お前が元凶だったんだ」


 惑乱とした自分の中で、たった一つ、明白な事実。


「お前さえいなければ、僕はこんな辛い思いをせずに済んだんだ……思い知らされる絶望に怯えることもなかったんだ――……お前さえいなければ、僕は今もフィーナと幸せに暮らしていたはずだったんだ!!」


 あったはずの幸福を口にした途端、イルゼは狂乱的な感情の捌け口を見出した。目映い閃光のような激情は、イルゼの脳裏を真っ白にし、理性というものを完全に吹き飛ばす。


 イルゼは甚だしく憎い男へと勢い良く掴みかかり、頭巾に覆い隠された顔面を思いっきり拳で殴りつける――はずだった。しかしそれは単にイルゼの脳裏に閃いただけの願望であり、非情にも現実のものとはならなかった。


「……やれやれ、イルファード皇子は優しげな面立ちに似合わず、なかなか激としたものをお持ちだ。まあ、それはセオリムの村でも立証されていたことですがね」


〈闇からの支配者〉は平然とした様子で、床に転がったイルゼを見下ろした。

 この男の周囲には見えない膜のようなものが張り巡らされており、それに突っ込んだイルゼは弾かれるが如く床に倒れ込んでしまったのだった。


「僕は、絶対にお前を許さない……! 誰が、お前の言いなりになどなるものか!!」


 イルゼは〈闇からの支配者〉をありったけの憎悪を込めて睨みつけた。


「……全く人間というものは本当に被害者ぶるのが上手い。その因縁を考えようとはせず、自分とは関係のないところで成立するものだと思っている。ですがそれは間違いであり、貴方が私を恨むのは筋違いというもの。この世界で成立する宿命は、全て貴方達、人間の原罪を源流としているのですから。フィーナという娘の死に関しても、いうなれば過去に起こった悲劇の代償とでも申しましょうか――」

「何を訳の分からないことを!」

「ご理解いただけないこととは分かっております。貴方は今、私を酷く敵視しておいでですからね。ですが、これだけはお伝えしておきましょう。私に協力するということは、今の貴方にとっても意義のあることなのですよ。シエルセイドと同様にね」


 そう言って〈闇からの支配者〉は艶のある笑みを口元の形とする。


「先程からも言っている通り、私の望みは全ての秩序の崩壊であり、この世の理を覆すこと。それが実現されることになれば、光と闇は入り乱れ、全ての世界は隔たりを失う。神々の存在する世界、光の眷属がある世界、さらに死者達の集う世界も、一つの空間となって収束し、我々の前に現れるのです。さすれば貴方の愛おしい少女も、貴方の元へと舞い戻りましょう――」


 その囁きにイルゼは息を飲んだ。

 ただ単に最愛の少女を取り戻すことだけを考えるのならば、それはなんて抗いがたい誘惑だろうか。恐らくシエルセイドも、このように甘い囁きを受けたのだろう。そして彼はそれを受け入れてしまった。


 ……もしも自分がフィーナを失って間もなく、この誘惑を聞かされていたのならば――恐らく抗いきれなかったに違いない。


「あなたは忘れたわけではないのでしょう? 愛しい少女の温もりを。その吐息のような熱い囁きと、甘く柔らかな口づけを――」


〈闇からの支配者〉は自己陶酔したような声で更にイルゼを唆そうとする。そうだ、忘れたことなどない。それは今もイルゼの中で克明と残り、彼を苛み続けているのだから。少女の明るい微笑みを思い出すたびに現実の残酷さを思い知らされて、少年の心は絶望に掻き乱されるのだから。


 イルゼは一度、目を閉じ、感情を鎮めるようにして深い息をつく。そして静かに双眸を見開くと〈闇からの支配者〉を真っ直ぐに見た。


「あいにくだけど僕は、あなたに協力する気なんて少しもない」


 イルゼはきっぱりと揺るぎのない口調で言った。もう二度と自分は、自分を信じてくれる人達を裏切るような真似はしないと誓ったのだから。


 そんなイルゼの決意を悟って〈闇からの支配者〉は幼子の我が儘を咎めるような溜め息をつく。


「どうやらあなたは御父君や聖皇殿とは違って、この世界に余計なものを多くお持ちのようだ。貴方は知らなさ過ぎる。貴方が許容する己というものが、いかほど泡沫に近い不安定な存在であるのかということを」


 突如、イルゼの眼前がぶれる。そして次に視界が開けた時には、墨で塗り潰したかのような空間が広がっていた。


「なっ……! 一体、何をしたんだ!」


 イルゼが声を荒げるのに対して〈闇からの支配者〉はゆったりとした口調で応じた。


「ご心配なく。貴方に危害を加えるつもりはありません」

「そんなの信じられるものか! さっさと元に……!」

「しっ、ほら、始まりますよ。あちらを見てご覧なさい」


〈闇からの支配者〉は口元に当てた人差し指をイルゼの後方へと差し向けた。イルゼは眉を顰めながらも、その動きに引かれて振り返った。


 イルゼが向けた視線の先には、薄らぼんやりとした人影が見えた。薄青の衣に身を包んだ少女……だろうか。それは確かな姿を見せてはいなかったが、その小柄な背丈と服装の様子からイルゼはそう思ったのだった。


 それを認識した途端、周囲は暗黒の世界から光り輝く草原へと移り変わる。それと同時に、そこにいた人影も鮮明になった。


 やはりそれは少女だった。自分と同じか、いくつか下の年頃だ。イルゼは急激な眩しさに顔をしかめながらも、彼女に意識を向け続けた。


 少女は何かを待つようにして透き通った空を見上げ、所在なげにその身を風に吹かせていた。背まで流れる艶やかな青銀色の髪に、愛らしく瞬く青色の双眸。その肌は触れると汚れてしまうのではないかと思えるほどに白く、薄紅に色づいた唇はあどけなく結ばれていた。たおやかに伸ばされた身体はあまりにも細く感じられ、それは他の力強い支えを必要としているかのようだった。


 その全てが夢幻のように繊細で、少女は息を飲むほどに美しかった。


(あれは――まさか)


 イルゼは彼女に見覚えがあった。だが実際に出会った人物ではない。アドニスの宝物庫に保管されていた母の肖像画――彼女はまさに、あの中に描かれていた少女だったのだ。


「お分かりになりますか? あの御方こそ、貴方の御母君――アラリエル様です」


〈闇からの支配者〉の声を聞きながらイルゼは少女を凝視した。


 ではこれが、自分にとって初めてまみえる母なのだ。自分を産んだ直後に亡くなった母。本来ならば動く姿を目にすることなど叶わなかった母――


 闇の力で生み出された光景だったとしても、その動作を一瞬でも見逃したくはなかった。


 それにしても、なんて綺麗な人なのだろうか。絵画で見た時も、その美しさには圧倒されたが、あの時の比ではないくらいに今のイルゼは感銘と誇らしさのようなものを感じていた。


 話しかけたい、少しでもいいから言葉を交わしてみたい――そして自分の姿を彼女の瞳に映し出したい。そうしたら母は、自分をなんと思うのだろうか?


 その願望を叶えるためにイルゼはそうっと足を踏み出した。すると少女が思いがけずにこちらを振り向いたので、イルゼは驚いて歩みを止める。母である少女が「何かしら?」と確認でも取るように自分を見つめた。


 思えば、この頃の彼女は自分のことなど知らないだろう。もしも話しかけて変な奴だと思われたらどうしよう? いや、それよりも、あっちへいってなどと冷たくあしらわれでもしたら――


 だが次の瞬間、イルゼの杞憂は打ち消された。少女が――母が、この上もないほどの喜びを露わにし、無邪気に笑いかけてきたのだ。


「あ……!」


 イルゼは止めていた歩みを再び動かそうとした。そして「お母さん」と呼びかけ、少女の傍らに近寄ろうとした――その時。


「カルカース!」


 少女は一つの名を叫ぶと、こちらに向かって駆けてくる。そしてイルゼの横を軽やかな風のように過ぎ去り、その先にいた青年に飛びついた。


「アラリエル様……!」


 青年は驚きの声を上げながらも、小鳥のように飛び込んできた少女の身体を抱き止める。


 イルゼは信じられない思いで唖然とした。少女の笑顔が自分に向けられたものではなかったということに対してではない。少女が笑顔を向けた相手が、自分の良く見知った者だったからだ。

 目の前で母を抱きとめた青年は、自分を殺そうとしたカルカースにほかならなかった。


「アラリエル様、またお務めを抜け出されましたね? さあ、王宮へ戻りましょう。皆が心配しております」


 凛々しい騎士姿の青年――自分が知っているよりも随分と若いカルカースは、アラリエルの身体をぎこちなく離すと、幼い子供に言い聞かせるような声で語りかける。だが少女は、いやいやと首を横に振った。


「もう少しだけ、いいでしょう? せっかくここまできたんですもの。もう少しくらい」

「アラリエル様……そうはおっしゃいますが、いつも少しだけではなく、陽が山の頂にかかるまでお遊びになるではありませんか。毎度これでは、私が侍従長のお叱りを受けてしまいます」


 自重を求めるカルカースに、アラリエルは面白くなさそうに軽く小さな唇を突き出した。


「だったら怒られればいいのだわ。私よりも、侍従長のご機嫌のほうが大切なカルカースなんて!」


 そう言ってアラリエルはカルカースに背を向けると、色鮮やかな花々が咲き乱れる場所に座り込んでしまった。青年は暫くの間、全く帰る素振りを見せない少女に困ったような表情を浮かべていたが、やがて諦めがついたのか、おもむろに彼女の傍へと歩み寄っていく。


 少女は自分の上に落ちた影に気がついて仰ぎ見ると、影の主に向かって勝ち誇ったように、だが嬉しそうに笑った。影の主であった青年も、彼女の傍らに膝をつきながら柔らかく微笑む。


 カルカースはなるべく綺麗なものを選ぶようにして花々を摘み取り、それらを受けとったアラリエルは可愛らしい花冠を丁寧に編んでいく。青年は出来上がった冠を少女から手渡されると、彼女の淡く輝く青銀色の髪にそっと乗せてやった。


 そうして二人は身を寄せ合って幸せそうに笑い、お互いを慈しむ感情から生まれる甘く柔らかな時を共有しているようだった。


(そんな……こんなことって――!)


 かつての自分とフィーナを想起させるような仲睦まじい二人の様子を見てイルゼは愕然とする。

 その時を狙ったかのように〈闇からの支配者〉はイルゼの耳元で囁いた。彼らは将来を誓い合った仲だったのですよ、と。


 では……では母は、カルカースと恋人同士だったということなのか? そして実父であるディオニセスは、そんな二人を引き裂いて無理やりに――そして、その末に自分が生まれた。カルカースが自分を殺そうとした理由はこれだったのだ!


 ここで場面が切り替わる。色とりどりの鮮やかな光に満ちた草原から、怒号の轟く紅い炎の戦場へ。


「ここは戦禍に悲鳴を上げるエスティアの王宮です」


 再び〈闇からの支配者〉の低い声がイルゼの耳元に寄せられる。


「アラリエル様……! アラリエル王女はいずこか!!」


 これはカルカースの声だ。そう思ってイルゼは振り向く。

 振り向いた途端、息の荒いカルカースがイルゼの横をすり抜けていった。


「アラリエル様! アラリエル様っ!」


 悲痛な声を繰り返しながら、カルカースは石畳の上を駆けていく。その身は血と汗と泥にまみれ、重々しい疲労感を身体中に張りつけていた。先程の幸せな風景からは、悲しいほどに程遠い姿だった。


 と、そこに通路の横から現れた男達が、単独のカルカースに問答無用で斬りかかった。それら多勢の攻撃をカルカースは鋭い太刀で撃退していく。この青年の剣さばきは全くもって見事なものだった。一人二人と次々に、真っ赤な飛沫と共に床へと叩き伏せていった。だが、あと少しというところで、その者らが作った血溜まりに足を取られて一瞬、体勢を崩した。


「ああ!」


 イルゼは思わず叫ぶ。相対していた男が前のめりになったカルカースの肩を切り裂いた。その背を続けざまに、もう一人の男が切りつける。カルカースは喘ぐように相手の男を睨みつけたが、そのまま床に倒れ込んだ。


「カルカースさん!」


 イルゼは堪らずカルカースの元へと駆け寄ろうとしたが、その直後、青年の身体は幻のように消え失せた。


「あ……!」

「心配いりませんよ、彼は助かります。これはあくまで過去の出来事を映し出しているに過ぎません。未来は貴方も知っての通りです。さあ、それよりも、エスティアの王女であらせられた貴方のお母様は、あちらにいらっしゃるようですよ。見てご覧なさい――」


〈闇からの支配者〉の優しいほどの促しに、イルゼは心が消え入ったように従った。


 空間が揺らめき、周囲の景色が移ろう。


 そこは薄暗く狭い空間。二、三人ほど屈んで入れば満員といった窮屈な場所に、青銀色の髪の少女――アラリエルは息を潜めていた。その隣には少し年嵩の少女が一人、寄り添っている。


「いいですか、姫様? じっとなさっていてくださいね。奴らは姫様を捕らえようと躍起になっています。このままでは、ここが見つかるのも時間の問題なのです」


 アラリエルの侍女らしい少女は、自身の主人である少女を宥めるようにして言った。


「いや……いや! お願い、ターナ、行かないでちょうだい! 私を一人にしないで!」


 アラリエルは小さく悲鳴のように叫んだ。そんな少女をターナは泣きむせぶ寸前の表情で見つめ、耐えかねたようにして抱きしめた。


「姫様、姫様っ……! もうエスティアはお終いです! 王様も王妃様も皆、奴らの手にかかってしまわれました。ですが姫様だけは、なんとしてでも生き延びなければなりません。そのお血筋を絶やさないためにも。そして、このような非道を闇に葬らせないためにも!」


 ターナはアラリエルから身体を放すと、その双眸を強く見つめた。


「私がここから出て、アドニスの兵士達を遠くまで引きつけます。姫様は隙を見て城外へとお逃げください。城外に抜けるための隠し通路は――覚えておいでですね?」

「いや……嫌、嫌っ!」


 アラリエルは強くかぶりを振る。これ以上、何も聞きたくない、信じたくないとでも言うように。


「姫様! どうか……どうかターナを困らせないでくださいませ! これが私の最後の願いなのですから……!」


 ターナの覚悟にアラリエルは茫然とした表情で、はらはらと涙を零し始める。


「姫様――今後はお傍にいることの叶わない私をお許しください。そして、どうか、どうかご無事で……!」


 ターナの身体がアラリエルの傍らを離れる。同時に暗闇だった空間に僅かな光が射し込み、その光源に向かって彼女は飛び出した。


「タ……!」


 呼びかけられたアラリエルの声は再び訪れた暗闇に遮られた。続いて耳に届いたターナの足音は、たちまちのうちに遠ざかっていく。


 暫くの間、置き去りにされた我が身が信じられないようにアラリエルは呆然としていた。暫くして彼女が我に返ったのは、外から聞こえた男達の声によってだった。


「向こうで女が一人、逃げ回っているらしい! 俺達も行くぞ!」

「おい、それはアラリエル王女なのか!?」

「どっちでもいいだろう、王女であれば捕らえて褒美が貰える。でなければ俺達の楽しみが増えるってもんだ!」


 嬉々とした男達の笑声は、ターナが駆けていった方向へと消えていく。


「……ああっ……ターナ!」


 アラリエルは暗闇の中で床に泣き伏す。


「どうして――何故、こんなことになってしまったのっ? アドニスは何故、エスティアに攻め込んできたの……!? 我が国はアドニスの属国として模範的に仕えてきたものを……お父様は決して離反など目論んではいなかったというのに!」


 アラリエルは暗闇で啜り泣いた。そして涙に濡れた声で小さく叫ぶ。


「お父様、お母様――……カルカース! どうか、貴方だけでも生きていて!」


 お願い、お願い、とアラリエルは何度も請うように呟き続けた。だが、そんな祈りは思わぬ危機で断ち切られる。


「おい、ここの女神像の裏辺りは怪しくないか?」


 それは戸外から聞こえた男の声。アラリエルは見る見る間に震えだし、逃げ場を求めるようにして背後へと這いずった。


 そんな緊迫の状況をイルゼは瞬きさえも忘れて見つめていた。女神像の裏――そこはまさにアラリエルが身を潜める隠し部屋のある場所だった。


(お願い、誰か!)


 イルゼは幼い母への救い手を望み、心の中で叫んだ。しかし今、見ている光景は過去の出来事であり、イルゼの想いなど無意味なことだった。この後、母アラリエルが気さえも触れる悲劇に見舞われるのは確かなことなのだから。それはイルゼの存在自体が何よりの証しだ。


「もしかしたら隠し部屋でもあるのかも知れないぞ」


 外にいる男は誰かに語りかけ、アラリエルのいる隠し部屋に近づいてくる。


「……っ」


 アラリエルは小さく身を縮ませる。イルゼも同じく身体を硬直させた――と、その時だった。


「お前達、そこで何をやっている!」


 新たに現れた鋭い男の声。それに先程の男が「隊長!」と慌てたようにして叫ぶ。


「あ、あの、こいつが、ここの裏辺りが怪しいのではないかと……」


 もう一人の男が気圧されたように弁明する。隊長と呼ばれた男は隠し部屋のある壁際まで歩み寄ると、


「ああ、確かに、ここには隠し部屋があった。だが、すでに私が調査済みだ。二度も調べる必要はない」


 淡々とした声で男は言った。部下である男達は、そうだったのですかと納得したように頷いた。


「だがアラリエル王女はまだ見つかっていない。恐らく王族の部屋がある西の棟に逃げ込んだのだろう。お前達はそちらへの捜索に加わるように。それと捕まえた女達に乱暴を加えるのはやめろと伝令に命を出しておくんだ。もしも、その中にアラリエル王女がいた場合――首が飛ぶのはお前達なのだと心せよとな!」

「は、はい!」


 男達は上司からの命に勢い良く返答し、そのまま踵を返して西側に走り去っていく。


 だがアラリエルの危機は去っていなかった。上司である男はそこから立ち去ろうとはせず、周囲が無人になったのを見計らったように、少女のいる隠し部屋の扉を開けたのだ。


「ああっ……!」


 アラリエルは小さく悲鳴を上げる。


「早く出ろ!」


 射し込む光と共に男の威圧的な声がかけられる。だがアラリエルは怯えて身じろぎもしなかった。


「早くしろ! 手間をかけさせるな!」


 男は苛立たしげに声を荒げると、身をかがめて上半身を隠し部屋に侵入させた。そして暗闇の奥へと逃げ出そうとする少女の腰に腕を回し、そこから乱暴に引きずり出す。


「ひっ――いっ、いや……!」


 続けて少女は大きく悲鳴を上げようとするが、その口を男の手が素早く塞いだ。


「……ンっ、んんーっ!」


 それでも少女は叫び続け、双眸に涙を溜めながら必死に抵抗した。だが男は容易にアラリエルの身体を羽交い締めにして持ち上げる。


 その時、今までイルゼに背を向けていた男の素顔が初めて確認できた。そしてイルゼは絶句した。


「父さん!?」


 まるで抱き人形のようにアラリエルを拘束した男は、イルゼの敬愛する今は亡き養父ダグラスに違いなかったのだ。もちろん、彼もカルカースと同様、随分と若い姿をしていたが。


「な……なんで、ここに父さんが……っ?」


 背後からダグラスに拘束されたアラリエルの怯えは尋常ではなかった。身体は見ても分かるほどにガタガタと震え、表情は引きつりおののいていた。


 それをダグラスは気遣ったのか、今までより遥かに抑えた声と物言いで少女に囁く。


「アラリエル王女、落ち着いて良くお聞きなさい。今なら東の城内は手薄だ。この王宮にも一つや二つの抜け道は用意されているだろう。そこから早く外へと逃げるんだ!」


 口を塞がれたままの少女は大きく目を見開いた。同時にダグラスはアラリエルを解放する。


「あ、あなたは……っ?」


 振り向きざまに言葉を紡ごうとするアラリエルをダグラスは無視した。そして自身の羽織っていた外套をアラリエルの青銀色に輝く頭上から被せると、彼女の美しい顔を血と泥にまみれた手で擦り始める。


「いっ……やっ! 嫌っ! 何をするの!」

「いいから兵士達の目に止まらないよう、十分に顔を汚すんだ! エスティア王族は決して逃がすなとディオニセス陛下から命が出ている。捕らえられた敗戦国の女が、どのような扱いを受けるかは分かっているだろう! 城外へと逃れたら民衆に紛れて国外に出るといい。そこからは――……自分でなんとかするしかないがな」

「あ……」

「さあ、行け! もたもたするな!」


 ダグラスの声にアラリエルは弾かれたように走り出した。だが少し走ったあと、少女は一瞬、ダグラスを振り返る。


「あ、あの、ありがとう……!」

「いいから早く行くんだ!!」


 少女を苛立たしく追い払うようにして、ダグラスは怒号を上げた。


 怯えた表情を閃かせ、そのまま駆けていったアラリエルの背が見えなくなると、ダグラスは一人、鼻で笑う。そして「偽善だな」と自嘲のように呟いたのだった。

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