第四部

第一章

第43話 この世界は

 脳裏に浮かぶ小さな輝き。それが徐々に目映く輝き始める。


(――今だ!)


 その輝きを心の中で掴み取ろうとした。が、次の瞬間、水面に映る反射光のように飛散して消え失せる。


「……また、また駄目だった……早く、ここから出たいのに……!」


 一刻も早く、セレファンスやラートリーの元に帰りたい!


 泣き出したい感情をこらえながら、イルゼは強く願う。


「無駄ですよ、イルファード殿下。たとえ〈マナ〉の顕現に成功したところで、貴方の住まう宮には幾重にも強力な呪術が施されているのですから」


 突如、背後に現れた存在に、イルゼは全身に緊張を張りつける。


「貴方の潜在能力には限りない可能性はありますが、今の貴方が顕現できる力で、この部屋にかかる呪力を打ち破ることはまず無理でしょうね」


 その声にイルゼはゆっくりと振り返った。するとそこには、父ディオニセスの前からイルゼを連れ去り、ここインザラーガの離宮に閉じ込めた長衣姿の男が立っていた。彼はディオニセスの侍従を務めていた者らしいが、今はイルゼの身辺を世話する――もとい監視する立場だった。


「私の言になど従うものか、とでもおっしゃりたいようなお顔ですね。ですが、あまり根を詰めるとお身体に障ります。ここ数日間、ずっとその調子ではありませんか」

(何をぬけぬけと。こんなところに僕を閉じ込めっぱなしにしている張本人のくせに!)


 イルゼは心の中で吐き捨てて、長衣姿の男を睨みつける。


 ここはインザラーガ山の頂上近くに建設された離宮。イルゼは実父であるアドニス皇王ディオニセスにある役目を命じられ、ここに無理やり連れてこられた。しかし、その役目というものは、この離宮にイルゼを閉じ込めるためだけの口実でしかなかった。


 目の前の男はイルゼを離宮へ連れてくるなり、身の保全を理由にして有無を言わさず、この部屋に閉じ込めたのだ。ここは窓一つさえもない陰気な石造りの部屋で、そんな場所に長く閉じ込められた状況は、さながら地下牢獄に幽囚されているようなものだった。


「私とて、このような薄暗い場所で、殿下にお過ごしいただくことへの心苦しさは感じております。ですが御身をお守りするためには致し方のないことなのです」


 そんな男の詭弁をイルゼは冷ややかに聞いていた。大体にしてイルゼは、初めから彼を全く信用していない。そんな者から身を守ってやるなどと言われても、余計なお世話だと鼻先で笑ってやりたい気分だった。


「この状態を殿下が快く思っていないことは重々に承知しております。ですが御身のためにはもう暫く、ご容赦をいただけないものでしょうか」


 まさにこいねがうといった口調で長衣の男は言った。今までもそうだったが、この男はイルゼに対して支配的な態度を取ったことがない。ただし、それが自分への配慮であるとは全く思わない。恐らく彼の穏健な態度は、並々ならない自信からくるものだ。いくらイルゼが歯向かおうとも無駄だという牽制だ。


「一体、あなたは僕に対して何を望んでいるんです?」


 ディオニセスの侍従だった男は、今も灰褐色の長衣をまとい、素顔を頭巾で隠している。初対面の時、イルゼは彼を陰気で鈍重そうな男だと見たが、それが長衣と頭巾による印象であったことを今では十分に理解している。


 この男は実に弁舌巧みで滑舌が良く、その声音には高い知性と品格さえも感じられた。動きも颯爽としたもので甘い隙を見せない。そして唯一、頭巾から垣間見える口元には、いつだって人を見下した笑みが浮かんでいた。そのくせ、その言葉遣いは異様に礼儀正しいのだ。


「それについてはここへいらっしゃる前に――いえ、ここへきてからも幾度となくご説明をしたはずですよ。我が国アドニスが、フィルファラード大陸の正統なる統治者であることを全土に知らしめるため、貴方様はここにいらっしゃいます」

「僕が知りたいのは、そんな建前じゃありません」


 イルゼが語調を強めて言い返すと、長衣の男は溜め息をついた。


「殿下はディオニセス陛下の偉大なる大望を建前とおっしゃるのですか? 何を根拠にそのようなことを? 私の説明が至らないばかりに、御父君の志しをお疑いになるのでしたら、それは悲しいことです」

「父の志しですって?」


 イルゼは鼻で笑って長衣の男の言い分を一蹴した。


「あの人は大陸どころかアドニスのことも、自分の明日のことさえも考えていない。未来に背を向けて過去しか見ようとしない父が、どうしたら大望なんて抱けるんです? それにあなたは僕でさえ馬鹿馬鹿しいと感じた見せかけだけの計画に本気で取り組んでいるようには思えない。きっとあなたには、あなたの目的があるのでしょう? 父は、それに利用されているだけだ」


 それに加えて、恐らく長衣の男は人間ではない――。

 それが、ここ数日で至ったイルゼの結論だった。そんな自分の考えが突飛であるとは思わない。この男がイルゼを離宮へ連行する際に見せた力は、人を操る奇妙なそれは、禍々しくも恐ろしかった。何よりも、この監禁部屋に彼が訪れる時には、鍵も扉も使わずにいきなり姿を見せるのだから。


「どうやら私は随分と殿下に嫌われてしまったようですね。ところでイルファード殿下は、私の持つ不思議な力について一度もお訊ねにならない。何故ですか? 私を怖れておいでですか?」


 そう言って長衣の男が、からかうような薄い笑みを浮かべる。すでに彼は見透かしているのだろう。イルゼが怯え、真実から必死に目を背けようとしていることに。その上でイルゼの恐怖を手の上で転がして楽しんでいる。


(でも、このままじゃ駄目なんだ)


『時には他人を必要とせず、自己を確立できる強さを持たなければ、君は君の望むものを何一つ、得ることはできないだろう』


 それは以前、イルゼを殺そうとして殺せなかった青年から突きつけられた言葉だ。


(なのに僕は、あれから何も変わってないじゃないか)


 今もここから早く逃げ出したいと願い、自分を助けてくれるであろう人達に救いを求めている。

 そうやっていつまでも誰かに頼り、真実から目を背けていては何も変わらない、何も進めない。それは今までの出会いや出来事の中で、十分に自分は思い知ってきたはずではないか。


「……僕は『あなた』を知っている」


 イルゼは真っ直ぐに長衣の男を見て言った。


「赤く燃え盛るセオリムの村でも。人間への復讐を願う妖精の森でも。ツワルファ族の怒りが渦巻くウラジミールでも。僕の行く先々に、いつでも『あなた』の影があった。その度に『あなた』は、どこかに僕を連れ去ろうとしていた」


 いうなれば、深く冷たい二度と戻ることの叶わない絶望の深淵へ。


(でも僕は救われ続けてきた。旅立ったあの日から、いつだって近くに、自分という存在を確かめられる光があったから)


 夏空の双眸に、陽射しを凝縮したかのような髪を持つ友人をイルゼは思う。その晴れやかで強かな笑顔は、何度でもイルゼに光を分け与えてくれた。


 金髪の少年は、イルゼが〈ディア・ルーン〉の継承者であるから『奴』に命を狙われているのだと言っていた。だが恐らく『彼』の目的は別のところにある。初めから今まで『彼』は自分を害しようとしていたわけではなかった。だからこそ今、インザラーガにイルゼを閉じ込め続けているのだ。


(何故『彼』が僕という存在に執着をし続けるのか、その理由を僕は知らなければならない)


「……イルファード殿下は賢く敏い。そして勇敢な御方であると理解いたしました。私は、私という存在が在るようになってから、たった一つの成就を望み続けてきました。それは原生への回帰、全ての交わりによる混沌――いわば世界フォントゥネルの崩壊を」


 長衣の男は愉快そうにくつくつと笑った。


「それにしてもイルファード殿下は見かけによらずお人が悪い。すでに貴方は気づいていらっしゃったのですね。私が〈闇からの支配者〉という存在であることを」


 長衣の男――いや〈闇からの支配者〉は、からかうような口調でやっと真実を告白した。


「あなたが〈闇からの支配者〉……」


 それはイルゼが予想していた通りの答えだったが、現実感が伴わない。何せ自身を〈闇からの支配者〉だと称する目の前の男は、雰囲気に薄気味の悪さこそ感じはすれ、外見上は人間と相違なかったからだ。


「あまりにも変哲がなく気が抜けましたか? まあ、人間というものは、目で捉えられる範囲でしか信用をしない生き物ですからね。私にとっては、うつつにおける姿形などは大した問題ではない。なんでしたら、そうですね――証拠をお見せしましょうか」


〈闇からの支配者〉は良いことを思いついたとでもいうかのように楽しげな口調で言った。


 次の瞬間、長衣の男の姿が激しくぶれ始めた。そうして瞬く間に、男の容貌は不鮮明になり、しまいには人としての輪郭さえも不安定になった。イルゼは唖然として、その奇怪な様相を見つめる。


 それほどの時間を要せずに、その不安定な空間の中に再び人の姿が浮かび上がってきた。そして、そこにハッキリと現れた人物を見てイルゼは息を飲んだ。


「イルゼ――」


 自分の名を呼び、柔和に微笑んだ栗色の髪の少女。


「……フィーナ……!?」


 イルゼは驚愕で目を見開き、掠れた悲鳴のようにして最愛の少女の名を呼ぶ。


「イルゼ――会いたかった……! ずっと、ずっとこの離宮で、あなたのことを待っていたのよ!」


 春の柔らかな空を映し出したかのような双眸は薄らと涙を帯び、溢れんばかりの喜びに満ちていた。それを見たイルゼはかぶりを振って後退る。


「なんで、何を、言って……」

「本当よ、イルゼ、信じてはくれないの? 私、本当は死んでなんかいなかったのよ。あの時、セオリムの村が燃えてしまった時に〈闇からの支配者〉から捕らえられてしまって――今までずっと、この離宮に閉じ込められていたの」


 そんな馬鹿な。


 イルゼは愕然としたままに否定した。だが、もしかしたら――と、その有り得ない状況を真実のものにしたい願望が胸の奥で溢れ返る。何せ目の前にいる少女は、イルゼの知るフィーナそのもので、彼女が彼女ではないと否定できる要素は何一つなかったのだ。


 突如として現れた願望をイルゼは幾度となく否定し、それ以上に何度も都合の良い奇跡に縋ろうとした。そんな愚かしい想いを後押しするかのように、目の前の少女は可憐で愛くるしい微笑みをイルゼに向けてくる。


「でも、私は信じてたわ。イルゼは絶対、私を迎えにきてくれるって。ずっとずっと……あなたのことを待っていた!」


 栗色の髪の少女は感極まったように声音を高め、軽やかな躍動でイルゼに向かって駆け寄ってくる。少年は、そんな彼女を思わず抱きとめた。その瞬間、イルゼの感覚が最も幸せだった頃に引き戻される。それは失われたはずの暖かな温もり、優しく甘やかな香り、そして陶然とした溜め息を禁じを得ない柔らかな感触――


「フィーナ……!」


 抗いがたい狂おしいほどの愛しさに突き動かされて、イルゼは腕の中の少女を強く抱き締めた。これはフィーナだ、本当にフィーナなのだ!


 絶望の現実に向き合うため、突き放すしかなかった願望が今、イルゼの手中に戻った瞬間だった。


 イルゼは自分の腕におさまった少女を見下ろした。するとそこには、自分を一心に見上げる空色の双眸があった。


「イルゼ――」


 少女は、はにかむようにして微笑む。ほころぶ花のように愛らしい笑顔――それはイルゼの記憶にあるフィーナだった。

 イルゼは無意識に、ただ望むままに、愛しい少女の滑らかな頬に両手を添える。温かい――確かに彼女が存在する感触。


 それをもっと確実なものにしたいと願い、イルゼは少女の顎の輪郭を、大きな瞳の目元や目尻を、色づく小さな唇を、ゆっくりと指でなぞった。少女は恥じらうように頬を染めながらも、イルゼのなすがままにされている。そして何かを望むように、そっとその双眸を伏せた。


「……フィーナ――」


 イルゼは引き寄せられるようにして、少女の薄く色づいた唇に自らの唇を重ねようとした――が、その刹那だった。イルゼの脳裏に閃いたのは、冷たくなったフィーナの感触だ。


(……ああ、そうだった。あの時、僕が感じたのは)


 熱のない冷たく乾いた彼女の唇だった。


 次の瞬間、イルゼは腕の中にいた『それ』を思いっきり突き飛ばした。すると『彼女』は「きゃあっ」と悲鳴を上げて床に倒れ込む。そして驚いたように恋人であるはずの少年を見上げた。


「イルゼ? どうしたの? 何故、こんな酷いことをするの? 私のこと、嫌いになったの?」

「……元に戻れ……その姿をやめろっ……!」


 イルゼは激しい屈辱と怒りで声を震わせた。


「フィーナは死んだんだ――僕の腕の中で! もう彼女は、この世にいないっ! これ以上、フィーナを冒涜するな!!」


 イルゼの悲痛な絶叫に『それ』が再びぶれ始めて、瞬く間にフィーナの姿が消失する。そして再度、人の姿が作られた時には、口元に笑みを浮かべた長衣の男――〈闇からの支配者〉が立っていた。


「おやまあ……お気に召しませんでしたか? なんでしたらあのまま、最後までお相手をして差し上げてもよろしかったのですよ?」

「……ふざけるな……本当に吐き気がする! もう二度と、フィーナの姿を盗るな!!」


 イルゼは身体中を憤怒で戦慄かせ、怒鳴った。それに〈闇からの支配者〉はやれやれといったように溜め息をついた。


「私は殿下の御為をと思って、そのお心をお慰めしたいと願っただけなのですが――どうやらご気分を害されたようですね」

「今のどこが僕のためだっ……! 単にお前は僕をからかって楽しんでるだけじゃないか!」

「イルファード皇子はお若く、潔癖でいらっしゃる。至極の悦楽であれば、それが叶わぬものならば尚更、一時の夢想であっても溺れたいと願う者はごまんとおりますよ」


 せせら笑うように〈闇からの支配者〉は言い、まあいいでしょう、と話を切り替えた。


「今のでお分かりいただけたとは思いますが、私には特定の姿がない。そしてもう一つの特性は、この世界の存亡さえも超えたところで、永劫の刻を存在し続ける『モノ』であるということ――」


 そう言って〈闇からの支配者〉である男は、密やかに楽しげに話を続ける。


「私は永劫なる刻の中で、人々がフェインサリルと呼ぶ古代皇国の崩壊も、この目で見届けました。その境目以前にも、以降にも、私は様々な立場で大陸の歴史に関わってきたのです。ある時は大陸外のアステカという国の宮廷呪術師として。ある時は聖皇シエルセイドの側近として。そして、つい先日まではアドニス皇王の侍従として」


 その話にイルゼは唖然とした。この男は永劫の刻を生き続け、様々な大国の内政にさえ関わることができたと言っているのだ。それが本当ならば、とても恐ろしい事実ではないだろうか。


 アステカとは聖皇シエルセイドの生まれ故郷の国だ。彼はその国の末王子だったが、生母の出身部族の地位が低かったために身分を軽んじられ、同時に人並みの野心と人並み外れた器量によって、兄王や兄弟王子から疎まれていたという。そして、そこから次第に暗殺の危険を感じるようになり、辺境の任地を希望して王都から逃げおおせたのだ。そこから、かの有名な聖皇シエルセイドの英雄譚は始まる。


 当時のフィルファラード大陸は〈闇からの支配者〉の支配下にあり、近隣の人々を長く苦しめていた。シエルセイドが赴いた辺境の地も例外ではなく、彼は苦しむ人々のためにフィルファラード大陸を〈闇からの支配者〉から解き放ち、そこに光の皇国フェインサリルを建国した――これが大陸人に伝わる神話だ。


「じゃあ、あなたの行動は、皇族への復讐からきているということか? あなたをフィルファラード大陸から排した聖皇シエルセイドの子孫に対しての?」


 イルゼの推察に〈闇からの支配者〉は軽くかぶりを振った。


「いいえ、違いますよ。私がシエルセイドや、その子孫である貴方達に復讐をする道理などありません。感謝こそすれ、ね。何せ皇族とは、私の――いわば〈闇からの支配者〉の意志によって誕生した血統なのですから」

「……なんだって?」


 イルゼは言われたことが理解できずに聞き返した。


「聡いイルファード皇子であっても、お分かりになりませんか? 〈闇からの支配者〉は永劫の刻を生き続けることができる存在。今も昔も貴方達の、皇族の傍らに私は存在できた。それの意味するところが」


 酷薄な〈闇からの支配者〉の声を聞いて、イルゼの背筋に冷たい痺れが走る。これから恐ろしい真実が露呈することを彼は察した。


「私は皇族という一族が誕生してから現在まで、その歴史を傍らで見続けてきました。彼らの血統から、ある務めを果たすことのできる人間を誕生させることが私の目的だったからです。その皇族の始祖として用意されたのが、アステカ国の王子シエルセイドと、リースシェランという名の〈神に属する力〉を扱う娘。彼ら二人から私は、不思議な力――〈マナ〉を扱い得る資質を保有する人間を生み出し続けることに成功しました。それが貴方達、皇族の始まりです」

「……嘘だ、そんな、馬鹿なこと」


 イルゼの否定に〈闇からの支配者〉は微かに笑んだだけで続ける。


「ですが今一つ何かが足りないのか、皇統は私の望むような者をもたらしてはくれませんでした。痺れを切らした私は、そんな閉塞感を打開しようと考え、皇族の周辺にもぐりこむことにしました。そして彼らに対して直接、様々な策を講じることにしたのです。幸い、殆どの皇族達は、私のもたらす知恵と能力を高く評価し、厚い信頼とそれに見合う地位を与えてくれましたよ」


 その愚かさが可笑しいとでも言うように〈闇からの支配者〉は笑った。それから彼は皇族の側近として、皇族達の婚姻や交わりを操作し続けたという。


「緊迫する皇族同士の融和を理由に、その婚姻を取り持ったこともあります。ある時は皇統にこだわらず、外部の王家の血筋を取り入れてみたことも。親兄弟といった近親相姦を繰り返させ、血の濃さを求めたこともありました。それでも私の願いは叶わぬまま、長い長い時が経ちました。そして皇族が誕生してから三百年後、私はより多くの可能性を広げようと皇統を複数に分けることにしたのです。皇族達を分裂させることは簡単なことでしたよ。聖皇という至高の頭さえ奪ってしまえば、フェインサリルは呆気なく果てのない内部抗争に突入し、その後、皇統は四つに分かれたのです」

「それが、まさか――」

「そう、それが現在の四大皇国の原型です」


 イルゼの唖然とした言葉を掠め取るようにして〈闇からの支配者〉は平然と答え、そして言った。


「その後も私は様々な戦乱を起こしては、滅びない程度に皇統へと影響をもたらし続けました。知っていますか? 生命の種というものは外からの強い刺激を与えることによって、信じられないような変化を遂げることがあるのですよ。加えて皇国間同士の継続した危機感は、お互いの保存能力を高める結果にもなった。そうした試行錯誤の末、やっと私は目的の人間を誕生させるに至った。浅ましく脆弱な人の身でありながら、神の力を有し、神々の意思にあらがい、全ての崩壊を望める者――それがエスティアの王女から産まれ出たアドニスの皇子である貴方です」

「そんなの嘘だ」


 イルゼは即座に否定した。何も考えられず、それしか口にすることができなかった。


 そんな少年を見て〈闇からの支配者〉は憐憫と冷笑をない交ぜた声音で断言する。


「嘘ではありません。この千年間、私は常に皇族と共にあり、貴方という存在を作り出すために、その血統を意図的に操作し続けてきた。全く滑稽なものでしたよ、貴方の祖先である皇族達は。自分達が生かされている存在であることを知らず、自身を高貴な者であると疑わず、〈闇からの支配者〉を嫌悪しながら、その手の平で踊り続ける姿は哀れで滑稽以外の何物でもありませんでした」


 今度は、はっきりとした愚弄でもって〈闇からの支配者〉は笑った。それにイルゼの身体は眩暈を感じさせるほどに熱く震え上がった。もはや言葉で言い表せるような範疇を越えていた。


「そうして千年もの時をかけて私は、やっと貴方という最高傑作を創り出せた。それというのも貴方の母君であり、エスティアの王女であらせられたアラリエル様のおかげでしょう。彼女は私の計画にとって、まさに思いがけない逸材でした。フェインサリルの滅亡が近づく激動の時、まさか私の目をも出し抜き、第五の皇統が東の最果てに落ち延びていたとは――」

「第五の皇統? エスティアが?」


 イルゼは一瞬、荒ぶる感情を忘れる。


「だったら、父と母の婚姻は――」


〈闇からの支配者〉は意を得たようにして微笑む。


「あの頃のディオニセス陛下は黒髪の麗しき舞姫に夢中でしてね。貴方の母君にまで興味を抱く暇はなかったようでした。特にあの方は血生臭いものを嫌います。いくら美しい姫君であろうとも、戦場から拾ってきたような者を求める気にはなれなかったのでしょう。ですが、それでは一国を滅ぼしてまで手に入れた血統にも意味がない。ですから私は、陛下に幾度となくアラリエル様のご様子をお伝えいたしました。時には、陛下の御母君に似ているなどという方便も交えて。そして侍女に小金を握らせ、催淫効果のある薫香を毎日のように陛下の寝室に焚きしめさせました」


 彼がディオニセスを誘導していた事柄を知り、イルゼは愕然とした。〈闇からの支配者〉はクスクスと楽しげに笑う。


「あの薫香は馴れぬ者だと足腰が立たなくなってしまうような効果しかありませんが、何度か吸引しているうちに気分が異常に高揚するようになる。そして果ては発情した獣のような状態になり――まあ、そこのところはイルファード殿下も良くご存知でしょう? 全く、貴方の兄上殿は見境がない」


〈闇からの支配者〉は下世話な視線をイルゼに向けた。彼はイヴェリッドがイルゼに強要しようとしたことについて知っているのだろう。だが、そんなことは今更、どうでも良いことだった。ここで重要なのは母アラリエルのことだ。


「では……では母は、アラリエルの故郷は、あなたのせいで……っ?」

「いいえ、それは違います」


 爆発寸前だったイルゼの激憤を〈闇からの支配者〉はきっぱりと否定する。


「私は小さな種火を与えただけです。それを大火としたのはアドニスの者達。冷静な判断と認識をもてば、それを消すことは可能だったはずですから」

「そんなのは煙に巻いた言い訳だ!」


 怒りを爆発させたイルゼに対して〈闇からの支配者〉は憐憫を満たした口元で微笑んだ。


「人間とは……どうしてそうも不完全な生き物なのでしょうね。いとも容易く惑わされ、心に懐疑を抱く。自身の愚かさを棚に上げ、他に憎悪を向ける。そしてその不完全さから目を逸らすため、より不完全な者を嘲笑する。何故、これほどまでに愚かしく哀しい生き物を神々は創りたもうたのか」


 独白のように呟く〈闇からの支配者〉を見て、イルゼは口惜しく惨めな気持ちになった。目の前の存在にとって、イルゼ個人の感情など全く無意味なものでしかないのだと察したからだ。


「……あなたの言うことが本当だと言うのならば、大陸に伝わる神話の内容はどうなる? 聖皇シエルセイドはフィルファラード大陸を支配していた〈闇からの支配者〉を打ち滅ぼした英雄として伝わっていた」

「それについては簡単なことですよ」


 イルゼの疑問に〈闇からの支配者〉は鼻で笑うようにして答えた。


「大陸に伝わる神話は根本から全て間違っているのです。当時、名もなかった大陸を支配下においていたのは私ではありません。フォントゥネルというこの世界に神が遣わした存在――〈神の使い〉達でした」


 次々と飛び出す新たな事実にイルゼの思考は翻弄される。

 混乱している少年を見て〈闇からの支配者〉は心得たかのように頷いた。


「どうせですから貴方には、世界の真実というものを教えて差し上げましょうか。まずは世界の成り立ちというものからご説明をいたしましょう。全ての物事には二面性があるものです。光と闇、生と死、裏と表、真実と虚構――それは世界もまたしかり。貴方が今、目にしている世界は〈現象界〉と呼ばれる物質で成り立つ界。それは神に創られた世界であり、肉体に精神を束縛される生命達の不自由で監視される側の世界です。その世界と対である世界が〈叡智界〉と呼ばれる精神のみの界。精霊の故郷であり、死者の還る場所であり、〈現象界〉を監視する管理者の世界――いわば神々の世界」


〈闇からの支配者〉の朗々とした講釈をイルゼは茫然と甘受するかのように聞いていた。そんな少年に薄い笑みを向けながら更に〈闇からの支配者〉は続ける。


「人間の暮らす世界というものは創世から滅亡まで、神の監視と管理のもとに歴史を積み上げていくものなのですよ。その遂行を仲介的に果たしていたのが先程お話しした〈神の使い〉。彼らは元々〈叡智界〉における精神のみの存在でしたが、神から与えられた役目を全うするために受肉し、フォントゥネルと名付けられた〈現象界〉に在るようになった者達です」


 それらの説明にはイルゼにとって耳新しい単語がいくつもあった。特に〈神の使い〉については神話にさえ登場したことのない存在だ。ましてや彼らのような者が、このフィルファラード大陸の支配者だったとは聞いたことがない。


「短い生しか与えられていない人間達には知り得ない事実ではありましょうが、肉体を持つ生命が暮らすこの世界――〈現象界〉は創造と破壊を繰り返しています。この世界以前にも、神の意志によって創造された世界はいくつもありました。そして創造された分だけ、破壊もされてきたのです。それはいわば世界の輪廻。つまりフォントゥネルという名の世界も〈現象界〉の系譜における一つの過程でしかないということです」

「……つまり神々は、僕達が暮らすフォントゥネルのような世界をいくつも壊し続けてきたと?」

「ええ、そういうことです。貴方達が神と崇め奉る存在は、世界の浄化という大義のもとに、数々の世界を滅ぼしてきた破壊神でもあるのです。彼らは独善的な嗜好によって無慈悲に、いとも容易く、世界に在った人間を含む生命達に問答無用で終焉を突きつけてきた。簡単に言えば神は気に入った至上の世界ができあがるまで、人間の住む〈現象界〉を何度も壊しては創り直しているということですよ。それを〈神の使い〉達が手足となって遂行しているというわけです」


 あまりにも突飛で大規模な話にイルゼは唖然とした。〈闇からの支配者〉は、そんな少年の様子を楽しんでいるのか、それとも全く気にしていないのか、相変わらず口元に薄い笑みを浮かべたまま話を続ける。


「〈神の使い〉は神の意思に絶対的な立場であるとはいえ、実質的なフォントゥネルの創造主です。ですがフォントゥネル以前の世界では、無慈悲な終焉を世界に告げる破壊の遂行者でもあったということ。彼らという存在は、神によって滅びを定められた世界を速やかに破壊し、その上で新たな〈現象界〉を創造する役目と強大な力を与えられた者達なのです」


〈闇からの支配者〉はイルゼを見やり、腹立たしいほど平然として微笑んだ。


「私の言いたいことがお分かりになりましたか? 神というものは、貴方達の世界にとって絶対的な救い主ではない。気に入らなければ、いとも簡単に、貴方達と貴方達の世界を捨て去ることができるのです」

「……では今、この世界を滅亡させようとしているのは〈神の使い〉であって〈闇からの支配者〉――つまり、あなたではないと言いたいのか?」

「そうですね……本来ならば、それが神の定めた摂理であり、神の望む結果だったのでしょう」


〈闇からの支配者〉は、どこか皮肉げな笑みを口元に浮かべた。


「神は人間という生き物に期待をし過ぎた。世界を繰り返させ過ぎた。光ばかりに目を奪われ、人間という生き物が駄作であることに気がつけなかった――いや、認めようとしなかった。〈闇からの支配者〉という存在は、神にとってさえ想定外のもの。だが、それでも私は、とうとう意のままに操れる〈神に属する力〉を手に入れた。邪魔者であった〈神の使い〉らはもういない。そして人間は神の監視から解き放たれ、闇は限界に近づいている――」


 そう言って〈闇からの支配者〉は引きつるような短い笑声を立てる。


「さて、それでは本題に移りましょうか。イルファード皇子が疑問に思っていらっしゃること――大陸に伝わる神話の真偽。聖皇シエルセイドの真実について。それを今からお話しいたしましょう」


 そう言って〈闇からの支配者〉である男は、イルゼの抱く恐怖を楽しんでいるかのように、薄らとした笑みを浮かべた。

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