第41話 皇王の庭

「え? お父さんが?」


 ラートリーによって持ち込まれた話に、イルゼとセレファンスは思わず顔を見合わせた。


「ええ、そうなの。お父様がイル兄様に会いたいっておっしゃっているそうよ。それにしても、どういう心境の変化かしらね?」


 ラートリーは首を傾げる。それはイルゼも全く同じ気持ちだった。


 イルゼは常々、父ディオニセスとゆっくり話をする機会が欲しいと願っていた。だがそれは、ディオニセスに自分を息子として受け入れて欲しいと願ってのことではない。もはやそれは望めるものではないと感じていたし、先日の一件によって確信に変わっていた。しかし、それでもなお、どこかで甘い願望を持ち続ける自分がいるのをイルゼは知っており、それを完全に打ち消すためにはディオニセスの口から話を聞く必要性があったのだ。


 とはいえ、イルゼとセレファンスが宝物庫に忍び込んだのは、つい二日前のことだ。その偶然とは思えない時期に、今更何故、父は自分に会いたいと言っているのか。


「……もしかして、バレたのかな」


 イルゼが思わず呟く。するとラートリーは、


「私もその可能性は考えたんだけど、でもイル兄様達は結局、宝物庫には忍び込めなかったんでしょう? だったらバレるバレないもないじゃないの。それともお兄様は、私に何か隠していることでもおありなのかしら?」


 異母妹に疑念の目を向けられ、イルゼは慌てて言い繕う。


「いや、本当に何もなかった――っていうか、できなかったというか。その、色々あってさ……」


 無論、これは嘘だった。イルゼ達は目的の目前まで到達しておきながら、その直前で引き返してきたのだから。しかもイルゼ一人の我が侭によって。


 さすがにイルゼは、それをラートリーに報告することはできなかった。何せ彼女の苦労も水の泡にしたのだ。それに理由を求められれば、あの時に見た父ディオニセスの奇怪な様子をも説明しなければならなくなる。イルゼはラートリーにまで、あれを目にした時の複雑な不快感と後味の悪さを味わわせたくはなかった。


「ね、セレ、そうだよね?」


 イルゼは助けを求めるようにしてセレファンスを見た。彼には口裏を合わせてもらっているのだ。すると今まで黙っていたセレファンスだったが、仕方がないとでもいうように口を開く。


「そうなんだよ。イルゼの奴が土壇場になって、こんな高い木になんて登れないって泣くもんだからさ。仕方なく引き返してきたのさ」


 全く投げやりなセレファンスからの助け船に、ラートリーは「そうなの?」といった視線でイルゼを見る。それにイルゼは慌てて頭を振った。


「ち、違うよ、ラートリー。その、あの時は凄く体調が悪くて、高熱があったものだから、頭が混乱してて、自分でも何を言っていたのか、さっぱり……」

「ふーん、それじゃあ、やっぱり泣いたのね?」

「うっ……」


 ラートリーの突っ込みにイルゼは返答に窮する。場所と理由は違うものの、泣いたのは事実だったからだ。


「……イル兄様って、ちょっと気が弱くて涙脆いところがおありよね。でも私は、そんな兄様は可愛らしいと思ってるから大丈夫よ」


 兄に対する慰めとしては有り得ないことをラートリーは言う。それにセレファンスは「良かったなあ、イルゼ。理解のある優しい妹で」と、わざとらしくニッコリと微笑んだ。


(セレの奴、やっぱりまだ怒ってるんだな)


 イルゼは心の中で肩を竦めた。しかし、それは無理のないことだと承知している。


「それじゃあ私、そろそろ部屋に戻るわね。先程の件に関しては後日、お父様のほうから正式に申し入れがあると思うわ。それから――」


 ラートリーはセレファンスを鋭く睨みつける。


「兄様は病み上がりなんだから、きちんと休養をお取りさせるのよ。あなたは仮にも侍女として兄様のお側にいるんだから、それくらいの気配りは持ちなさいな。どうせイル兄様の優しさにかこつけて、部屋に入り浸って楽してるくらいなんだから。――いい? くれっぐれもあなたの我が侭で、チェスに付き合わせようなんて思わないこと!」


 ラートリーは厳重な釘を刺してからイルゼの部屋を退出していく。


「……全く、あいつ、俺に恨みでもあるのか?」


 セレファンスは面白くなさそうに口元を尖らせた。どうやらラートリーの懸念は的中していたようだ。

 そんなセレファンスをイルゼは苦笑交じりで見やり、


「それじゃあラートリーに言われた通り、休ませてもらおうかな。でもその前に、疲れない程度にならチェスにつきあってあげてもいいけど――どうする?」


 その申し出に今まで憮然としていたセレファンスは、すかさず表情を明るくした。そして「さすがはイルゼ。持つべきものは心優しき友だな」と機嫌良く笑う。


 イルゼは現金だなあと苦笑したが、セレファンスの機嫌が直ったことに安堵した。何せ彼の嫌味を含まない笑顔を見たのは数日ぶりのことだったからだ。


 結局、イルゼは夕食の時刻までセレファンスのチェスに付き合わされることになったのだが、それは反対に有り難いことだった。たとえ静かに休養を取っていたとしても、色々と考え込んでしまって、多大な心労が溜まってしまうに違いなかったからだ。


 そして数ある心労の一つが、ディオニセスからの申し出によって確定したのは次の日のことだった。




 イルゼは小さく溜め息をつく。そして鏡の中の自分を見て、我ながら冴えない顔をしているなと思った。これは期待よりも不安が上回っているからだろう。


「さて、これで仕上げだ」


 そう言ってセレファンスがイルゼに向かって香水を吹きかけた。その馴れない臭いにイルゼは思わず咳き込む。王侯貴族にとれば上品な芳香でも、イルゼにとっては顔をしかめる代物でしかない。


「よしっと。これなら誰がどこから見ても立派な貴公子だ。きっと親父さんにも気に入ってもらえるさ」

「……そうかな」


 イルゼにはとてもそうは思えない。鏡の中の自分はまるで、無理をして人を笑わせようとする滑稽な道化師のように見えた。


 今からイルゼは実父であるディオニセスと会う。それは優に半年ぶりの対面だ。今まではいくらイルゼがディオニセスへの接見を願っても、それが聞き入れられることはなかった。それなのに今頃になって何故――という思いが、いや、不安にも似た疑心がイルゼからは消えない。


 と、次の瞬間、イルゼの背に強い衝撃が叩きつけられる。セレファンスが思いきり手の平を打ちつけたのだ。


「なっ……にするのさ!」


 イルゼはむせ返りながらも非難の声を上げた。それにセレファンスは朗らかに笑う。


「情けない顔をするなって。もしも親父さんから、あの日の夜のことを問われたら、知らぬ存ぜぬでシラを切り通せ。何せ証拠なんてないんだからな。それに何か嫌なことを言われて、泣きそうになっても気にするな。あとから俺が慰めてやる」


 そう言って悪戯っぽく片目を瞑ったセレファンスに、イルゼは一瞬、呆気に取られたが、次にはフフッと笑いが零れた。


「うん、その時はよろしく頼むよ」

「ああ、任せとけ。安心して堂々と行ってこい」


 気合いを込めた握り拳でセレファンスに見送られ、イルゼは奥間を出る。その先にある応接間には、イルゼを迎えに訪れていたフォウルドが待機していた。


「おお、お支度が整ったようですな」


 長椅子から立ち上がり、待ちかねていたようにフォウルドがイルゼに近づいてくる。そして「ほう」と感嘆の声を上げた。


「いやいや、わたくし、イルファード殿下の凛々しさには感服いたしましたぞ。天上のラトリウスにも例えられような眉目秀麗さ。ご存知ですかな、ラトリウスという名の神を。太陽神の娘リースシェランとは双子の兄に当たる男神でしてな。すると、さしづめ殿下の御父君であらせられるディオニセス陛下は、全てを統べる太陽神ということになりましょうか」


 そう言ってフォウルドは意気揚々として笑った。それにイルゼは、なんとはなしに微笑んだのみで明言は避けたが。


「ささ、それでは殿下。早速、陛下のもとへ参りましょうか」


 フォウルドは軽やかな足取りで廊下へと出る。そんな彼の背中に向かってイルゼは一番の疑問をぶつけてみた。何故、ディオニセスは今更になって自分に会いたいと願っているのかと。


「それは――」


 フォウルドは言い淀み、少し思案したのちに言った。


「きっとディオニセス陛下は、殿下に負い目を感じていらっしゃるのではないかと私は思っているのです。まだ乳飲み子であらせられた殿下を、アドニスから出奔させなければならなかった結果を悔いて、長いこと御自身を責め続けておられた……。ですから現在まで、なかなか殿下にお会いする機会をお持ちになることができなかったのでは?」


 あまりにも的外れな見解に、イルゼは思わず出そうになった溜め息を飲み込んだ。自分が聞きたかったことは、もはやそういう次元ではなかったからだ。分かりきった嘘など、呆れるだけで慰めにもならない。


 だがとにかく、どうやらフォウルドも今回の対面が持つ意味までは聞かされていないようだった。


「殿下」


 フォウルドは改めてイルゼを見た。


「殿下にも思うところはおありでしょうが何卒、陛下のご心情をお察しください。陛下は決して貴方様をないがしろにしていたわけではありません。私も子を持つ親ですから、そこのところはようく分かっているつもりです」


 イルゼは子供騙し的な口車に軽い苛立ちを覚えたが「フォウルドさんのおっしゃりたいことは理解できます」とだけ答えておいた。


「ええ、ええ、そうでしょうとも。イルファード殿下は情け深く聡明な御方だと存じ上げております。だからこそ陛下は、他の皇子達にはお与えにならない特段の栄誉をイルファード殿下にはお与えくださったのですよ」


 フォウルドはまるで我がことのように身を打ち震わせた。恐らく父子の対面を一番に喜んでいるのは当の本人よりも彼であろう。どうやらフォウルドはイルゼの後見人を自負しているようで、彼としては今回の一件でイルゼが他の皇子達よりも皇王に重用されていると印象づけたいのだ。


「ところで殿下、話は変わりますが。先程にも申し上げた通り、私には子が――まあ、娘が一人おりまして。私が度々、あれの前で殿下のことをお話しするものですから一度、貴方様にお会いしたいなどと娘が申しているのです。もちろん、それは不遜なこととは重々承知しておりますが、もしもその機会を賜れるのであれば、娘にとって至極喜悦なことなのですが」


 イルゼの脳裏に先日、セレファンスと交わした話題が蘇る。セレファンスは冗談交じりにフォウルドはイルゼの妃がね候補を選定しているのではないかと言っていたが、それはどうやら冗談にとどまる話ではなかったらしい。


 フォウルドの思惑が分からないほどイルゼは鈍くない。つまりフォウルドは自分の一人娘と親しくさせたいと願うほど、イルゼに対して様々なことを期待しているのだろう。しかし今まで色々と援助してくれた彼には悪いが、その期待に応えようとする意思がイルゼには全くなかった。それに今回の一件に際して、彼には秘かな決意ができていた。


(父と会って話をして、全てに納得をつけて色々な問題が解決したら、セレと一緒に僕もアドニスを出よう)


 イルゼはそう考えていた。だがそれは、アドニス皇族として決して許されることではないだろう。恐らくイルゼは、二度とアドニスには戻らない覚悟のもと、夜逃げ同然の行為を決行しなくてはならない。それは自分を兄と慕ってくれる異母妹との別れをも意味する。それにその後の生活のこともある。


 このまま皇城で暮らしていくのならば一生、衣食住の心配はいらないだろう。だがそれと引き換えに、誰かから常に利用される自分を許容せねばならず、その上、いつ何時、命を狙われるような事態に急変するのか分かったものではなかった。


(ここに自分がきた理由は、本当の父や母のことが知りたかっただけだ。だったらもう、ここにとどまる理由はない)


 自分を育ててくれた養父ダグラスは、イルゼに皇族としての人生など望んではいなかった。イルゼにしてもそうだ。皇族としての生活は、自分のような育ちの者に全うできるようなものではないと、この半年間で十分に理解できた。


(とは言っても今後、どうやって生活をしていけばいいだろう……? でも取りあえず、セオリムの村に――深淵の森に帰ろう。父さんと暮らし、僕が育ったあの森へ)


 そう思った途端、イルゼの脳裏に懐かしい森の中の我が家が浮かんだ。セオリムの村はなくなってしまったが、養父ダグラスと共に暮らしていた家は、そのままのはずだった。


(そうだ、そうしよう)


 イルゼは想いを強くする。あの豊かで静かな森に帰ろう。そして幼い頃のように、そこで人知れず、動物達と共に暮らしていくのも悪くはない……


「殿下、いかがでしょう? お考えいただけますかな?」

「え?」


 イルゼは呆けた声を上げた。途端、脳裏に広がっていた情景が霧散する。視線を向けた先には、フォウルドの期待に満ちた双眸があった。


「――あ、ああ、そうですね」


 イルゼは今の状況を思い出し、取り繕うように微笑んだ。


「機会があれば是非」

「おお、そうですか! いやいや、娘は果報者ですな!」


 フォウルドは飛び上がらんばかりの喜びを表す。


「ちょうど我が娘は殿下と同じ年でありまして、きっと会話も弾むことでしょう。こう申し上げては親馬鹿と思われるかもしれませんが、なかなか器量の良い娘に育ってくれましてな。ですが、こと男女の仲というものには初心と申しましょうか、親としては少々、心配な限りでして……」


 どこか含みのある言葉と視線を向けられ、イルゼは心の中で苦笑いした。


(森の中で育ったような僕が、貴族のお姫様と話なんて合うわけないよ。ましてや結婚だなんて冗談じゃないや)


 そうやって小気味良く悪態をつく。今まで上品に澄まして暮らしてきた自分が奇妙に可笑しくなっていた。


(ああ、早く自分の在るべきところへ帰りたい……!)


 イルゼはフォウルドの話を聞くともなしに聞きながら、そう強く願ったのだった。




 良く言えば重厚、悪く言えば薄暗くて重苦しい石造りの廊下をイルゼは一人で歩いていた。目を瞑っていても障害物など気にもせずに歩けるであろうほど広い幅員。天井は異様に高く、見上げれば首が痛くなってしまう。そんな様相の通路が、遠方に見える扉まで続いている。


(……こんなところを一人で歩いていると、なんだか沈鬱な気分になってくるな)


 ここはアドニスの皇王である父ディオニセスが住まう内殿の廊下だ。以前は近衛騎士達に阻まれて立ち入ることのできなかった場所だが、今度はなんなく足を踏み入れることができた。だが、それはイルゼに限ってのことであり、彼の供をしていたフォウルドの立ち入りは認められなかった。それでも彼はなんとかイルゼに付き添おうと試みたものの、近衛騎士からの「陛下のお許しがありませんので」という言葉を前に断念せざるを得なかった。


 こうしてイルゼは「ディオニセス陛下には重々よろしくお伝えください」と何度も念を押すフォウルドに見送られ、一人でここにやってきたのだ。


 フォウルドには気の毒だったが、彼のいる状態では父と憚りなく会話をすることが難しいと思っていたので、イルゼとしては幸いなことだった。


(……それにしても、お父さんはこんな広くて寂しい空虚な場所で暮らしているのか)


 殺風景で静か過ぎる空間に父の孤独を見る想いで歩みを進めていたイルゼだったが、そこへの扉を開け放った瞬間、それが少なくとも視覚における点については間違いだったと認めた。


(……これは――)


 思ってもみなかった光景にイルゼは目を奪われる。そこは今までとは打って変わって明るい輝きに満ちた場所だった。


(凄い、なんて綺麗なんだろう……!)


 イルゼは感嘆の溜め息をつく。まず目に入ったのは、競うように咲き誇る華麗な薔薇の群生。それらが幻ではないことを知らしめる芳しい芳香が魅惑的に鼻腔をくすぐる。噴水があるのだろうか、水の存在を知らせる清涼なせせらぎが耳に届いた。


(ここのどこかに、お父さんがいるんだ)


 イルゼは薔薇の色彩が織りなす鮮烈さに軽くめまいを覚えながら、そうっとそこに足を踏み入れた。


(庭園……そういえば以前にラートリーから聞いたことがあったな)


 ディオニセスは皇城の最上階にある空中庭園で、一日の大半を薔薇の世話に費やしているのだと。


 その時のラートリーは呆れ切った、いや、激しく失望している様子だった。薔薇の世話など父のやることではない、そんなことは庭師にやらせれば良いのであって、彼にはもっと他にすべきことがあるはずだと。


 ラートリーの言うことはもっともだった。ディオニセスは一介の俗人ではなく、この国の皇王だ。本来は彼が果たすはずの役目を皇妃であるクロレツィアが担っている。そんな母親の苦労を身近で感じているラートリーとしては憤懣やるかたないのだろう。


 しかしながら、ここの庭園の見事な手入れには感心せざるを得なかった。美観を計算して植わられた色とりどりの薔薇、塵一つ落ちていない石畳、陽光を取り込む薄曇りなど全くない硝子の壁――


 隅々まで行き届いた管理は、ディオニセスの手によるものなのだ。そうまでしてここを完璧なものとして保つ理由は、あの夜に見た彼の姿に答えがあるとみて間違いない。


(お父さんはどこだろう?)


 イルゼは華やかな広い庭園を彷徨う。その足取りは美しい景観に反して重たかった。いまだに父に会いたいのか会いたくないのかが分からない。いや、どちらかというと、このまま会いたくないような――


 と、イルゼはある場所に違和感を覚えて立ち止まる。そこは紅の薔薇が植わった変哲もない花壇だ。


(……あれ、なんだろう? なんか)


 違和感の原因を捜し当てようとして花壇の前に立ち尽くす。すると、それはすぐに分かった。


(ああそうか、ここの花壇だけ、紅い薔薇が植えられているんだ)


 他の花壇は規則正しく色合いが分けられているのに対し、そこの一画だけは紅い薔薇が植えられ、奇妙に目立っていた。


 間違った品種を植えてしまったのだろうかとイルゼが考えていると、


「そこは余の母が倒れ込んだ場所なのだ」


 と、突然、背後から声がかけられた。イルゼは驚いて振り返る。


「お父さん」


 イルゼが振り向いた先には、父ディオニセスが立っていた。イルゼの動悸は否が応にも高まったが、ディオニセスのほうは特に感慨もないような双眸を息子に向けていた。


 ディオニセスがイルゼに向かって歩んでくる。イルゼの緊張は最高潮に達したが、ディオニセスの視線の方向から彼の目的が花壇にあるのだと察すると、その場を慌てて譲った。


 ディオニセスは今までイルゼの立っていた場所に膝をつき、薔薇の手入れを始める。葉の一枚一枚を丁寧に確認し、見栄えの悪いものを剪定していく。


 イルゼは暫くの間、そんな実父を黙って見つめていた。自身で呼び出したにも関わらず、全く息子に関心を持たない父親をイルゼは不思議と不快に思うことはなかった。それはイルゼの中でディオニセスへの期待が完全についえていることを意味していた。


 イルゼは心の中で失笑する。何に対して可笑しさを感じたのかは分からない。ただ妙に気分がすっきりとしていた。


「お父さん」


 イルゼは明快な声で父に話しかける。


「僕は、あなたが僕を呼んでいると聞いたので、ここに参りました。何か御用があるのでしょうか」

「あるから、呼んだのだ」


 目も上げずにディオニセスは言った。その両手は薔薇の剪定を続けている。


 葉を枝から切り落とす音のみが鳴り、ディオニセスから続きの言葉はない。さすがにイルゼは困惑し、とにかく話をしようと考えた。そして初めにディオニセスが発した言葉を思い出す。


「あの……そこは、お父さんの母上が倒れられた場所、なんですか?」


 ここにくる前までは、この話題を父に振っても良いものだろうか――と思っていたが、こうなったら解消できる疑問は全て解消しておこうとイルゼは決心する。


「……其の方は先の内部抗争時代のことは?」

「はい、ヴィルキール先生の授業で習いました」


 イルゼの答えを聞くと、ディオニセスは「そうか」と言って立ち上がった。


「過去を学ぶことは良いことだ。そこから失敗を学び取れば、愚かな所業を繰り返さずに済む」


 イルゼは内心、驚いた。案外、まともなことを言うのだな、と思ったのだ。それは実の父親に対してかなり不敬な考えだったが、今まで目にしてきたディオニセスの行動から鑑みれば無理からぬことだった。


「我が母カテリーナは、我が父である先代オズワルドの敗亡後、この世に余を産み落とした」


 イルゼは頷く。ヴィルキールの授業で知ったディオニセスの生い立ちは数奇なものだった。


 今から七十年近く前――ディオニセスの父であるオズワルドは、異母兄であるアルセーニに皇位を簒奪され、自害に至る。残された彼の妻だった皇妃カテリーナも、本来は断頭台の露と消えるはずだったが、アルセーニは彼女の類希な美貌を惜しんで処刑を免除した。そして、こともあろうにアルセーニは、カテリーナを正妻にしたのだ。


 カテリーナのほうも、その境遇を易く受け入れて夫の敵であるはずの男に身を委ねた。その後の彼女は伴侶こそ変わったが、皇妃という立場は全く変わることがなかったのだ。オズワルドは賢君の部類で民衆から慕われていたため、そのことについて人々はカテリーナを激しく非難した。


 しかしカテリーナは堂々たる態度で、それらの非難を無視し続け、アルセーニに娶られた直後に妊娠し、男児を出産する。それがディオニセスである。


 正当に考えるのならば、ディオニセスは現在では『ならず者』と称されるアルセーニの血を引く庶子の系統であるはずだが、人々は彼をオズワルドの血を引く正当な継承者として扱う。アドニス史書に記される系譜にも、ディオニセスはオズワルドとカテリーナの血を引く直系となっている。それが真実であるとする根拠は、ディオニセスの髪の色にあった。


 イルゼと同じ鳶色の髪――この赤みの強い髪の色は元々、アドニス皇家のものではないらしい。今から二代前の皇妃が、つまりオズワルドの実母が鳶色の髪をしていたのだ。彼女は東方の地を広く治めていた王家の出身で、そこの王族の多くが同じ色合いの髪をしていたという。そういった血筋を考えると、鳶色の髪の子供が、オズワルドの異母兄であったアルセーニに授かるはずがないということだった。ちなみにオズワルドも鳶色の髪をしていた。


「母は余を産んだ時、恐らく愕然としたであろうな。その髪の色は誰がどう見ても、オズワルドの血を引く何よりの証しだった。余が産まれた時期はオズワルド敗亡から一年も経たない時期であり、彼の子供であっても不思議ではなかったのだ」


 ディオニセスは皮肉そうに目を細めた。


「だが余がアルセーニに殺されることはなかった。母が産まれたばかりの余の髪をアルセーニと同じ茶色に染めさせたためだ。幼き頃、余は人前で赤い髪をさらすことはなかった。その事実を知っていたのは、母の侍女と余を取り上げた産婆のみ。のちに彼女らは里に下げられたそうだが……恐らく生きて故郷の地を踏めた者はおるまい」


 ここでディオニセスが初めて明確な意思を持ってイルゼを見た。


「其の方には、そうまでして真実を隠そうとした我が母カテリーナの心が分かるか?」

「……いいえ、分かりません」


 イルゼは戸惑いながらも正直に答える。


「そうか。余は、こう考えたことがある。母が自身の保身を守るためには、余がアルセーニの子供でなければならなかったのだ、とな」


 ディオニセスは話を続ける。


「余は、それから十年以上もの間、アルセーニを実父と信じて育った。そして余が十二歳の時、アドニスの運命ともいえる転機が訪れた。余が一人で庭を散策していた時、傍らから密やかに声をかける者がいたのだ。その者は平伏しており、顔こそ見えなかったが、薄汚れた着物から城の者ではないことはすぐに知れた。だが何故か余は人を呼ぶ気にはなれず、その者の話に耳を傾けたのだ」


 そしてディオニセスは自分の実父がアルセーニではなく、自分と同じ髪の色を持つオズワルドであると教えられたのだという。


「それを聞いた時、余は疑うよりも全て合点がいった思いだった。父アルセーニは何故、長子である余よりも弟達を優遇するのか。母は何故、定期的に余の髪を染め続けるのか。部屋に戻った余は母を問いつめた。すると母はすんなりと事実を告白した」


 ディオニセスは何かに思いを馳せるような双眸で遠くを見やった。イルゼも倣ってその方向を見てみた。その先に広がるのは鮮やかな薔薇の群集のみだ。


「余はその日をもって皇城をあとにした。庭にいた者は、オズワルドの血を引く余を正当なる継承者として擁立し、アルセーニを打倒せんとする一派の一人だった。彼を頼って余は身一つで出奔した。再び皇城に戻る時は、皇王としてであると決意してな。余をそうまでさせたのは母カテリーナの言葉にあった」


『今の貴方は、アドニスの皇王になる資格など持たないのです。どこへなりともお行きなさい』


 そんな酷薄ともいえるカテリーナの言葉を口にしながら、ディオニセスはイルゼに静かな双眸を向ける。イルゼは当惑する。それについて、どんな感情を言葉にして良いのか全く見当がつかなかった。


 しかし、ふいにディオニセスのほうから視線を外した。どうやら彼は息子の反応を期待していたわけではなかったようだ。イルゼは安堵したが同時に寂寥感も覚えた。ディオニセスはイルゼと会話をしたいのではなく、ただ淡々と過去を口にしているだけなのだと気づいたからだ。


「恐らくアルセーニは、余の本来の髪の色に気づいていたであろう。だからこそ、余を冷遇していたのだから。それでも殺さなかったのは、オズワルドと同じ髪色を持つ余を飼い殺して、その優越感を楽しんでいたからだ。母の陰に隠れ続ける、牙の持たぬ負け犬の息子だと侮っていたからだろう――」


 ディオニセスはイルゼに気をとめることなく独り言のように言った。そこでイルゼは聞き手に徹しようと心を決める。


「母が余の髪を染め続けたのは、アルセーニへの服従を示す母の意思表示だった。そして余が何も知らされていない無抵抗の子供であるという表明だった。それによって余はアルセーニから生への容赦を得ていたのだ。だが全てを知った余が、それを甘受できるであろうか? 否、できようはずがない。それを母は理解していたがゆえに、冷酷な言葉で余を突き放した。……だが、あの頃の余は、その心情を察することができなかった。目に見える事実から安易に想像できるものだけを真実とし、余は実父と我を裏切った母を憎悪した。自身の保身のために仇であるはずの男に身を売った恥知らずで薄汚い女だと蔑んだ。そしてそれこそが、余がアドニスの皇座へと登り詰めるために必要な原動力だったのだ」

(……胸が、痛い……気持ちが悪い――)


 イルゼは淡々と自身の過去を紡ぎ続けるディオニセスの横顔を見ながら、小さく苦しげに喘いだ。何故、アドニス皇族に連なる者達は、こうも暗い過去を持つのだろうか。まるで誰かに運命づけられたように。


「母の真意を悟ったのは、それから十年後――皇城に凱旋を果たした時のことだった。余はアルセーニと異父弟達の血に濡れた剣を片手に、その十年間で最も憎み続けた女――母カテリーナをこの庭園に追い込んだ。そして躊躇することなく、余は彼女の胸を剣で貫いた」


 ディオニセスは紅い薔薇が咲き誇る一画を見下ろす。


「母は抵抗しなかった。そして、ここに植わっていた薔薇の上に倒れ込んだ。ここには白い薔薇が一面に咲き誇っていたが、あの時ばかりは母の血で真っ赤に染まったのを覚えている」


 紅い薔薇に目を落としたまま、ディオニセスは口を閉ざして動かなくなる。暫くの間、静かな時が流れた。


「あの……お父さんは何故、カテリーナ様の真意を悟ることができたのですか……?」


 イルゼは遠慮がちに父へと問うた。するとディオニセスは淡々と答える。


「母は余の剣に胸を貫かれ、ここに倒れこむ寸前、余に向かって微笑みながら『お帰りなさい、私の愛しい子』と囁いたのだ。その一言で余は母の心を知ったが、全ては手遅れだった。茫然とした余の前に残されたのは、この手にかけて絶命した母の姿だった」

「…………」


 イルゼはカテリーナの真意を想像してみる。夫を死に追いやられ、自身の命運は反逆者の手に落ち、そしてこの時、彼女はオズワルドの忘れ形見であるディオニセスを身ごもっていた。夫のあとを追い、気高い皇妃として死に逝くことは簡単だったことだろう。しかし、それよりもカテリーナは母親として生き抜くことを決めたのだ。だが、その選択に残されていた唯一の道は、あまりにも過酷で屈辱的なものだった。その手段とは、ディオニセスをアルセーニの子供として育てるというもの。それを成功させるためには、アルセーニにディオニセスを自分の血を引く子だと信じ込ませなければならない。それには一刻も早くアルセーニに取り入らなければならなかったのだろう。しかし、それが周囲の目には汚い保身に映った。そして、それは彼女に守られていたはずの息子ディオニセスにさえも。


「……何故、こんな大切なお話を僕にしてくださったのですか?」


 イルゼはディオニセスを見た。この話は恐らくラートリーでさえも知らないことだろう。もしも彼女が知っていたのならば、しきりに父親のことを知りたがっていたイルゼに教えてくれただろうし、あそこまでディオニセスに反感を持つまでには至らなかったのではないか。


「其の方になら理解ができると思ったからだ。余の苦しみと望みを」

(……苦しみと、望み……?)


 苦しみなら分かる。イルゼも最愛の少女を失った。それをディオニセスは知っているのだろう。かけがえのない者を失い、もはやどうにもならないことだと理解しながら、それでも足掻かずにはいられない苦しみ。それによって思い知る絶望。


 では望みとは、あの夜のことを言っているのだろうか。鏡の中に死んだ母の姿を映し出し、夢想に己を惑わし続けることを指しているのだろうか。


(母……ああ、そうだ、アラリエルのこと)


 イルゼはもう一つの目的を思い出す。この機会を逃したら、恐らく二度と父からアラリエルの話を聞くことはできない。イルゼは決意を持ってディオニセスを見た。


「お父さん、教えて欲しいことがあるのです。お父さんは僕の母のことをどう思って――アラリエルのことを愛していらっしゃったのですか?」


 少女だった母が精神を病むほどに悲嘆しなければならなかった理由。胎内にいた自分が母に疎まれた原因。それがどのような理由からであれ、母が狂い死んだ事実を変えることはできない。そんなことは分かっているが、それでもせめて――と願うことは、やはり愚かしいことなのだろうか。


 イルゼにとっては長いと思われる沈黙を経て、おもむろにディオニセスは口を開いた。


「余は人を愛したことなど一度もない」


 父からの返答を聞き、イルゼは呆気に取られた。だが呆れ返ったのではない。そんな生易しい感情では決してない。


「……では、貴方に娶られて、東の棟に暮らす女性達は一体なんなのですか? 西の棟に住む貴方の血を引く子供達はどうして存在するのですか? 少しでも、彼らの母親達を愛おしいと思うからこそ、いえ、せめて思ったことがあったからこそ――」

「余は彼女らに存在意義を与えただけに過ぎない。このアドニスにおいて、余の血を引く子供らの母親であるという意義を。それ以外に意味などなかった」

「……な」


 その瞬間、イルゼは自身の中で渦巻いた多様な感情から激しい憤りを選び取った。


「貴方は……! そんなふうに切って捨ててしまえるような感情でしか、彼女達を想っていなかったというのですかっ? そんな、安易な理由でしかっ……!」

「皇族の契りを平民と同様に考えるな。あれらの多くは従属国から献上された女達だ。もしも余が彼女らを国に返したところでどうなるというのだ? 従属国の面目は丸潰れ、女達は役目を果たせぬ不器量者よと一生、後ろ指をさされることになるだろう。それこそ彼女らは耐え難い生き恥を晒すことになる。ならば一度や二度、情けをかけてやり、この皇城に住まう権利を与えてやるというのが皇王としての温情というものだ。他の下女達にしてもそうだ。彼女らが望むから、気紛れではあったが情けをかけてやっただけのこと。卑しい身分には過ぎたることだ」


 イルゼは愕然とした心地になった。話が通じないとは、まさにこのことだろう。自分とはあまりにも基本的な概念が違い過ぎるのだ。


「では、母のことは? アラリエルのことは、どう説明するのですか? 彼女はアドニスに攻め滅ぼされた国の王女だったと聞きました。そんなアラリエルが、貴方との契りを望むとは思えない……!」


 彼女が望んでいたことならば、イルゼを愛してくれたはずだ。許容があったのならば、狂うことなどなかったはずだ。


「アラリエルか……あれは余の母に似ていると感じたのだ。捕らわれの身となってもなお、気丈に生き続ける姿が。だから試してみたくなった。手折られても花開く蕾なのかどうかを」


「は」とイルゼは苦しげに息をついた。胸に生じた圧迫がイルゼにそうさせた。


「貴方は、まだ少女だったアラリエルを無理やり召し上げたのですね? その結果、母は狂って死ぬに至ったのですね?」

「そうだな――あれは我が母とは比べものにならぬほど、か弱い娘だった。余の見込み違いであったのだろう」

「っ!」


 イルゼは両の手を思いっきり握りしめた。この己しか見えていない愚かな男を握り拳で殴ってやりたかった。哀れな妄執に捕らわれ続ける目を覚まさせ、その許しがたい罪状を突きつけてやりたかった。だがイルゼは奥歯を噛みしめて耐えた。


(でもきっと、そんなことをしても意味はない。それでもこの人は、目を覚ましてなんかくれやしないだろう)

「……貴方は、これからもカテリーナ様の想い出だけに生きるつもりですか? 他のものに目を向ける気持ちはないのですか?」


 これはイルゼ自身のために聞いたのではない。ラートリーのことが念頭にあったためだ。イルゼの問いにディオニセスは「ない」と答えた。


「そう、ですか……分かりました」


 今、この時をもってして、イルゼの中で完全に区切りがついた。もう、アドニスを出よう。もう、ここにいる必要性はない――


「だが、余は想い出に生きるつもりはない。余は失った全てを取り戻す」


 ディオニセスはイルゼにとって理解不能な言葉を口にして彼を見た。


「イルファード、速やかにインザラーガにおける離宮に向かい、与えられる役目に就くよう命じる」


 イルゼは呆気に取られた。父が初めて自分の名を口にしたことに驚き、同時に彼が何を言っているのかを理解できなかったからだ。


「どういうことですか?」

「全ては、其の方につき添う余の侍従――そこにいる者が知っている」


 いつの間にか傍らに現れていた男が、イルゼに向かって頭を垂れている。薄黒い色合いの長衣に目深く被った頭巾の男――それはラートリーやフォウルドが薄気味悪いと称した侍従の一人だった。


「奴の言葉は我が言葉と思え。それに逆らうことは余に逆らうことだと知れ。すぐさま皇城を発ち、インザラーガに向かえ」


 続けざまに投げつけられる父親の命令をイルゼは茫然として聞いた。


「――そんな、今すぐにって……」


 しかし今までとは明らかに違う支配的なディオニセスの声音に、イルゼは反抗が許されないことを察した。


「……では一度、自室へ戻り、支度をして参ります。少しだけ、お時間をいただけますか?」


 イルゼは懸命に動揺をおさえながら、ディオニセスに願った。これらの事情をセレファンスに説明するため、とにかく一度は部屋に戻らなくてはと考えたのだ。


「いいえ、その必要はございません。生活に要する品は離宮に揃えられておりますし、殿下のお部屋にあるものは、のちほど全て届けさせましょう」


 横から侍従の男が穏やかにイルゼの要望を却下する。


 イルゼは一瞬、驚いた。見るからに陰気な男が彼らの会話にすんなりと加わったことに。そして、その声が思ったよりも明晰で品があったことに。


 イルゼはディオニセスを振り返ったが、すでに父親の興味は息子から離れていることを知った。

 一瞬でもディオニセスに頼ろうとした己を恥じ、そして、なんとか状況を打開しようと侍従である男に向かってイルゼは訴えた。


「どうか少しだけ待ってください。部屋には僕の帰りを待つ者がいるのです。せめて、その人には一言、告げていきたいのです」

「イルファード殿下、貴方様は今後、神聖なお役目につかれる御方。あのような下女に、貴方様の精神を侵されるようなことがあってはなりません」

「神聖な、役目?」

「その通りです。インザラーガは聖皇シエルセイドが築いた初代皇国フェインサリルのあった地。そこに陛下が建設された離宮には、大陸全土から確認できる灯火台が設けられており、その守役を貴方様が担われることになったのです。何しろ殿下は多大なる御力をその身に宿す御方。その殿下が手ずから灯火を管理することで毎夜、インザラーガの山頂は輝くことでしょう。それが、この大陸の真なる支配者がアドニスであると、フィルファラード全土に知らしめる顕示となるのです」

「……なっ」


 なんて馬鹿馬鹿しい!


 イルゼは思わず叫びそうになった。


(そんなことのために離宮に閉じ込められるなんて、冗談じゃない!)


 心の中で叫ぶイルゼに向けて、頭巾で面の知れない男は、垣間見える口元を笑みの形にして言った。


「さあ、イルファード殿下。早速、離宮にご案内いたしましょう。何、心配なさらずとも結構ですよ。殿下のお世話には私共がおります。心から仕えさせていただきますから」


 またもや気配なく現れていた侍女が二人、イルゼの両脇に立つ。


「……!?」


 次の瞬間、イルゼの身体に異変が生じた。


(……なんで身体が――動かない!)


 いや、動かないというよりも、イルゼの意思とは全く別の行動を取り始める。まるで他人の意思がイルゼの中に入り込んだような――それは以前にもどこかで味わったことのある気味の悪い感覚。


「それでは陛下、御前を失礼いたします」


 長衣姿の男は畏まってディオニセスに会釈をする。しかしディオニセスのほうは、もはや我関せずといった様子で薔薇の剪定を再開させている。


 イルゼは二人の侍女らに誘導されるように、自分の意思ではない意思によって庭園から退出させられようとしていた。


「インザラーガの離宮は静謐で心が洗われるような美しい場所です。きっとイルファード殿下にも、お気に召していただけることでしょう――」


 男の嘲笑うような声音を耳元で感じながら、イルゼは懸命に後ろを振り返ろうとした。辛うじて目にできたディオニセスは、相変わらず薔薇の剪定を続けていた。


 そうしてディオニセスは紅い薔薇に視線を向けたまま、連れ去られるイルゼを一度も見ることはなかったのだった。

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