第三章

第40話 静かなる兆候

「なあイルゼ、今日もいいだろう?」


 自室の机に向かって就寝前の読書を試みようとしていたイルゼだったが、その気分はセレファンスのねだるような声でぶち壊される。


 ここ一週間、イルゼには殆ど読書をする暇が与えられていない。日中はラートリーに、夜間になるとセレファンスの要求に付き合わされているためだった。以前は自分の自由になる時間が豊富で、何時間でも本を読み耽っていられたというのに。


 イルゼは溜め息交じりに開いていた本を閉じて後ろを振り返った。視線の先には準備万端のチェス盤の前で、待ち兼ねたようにソファーで待機するセレファンスの姿があった。


「またやるの? 昨日も十分にやったじゃないか。何しろ朝方までね」


 皮肉っぽくイルゼは言ってやったが、セレファンスには全く気にする様子がない。


「でも今日はやってないだろう? お前ってば昼間はラートリーとばかりやってるからな」


 セレファンスの不満にイルゼは再び溜め息をついた。昼間は昼間でラートリーから「夜はセレとばっかりやってるじゃないの!」と抗議され、夜は夜でセレファンスに文句を言われる。あっちを立てればこっちが立たず、両方を立てればイルゼは一日中、彼らにつき合わなければならないのだ。


「……その格好で、その座り方はやめたほうがいいよ」


 イルゼはセレファンスの元に歩み寄り、そのくつろいだ姿に顔をしかめた。


「おっと失礼。どうもここへくると気が緩むんだよな」


 セレファンスは素直に謝罪すると、足の甲を太腿に乗せて組んでいた体勢を正した。


「それにしてもセレ、今日も一段と素晴らしい格好だね」

「ああ――これか?」


 白眼視のイルゼになど全く構わず、セレファンスは自身の様相を顧みた。


「イルゼはこういうのが好みなのか?」

「違うっ! 僕は嫌味で言ってるんだ!」


 わざとらしく小首を傾げ、上目遣いまで使ってみせるセレファンスがイルゼには腹立たしい。


「セレはよくも恥ずかしくもなく、そんな格好ができるもんだね」


 イルゼは呆れと皮肉を入り混ぜた声で言い、手にしていた自分の上着をセレファンスに向かって突き出す。いつまでもそんな格好をしていたら、風邪を引きかねないと思ったからだ。

 何しろ今のセレファンスは、女性用の薄い夜着を身に着けているのだ。純白の薄いレース作りでありながら、やはり少女とは違う骨格を上手く覆い隠しつつ、伸びやかな四肢を品良く見せている。その姿を見た十中八九の男は間違いなく『彼女』を魅惑的な美しい少女として認識するだろう。


「イルゼは恥ずかしい恥ずかしいって言うが、中途半端にやったほうが恥ずかしいだろうが。完璧にこなしてこそ、平気でいられるってもんだ。それに言っておくが、俺だって好き好んでやってるわけじゃないんだぞ? 仕方がないだろう? 体面では『そういうこと』になってるんだから」


 イルゼから受け取った上着を着込んだセレファンスは、開き直ったように椅子の背もたれに身体を預ける。


「そうだね。セレがラートリーに突拍子もない恥知らずなことを申し入れたおかげでね」

「おや、怒ってるのか?」


 おどけたような物言いに、イルゼは「当たり前だろう!」と怒鳴る。


「そのせいで僕は、周囲から妙な視線を向けられる羽目になってるんだぞ!」


 先日、たまたま廊下で擦れ違ったフォウルドには、なんとも意外そうな、だが理解のある大人のような顔つきを向けられ、


「そうですな。イルファード殿下もそのようなお年頃ですからな。私もうっかりしておりました」


 などと、しみじみ頷かれてしまった。そして挙げ句の果てには、


「そういうことであれば、まずはこの私めにご相談を寄せてくださいましたらよろしかったですのに。いや、もちろん殿下が御自ら選ばれた娘も類稀な器量を持っておりますが、何しろやはり身分というものがございますからなぁ」


 と、フォウルドは意味ありげにイルゼを見、憂うように呟いたのだった。


 つまるところ、ここにいるセレファンスは、イルゼが見初めて部屋に召し上げた少女、ということになっているのだった。


「あっははははっ、そりゃ災難だったな。そのフォウルドって奴は今頃、お前の妃がね候補を必死で選定しているかもな。案外、可愛い子を見つけてもらえるかも知れないぞ?」

「そんなの冗談じゃないよ。いくら可愛くたって良く知らない子と結婚するなんて。大体、フィーナがあんなことになって、まだ一年だって経っていないのに」


 そう言ってイルゼが顔を曇らすと、さすがにセレファンスは笑いを潜めて「悪い、ふざけ過ぎた」と謝った。


「でも真面目な話、こういう理由でもなきゃ、夜間にお前の部屋に出入りするなんてできないからな」

「だからといって、そこまで演出する必要性はないんじゃないの?」


 イルゼは再び、セレファンスの姿を見やって苦々しく顔をしかめる。


「いや、ラートリーがさあ……毎晩、いやに力の入った支度をするんだよ。彼女いわく、仮にもイルゼのお目がねに叶った娘なんだから、みすぼらしい格好をして、その気格を疑われるようなことがあってはならないとかなんとか」

(……気の使うところが間違ってるよ、ラートリー……)


 イルゼは異母妹の余計な配慮を秘かに恨んだ。


「全く、君のその格好をレシェンドさんが見たら泣くね」


 イルゼが溜め息交じりに言うと、セレファンスは「ああ、レシィか」と苦笑した。


 レシィことレシェンドとは、セレファンスの臣下で彼に絶対の忠誠を捧げる女騎士だ。今回、セレファンスがアドニスへ潜入するにあたって、彼女は何も知らされないまま、ウラジミールに置いてけぼりを食らったらしい。


「こんな計画、レシィに言っても反対されるだけだからな。取りあえず『必ず戻るから心配するな』という書き置きはしてきた」

「……まさか、それだけ?」

「それだけ。さすがにアドニスへ行くなんて書けるか。それこそアドニスまで追っかけてきかねないだろう?」

「そりゃ、そうかも知れないけどさ……」


 イルゼはレシェンドが気の毒になった。あのセレファンスが何より大事な彼女のことだ。きっと血眼になって主である金髪の少年を捜し回っているに違いない。


「俺がアドニスへ行くのに協力してくれたのがレワとサニエルさんでさ」


 セレファンスの口から懐かしい人達の名前を聞き、イルゼは興味を向ける。


「二人とも、元気なの?」

「ああ、元気さ。レワもサニエルさんもウラジミールの広場に出店した直売所で毎日、忙しそうにしてる」

「そっか、良かった――」


 セレファンスの知らせから、二人の明るく幸せそうな姿が容易に想像でき、イルゼは心から嬉しく思った。


 サニエルはウラジミールでも有数の貿易商会の次男坊で、レワは少数民族ツワルファの族長の一人娘だ。二人は相思相愛だったが、彼らを取り巻く環境と人種の違いが、その気持ちの成就を許さなかった。しかし一連の事件後、サニエルのウラジミールやツワルファ族を含めた未来を憂う心と、それを打開しようとする決意、何よりレワを慕う純粋な想いを確認した周囲は、二人の仲を認めつつあるようだった。


 それでも、その道のりは単純なものではないだろう。しかし彼らならば、幸せな未来が築けるに違いないとイルゼは思うのだ。


「サニエルさんにはアドニスへの入国の手引きをしてもらって、レワには女装の心得を伝授してもらったんだ。化粧の仕方から振る舞いに至るまでさ。何しろ、この策はレワが言い出したことだからな」

「レワが?」


 イルゼは驚く。あの見るからに控えめな少女が、こんな突拍子もない計画を打ち出すとは到底、信じられなかった。


「レワってさ、打ち解けたら結構、気さくで明るいんだ。俺がイルゼとの誤解を解くためにアドニスに行きたいって言った当初、サニエルさんのほうは難を示したんだけどさ、レワは親身になって擁護してくれた。俺達には凄く世話になったんだから、次は自分達が力になるべきだってな。きっとサニエルさんにしたら叔父さんにも内緒でことを運ばなきゃならなかったから心苦しかったんだろうけど」

「グリュワードさんにも内緒できたの?」


 グリュワードとはセレファンスの父方の叔父に当たる人物だ。ウラジミールでは交易協同組合の長を務めており、かの大都市でも確固たる地位を確立している。


「叔父さんの張る検問に引っかからずに国境越えできたのは、レワ直伝の女装術のおかげだな」


 確かにその場合、金髪碧眼の少年を探しても見つかることはないだろう。


「ほんっと、苦労した甲斐があったってものさ。この胸だってなあ、ラートリーは貶したが俺の意見とレワの器用さから生まれた画期的な力作なんだぞ? 何せ容易に脱着可能で、しかも見た目も触り心地も抜群、着けていても苦にならず、激しく動いたって崩れない優れもの!」

「……限りなく、どうでもいい情報だね、それ」


 イルゼの白けた反応に、セレファンスは「せっかく俺とレワが協力して改良を重ねたものなのにさ」と不満げだ。なんでも作り物の膨らみを手前で整えて締め上げることのできる仕様とのことで、夜着をはだけてまで見せようとしたセレファンスをイルゼは慌てて止める。


「はあ……全く何を考えてるんだか……」


 イルゼが呆れて溜め息をつくと、セレファンスは「お前ってノリが悪いなあ」と唇を尖らす。


 こんな馬鹿らしいやり取りをしていると、この皇城でイルゼが悩みながら過ごしていた日々など、嘘のことのように思えてくる。


「ほんと、セレって頼もしいよ」


 思わずイルゼが苦笑すると、セレファンスは「それは褒め言葉として受け取っておこう」と笑った。


「ところで今日、ラートリーは宝物庫の点検に同行したんだろう? 例の計画のほうは上手くいったのか?」

「うん、首尾は上々って答えてたよ。予定通り、侵入が目立たなさそうな場所の窓の鍵を外しておいたってさ」

「そうか、なかなかやるな、お前の妹は」

「ただ、少し木登りをしなきゃいけない場所だとは言ってたけど」

「んーまあ、それくらいは仕方ないか。それじゃあ早速、明日にでも宝物庫への侵入を決行するぞ」


 その宣言にイルゼは少し緊張気味に頷いた。何せ盗賊さながらの真似をしようとしているのだ。捕まった場合、セレファンスはもちろん、イルゼもただでは済まないかも知れない。


「よし、明日の決行に辺り、今日はまず――」

「まず?」

「景気づけにチェスの対戦だな」


 生真面目な表情のままに言うセレファンスにイルゼはガックリと肩を落とす。


「それ、明日のことなんて関係なく、単にセレがやりたいだけだろ」

「いいじゃないか、なんならお前が勝ったら、この格好で添い寝してやってもいいぞ」

「僕が勝つのはいつものことだけどさ、その申し出は丁重にお断りするよ」


 今夜も相手に勝利を譲るつもりはないとばかりにイルゼは鷹揚に微笑んでみせた。




 空には爪先のような月が浮かび、その控えめな明かりを含む静寂が辺りを包む。そんな庭先において、一人の若い兵士が誰何した。


「そこにいるのは誰だ!」

「……ごめんなさい、驚かせてしまって――」


 薄闇に沈む庭木の向こうから、鳶色の髪の少年が現れる。その隣には美しい金髪の少女を伴っていた。


「貴方は――イルファード皇子殿下?」


 兵士は驚きの声を上げ、慌てて平伏する。


「どうかなされたのですか? このような時間に、このような場所で」

「……ええと」


 鳶色の髪の少年――イルファードことイルゼは、少し困った顔で宙に視線を彷徨わす。


「その、彼女が、今夜は月が綺麗だから少し庭を歩きたいと言ってね」

「……はあ、しかし、月と言われましても、まだ――」


 と、そこまで気抜けしたように答えてから、兵士は何かを察したような顔つきになり、寄り添うようにして立つ少年と少女を見た。


「ああ、まあ、そうですね。三日月は満月と違い、月明かりで全てを晒さない優しさがありますし、お二人のような初々しさもあって美しいものですからね」


 我ながら上手いことを言ったとばかりに満足そうな顔の兵士に、鳶色の髪の少年は愛想笑いを浮かべた。


「ですが殿下、先日のためしもありますし、皇城の庭とは言えども供を連れずに夜間を出歩かれるのは危険です。それに春とはいえ、まだまだ夜は寒いことですから」

「ああ、そうだね、心配してくれてありがとう。じゃあ、そろそろ部屋へ戻ろうか、セレシア」


 イルゼが金髪の少女に向けて促すと、彼女は素直に頷き、それから兵士に向かって柔らかく微笑んだ。


「さ、行こう」


 少女の肩を軽く抱いて踵を返し、イルゼは惚けたようになった兵士に背を向ける。


 暫くの間、彼らは仲睦まじい恋人同士のように歩き続けたが、兵士の姿がすっかりと見えなくなったところで、少女のほうから低く短い笑声が洩れた。


「イルゼ、なかなかの役者ぶりじゃないか」


 少女セレシア――いや、セレファンスが楽しげにイルゼを見やる。


「いいや、セレには敵わないよ」


 イルゼは肩を竦め、皮肉そうな声と表情で返答する。


「あの兵士、すっかり君の笑顔にまいってたみたいだしね」

「いやー……うん。俺も最近、自分の見事な女っぷりが恐ろしくなってきてさ」

「良く言うよ。そのわりには、やり過ぎってほど乗り気で楽しんでるくせに。まあ、とにかく、やり過ごせて良かったけどさ」

「ところで、その鏡がある宝物庫ってのはまだなのか?」

「いや、もうそろそろだよ。確か、もう少し先に行ったところにあるはずだ」


 そう言ってイルゼとセレファンスは再び辺りに注意を払いながら暗闇に沈む庭を歩き始める。




「……ふぅむ、ちょっとの木登り、ねぇ?」


 セレファンスは宝物庫への侵入経路である窓を見やって首を傾げる。


 目的地に到着したイルゼとセレファンスは、考えていたよりも進入に苦労しそうな状況に苦渋の表情を浮かべていた。


「お前の妹、少し感覚がずれてるんじゃないのか?」


 セレファンスの冷ややかな横目を受けてイルゼはうなだれる。そして、遥か上方にある窓を恨めしげに見上げた。


 その窓は窓というよりも通気口と称したほうがよさそうなものであり、這いずり入って辛うじて通り抜けられそうな大きさである。しかもそこまで到達するのには、身長の十倍ほどの高さを登らなければならなかったのだ。


「幸いにして足場とする木は頑丈なものだが、途中、足でも滑らせて落下したら――多分、死ぬな」


 淡々としたセレファンスの声が耳に痛いくらいだったが、イルゼは虚勢のように胸を張る。


「このくらい平気だよ。僕は木登りが得意だからね」

「……ふうん? お前って、あくまでもラートリーを庇うわけか」

「だって、そんなこと言ったって仕方がないだろう? 今更ごちゃごちゃ文句を言ってもさ。とにかく、早く登ってしまおうよ。また巡回の兵士がこないうちに」


 言うが早いかイルゼは木に取りついて登り出す。そして頑丈な足場に立つと、こちらを見上げるセレファンスを不遜に見下ろした。


「それともセレは木登りが苦手? だったら下で待っててくれても構わないけどね。どうせ僕一人で行くつもりだったし」


 途端、セレファンスが不愉快そうに顔をしかめる。そして無言のまま、裾の長いドレスを太股までたくし上げて腰に巻きつけると、イルゼと同じように木を登り始めた。見た目には上品そうな美少女が、がっつりと木の幹に取りついて木登りをするさまは、なんとも奇怪な光景だった。


「――へえ、セレもなかなかやるね」


 イルゼは登ってきたセレファンスに手を貸しながら舌を巻く。森育ちのイルゼから見ても見事な登りっぷりだ。


「ふふん、見くびるなよ。これでも子供の頃は木登りが得意だったんだ。城の庭にある木に登って良く遊んだものさ。一人になりたい時とか、いい隠れ場所にもなったしな。……さすがに、こんな格好で登ったことはないけど」


 そう言ってセレファンスは、やれやれとばかりに肩を竦めた。


 その後、二人は無事に窓のある高さまで木を登りきり、最小限に縮ませた身体を窓という名の通気口に押し込めた。そうして降り立った宝物庫の内部は真っ暗で寒々としており、耳が痛いほどに静かだった。


 イルゼは光のない空間を見渡す。


(……なんか、古い時代の臭いがする)


 視界で何かを捉えることはできなかったが、普通の部屋とは違う空気に、そこが保管用の場所であるということは知れた。


「うわ、見事に真っ暗だな。イルゼ、明かりは? 早く点けてくれ」


 続いて入ってきたセレファンスに促され、イルゼは携帯用のランプを取り出して明かりを灯す。そして、ふと浮かび上がった周囲に二人の少年はギョッとした。


「な、なんだ、石像か……全く驚かせないでくれよ」


 セレファンスはびくつきながらも悪態をつく。


 その石像は悪趣味の限りだった。身体のみを見れば精悍な裸体の男だが、頭は厳つい牛の頭だ。その傍らには四つん這いの雌牛で、顔部分は美しい女の石像があった。見渡すと他に並べられた石像も、そのような奇妙な類いばかりであり、まともな意匠のものは一つもない。


「お前の生まれ故郷だし、悪く言うのもなんだけどさあ……これって、あんまりいい趣味じゃないよな」

「うん、だね。でも僕は、これほど似合いの趣味もないと思うけど」


 イルゼは皮肉そうに言ってのけた。ここに住まい、今まで見てきて聞いてきた事柄を鑑みれば、この皇城に巣食う闇にこれらの石像のような化け物がいても、なんら不思議ではないように思えた。


 イルゼの自虐的な言葉に、セレファンスは少し黙ったあとに「少なくとも、お前やラートリーに似合うとは思えないけどな」とだけ言った。


 どうやらイルゼ達が侵入した場所は、吹き抜けの二階部分らしかった。手摺から階下を見ると、暗闇の中に様々な宝物が並べられているのが分かった。


「鏡のある場所、知ってるのか?」


 迷いなく階下へと降りようとするイルゼに向かってセレファンスが訊ねる。


「うん、ラートリーが見つけておいてくれたんだ。一階の奥にある部屋で、簡単に分かるはずだとは言ってたんだけど……」


 こんなに暗いので沢山の宝物の中から簡単に見つかるだろうか、などとイルゼは不安に思っていたが、そんな杞憂をよそに目的の部屋も鏡も簡単に見つけられた。個別の部屋は一つしかなく、鏡は室内の中央に鎮座していた。そして奇妙なことに、鏡の前には一つの椅子が備わっており、まるで普段から使用されているかのようだった。


「これが例の鏡か」


 セレファンスが興味深く覗き込む。イルゼも同じようにして鏡を覗き込んだが、自分達の映る背後が気になって振り返る。


「……なんだよ」


 セレファンスがイルゼの動作を怪訝に見やる。


「いや、なんか――背後の暗闇から何か映り込みそうだな、とか思って……」

「おい、嫌なこと言うなよ! ……まあ、それにしても、やっぱり結構でかい鏡だったな。ラートリーの話じゃあ円形の姿見だって言ってたから予想はしてたけどさ。これじゃあ持ち出すのは無理そうだし、壊すしかないな」

「うん……」


 イルゼは気が進まない気分だったが頷いた。


「まあ、多少の罪悪感はあるけどさ。でも、こうして見ると、時代は古そうだけど高価な代物じゃないみたいだし――」


 だからいいんじゃないか、といった具合でセレファンスは言う。


「うん、壊そう」


 イルゼは踏ん切りをつけるようにして言った。もしかしたら自分達は単なる過ぎた勘ぐりで鏡を壊そうとしているのかも知れない。だがセレファンスやラートリーが、この鏡に対して何らかの不安を抱いているのは事実だ。ならば彼らの懸念が取り除けるのであれば、鏡の一枚や二枚、壊した時の罪悪感など軽いものだとイルゼは自分を納得させる。


 イルゼとセレファンスがどちらからともなく鏡に手を伸ばす。そして二人一緒に、その鏡を床に向かって傾けようとしたその時だった。


「ちょっと待て、イルゼ……誰かくる!」

「えっ?」


 イルゼは思わず背後を振り返った。確かに部屋の外から、こちらに向かってゆっくりと近づいてくる規則正しい足音が聞こえた。そして、その音が部屋の扉の前で止まり、ガチャリ、と取っ手が重たそうな響きを鳴らす。


「やばい……!」


 セレファンスが小さく叫んだ。イルゼは咄嗟にランプの灯火を消す。暗闇となった中、セレファンスがイルゼの腕を引いて物陰に誘導してくれた。その場に二人は息を詰めてしゃがみ込む。


 次の瞬間、扉が開閉され、石畳をカツカツと歩んでくる一人の足音を聞いた。それは鏡がある辺りで止まる。


「母上……お加減はいかがですか?」


 その声を聞いて、イルゼは息を飲む。


(この声は――)


 聞き覚えのある男の声。だがそれは、イルゼが聞き知っているものよりも、随分と若々しく明るい。

 声の主は弾んだような口調で続ける。


「先日、見たいとおっしゃっていた薔薇の蕾が今日、見事に花開いたのです。ほら、ご覧ください。母上の一番お好きな深紅の薔薇をお持ちしましたよ」

「……奴は、誰と話してるんだ?」


 床に伏すように身を屈めていたセレファンスが、イルゼの顔近くで怪訝そうに囁いた。


 二人の少年はそっと上体を起こし、物陰から声の主を窺ってみる。


 イルゼはそこにいた人物を目にして愕然となった。視線の先にはアドニスの皇王であり、イルゼの実父でもあるディオニセスがいた。

 だが、その事実に衝撃を受けたのではない。イルゼが驚いたのは今の父親の様子だった。


 ディオニセスは先程までイルゼ達が壊そうと試みていた鏡の前に座り、至上に幸福そうな笑みを湛えて、しきりに『母上』とやらに話しかけていたのだ。


「なんだあいつ……鏡の中に向かって話しかけてるぞ……?」


 セレファンスの声音には、薄気味が悪いとでも言いたげな感情が含まれている。確かにディオニセスの奇異なる言動は、気が触れた初老の男のものとしか思えなかった。


「お父さんが、なんでこんなところに……?」


 イルゼが茫然としたまま呟くと、セレファンスが驚きの声を向けてきた。


「え? じゃあ、あの男が、アドニスの皇王ディオニセスなのか?」


 セレファンスは信じられないといった様子で再度、ディオニセスに視線を転じた。まじまじと奇異なる実父を見つめるセレファンスに、イルゼはにわかに羞恥心を覚える。当然だ、あんな状態の父親を人に見られながら、どうして実の息子であるイルゼが平気でいられようか。


「……とにかく、彼がいなくなるまでここから動けないな」


 セレファンスはディオニセスから目を離すと、ちょうど良くあった棚を背にして床に座り込んだ。イルゼも同じようにしてセレファンスの横に座る。


 それからディオニセスは一刻以上もの間、鏡の前で『母上』を相手に話し続けた。話の内容は、とりとめのない日常的なものばかりだった。薔薇の世話をする苦労話から始まり、今朝に見かけた品の良い声で鳴く小鳥の話、新たに増やそうとしている薔薇の品種のこと、それが上手く育てば来年には美しい姿が見られるだろうといったようなこと。それらを懸命に話し続けるディオニセスは、母を慕って夢中で言葉を紡ぐ幼子のように朗らかで明るかった。

 だが、その会話の途中で、彼の子供であるイルゼ達、そして子供達の母親でありディオニセスの妃でもある女達の話が出ることは一度もなかった。まるで、その存在自体がないとでもいうように。


 ディオニセスが去るまでの間、イルゼとセレファンスは息を潜めて時を過ごした。そうしていると、このまま暗闇に巻かれて自分が消失してしまうのではないかとイルゼは錯覚した。それほどまでに、自分の存在が頼りなく思えた。


「イルゼ、親父さん、行ったみたいだぞ」


 ふとセレファンスの気配を顔の近くで感じて、イルゼはのろのろと視線を上げた。するとそこには、セレファンスの心配そうな顔があった。


「大丈夫か?」

「……うん、大丈夫」


 イルゼはゆっくりと頷く。


 セレファンスは物陰に潜んだ時から掴んだままだったイルゼの手を解放し、鏡の前まで歩み寄ると首を傾げる。


「普通の鏡、だよな……」


 そこにイルゼも近づいて鏡を覗き込む。セレファンスの言う通り、普通の鏡に見える。先程、二人で見た時と全く変わったところはない。ただ、ディオニセスが残していった薔薇の芳香が噎せ返りそうなほどだった。


「……なあイルゼ、親父さんってさ、いつもあんな感じなのか?」

「いや――確かに変わっている人みたいだけど、あからさまに人前でおかしな言動を取ることなんて今までになかったと思う。そういう話を聞いたこともないし……。でも、あんなにたくさん喋っているのを聞いたのは初めてだ。僕達には見向きもしないのにね」


 イルゼは自虐的に笑う。ディオニセスの『母上』は確か、彼が皇位につく直前に亡くなっている。詳細な死因は聞いたことはなかったが、皇城内で巻き起こった皇座をめぐる革命のさなかに命を落としたのだろう。


 先程のディオニセスの様子から、彼にとって生きて目の前にいる自分達よりも死者のほうが大切なのだと十分に理解ができた。そんな心情は大切な者を失ったイルゼとて分からなくはなかったが、眼中に置かれない身というのは辛くて悲しいものだった。


「とにかく、目的を果たそう」


 そう言ってセレファンスは鏡に手をかける。それにイルゼは思わず「何するのっ?」と小さく叫んでセレファンスの手を抑えた。


「何って――決まってるだろう?」

「鏡を壊すの? 待って、お願い、やめて!」

「……はあっ?」


 イルゼの懇願にセレファンスが素っ頓狂な声を上げた。


「お前なあ、今更、何を言ってるんだ? そのためにここまできたんじゃないか。さっきは了承してただろう?」

「そ、そうだけど――でも、あんなに楽しそうな父を見たのは初めてなんだ。いつも生気のない無表情な顔しかしない人なのに。もしも、そんな父が、この鏡を失ったら……!」

「悲しむんじゃないかって? そういう同情は親父さんのためにはならない。彼の母親は、かなりの昔に亡くなっているはずだ。妻も子供もたくさんいるような男が、ましてや一国の皇王たる者が、いつまでも死者に慰めを求めてどうするってんだ。責任放棄もいいところだ」


 セレファンスの指摘はもっともで、イルゼには反論できない。セレファンスは更に畳み掛ける。


「大体、お前だって父親から無視されっぱなしでいいとは思ってないんだろう? その原因は少なくとも、この鏡にあるんじゃないのか? だったら多少、荒療治でも、それを取り上げることでなんらかの進展を促すことも必要だと俺は思う」

「でも、もし鏡がなくなっても何も変わらなかったら? そうなれば僕やラートリー、母達は本当に父にとって少しも価値がなかったってことになるじゃないか!」

「そんなのは何も行動を取ってない現時点では分からないことだ。たらればを言っていたら何もできないし、何も知ることはできない。良くも悪くも結果が出たら、その時はその時だろう。違うのか?」

「……そうかも知れない。でも、でも……!」


 イルゼの声が涙声に変わる。


「嫌なんだ、鏡を壊すのは絶対に嫌だ! 良くは分からないけど、凄く、凄く怖い……!!」


 イルゼは苦しげに顔を歪め、ボロボロと涙を零し始める。その思わぬ事態にセレファンスは唖然とした。


「は? ちょ、なっ……なんで、泣き出すんだよ? そりゃ、少しはきついことを言ったかも知れないけど、泣くほどのことじゃ――」


 と、ここまで言ってセレファンスは眉を顰める。そして「ちょっと失礼」と断ってからイルゼの額に手を当てた。


「何するんだよっ」


 途端、イルゼは子供の癇癪のようにセレファンスの手を振り払う。


「……どうりで様子がおかしいと思ったら」


 セレファンスは深々と溜め息をついた。


「お前、熱が凄いぞ。その様子じゃあ出かける前から熱があっただろう。全く! 具合が悪いのならちゃんと言え!」

「――え?」


 イルゼは涙で濡れた顔をキョトンとさせる。


(……そういえば、頭がボーっと、するような)


 イルゼがぼんやりと考えていると、セレファンスは「はああああ……」と深く長い溜め息をついた。


「自分の体調さえも管理できないのかよ。全く世話の焼ける」

「だって、さっきまでは全然、なんともなかったよ……」

「いいや、それだけ熱が高くなるんなら、前兆ぐらいはあっただろうが」


 セレファンスは呆れ切った口調で「ほら、さっさと帰るぞ」と言って部屋の扉に足を向ける。


「え……でも、鏡は?」


 イルゼの問いにセレファンスは不本意そうな表情で振り返った。


「お前は嫌なんだろ、壊すの。だから壊すのをやめた。文句あるのか?」


 なんとなく突き放した物言いだったが、我が儘を言って予定を狂わせたのはイルゼだ。セレファンスにしたら文句の一つも言いたいだろう。


「ごめん、セレ……」

「いいから早く帰ろう。こんなところで倒れられても、さすがに面倒は見切れない」


 セレファンスはぶっきらぼうに答えて再度、イルゼに背を向ける。


『時は、熟した――』

(……え?)


 何かが聞こえた。誰かの声だ。


「……セレ、今、何か言った……?」

「うん? いいや? まあ、もっと文句を言いたいのは事実だけどな。幻聴まで聞こえるようなら熱が酷いってことだ。とにかく、さっさと部屋に戻るぞ」


 そう言ってセレファンスはイルゼの手を取って促す。


「うん……」

(きっと、空耳だな……)


 イルゼはぼんやりしている頭で納得すると、セレファンスに手を引かれながら、その場を後にした。

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