第39話 二人の少女

「セレは、これからどうするの?」


 イルゼは感情を落ちつけてから、目の前に座る少女に訊ねる。


「ああ、うん、そうだなあ……」


 少女――セレファンスは軽く唇を尖らせると、考え込むようにして口元に指先を添える。

 その仕草は、彼女が『彼』だと知っているイルゼから見ても、妙に艶を感じさせるもので、見てはいけないものを目にしているかのような気分になる。もちろん、当の本人は意識などしていようはずもないが。


「僕にできることがあるんだったら協力するけど。僕が〈ディア・ルーン〉を継承しているっていう話は未だに信じられないけれど、母がエスティアの王女だったっていうのは本当だ。だったら、そこから探っていけば〈ディア・ルーン〉の有力な情報に辿り着けるかも知れない。〈闇からの支配者〉に対抗するために、その力が必要だっていうんなら、それに僕は協力するよ。あと、前にセレが勧めてくれたように〈マナ〉もできるだけ扱えるようになれるよう、努力してみる」


 イルゼの決意にセレファンスは意外そうに目を丸くした。まるで、どういう心境の変化だとでも言わんばかりに。

 無理もない。今までイルゼが〈マナ〉に対して前向きだったことなど、一度だってなかったのだから。


「フィーナの望んだことが僕の生きる道なら〈闇からの支配者〉が望むものはそれに相反するものだ。だったらそれを回避できるよう、僕は僕なりに頑張らないと。それと〈マナ〉を使えるようになりたいのは、ラートリーや周囲にいる人達を守りたいから。それから、あとは――」

「あとは?」

「……あとは、まあ、セレを手伝ってあげてもいいと思うし」

「ということは、俺のこと、許してくれたって思っていいんだよな?」


 からかうような嬉しそうなセレファンスの声に、イルゼは不満げに唇を尖らせた。平たく言えばその通りだったが、こうも確信をもって本人から言い当てられるのは面白くない。


「仕方がないだろう? 許すも何も、こうしてここまで君はきちゃったんだもの。だから、その見事な変装に免じて許してあげるよ」


 イルゼがわざと尊大な態度で言うと、


「ははっ、そりゃあ苦労したかいがあったってもんだ」


 と多少、自虐が入ったような苦笑をセレファンスは浮かべた。


「じゃあさ、イルゼ。早速だけど頼みがあるんだ。俺をお前の専属の侍女に取り立ててくれないか? そのほうが正体がバレる危険性が減るし、都合もいいからさ」

「ああ、それはそのほうがいいだろうね。さっきのようなことがあってもね……それに、どうも君は目立つみたいだから」


 イルゼが苦笑すると、セレファンスは「はあ?」とばかりに訝しげな表情を作った。どうやら彼は、自分の女装ぶりが必要以上に上手くいっていることを自覚していないらしい。


「でも問題はラートリーなんだよなあ」


 先程の様子からして、彼女が『セレシア』を気に入ってくれることは難しいだろう。顔を合わせるたびに突っかかるような真似でもされたら、あの鋭い感性を持つ異母妹のことだ、何かしらの疑念を持つまでに至ってしまうかも知れない。

 さて、どうやってあの気難しい少女を納得させることができるだろうか? これはかなりの難題だぞ、とイルゼは溜め息をついた。


「いや、大丈夫だ。その点については心配ないと思う」


 イルゼの憂慮に反してセレファンスは気楽に言った。


「そんな、なんの根拠でもって」


 君はラートリーの気性を知らないから、とイルゼが続けようとしたその時である。


「そうでしょう? ラートリー皇女?」

「……は?」


 イルゼは固まった。セレファンスはいるはずのない少女に向かって呼びかけた。それは一体、どういうことを意味しているのか――。イルゼは思い至る可能性でもって、そこに視線を向ける。


 この部屋から出て行くための扉は、ここからだと死角になる短い通路の奥に位置する。つまり退出するふりをして、イルゼ達からは見えない場所にとどまることは可能なのだ。

 イルゼの予想は的中していた。先の死角からラートリーの姿が現れる。どこか不貞腐れたような、ばつの悪そうな表情を浮かべながら。


「ラートリー……!」


 イルゼは異母妹に対しては言葉を失い、ただし怒りを向ける先だけは検討がついたので、そのままセレファンスを勢い良く振り返った。


「セレ、もしかして君、そこにラートリーがいるのを初めから知ってたのかっ?」

「ああ」


 セレファンスが軽く頷くのを見て、イルゼは呆れてものが言えない状態となる。そういえばセレファンスは正体を明かす直前、入り口近くの窓辺へと歩んでいった。それは恐らく、そこにラートリーが隠れているとみて、確認をするためだったのだ。


「だ、だったら、なんで教えてくれないんだよっ?」

「いやー……だって、なあ? せっかくイルゼが本音を語ってくれてるのに、話の腰を折るのも悪いじゃないか」


 まるで茶化しているとしか思えない言い草にイルゼは唖然とした。


「どうして君は、いっつもそういう物言いを……!」


 と、ここまで怒りを発火させ、イルゼはあることに気がついた。


 ラートリーが初めから最後までこの部屋にいたということは、先程の話の内容はおろか、イルゼが癇癪を起こして果ては泣いてしまった様子まで、全て彼女に聞かれてしまったということではないか?


 あまりの恥ずかしさにイルゼは絶句した。そんな隙をついてセレファンスは続ける。


「ラートリー皇女はクロレツィア皇妃のたった一人の娘で、皇妃にとっては最も大切な存在だと聞いている。それに先程のイヴェリッド皇子とのやりとりで分かったが、ラートリー皇女はクロレツィア皇妃の後ろ盾のおかげで、この皇城内ではそれなりに強い発言力をお持ちのようだ。加えて何よりお前に好意的だし、事情を包み隠さずに話せば何かと協力してくれるだろうって思ってさ。ついでに威勢も度胸もいいしな」

「……つまりセレは、ラートリーを利用しようと考えたわけだ」


 イルゼが意地悪く言い放つと、セレファンスは憮然とした表情を見せる。


「お前も相変わらず可愛くない物言いをするのな。利用するなんて感じ悪いことを言うなよ。協力だよ、お互いにさ。これはアドニスにとっても無視できるようなことじゃないだろう?」

「そうよ、イル兄様。そちらの言う通りだわ」


 ラートリーがきっぱりと言い、こちらに向かって歩み寄ってくる。


 イルゼ達の前に立ったラートリーの顔つきは、先程とは打って変わって毅然としたものだった。このように状況を即座に理解し、自分の進むべき方向を決断して行動できるさまは、この少女が聡明な意識の持ち主であることを意味する。


「ここに私がいるのは紛れもなく私の意思よ。たとえ、そちらの思惑通りだったとしてもね。だから今後、私が行動するのも私の意思。私は私の考えを成すために動くの。他国の皇族に利用されるなんて冗談じゃないわ。私の行動は母様のそれに繋がるんだから。そちらが指摘されたように、私の立場が母様に頼るところが大きいことくらい、これでもようく理解しているのよ」


 ラートリーの険悪な物言いに、セレファンスは「おや」といった仕草を見せると即座に謝罪を口にした。


「これは失礼をした。思ったことを口にしただけで悪気はなかったんだ」

「あら、別に気になさらなくても結構よ。さっきも言ったように、私は貴方に協力する気も利用される気もサラサラないんだから。私が協力するのは、母様とイル兄様、そしてアドニスのためになることだけよ。もしも貴方の存在が、それらの利ではなく害であると判断したのならば、容赦なく身元をバラしてやるわ」


 ラートリーは脅し文句のように宣言する。それにセレファンスは一瞬、何かを言いたそうに口元を歪めたが、イルゼの「これ以上は何も言ってくれるな」という意味合いの視線を受けると、鼻白んだ様子を見せながらも口を開くことはしなかった。

 が、しかし。セレファンスがラートリーからの悪意に耐えたのは、この一度きりだった。


「それにしても、かの国のおおらかさは聞きしに勝るものがあるわね。第一皇位継承者である皇子が、女の格好をする特技まで持ち合わせているなんて」


 ラートリーの確かな嘲りにセレファンスは口角を引き上げ、すかさず同様の感情でもって反応した。


「俺もアドニスはもっとお堅い国かと思っていたんだが、皇子は侍女を部屋に招こうとするほどに親しげで、皇女は人の会話を立ち聞きする奔放さ。全くなかなかに面白い」

「……あらあら、そんな。うふふふふ」

「いやいや、おかまいなく。あはははは」


 二人の見目麗しい少女達は、イルゼの前で空々しい笑声を発する。そして、そこから続いた息の詰まりそうな沈黙の後、彼女らによる更に激しい衝突は始まったのだった。


(……なんで、こんな……)


 イルゼは彼らの不毛な戦いを眺めながら唖然としていた。

 どういうわけか勃発してしまった二人の言い争いは、とどまることを知らず、更に激しさを増すばかりだ。ここは多分、イルゼが二人を制止するべきなのだろうが、あまりにも馬鹿馬鹿しいその内容に、その気すら失せてしまっている。


「大体ね、その念入りな化粧はなんなのっ? 実はそういう趣味でもお持ちなんじゃないのかしら!?」

「俺はやると決めたら、とことんやる性格なんだ! 中途半端な真似ができるかっ!」

「はあっ? バッカじゃないの! それにその胸、ちょっと盛り過ぎじゃない!? そんなんだからイヴェリッドの変態に目をつけられるのよっ!」

「大したもんじゃないか、完璧な変装ってことだろうっ? 何せ俺は本物より本物っぽく振る舞える自信があるしな! 特に、お前と出会ってからは!」

「はああああ!? どういう意味よ、それは!!」

「意味も何も、そのままの通りさ。じゃじゃ馬の皇女様!」


 セレファンスがせせら笑いながら言い放つ。それがまた並はずれた美貌によるものだから、その小憎たらしさは何倍にも増幅されていた。


「んまあっ……!」


 と、ここでラートリーがイルゼを鋭く振り返った。そして「イル兄様!」と叫ぶと、勢い良くイルゼにしがみついてくる。


「こいつ、いくらなんでも酷いわ! じゃじゃ馬だなんて、アドニスの皇女である私に向かって言うなんてっ……!」


 そう言ってラートリーは、わっとイルゼの胸に泣き伏した――恐らく嘘泣きであろうが。


(まあ、当たらずも遠からず――っていうか、ほぼ当たっているような……)

「……なんで、そこですかさず『そうだね、酷いね』とか言ってくれないわけ?」


 ラートリーから恨みがましい視線を向けられ、イルゼは慌てて頷いた。


「あ、や、そ、そうだね、うん。セレも少し言い過ぎだよ。四つも年下の女の子に、そこまでムキになる必要はないだろう?」


 取り繕うようにセレファンスをたしなめると、イルゼは異母妹の黒髪を優しく指で梳いてやる。するとラートリーは、この上もなく満足そうな笑みを浮かべた。


「お前、少し甘やかし過ぎじゃないか? 大体がして、そっちが先に突っかかってきたんじゃないか」


 不満げなセレファンスには少し気の毒だったが、これ以上、ラートリーの機嫌を損ねることだけは避けたい。


「ところでラートリー。なんで僕達の話を立ち聞きしようなんて考えたの?」


 とにかく争いの再発だけは避けようと、イルゼは違う話題をラートリーに振る。


「ああ、それは――」


 ラートリーが話し出した理由によると、彼女は当初、セレファンスの見せた洗練な所作から、またどこかの貴族家が送り込んできた侍女なのではないかと疑ったそうだ。


「イル兄様に言い寄って、艶聞絡みの弱みでも握ろうとしてるのかしらって。もちろん兄様が無抵抗の侍女に不埒な真似をするとは思ってないけど、その反対は有り得るじゃない? 薬を盛られた挙げ句、意識を失わせて貞操を奪うとか」

「………なんて発想をするんだよ」


 ラートリーの杞憂にイルゼは頭が痛くなってきた。相変わらず十代前半の少女が考えることではない。


「でもイヴェリッドのためしだってあるじゃないの。兄様は気が優し過ぎるし、相手が女なら油断してしまうかも知れないでしょう? 私はそれを心配して――」

「イヴェリッド皇子のためしって?」


 ラートリーの言葉にセレファンスが怪訝そうに反応する。


「……ラ、ラートリー!」


 イルゼが焦った声を上げると、ラートリーは「ああ」と心得たように話題を転換した。


「えっと、つまりイル兄様は、色々な奴らに狙われる可能性をお持ちだってことよ。昨日の暗殺騒ぎだってあることだしね」

「ふうん?」


 セレファンスは一瞬、何かを言いたげな視線をイルゼに向けたが、それ以上は追求してこなかった。それにイルゼがホッと胸を撫で下ろしていると、


(あ、そういえば昨日のこと――)


 自分を襲った犯人であるカルカースのことを思い出した。


 カルカースはイルゼとセレファンスが仲違いをする原因をもたらした者だ。イルゼはカルカースからセレファンスがリゼットの皇子であることを告げられ、彼に利用されそうになっているのだと警告された。そしてリゼットこそがセオリムの村を襲った黒幕だと教えられた。結局、それはイルゼをアドニスに連れ帰るための嘘だったのだろう。


 他にも実父のこと、母のこと、そして養父ダグラスの過去についても知らされ、それらをイルゼは全て信じた。あの時はセレファンスのついていた嘘があまりにも衝撃的で、カルカースを疑う余地など持てなかった。それとは反対に、セレファンスの言うことには少しも耳を貸さなかった。


(でも今ならその理由が分かる……僕はただ逃げていただけだった。少しでも傷つかずに済むように、居心地が良いとほうへ逃げたんだ)


 セレファンスの嘘に深く傷ついたイルゼを、カルカースは優しく受け入れてくれた。そんな誰かに守られている状態は好ましく、ずっとそうでありたいと心から願った。だから疑念を持つことを避けた。


「これ……セレには言っておいたほうがいいと思うから言うよ。昨日、僕を襲った犯人はカルカースさんだったんだ」

「――えっ? 嘘っ?」


 この声はセレファンスではなくラートリーだ。それに続いてセレファンスが口を開く。


「カルカースって、お前をアドニスに連れ去った男のことか。あいつの言動は、どうにも胡散臭くて信用がおけない。穏やかな容貌の裏に何か肝心なことを巧みに隠してる気がする。俺は当初、奴はアドニスに巣食う〈闇からの支配者〉の手先じゃないかと疑った。だけど奴の行動は、それにしちゃあ一貫性に欠けているような感じもしたし――まあ、たとえそうでなくとも、あの時にセオリムの村にいたことを考えると、あながち無関係ではないのだろうけどな」


 セレファンスが何気なく話した内容に、イルゼは初めて知る情報が含まれていることに気がついた。


「ちょっと待って。あの時ってセオリムの村が襲われた時のこと? そこにカルカースさんがいたの?」

「えっ……ええと、このこと、お前に話してなかったっけか? 俺は炎に包まれるセオリムの村でもカルカースと会ってるんだ」

「……そんなの、初耳だ」


 イルゼは茫然として呟く。その様子にセレファンスは困惑を見せながらも続けた。


「カルカースと会ったのは、その時が最初だ。奴はお前が〈マナ〉を暴走させて創り出した光球を前にして、こう俺に警告したんだ。この光の渦は、これを作り出した者の激しい感情だ、巻き込まれたら最後、お前の精神が破壊されてしまいかねないぞってな」

「……じゃあカルカースさんは、その中に僕がいることを知っていた……?」

「ああ、そうかも知れないな。お前が〈マナ〉を暴走させる様子にも、あいつは全く動じていなかった。それはお前の持つ力を熟知していたということだろう。もしかしたらあの男は、お前がそういう事態に陥ることを認識してセオリムの村にいたのかも知れない。あいつは、お前自身も知らないお前の秘密を何か知っているんじゃないか?」

「僕の知らない僕の秘密をカルカースさんが……?」

(違う。カルカースさんが知っているのは、僕というよりも――)

「イル兄様……」


 傍らからの声に、ふとイルゼは視線を落とした。そこにはラートリーの不安に満ちた表情があった。そんな異母妹を慮るようにして、その黒髪をイルゼは撫ぜる。


「大丈夫だよ、ラートリー。変なことを言うようだけど、僕はカルカースさんを捕まえて罰したいとか、そんなことは望んでないんだ。ただ、どうしてあんなことをしたのか話を聞きたいだけ。だからラートリー、この一件はクロレツィア様に伏せておいてもらえないかな? 嘘をつかせちゃうようで悪いんだけど……」


 イルゼの言葉にラートリーは心外だと言わんばかりに目端を吊り上げた。


「確かにカルカースは私を助けてくれた恩人よ。だけど今、私が心配しているのはイル兄様のことだわ。本当に危険はないの? やっぱり、ちゃんと母様にお話して身辺の警護を厚くしていただいたほうがいいんじゃない?」


 そんなラートリーの気遣いに、イルゼは思わず笑みを零した。不謹慎かも知れないが、自分のことを一番に心配してくれた少女の気持ちが嬉しかったのだ。


「いや、その必要はないよ。たぶん大丈夫だ。だってあの時――カルカースさんが僕を殺そうと思ってたのなら、それはきっと簡単なことだったはずだから」


 それをしなかったのは、する気がなかったということだ。もしくは、なんらかの事情があり、できなかったのか――


「……兄様がそう言うのなら。でも」


 ラートリーは納得のしていない表情の中に怯えの色を浮かべる。


「なんだか怖い。カルカースのこと以外にも、良くないことが起こる気がする……」


 その表現にイルゼは眉を顰めた。いつも気丈な彼女にしては珍しい気弱さだった。何よりこの少女は、あやふやな気分で不安を口にするようなことはしない。


「何か思い当たる節でも?」


 セレファンスがさりげなく問うと、


「……私、貴方のお母様がおっしゃっていたっていう〈神問い〉の内容で気になることがある……」


 独白のような少女の言葉に、二人の少年は顔を見合わせた。


「ラートリー、それがどういうことなのか詳しく話してみて?」


 イルゼが穏やかに促すと、ラートリーは素直に頷いて話し始めた。


「以前、ある場所で見聞きした出来事なんだけれど――ほら兄様、アラリエル様の絵画が保管されている場所、覚えていらっしゃるでしょう?」

「ああ、あの、たくさんの美術品が所蔵されている離れのことだね」

「そう。そこは二年か三年前に一度、全ての美術品が一斉に整理されたってこともお話ししたわよね?」


 イルゼは再度、頷いた。その時にラートリーが発見していたアラリエルの肖像画から、イルゼは見知らぬ母の姿を知ることができたのだ。


「アラリエル様の肖像画や他の美術品が目録との照合作業後に倉庫へ戻される中、たった一つだけ皇城に持ち込まれた物があったの。それは古ぼけた大きな鏡だったんだけれど――」


 その鏡はディオニセスの侍従によって皇城内の宝物庫に移されたという。


「あいつら、薄気味が悪くて私、嫌いだわ」

「あいつらって、お父さんといつも一緒の侍従達のこと?」

「そうよ」


 イルゼの確認にラートリーは顔をしかめる。


 そういえば、この皇城にイルゼが到着した直後にも、フォウルドが同じようにディオニセスの侍従達に嫌悪感を露わにしていた。その時は単に自分よりも重用されている者達への妬みだろうと単純に思っていたのだが、ラートリーまでもが同じ意見となると、よほど彼らは目に余る存在らしい。


 確かに父ディオニセスに従う侍従達の姿は異様だった。皆が一様に陰気な灰褐色の長衣に身を包み、それに伴う頭巾で表情を目深く隠しているのだ。しかしイルゼは皇城に入ってから日が浅かったため、そんな彼らに対して奇妙には感じたものの、皇王の専属とはそういうものなのだろうと勝手に納得していたのだった。


「だって奴らときたら揃いも揃って全くの同じ格好で気配がなくて、まるで死人が動いているような印象を受けるんだもの。しかも、あいつらを周辺に取り立ててからというもの、ますますお父様は国政をおざなりにするようになったのよ。今じゃアドニスの現状は殆ど母様まかせで、奴らは馬鹿らしい夢想的な研究にばかり没頭しているんだから」

「夢想的な研究というと、もしかして四大皇国の統一を目指して、古代皇国復活とか?」


 そう訊ねるセレファンスに、ラートリーは鼻白んだ様子を見せながらも頷いた。


「ええ、そう聞いたことがあるわ。あまりにも馬鹿馬鹿しい話だから詳しく聞いたことはないけれどね。それにしても、かの国の皇子は、他皇家の奥深い内情にも精通しているのね」

「なに、以前、座興の域を出ない話として耳にしたことがあるだけさ」


 ラートリーの皮肉をセレファンスは軽く受け流して続ける。


「アドニスの皇王ディオニセスは、古代皇国フェインサリルの跡地であるインザラーガ山に光の皇国を建立し、そこから大陸の支配をもくろんでいる――ってな。だが本気で試みようとしているのなら、貴女の言う通り、中身の伴わない夢想家の計画ってところだな」

「……確かに我が父のことながら、座興にしかなりえない話題ね。だけど今、危惧すべきなのは、お父様の夢物語よりも、その周囲にいる者達の動向なのよ。奴らの中の一人が例の鏡を持ち出す時、こんなことを口にしたの。これで鍵たる炎を捉えることができれば、我らが王に献上いたすことができる――ってね。それはほんの小さな独り言だったんだけれど、なんていうか、あんまりにも不気味に思える言葉だったから……はっきりと耳に残っちゃってて――」


 ラートリーが口に手を当てて憂えるように眉根を寄せる。そして次にはセレファンスを見据えて「ねえ、貴方がアドニスにきた本当の理由って何?」と挑むように問うた。


「ラートリー、何を言って」


 不穏な空気を感じ取ってイルゼは思わず口を挟んだ。しかしラートリーは構うことなく続ける。


「セレファンス皇子には兄様に会いにきたこと以外にも何か目的が――アドニスに対してなんらかの疑惑を持っていらして、それを確かめるためにここまできたんじゃないのかしら?」


 さぐるようなラートリーの視線に、セレファンスは一つ溜め息をついた。そして「全ての謎がアドニスに繋がっているんだ」と密やかに呟いた。


「俺は以前からアドニスは〈闇からの支配者〉の温床になっているんじゃないかと疑っていた。何せ掴んだ手がかりを手繰り寄せてみると、その先には必ずアドニスの影があったからさ。エスティア王国にしても、カルカースの素性にしても、ウラジミールの事件にしてもそうだ。そして――俺の母や姉が殺された一件についてもな」

「えっ?」


 イルゼはセレファンスを見、次に異母妹を振り返った。すると彼女は渋面を作ったまま、口を開く。


「……アドニスはリゼット前皇妃セラフィーナ様と第一皇女フェリシア様の暗殺疑惑が持たれているのよ」


 それは今から十年ほど前。当時、ラートリーの母クロレツィアは、国内の治水事業と平行して大陸外貿易の確立にも力を入れていた。その一環として、何かと諍いが絶えなかったリゼットとの国交正常化を目指していたそうだ。

 その国交回復による狙いの中には、リゼットが確立している貿易海路を介して、大陸外でのアドニスの商業的地位を高める目標があった。そこから見込みが目に見えて現れれば、大陸外貿易を視野に入れた大規模な治水工事への国民理解が取りつけやすくなると考えたのだ。


「母様は皇統を引いていない自分の意見を通すためには、まずは確実な展望を示さなければ皆の理解は得がたいって常々、おっしゃっているのよ」

「そういえば父上も似たようなことを言ってたな」


 そこでセレファンスは思い出したように言った。


「俺の父も元々は外海を駆る商船の主で、皇統を引くのは母のほうだったから。血筋にのみ価値を見出すなんて浅はかなことなんだけれど、分かりやすい血統の中に伝説や過去の英雄を見てしまうのは世の常だ。でも、そればかりに拘って本質を見失なうのは本末転倒だし、俺の母だって周囲の反対を押し切って皇統を持たない父と結婚した。それに母上は、クロレツィア皇妃には敬意を抱いていたよ」

「……確かリゼット側は、セラフィーナ様が陣頭に立ってアドニスとの講和を推進されていたんだものね。なのに、その成立を目前にして、セラフィーナ様とフェリシア様の馬車が賊に襲われ、お二人とも命を落とされた。そして、その時の唯一の生存者が貴方だった」


 ラートリーの言葉にセレファンスは頷いた。それにイルゼは「でも、ちょっと待って」と疑問を挟む。


「どうしてそれがアドニスの仕業になるの? だって両国の講和が目前だったんだろう? そんな無意味なことをする必要性はないじゃないか」

「アドニス側が一枚岩じゃなかったのよ。国内の現状に閉塞感を持っていた民達の多くは講和を望んでいたけれど、母様に反感を抱く皇族や貴族側はそんなことを望んでいなかった。だってアドニス主導による大陸統一が彼らの本願であって――まあ、それが建前であっても、基本的には他国の皇族の存在を認めていないから。そういう理由もあって、アドニスによる暗殺の疑惑が浮上したのよ」

「疑惑、ね」


 セレファンスが意味ありげに呟く。


「だって証拠がないでしょ。疑惑以上にはなりえないわ」

「確かに証拠はなかった、当時はな。だが、のちに行われたリゼット側の調査では、母達を襲った奴らが襲撃前に酒場で一人の男と接触していたことが分かった。そこでは、その男が特別に取り寄せた高級な葡萄酒が彼らに振る舞われていたという。酒場の店主の話では、その葡萄酒はアドニス産のものだったらしい」


 そこでセレファンスがイルゼを見た。


「似てないか?」

「え?」

「ウラジミールでの一件。リィバが言っていた葡萄酒の話と」

「……あ!」

「リィバは言っていた。エルド達がおかしくなったのは、ある男から振る舞われた葡萄酒のせいだと。お前がいなくなってから俺はツワルファ族の連中と会って、その時の話を詳しく聞いて回ったんだ。それで判明したのは、葡萄酒を持ち込んだ人物はカルカースという名の男だった」

「――まさか、嘘だろう?」

「嘘じゃない。ウラジミールでの一件はカルカースによって引き起こされたものだったんだ」


 セレファンスはイルゼの疑いを淀みなく一蹴する。


「ここで話を戻すが、俺は母と姉を殺した連中と酒場で接触していたのもカルカースだったんじゃないかと考えている。そして、その後、奴はアドニス皇王に取り立てられているんだ」

「つまり貴方は、アドニスがセラフィーナ様達の暗殺を企てたって断言したいのね?」


 ラートリーは表情を酷くしかめてセレファンスを睨みつける。


「その可能性は無きにしもあらずだろう? 講和を成立させたくない連中が仕組んだってことは十分にありえる。当時、皇族でも貴族出身でもないクロレツィア様が、彼らの反発を押さえつけて主導を握るには、まだ時機が早かったんだろう」

「……貴方って本当に遠慮っていうものを知らないようね」


 ラートリーの苛立たしげな嫌味に、セレファンスは肩を竦めただけで話を続けた。


「だけど俺が問題として提起したいのは、ありふれた犯人説のほうじゃない。その暗殺が裏で〈闇からの支配者〉によって操られていたんじゃないかってことだ。ひいてはアドニスの中枢が〈闇からの支配者〉に牛耳られている恐れを危惧している。俺がアドニスに潜入したもう一つの理由は、それさ」


 セレファンスの回答を受けて、ラートリーは「なるほどね」と独白のように呟いた。


「セラフィーナ様の暗殺がアドニスの手によるものか否かは別としても、近年のアドニスに不穏な空気があるのは確かよ。お父様の侍従や兄様を襲ったカルカースの動向、それに炎を捉えるという鏡のこと――無関係とは思えないことが多過ぎるわ」

「炎を捉える鏡、か。俺としては、懸念材料となるものは潰しておきたいところだが――」


 そんな彼らの会話をよそに、イルゼは一人、自分の思考の深みに陥っていた。今まで得た情報から、ある一つの仮定をイルゼは組み立てつつあった。


 あの時まで平和で穏やかだったセオリムの村、前触れもなく突然に現れた残忍な男達、無惨に殺されたフィーナや村人達、カルカースという名の青年、そして人間を闇の力で支配して操る葡萄酒――……


(それじゃあセオリムの村も? カルカースさんに? いや、いくらなんでも、そんな――)


 イルゼは至った考えを思わず否定した。そんな彼にセレファンスが声をかけてくる。


「イルゼ?」

「――え? あ……」


 目を上げると、セレファンスの青い双眸が自分を心配げに見つめていた。


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「あ、いや……色々な話を聞かされて、ちょっと疲れたのかも」


 イルゼの答えにラートリーも同意する。


「そうよね、私もあまりのことに、ほとほと疲れちゃったわ。とにかく、その鏡のことだけど壊しちゃうっていうのはどうかしらね?」

「壊すって……可能なのか、そんなこと。城内の宝物庫に移されたんだろう? 警備が厳しいんじゃないのか?」


 セレファンスの疑問にもラートリーは「大丈夫」と頼もしく答える。


「その点についてはアテがあるわ」

「ちょ、ちょっと待って。壊すって何を?」


 一部、話を聞いていなかったイルゼは慌てて訊ねる。するとラートリーは「だから、鏡をよ」とばかりにイルゼを見た。


「いいの? そんなことをして?」

「いいのよ、どうせ奴らがたくらんでいることなんて、ろくなことじゃないんだから。バレずにやれば問題ないわ」


 異母妹の大胆な判断にイルゼは唖然とし、セレファンスは感服を含んだ笑みを見せる。


 ラートリーは「じゃあ早速だけど、そのアテっていうのを説明するわ」と速やかに話を先を進める。


「鏡が保管されている宝物庫は一ヶ月に一度、異常の有無を確認するために点検が行われるの。その責任者に適当な理由をつけて同行を願い出てみるわ。そして気づかれないように警備の薄い辺りの窓の鍵をはずしておく」

「――なるほど。そして後々に改めて忍び込むって寸法だな」


 セレファンスの理解にラートリーは「その通り」と頷いた。


「ただ、忍び込む時間帯は深夜のほうがいいと思うんだけど、さすがにそんな刻限に私は出歩けないわよ」

「ああ、それは俺が」

「いや、僕が行く」


 セレファンスの声を遮ってイルゼは申し出た。


「もしも見つかるような事態になっても、僕ならなんとか誤魔化しようがある。でもセレの場合はそうもいかない」

「でも兄様、危険だわ」

「それを言うならセレのほうが危険じゃないか」

「まあ、それは……そうだけど」


 ラートリーは弱り切った表情を浮かべた。そしてセレファンスに顔を向けると「あんたもなんとか言ったらどう?」とばかりに睨みつける。


 しかしイルゼは二人からなんと言われようとも、この一件を譲る気はなかった。


 するとセレファンスがおもむろに、ラートリーを手招きする。それに少女は怪訝そうに眉を顰めながらも、セレファンスの隣に移動した。そして彼から何事かを耳打ちされ、ラートリーは目を丸くする。

「そのほうがいいだろ?」と言って微笑むセレファンスを見、次に複雑そうな表情でイルゼを見た。


「……二人して何を企んでるのさ?」


 イルゼの訝しげな視線にセレファンスは「何、大したことじゃない」と言って笑う。それにイルゼは明らかに怪しいと思った。


「……ま、百歩譲って、それについてはなんとかするわ。私、個人的に貴方のことは気にくわないけれど、これはアドニスのためでもあるものね」


 そう言ってラートリーは、疲れたように溜め息をついた。

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