第38話 追いついた季節

 ところ変わって西の棟にあるイルゼの部屋。


 今、イルゼ達は、応接の間に備えられた椅子に座っている。そして彼らの前にある卓上には、優雅な会話のお供にと香り豊かな紅茶と、香ばしそうな焼き菓子が用意されていた。しかし、それらの気遣いに手を伸ばそうとする者は誰一人としていない。


 イルゼは自分の真正面に座るセレシアと名乗った少女――いや恐らく、自身の正体を隠すために少女の姿をしているのであろう少年を見た。


 先程から『彼女』は、その青い双眸を伏せて黙したまま、身動き一つさえしないし、イルゼを見ようともしない。そんな少女の姿勢は、事情を知らない者の目からすると、初々しく控えめに映ることだろう。


 しかしイルゼは『本来の彼女』に詳しい事情を聞こうと考え、この場を設けたのである。このままでは白々しい嘘をついてまで、自分の部屋にセレシアを招いた意味がない。


 イルゼは自分の目的にとって最大の障害である存在――ラートリーを控えめに見やった。彼女はイルゼの隣で顎をそびやかすように座っており、全く席を外そうとする気配がない。


 仕方がないので、ここでイルゼは思い切って口を開いた。


「……あのさ、ラートリー」

「何かしら、イルファードお兄様?」


 ラートリーは如何にも作った笑顔でイルゼに微笑む。それはイルゼを怯ませるのに十分だった。ラートリーからの呼びかけが気安い『イル兄様』から『イルファードお兄様』へと変わっている。それは彼女の機嫌が非常に悪いことを意味する。


「あの、その……悪いんだけど、さ」

「悪いと思うのならば、それ以上はおっしゃらなければよろしいんじゃなくて?」


 決死なるイルゼの言葉をラートリーは容赦なく一蹴する。


「いや、それはそうなんだけど……っ」


 だが、ここでイルゼも引き下がるわけにはいかない。


「僕はセレシアと二人だけで話がしたいんだよ。だから、ラートリーには悪いんだけど……」

「んまあ……! 兄様は、このラートリーが邪魔だとおっしゃるのね!?」

「えっ? い、いや、そういうわけじゃあ……」

「そう言ってるのも同然じゃないの! 兄様はチェスで私と遊ぶっていうお約束を破った上に、私を部屋から追い出すおつもりっ!?」


 憤然と立ち上がったラートリーから激しく責められ、イルゼは呆気としながらも「ごめん」と呟いた。それにラートリーは一瞬、酷く傷ついた顔を見せ、


「……分かったわ、もういい! 兄様なんか知らない! 嘘つき! 馬鹿!」


 激しい悪口をイルゼに叩きつけると、怒りに満ちた表情で部屋から出ていってしまった。


 バターン! と思いきり閉ざされた扉の音を聞き、イルゼは思わず首を竦める。


 と、その余韻に零れるような笑声が重なった。そちらを見やると、セレシアが口元に手を当てて笑っている。その様子は、やはりどこからどう見ても愛らしい少女のものでしかない。


 イルゼの視線に気づいたのか、セレシアが笑いを止める。そして、今までとは全く異なる表情を閃かせた。まるでイルゼに挑むかのような視線と皮肉そうに歪めた口元。それはあの金髪の少年が、時として浮かべる強かな笑みに良く似ていた。


「……やっぱり、セレなんだろう?」


 もはや確信に近いものを抱いてイルゼはセレシアに言った。しかし『彼女』は問いには答えず、ふいに軽やかな動作で長椅子から立ち上がると、午後の陽光が入り込む窓辺へと歩んでいく。


「……セレ?」


 イルゼは怪訝に眉根を寄せてセレシアの行動を目で追った。


 窓辺の近くに立った少女は、眩しそうに目を細めて外を見やる。柔らかな陽射しを全身に浴びる彼女の姿は、凛とした若木のように伸びやかで美しかった。


 ――まさか、セレファンスじゃない……?


 イルゼがそう思った瞬間、セレシアが口を開いた。


「もう、あれから一年が経ったんだな。長かったような短かったような複雑な気分だ。いや、どちらかというと、ここ半年が異常に長く感じられたんだろうけど」


 そう言って少女はイルゼを振り返った。


「元気そうで何よりだ。イルゼ、久しぶり」


 柔和に微笑む美しい少女を見て、イルゼは信じられないとばかりに頭を振った。


「やっぱりセレ――なんで、どうしてここに? しかもその格好、一体なんのつもりで」

「あっはっはっは、一体なんのつもりかって?」


 金の髪を持つ見目麗しき美少女――いや少年は、自暴と皮肉に満ちた声で笑った。


「俺が女装癖に目覚めたとでも思うのか? お前が何も話を聞かずにアドニスに逃げるから、こんな格好をしてまで追っかけてこなくちゃならなくなったんだろうが」


 セレファンスは偉そうに腕を組み、責めるようにして溜め息をついた。それにイルゼは反感を持つ。


「……良くも平然とそういうことが言えたもんだね。そうなったのも元々はセレが僕に嘘をついてたからじゃないか。本当はリゼットの皇子だったくせに、リゼットとは全く関係がないっていう顔をして僕に近づいてきて。言っておくけど、僕はまだ君を許してなんかいない」


 にわかに沸き上がる再会の喜びを押さえつけ、イルゼは苦々しく吐き捨てた。


「それは……」


 セレファンスの表情が一瞬にして弱り切ったものとなる。


「確かに俺が悪かった。事実、俺はお前に嘘をついてた。でも、あの時も言ったように俺は、お前を傷つけようとか思ってたわけじゃ」

「それはセレの言い分だろう。実際に僕は凄く嫌な思いをした」


 イルゼはセレファンスの言い訳を遮る。すると再びセレファンスは困り切った顔つきになり、どうしたものかと思案した様子の末、消え入りそうな声で「悪かった、ごめん」と呟く。


 その一言で、イルゼの中に今まであった多くの葛藤が解消された気がした。セレファンスが多くのことを黙っていたのは確かだ。だが、それは悪意からのものではないと信じたい。だからこそ、目の前の少年を突き放すのではなく、イルゼは知ることを選択した。……しかし。


「それで? セレは今更、何をしにここまできたの?」


 あくまでも冷然とした態度は崩さず、セレファンスに訊ねる。すると彼は苦り切った感情を顔に張りつけたまま、項垂れた。


「イルゼ、お前が怒っているのは当たり前だし、俺のことが信用できないのも当然だ。だけど、こんな格好をしてまで、ここまできた俺の努力と苦労も察してくれないか」


 イルゼはセレファンスの切々とした言葉を聞き、その表情を見た。

 必死な様子で懇願する『彼女』を見ていると、イルゼは複雑な気分になってくる。何せ声と物言いは良く聞き知っている彼でも、その姿のほうは可憐で美しい少女なのだから。

 そんな多大な差異に、だんだんとイルゼは可笑しさが込み上げてきた。


「っ……ふ、ふは……」


 ここにきて堪えていた感情が解放される。初めはおもむろに、だが最後には遠慮なくイルゼは笑い出した。呆気にとられるセレファンスを前にして、イルゼは笑い続ける。


「はっ、ははっ、は……ああ、苦しい。だってセレ、その格好っ……似合い過ぎてて、違和感がないよ。凄いね、ほんと吃驚だよ」


 そんな感想を聞いたセレファンスは顔を真っ赤にして怒り出した。


「だから言ってるだろ! 苦労を察しろって! どれだけ女の格好をすることが大変なのか分かるかっ? 毎朝、時間をかけて化粧をして、四六時中、こんなヒラヒラした動きにくい服装でいなきゃいけないし、下はスースーして心許ないし、その上、大人しく目立たないように振る舞わなけりゃいけない。しかも、いつも誰かに見られている気がして、ばれやしないかと気疲れはするし――」


 それは見られている気がするというものではなく、実際に見られていたのだろうとイルゼは察する。これだけの美少女ぶりであれば、多くの視線を集めるのは必至だ。


「でも、そういう苦労をおしてでも、女を装って召使いとして皇城に入り込むのが一番、手っ取り早かったんだ。それに運が良ければ、皇族の目にとまって奥の棟に出入りができる侍女に取り立ててもらえるって話だったし。それなら割りと早くに、イルゼと再会できる機会があるんじゃないかって思ったんだよ」


 ところがセレファンスは、物事は思い通りにはいかないもんだな、と呟いて渋面を作った。なんでも身分のない新人は三下の裏方仕事が主で、皇族の目にとまる機会など、そうそう有り得ないことだったらしい。


「んで、そういう日々に気を揉んでた矢先に、昨日の事件を聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ」


 そうしてとうとう、勝手に持ち場を離れて、皇子皇女達が住まう西の棟に無断で侵入してしまったのだという。


「ちょっと待って。セレっていつから皇城にいたの?」

「ええと、かれこれ一週間近く前だったかな」

「……わあ、良く耐えていられたね」


 イルゼは素直に感心した。何しろ林檎の皮むきさえもままならないセレファンスなのだ。まともに召使いとしての務めをこなせていたのかは甚だ疑問だ。とにかく本人も周囲も苦労したことだけは確かだろう。


「仕方ないだろ。なるべくなら穏便にお前と接触したかったんだ。強行手段をとって正体がばれたら一巻の終わりだからな。今回にしたって、おかげで変な奴に絡まれることになったし。あの時、イルゼ達が通りがかってくれて本当に助かったよ。あいつ、かなり馴れ馴れしいし、しつこいんだもんなあ……どうしようかと思った」


 その時の様子を思い出したのか、セレファンスは心底、嫌そうに顔をしかめた。


「しっかし、あれが異母とはいえ、お前の兄貴とは到底、信じられないな。それにさっきの妹もすごかった」


 セレファンスは苦笑する。それにイルゼは肩を竦めた。


「イヴェリッド兄上に関しては異論はないけれど、ラートリーは少し気が強いだけで悪い子じゃないよ。優しいところがいっぱいあるし、いつも僕のことを助けてくれる。すごく感謝してるんだ。……さっきは怒らせちゃったけど」

「あの皇女様、イルゼのことをすごく慕ってるみたいだったもんな。きっと大好きな『兄様』を取られたと思って怒ったんだろ」


 セレファンスは可笑しそうに笑う。それにイルゼもつられて微笑んだ。


 半年たった今でも、やはりセレファンスはセレファンスのままだった。あの時、イルゼはセレファンスに酷い言葉を投げつけ、全てを拒絶した。それなのに彼はイルゼを追ってここまできてくれたのだ。もしかしたら同じように拒絶される可能性だって考えられただろうに。


 危険をおかしてまでセレファンスが自分のもとへとやってきたのは、全ての真実を話す決意が彼にあるのだと信じて良いだろう。カルカースは姿を消し、今では何が真実なのか分からなくなってしまった。


「セレ、これだけは、まず聞いておきたいんだ」


 イルゼの真摯な声を聞いて、セレファンスは表情を改める。


「僕の大切な全てを奪ったのは――セオリムの村を破壊し、フィーナを殺したのは誰?」


 その質問にセレファンスは表情を変えなかった。恐らく訊かれることは分かっていたのだろう。


「リゼットじゃない。ましてや俺達でもない」

「じゃあ一体、誰が」

「黒幕は――〈闇からの支配者〉だ」


 セレファンスの答えにイルゼは双眸を最大限に大きく見開き、次にはせせら笑うようにして口元を歪めた。


「ははっ……真犯人は〈闇からの支配者〉か。確かに、そう言ってしまえば簡単だ。だったら証拠なんていらないもんな。御伽話みたいな存在が犯人で、たまたまフィーナ達は〈闇からの支配者〉に目をつけられて、たまたま殺されて、たまたま運が悪かった――そう思えってこと? 仕方がないってこと? ……そんなのっ……そんなので納得できるわけないだろう!?」


 イルゼの悲鳴のような叫びをセレファンスは静かに受け止めた。そして続ける。


「運とか偶然とか、そんなんじゃない。フィーナやセオリムの村が狙われたのは全てが必然だった。それらは、お前にとって最も大切なものだったから」

「なんでなんだよ……? どうしていつもそこで僕が出てくるんだ?」


 カルカースがイルゼに告げた話でもそうだった。まるでイルゼがいなければセオリムの村は平和だったとでもいうように。イルゼの存在がフィーナ達を殺したとでもいうように。


 もしかしたら養父が今際の際に遺した言葉は、このことを指していたのだろうか。そう思わずにはいられない。


『一時でも立ち止まってはいけない、振り向いてはならない。目立たぬように、風のように流れなさい。それが、お前とお前の穢れなき心を守る術だと知り、お前の運命だと受け入れなさい――』


「イルゼ」


 セレファンスが気遣ったようにイルゼを呼ぶ。


「……真実を……セレ、君の知っている全ての話を聞かせて。僕は、それを知らなきゃいけない。そして君も、それを僕に話す義務がある。そうだろう?」




「全ての始まりは俺の母――つまりリゼットの前皇妃による〈神問い〉の啓示だった」


 そう言ってセレファンスは長い物語りを始める。


「リゼット皇家は代々、優秀な〈神問い〉を多く輩出する一族で、時には世界の枢機なる真実を垣間見ることさえあったという。だが、それらは世界を混沌に陥れる情報や国家の有り方までも変えてしまうような内容も含まれ、その上、第三者に立証できる材料は殆どの場合にはなく、だから多くはリゼット皇族内の秘匿なる真実として口外されることはなかったんだ」


 加えて生命を狙われるような事態を避けるためでもあった、とセレファンスは言った。確かに彼らが持つような能力を恐れる者は少なくないだろう。


「俺の母セラフィーナは歴代のリゼット皇族の中でも桁違いに強い〈マナ〉を扱うことができた。その為、幼い頃から多くの〈神問い〉を受け取る身だった。それらの情報は重要なものから良く分からないものまでピンからキリだったそうだが、その中でも最重要視されていたものが〈闇からの支配者〉にまつわる情報だ。ある日の夜、母は夢で信じがたい〈神問い〉を受け取った」


 そこまで言ってセレファンスは、彼の母親が残したという予言を教えてくれた。


『〈闇からの支配者〉は、今こそ世界フォントゥネルの滅亡を実現しようとしています。その〈鍵〉となる炎が〈闇からの支配者〉によって〈破壊の王〉へと捧げられた時、今はまだ辛うじて保たれている神の定めた摂理と秩序は完全に崩壊し、フォントゥネルは混沌の海に沈むでしょう――』


「混沌の、海……?」

「ああ。それは恐らく、この世界の滅びを暗示する予言。母の見た〈神問い〉は〈闇からの支配者〉による世界の終焉が近いことを意味している」

「そんな、まさか」


 イルゼは思わず乾いた笑いを洩らした。これが笑わずにいられるだろうか。〈闇からの支配者〉によって世界が滅亡するなど、まさに神話の類いではないか。するとセレファンスは苦笑を浮かべる。


「まあ、それが一般的な反応だよな。伝説上の存在でしかない〈闇からの支配者〉が今まさに世界を滅ぼそうとしているなんて誰も本気で思わないだろう。だけど信じはしないが余計な不安は掻き立てられるものだろう? そうなれば、そんな人心の隙間を狙って〈闇からの支配者〉が増長する恐れがある。そういう悪循環を起こさせないためにもリゼット皇族は無闇に情報を世に流出させないことを取り決めた」


 そうして彼ら一族は、〈闇からの支配者〉は伝説上のものであるという世間一般の通説を覆そうとはせず、恐ろしい真実を知る孤独に耐え続けることを選んだ。同時に〈闇からの支配者〉に関する知識を大陸内外から集めて、それに対抗する知恵と力を密かに身につけようとした。

 セレファンスの母セラフィーナも、そうやって生きてきたリゼット皇族の一人だった。そして、その伴侶である男も、そんな妻の遺志を継ぎ、彼らの息子である少年も、そうでありたいと願ってきた。


 セレファンスは自身の信念を思いみるようにして双眸を伏せた。そして続ける。


「先程の〈神問い〉から分かることは、どこかに〈破壊の王〉とやらが存在し、その発動の〈鍵〉となる『炎』を〈闇からの支配者〉が手に入れた時、俺達の住む世界は滅びるってことだ」


 セレファンスの淡々とした説明は、イルゼを唖然とさせるのみだった。あまりにも勢い良く耳慣れない知識を注ぎ込まれ、その奔流に戸惑うことしかできなかった。


 そんなイルゼを見て「信じられないか? やっぱり」とセレファンスは再び苦笑する。

 イルゼは我に返り、少し考えてから素直に言った。


「……そうだね、正直、信じられないと思う気持ちはあるよ。でも――信じる。思えば僕は、アドニスにくるまで色々と見てきたんだから」


 イルゼは肯定するしかない。そうすることでしか説明のつかない出来事が、あまりにも多く現実に起こっているからだ。


「じゃあ改めてセレに聞きたい。〈闇からの支配者〉がセオリムの村を襲った理由は何? 君は、それを僕が原因だと言った。セオリムの村やフィーナが僕にとって最も大切なものだったからだと。でも、それまでの僕は、本当に平凡な日々を送っていたんだ。なのに何故」

「それは……」


 セレファンスは一旦、言葉を選びかねている様子で言い淀む。そして少しの間を置いてから、ゆっくりと話し出した。


「俺の母は、あまりにも〈闇からの支配者〉について知り過ぎる能力を持っていた。それ故に〈闇からの支配者〉から狙われて、悪しき力に操られた賊によって殺されたのではないかと俺は考えている」


 セレファンスは六歳の時に乗っていた馬車を多勢の賊に襲われ、その際に母と姉を亡くしている。

 彼は、その時の唯一の生存者だった。しかし、そこに〈闇からの支配者〉が関わっていたかも知れないと聞いたのは初めてだった。


「〈闇からの支配者〉は悪しき力によって他者を操り、その目的を達成するんだ。俺の母の時は多勢の賊を操って〈神問い〉のできる母と姉を殺した。だったらツワルファ族の時は、何が奴らの目的だったんだと思う?」

「え? ツワルファって……あの時に狙われていたのはリィバだろう?」


 イルゼは答える。リィバとは、化け物と化したツワルファ族の青年達――とりわけエルドという幼馴染みに妬まれ、彼から命を狙われていた男だ。


「いいや、それはエルドの願望で〈闇からの支配者〉の目的じゃない。恐らくリィバが殺されてエルドの怨恨が完全に昇華されたあとは〈闇からの支配者〉の本当の目的である存在――お前が狙われていたはずだ」

「……はあ?」


 イルゼは思いきり間の抜けた声を出した。


「なんで? どうして僕が、そうまでして〈闇からの支配者〉に狙われなきゃいけないのさ?」

「それは、お前が〈ディア・ルーン〉の継承者だからさ」

「……ディア、ルーン?」


 その単語をイルゼが思い出すまでには、かなりの時間を要した。


〈ディア・ルーン〉――それは不思議な韻を含んだ言語で構成される歌のような唱文であり、それを唱えた時のイルゼは強力な〈マナ〉を扱うことができた。

 以前、その力によってイルゼは、闇の力で化け物に変質した守護樹を救ったことがある。


「〈ディア・ルーン〉は、この世にして唯一、〈闇からの支配者〉に対抗し得る力だ。俺の母は〈神問い〉から、その力の存在を知った。そして、それらを秘かに継承するエスティア王族のことも」

「……エスティアの王族が〈ディア・ルーン〉を継承?」

「ああ、そうだ。だけど母が全てを知った時には、すでにエスティア王国はアドニスによって攻め滅ぼされていたがな」


 しかし生け捕らえられたエスティアの王女――イルゼの実母であるアラリエルは、アドニス皇王ディオニセスに召し上げられ、一人の皇子を産んでいた。


「そして、その皇子は生後まもなく何者かに連れ去られ、今まで行方知れずになっていた――それがお前だ」


 セレファンスはひたとイルゼを見据える。


「お前は世界の滅亡を回避することのできる唯一の力――〈ディア・ルーン〉を継承するエスティア王族最後の一人。〈闇からの支配者〉は、その力を恐れてお前を必死に害しようとしていたんだ。セオリムが襲われたのも、そのためだ」


 セレファンスの青い双眸を見つめたまま、ゆっくりとイルゼは長い息をつく。そして「ねえ、それって何かの冗談?」と知らず知らずのうちに呆けた声を洩らしていた。


「冗談なんかじゃない。忘れたのか? セオリムの村で俺と出会った時のことを。あの時、お前の心は悪しき力に捕らわれていたんだ。もう少しで〈闇からの支配者〉に支配されるところだったんだぞ」

「……あの時――」


 イルゼは呟き、その時のことを茫然とした頭で思い起こす。


 イルゼがセレファンスと初めて出会った場所は、白く輝く不思議な空間だった。そこはイルゼが〈マナ〉を暴走させて創り出した異空間で、完全に外界と遮断されていた。だがセレファンスは危険を顧みず、見も知らないイルゼを救うために、そこに入り込んできたのだった。


 その中でイルゼは不思議な声を聞いていた。その声はしきりにイルゼを、その場に留め置こうとしていた。そしてイルゼも、フィーナを失った絶望と悲しみと、その心地良さも相まって、ずっとこのままでいたいと心から願った。その体感を一言で言い表すのならば――至上の安楽、とでも言おうか。もしも、あのままでいたのならば、確かに取り返しのつかないことになっていたように思う。


「闇は今でこそ負の対象とされるが、元々は光と同等の地位を持つ存在であり、フォントゥネルが創造された瞬間から在るものだったという。安らぎと休息を司り、生命には必要不可欠な要素でもあるんだ。だが影響が過ぎれば人は堕落し、自己の安楽のみを求めるようになる。だからこそ闇の誘惑には抗いがたい」


 そう言ってセレファンスは続ける。


「光と闇が共にあり、両極が程良く影響しあっている姿が神の定めた本来の摂理とされているが、それが今の世では崩れている。そういう不安定さが〈闇からの支配者〉のような存在に過ぎた力を与える温床となっているんだ。そして唯一、この世界の安定を取り戻せるのは〈ディア・ルーン〉という力を持つお前だけなんだ」

「……でも僕は〈ディア・ルーン〉なんて知らない。今だって、そんなものは僕の頭の中に一切ないんだ」


 それなのに何故、セオリムの村は襲われなければならなかったのか。フィーナは殺されなければならなかったのか。どうしてもイルゼにはそれが理解できない。……いいや、理解したくない。


「前にも言ったが、お前は俺の教えた不完全な〈ディア・ルーン〉から完全な〈ディア・ルーン〉を復活させている。それなのに今、それらを思い出せないでいるのは、その記憶になんらかの制限がかかっているからだろう。完全な〈ディア・ルーン〉を唱えることができるのは、全ての知識を持つ継承者じゃないと絶対に不可能なんだ。だから、お前は確かに〈ディア・ルーン〉を継承している。お前の母親であるアラリエル王女は、きっとなんらかの方法でお前に」

「母が? 僕に? それこそ、そんなわけない!」


 セレファンスの説明がアラリエルに及ぶと、イルゼは即座に激しく反応した。


「セレ、僕の母親はね、僕を身ごもったせいで気違いのようになって死んだんだって。母は僕を生んだせいで死んだんだよ。それなのに、そんな母が僕に何かを残してくれるはずなんてないだろう? 世界を救う力? それこそ、本当に有り得ない……! まだ少女だった母は、この世界で恐怖と恥辱を強いられて死んでいったんだ。なのに何故、そんな力を、この苦しみしかなかった世界のために、生みたくもなかった僕のために残してくれるっていうのさっ?」


 イルゼは激しく咽ぶようにして叫ぶ。


 初めて見た絵画の中の母は、まだ幼さの残る美しい少女だった。そしてイルゼが愛した人も、瑞々しく豊かな生命力に溢れた少女だった。そんな彼女達にあったはずの未来は奪われ、イルゼは生きている。


「やっぱりカルカースさんの言ってた通りだ……! 僕はこの世に生まれてきちゃいけない存在だったんだ。僕がいたせいで、セオリムの村は破壊され、フィーナ達は殺され……! やっぱり僕はあの時、あのまま消え去ってしまえば良かったんだよ!!」


 全ての苦しみを叫び切った時、イルゼの身体は勢い良く前のめりに引かれ、次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。

 何が起こったのか分からないまま、呆然として視線を上げたイルゼの双眸には、忌々しげな表情で自分の胸倉を掴む美しい少女がいた。


「……お前って本当に、情けないほど進歩がないな。何か受けいれられないことがあると、すぐに癇癪を起こすか、自分の考えにのみ固執しようとする」


 そう言って少女――セレファンスは、イルゼの胸倉を乱暴に押し返すようにして解放する。


「大体にして自分が消えてしまえば良かったなんて、あの時、命がけでお前を助けた俺に対して言うか? お前、それをフィーナに向かっても言えるのか?」

「っ……セレに何が分かるっていうんだっ! 今までの話が全て本当なら、フィーナやセオリムの村は僕の巻き添えをくって殺されたってことじゃないか! そんなの、すんなり平静に受け入れられるわけないだろ……っ? 大体、セレが僕を助けたのだって、単に〈ディア・ルーン〉の力が欲しかっただけのくせに!」


 イルゼは口走ってから、しまった、と思った。このようなこと今更、確認しなくても分かり切っていることなのに、と。


「ああ、そうだ。俺は〈ディア・ルーン〉の力が欲しかった」


 イルゼの心情など全く構われることなく、セレファンスは明晰な口調で言い切った。


「母の遺志を継ぎ、〈闇からの支配者〉の目論見を阻止するためには、その力が必要だった。母と姉の死を無駄にしないために、俺は〈ディア・ルーン〉の継承者を――お前を捜し出す必要があった」


 その答えにイルゼは泣きたくなるほどに悲しくなった。セレファンスにとってのイルゼは、まず自分の持つ不思議な力ありきなのだと理解はしていた。分かってはいたが、何度も思い知らされたいわけではない。ましてや、本人の口からなど――


「それは真実だ、否定はしない。だけど、お前と出会ってから新たに増えた真実だってあるさ」


 と、ここでセレファンスの表情が、子供っぽい不機嫌そうなものへと変わる。


「俺だって結構、傷ついたんだぞ。思いっきりお前に罵倒されて、もう俺のことなんて信用しないとまで言われてさ。あれから俺は、どうやったらお前に許してもらえるのかって、ずっと考えてた。……お前に嫌われたままなのは、絶対に嫌だって思ったから」


 セレファンスはイルゼを真っ直ぐに見る。


「昨日、お前が何者かに襲われたって聞いて、凄く驚いた。いてもたってもいられなくなって、早く無事な姿を確認したいって心から願った。だから、お前が無事なのを見た瞬間、本当に嬉しくて良かったって思ったんだ」


 揺るぎのない少年の声。イルゼは気が抜けたようにしてセレファンスを見る。


(……なんで――なんでセレは、いっつもそうなんだよ)


 癇癪でしか本心を露わにできない自分が途轍もなく情けなかった。そして、そんなイルゼをいつも許容して受け止めてくれるセレファンスが腹立たしくも羨ましく、そしてどこか安心もしていた。


 殴って悪かったとセレファンスがイルゼの頬に手を添える。それに小さく首を横に振って、イルゼは伸ばされていたセレファンスの手を取る。そしてそのまま、縋るように握りしめたまま、ポツリと呟いた。これから僕はどうすればいいんだろう、と。


 これでイルゼは探していた全ての答えに辿りついた。最愛の少女を奪った存在のことも、その悲劇に至った理由も、それらの原因に自分が深く関わっていたという事実も。


(でも知って、本当に自分はどうするつもりだったんだろう……?)


 いつだったかセレファンスやカルカースからも同じようなことを問われたことがある。それにイルゼは分からないと答え、そして真実を知り得た先の自分が知りたいから知ろうとするのかも知れない、と答えたのだ。


 だが実際はどうだ。先の自分どころか今の自分さえも見失いそうだった。ずっと追い求めていた真実が手に入ったはずなのに、なんの感慨も湧かない。それどころか目標を失った喪失感だけがあった。真実は自分の望むものではなかったのだろうか。自分は一体、なんのために、それを捜し求めていたのだろうか――……


「フィーナの願い」

「……え?」


 イルゼは顔を上げる。セレファンスはイルゼを覗き込むようにして言った。


「お前は、生きていけばいい。それがフィーナの願いだったから。どんなに辛くとも、お前に生きていて欲しい――それが彼女の、たった一つの願いだったんだ」


 イルゼは自分に向けられた空色の双眸を凝視する。


(……ああ、そうか、なんで今まで気がつかなかったんだろう?)


 彼女と同じ透き通った空の色合いに答えを見出して、イルゼは自分の愚かしさに笑いたくなった。今まで自分が捜していたもの――それは敵討ちの相手でも、憎悪の対象でもなかった。


『安易な道にあなたの未来を委ねてしまわないで』


 それはフィーナがイルゼに向けた最期の言葉。


(僕は、馬鹿だ。こんなに遠回りして、やっと気づくなんて)


 初めからフィーナはイルゼの望むものを与えてくれていたのだ。彼女からの赦しと償いの道を。安易な死を選んではいけない、イルゼが生き続けなければならない意義を。


 必死に捜していたものは、望むものは、最初から自分の中に遺されていた。


 イルゼの双眸から涙が溢れ出た。心が息苦しさから解放される。常に頭の片隅にあった死への衝迫が消え去っていく。


「……そっか、僕は生きなきゃいけないんだね――何があっても。それはきっと凄く大変なことだ。フィーナは優しいけど厳しいや」


 イルゼは涙で濡れた顔で笑った。それにセレファンスも「ああ、そうだな」と同意して微笑んだ。

 今、この瞬間、やっとイルゼの中の季節が、現実の季節に追いつこうとしていた。

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