第37話 まさかの騒動

 午後の穏やかな陽に満ちた廊下には、憤然とした態度を隠さないラートリーと、その横を静かに添い歩くイルゼの姿があった。


 黒髪の少女は床を踏み抜くようにして、対して少年のほうは極力、音を立てないようにして控えめに歩いている。


「馬鹿! とんま! 唐変木! それから――ええとそれからぁ……んもうっ、とにかく! 大馬鹿だわ、大馬鹿よっ、イル兄様は!」


 ラートリーは思いつく限りの悪口雑言を並べ、最後にはネタの尽きた己自身に腹を立てたようにして叫んだ。


「ごめん……」


 居た堪れなくなり、イルゼは身を縮ませる。


 これで一体、何度目の謝罪だろうか。最低でも五回は繰り返しているはずだ。だが、それでもラートリーは憤慨冷めやらぬ様子で更に畳みかけてくる。


「もう……! なんでそういう時にこそ〈マナ〉を使わないわけ? いざとなったら自分の身さえも守れない力なんて、それこそ無意味な代物って言われちゃうわよ!」


 キッとラートリーはイルゼを睨みつけると、


「さあ白状なさい、兄様。どうして〈マナ〉を使わなかったの? もしくは使えなかったのかしら?」


 迫るような物言いと黒い双眸を向けられ、イルゼはうっとばかりに怯んだ。それは勘の鋭い質問だったが、イルゼは真相を語ることは避ける。


「いきなりだったから抵抗できなかったんだよ」


 もっともらしいことを言ってはみたものの、そんな彼をラートリーは白々しそうに見やって「怪しいもんだわね」と冷ややかに言い放った。


 だが、まさか言えようはずがない。抵抗できなかったのは、自分の存在に疑念を持ったからだと。そしてイルゼを襲った犯人が、あのカルカースだったからなどと――


「それにしても一体、どこの手の者かしら? 兄様を襲う可能性があるとすれば、他の皇子達を擁立する貴族家だけれど――にしては死亡を確認しないなんて詰めが甘過ぎるし、それとも単なる脅しか、はたまた他皇国の回し者か……」


 真実を知る由もないラートリーは独白のように推察をする。


「なんにしても迷惑千万、この上もないわ。この皇城の奥深くに皇族を狙う刺客が現れたってことで、私は母様との視察外出が台なしになっちゃったんだから」


 イルゼがカルカースに襲われたのは昨日。いつまで経っても自室に戻らないイルゼを心配した侍女が、その旨をラートリー側に伝えたことによってことは大事となる。多くの騎士達がイルゼの捜索に当たり、何者かに襲われて気を失っている彼が見つかると、城内は騒然となってしまったらしい。


 もっともイルゼが目を覚ましたのは夜半の時分で、その上、自室の寝台の上だったので、それまでの騒ぎなど知る由もなかった。

 だが、そんな時間帯だったにも関わらず、横たわったイルゼの傍らにはラートリーの姿があり、その大きな黒い瞳と視線が交わった途端に、ぼろぼろと涙を流し始めた彼女からしがみつかれて、どれだけ自分が周囲に心配と迷惑をかけたのかを理解した。

 それにその場にはラートリーだけではなく、彼女の侍女ロジーやイルゼの年老いた専属侍女はもちろんのこと、フォウルド侯の使い、それに医師やら祈祷師までもがおり、イルゼは目覚めからさほどもしないうちに恐縮する羽目になってしまったのだった。


「それにしても兄様、本当にもう大丈夫なの? 寝てなくて」


 ラートリーの気遣いにイルゼは頷く。


「うん、もうなんともないよ」


 努めて明るくは言ったが、少女の表情は暗く沈む。


「……その首に残っている痕、私の力で消してあげたいのはやまやまなんだけど――いきなり消失したら、みんなが不審に思うだろうから」


 ラートリーは申し訳なさそうに目を伏せる。イルゼの首には、いまやはっきりと締めつけの痕が生々しく残っている。


「そんなのラートリーが気に病む必要はないよ。それに時間が経てば消えるものだって医者も言ってただろう? そりゃあ目にする人は、あんまり気分の良いものじゃないだろうけど」


 イルゼが苦笑して首を竦めると、ラートリーは「そんなこと」とでも言うように頭を振った。


「でも本当に良かった。兄様が無事で」


 そう言ってくれるラートリーに、イルゼも自身の無事を心から幸いだと思えた。


 それにしても納得のいかない出来事だった。何故、カルカースは自分を襲った――恐らく殺そうとしたのだろうか。あの時の青年の言動は、深い怨恨によってのものだと感じられた。だがそれはイルゼの身に全く覚えのないことだ。


 それにこれまでの青年が時折見せていた少年への優しさは、一体、何を意味していたのか。自分を油断させようとしていたのだと考えれば一応の説明はつく。だが前々から自分を殺そうとしていたのならば、わざわざイルゼを警備の厚い皇城に帰還させる必要性は全くないではないか。


 あれからカルカースの姿は見ない。さりげなくラートリーに訊ねてはみたが、彼女はカルカースが帰国していることさえ知らなかった。


(本当なら僕を襲った犯人はカルカースさんだって言ったほうがいいんだろうけれど……)


 何故かその事実を公言する気にはなれなかった。それに恐らくカルカースの狙いはイルゼのみで、他を害するようなことはないように思う。


(今度、カルカースさんに会った時、きちんと理由を聞かなくちゃ)


 他人が聞いたら、殺されそうになった者の考えではないと呆れられそうなことをイルゼが思っていると。


「あいつ……! また!」


 ラートリーが憎々しげに小さく吐き捨てた。

 怪訝に思ってイルゼが顔を上げると、そこには彼らの異母兄であるイヴェリッドの姿があった。思わずイルゼも顔をしかめる。


 しかしイヴェリッドはイルゼ達の存在に気づきもしない。彼は壁に片手をつき、こちら側には背を向けて、壁際にいる誰かを熱心に口説いているようだった。


「また侍女にでもちょっかいを出してるんだわ!」


 ラートリーは見過ごせないとばかりに柳眉を逆立てると、イヴェリッドに向かって突進していった。


「イヴェリッドお兄様! そこで何をしていらっしゃるのかしら!」


 その鋭い声にイヴェリッドの背が煩わしそうに揺れ動き、こちら側を振り返る。そしてラートリーとイルゼの姿を確認すると、鼻白んだ顔つきになった。


「……見ての通り、こちらの侍女の仕事ぶりを労うために、お茶でもどうかと誘っていたところだ」

「あらまあ、そうなの」


 ラートリーはわざとらしく驚いてみせる。


「でもお茶だけで済むのならいいけれどね。お兄様からの誘いを受けると、何故か泣く泣く故郷に下がる羽目になる侍女は少なくないわよ」


 剣呑としたラートリーの声に、イヴェリッドの表情が嫌悪に歪む。


 イルゼは彼らのやり取りに口を挟もうとは考えていなかったが、万が一、逆上した異母兄がラートリーに手を出そうものなら何がなんでも阻止するつもりだった。

 イルゼはラートリーのすぐ傍らに添い、イヴェリッドを鋭く見据える。


「さあ、イヴェリッドお兄様、その後ろにいる者を解放しなさいな」


 ラートリーは悠然とした口調で命じる。それは上位に位置する者の振る舞いであり、妹から兄へのものとは思えなかった。もっともラートリーがイヴェリッドを兄として尊敬していようはずもなかったが。


「っ……なんでそんなこと、この俺が貴様如きに命令されないといけない!」


 イヴェリッドは怒りを露わにし、ラートリーに詰め寄ろうとした。しかしイルゼがラートリーの前に進み出ると、その勢いを怯んだようにして止める。


 と、ここでイヴェリッドの背後から、問題となっている侍女の姿が露わになった。彼女は今まで自分の存在が原因で二人の皇族が口論となっているにも関わらず、一言も言葉を発しなかった。それにイルゼは、きっと彼女は声も出せないほどに怯えていて、早く助け出されるのを密かに祈っているのだろうと同情していた。

 しかし、イルゼが目にした侍女は、その予想を裏切っていた。それと同時に、彼女が異母兄に絡まれていた理由を深く理解する。


 イルゼより少し年上らしい少女は、誰もが目を見張るほどに美しかったのだ。多くの女性が羨むであろう混じりけのない金の髪に、透き通った蒼空を閉じ込めたかのような碧眼、最良の位置にある目鼻の造りは繊細で、健気に引き結ばれた唇は瑞々しく色づいている。

 だが、それより何よりも、その美しさに伴う印象こそがイルゼを感心させた。それはこの状況下にあっても、少女の双眸からは何者であっても侵しがたく力強い意思が見て取れたのだ。


 と、そんな少女の双眸が信じられないものでも見たかのように見開かれる。それをイルゼは訝しく思う暇もなく、飛ぶように駆けてきた少女に首から抱きつかれていた。


 一瞬のうちに起こった思わぬ出来事は、その場にいる誰しをも呆気とさせ、二呼吸分ほどの間の抜けた沈黙を作り出した。そして、それを経たあと、ラートリーは「きゃあっ」と悲鳴を上げた。


「なんなのよ、あなたは! 何を考えてるの!? 無礼じゃないの! イル兄様から離れなさいよっ!」


 ラートリーは柳眉を吊り上げ、顔を真っ赤にしてイルゼにしがみついた少女を怒鳴った。

 その声に我へと返ったイヴェリッドも、激しく自尊心を傷つけられた様子で「ふざけるな! この女!」と叫び、少女の背まで流れる金髪を掴み取ろうとした。

 それにイルゼは咄嗟に少女を自分へと引き寄せて庇い、ラートリーは「やめなさい!」と叫ぶ。


「とにかくイヴェリッドお兄様は、このままお戻りになられて結構よ! この侍女の処遇は、私のほうで責任を持ちますから!」

「何を勝手なことを言う! この女は、俺が先に目をつけて……!」


 イヴェリッドの反論をラートリーはぴしゃりと遮った。


「お兄様! これ以上、お聞き分けくださらないのでしたら、この一件をしかるべきところにご報告することになりますけれど――それでもよろしいのかしらっ?」

「はっ、しかるべきところ? 貴様の母クロレツィアにでもかっ? ああ、好きにするがいいさ! あの女に俺の行動を制限できるはずもないからな!」


 イヴェリッドは嘲笑を浮かべて言い切った。しかしラートリーも負けじと嘲笑でもって切り返す。


「あら、それはどうかしらね。以前、お兄様がイル兄様を連れ込んだ部屋で私、あってはならないものを見つけたの。お兄様はお心に覚えがおありではないかしら?」


 ラートリーの問いかけにイヴェリッドは表情を強ばらせた。


「……なんのことだか、俺には――」

「とぼけないで。あの時、お兄様があの部屋で焚いた薫香は、過去に『秘匿なる楽園』という隠語で呼ばれて王侯貴族の間で流行した催淫効果のある麻薬だわ。だけど常習することによって依存性が高くなり、精神を破壊する恐れがあると分かってからはアドニスでは一切の保有や使用を禁じられている。それは皇族だって例外じゃない。それでも一部の富裕層である快楽主義者達は、法外な金額を払って大陸外から秘かに輸入する例しが絶えないけれどね。昔のお父様もそうだったそうよ。父親にならったのかは知らないけれど、全く馬鹿な代物に手を出したものね!」


 ラートリーは苦々しげに吐き捨て、イヴェリットを睨みつけた。


「あれは内側から国を駄目にすることだって可能な代物なのに、そんなものを皇城に持ち込むなんて、お兄様は過去の悪歴を繰り返すおつもりなの!」

「ラートリー、貴様、まさか、このことをクロレツィアに」

「ええ、申し上げたわ」


 青ざめたイヴェリッドの問いに恐れげもなくラートリーは答えた。


「貴様!」

「でも、ご安心を。それをお兄様が使用していたってことは言ってないわ。私は母様に麻薬が皇城に持ち込まれた痕跡があったことを申し上げただけよ」


 ラートリーの言葉にイヴェリッドは安堵の表情を浮かべる。ここで「ただし」とラートリーは言った。


「今の騒ぎが大きくなるようならば、この一件と合わせて母様に真相をご報告するつもり。そうなればきっと、お兄様の身辺は騒がしくなるでしょうけれど」

「っ……クソっ! 覚えてろよ!」


 捨て台詞の例に洩れない言葉を残し、イヴェリッドはその場を立ち去っていく。


 異母兄の姿が見えなくなったのを確認してから、イルゼとラートリーは疲れたような溜め息をついた。


「それにしてもラートリー……何故、兄上の件だけはクロレツィア様にご報告しなかったの?」


 まさかとは思うが情けをかけたのだろうか。そんな考えをイルゼが口にすると「そんなわけないじゃないの」とラートリーは一蹴した。


「イヴェリッドのことまで母様のお耳に入れたら、嫌でも奴の対処をしなくちゃいけなくなるでしょ。なんであんな馬鹿のために母様がお心を煩わせないといけないのよ。でも他のことについては大丈夫よ。母様に抜かりなんてあるものですか。禁輸品を水際で発見する対応として皇城に出入りする荷はもちろん、陸揚げされる荷の検査を今以上に強化するよう、すでに現場への下命が済んでるわ。大体、イヴェリッドのことまで説明しようとしたら、イル兄様の面目に関わる話までしなくちゃいけなくなるけれど、それでもいいの?」

「あ……」


 イルゼは自分の身を襲った屈辱的な恐怖を思い出す。そして「……だね」と首を竦めた。その一件は確かに知られたいような話ではない。


「でしょ? 私だってあんまり話題にしたくないことだしね。まあ、それはいいとして――あなた!」


 ラートリーは敵意にも似たものを顔にみなぎらせて侍女である少女を睨みつけた。


「いつまで兄様の傍にいるつもり? さっさと離れなさい!」


 ラートリーの憤りに金髪の少女は不思議そうに目を瞬かせると、素直に応じてイルゼの傍らから離れる。

 その態度にはまるで動揺というものがなく、今までの騒ぎなど意にも介していない様子だった。


「全く……とんだ騒動だったわ。イヴェリッドの奴も昨日の今日でなんでこうも軽はずみなことをするのかしら。それにあなたもよ!」


 ラートリーは再度、金髪の少女を睨んだ。


「昨日の騒動は聞いているでしょう? 一人での行動は当分の間、控えるようにお達しが出ているはずよ。なのに何故、あなたはこんなところを一人でウロチョロしてるわけ? 一体、どこの誰に仕える侍女なの?」


 ラートリーの質問に金髪の少女は少し戸惑った表情を見せ、頭を振った。


「……何? 仕えている主人の名前が分からないの? ……ああ、新しく侍女になった者なのね? でもそれにしては教育がなってないわね……いくら不慣れでも自分の仕えている人物の名前くらいは……って、あなたね! きちんと口で説明なさいよっ!」


 ラートリーが再び怒る。無理もない。金髪の少女はラートリーの問いに言葉ではなく、全て首を縦横に振って答えていたのだから。


 だがラートリーは次に金髪の少女が見せた表現に目を瞬いた。


「あら……あなた、もしかして口が利けないの?」


 金髪の少女は唇を何度か開閉し、済まなそうに首を横に振っていた。そしてラートリーの答えには嬉しそうに頷く。


「ああ、そう……それじゃあ納得だわ。まあ、とにかく、あなたは持ち場にお戻りなさいな。今後は一人で出歩かないことよ、いいわね? それから、あの男には十分に注意なさい。できれば二度と会わないようにすることね。奴にかどわかされたって得することなんか一つもないわよ」


 ラートリーは一通りの忠告を終えると「それじゃあ行きましょ、兄様」と言って身を翻す。


 それにイルゼも倣うべきだったが、どうしても行動を移せないでいた。イルゼは困惑の表情で金髪の少女を見つめ、彼女のほうはどこか訴えるような双眸で少年を見ていた。


(あれは――聞き間違えじゃなかった、と思う……。けど、まさかそんなこと、有り得るはずが――)


 そう思いながらもイルゼは混乱する。


 この少女が抱きついてきた時、確かに彼女はイルゼの耳元で囁いた。「会いたかった、無事で良かった」と。

 イルゼは口の利けないはずの少女の声を聞いていたのだ。


 だがイルゼは、それをラートリーには告げなかった。いや、告げられるはずもない。何せイルゼが聞いた声音は少女のものではなく、明らかに『少年』のものだったのだから。


(まさか本当に、セレ、なのか?)


 イルゼの脳裏には半年前に袂を分かった金髪の少年――セレファンスの姿が思い浮かんでいた。


 セレファンスはイルゼにとって大切な友人だった。しかし彼は出会った当初から多くの偽りで自身の正体を隠し続けていた。それはイルゼにとって見過ごせないことであり、そんなセレファンスを全く信用できなくなってしまったのだ。絶大な信頼を寄せていただけに、裏切られたという思いは限りなく大きかった。そしてイルゼはセレファンスから逃げるようにして、アドニスへと帰還したのだった。


 だが今、目の前にいるのは紛れもない少女なわけで、しかしその声は『彼』のものに間違いないということは――……


(いや、まさか、そんな、だって)


 有り得ない!


 イルゼは自分で導き出した答えに頬を引きつらせる。目の前の『彼女』は、どこからどう見ても疑わざることなく少女で、その上、誰もが認めるであろうほどの美貌を持っていた。だが、その中には確かにイルゼの良く知る少年の面影があった。


 少女はイルゼの愕然とした様子に気がついたのか、必死に頷きかけてきた。まるで「そうだ、そうだ」とイルゼの内心に同意しているかのように。


「兄様?」


 ラートリーが怪訝な表情で振り返る。いつまで経ってもイルゼが自分についてこなかったので不思議に思ったのだろう。


「イル兄様、今日は私とチェスをして遊ぶお約束でしょう? 早くお部屋に戻りましょうよ」


 どことなく不機嫌そうにラートリーは急かす。それにイルゼは取りあえずの返事を返すが、その声には全くその気がない。


「……もう! 兄様ったら!」


 とうとうラートリーは怒り出した。その怒りを遮るようにしてイルゼは「あ、あのさ、ラートリー!」と声を上げた。


「僕、この子と少し話がしたいんだけど――駄目かな?」

「話?」

「う、うん。この子、故郷の幼馴染みに似てて、なんか懐かしくて……」


 我ながら苦しい言い訳だと思いながらも、それらしくイルゼは言ってみせる。ラートリーは白い目つきでイルゼと金髪の少女を見比べた。


 やはり無理な言い訳だから不審に思っているのだろうな――とイルゼが肩を竦めていると、


「話、ねぇ……? この子、口が利けないのに、どうやって話をするおつもりなの、兄様は?」

「――あっ」

(そうか、しまった)


 イルゼは自分の浅はかさに気がつく。

 本当は喋れるはずの『彼女』だが、口が利けないとしているのは、声を出すと正体がばれる可能性が高いからだ。だから、まさかラートリーにそのことを明かすわけにはいかない。ここはアドニスであって『本来の彼女』にとっては生命の危険さえもあるであろう場所なのだから。


「……まあ、いいけど。耳は聞こえるのだから筆談はできるでしょうしね」


 ラートリーはイルゼの焦った様子に同情したのか、仕方なさそうに頷いた。


「それにしても、兄様は年上が好みだったのねえ……まあ、美人なのは認めるけど」


 どこか不満そうにラートリーはイルゼをチラリと横目で見やる。


「えっ? なっ――ち、ちがっ」

「あなた、そういうことよ。今からイルファードお兄様のお話し相手を務めること。いいわね?」


 ラートリーはイルゼの反論を無視し、金髪の少女へと視線を転じる。それに彼女は神妙に頷いた。


「それじゃあ、あなたの名前は……っと、口が利けないんだっけ」


 ラートリーが渋面を作ると金髪の少女は自分の手の平を示し、そこに指先で何かを書く仕草をした。


「ああ、名前を手の平に書くってことね」


 ラートリーは心得たように頷くと、自分の手の平を少女に差し出した。

 すると金髪の少女は恭しくラートリーの手を取り、その指先に軽く唇を寄せると目を見張るほどの優美な会釈を披露する。

 まるで騎士が姫君に対するような仕草にラートリーは呆気とし、イルゼは感心と呆れを半々に持つ。


 そんな彼らの様子などお構いなしに、金髪の少女はラートリーの手の平に名前を書きつけると「以後、お見知りおきを」とばかりに微笑んだ。


「……セレシア、ね。セレシア、あなた、随分と育ちが良いみたいだけれど、どこか名のある家の出身なのかしら?」


 ラートリーの問いに少女――セレシアは首を傾げてから横に振る。


「ふうん……」


 それでもラートリーは窺うようにセレシアを見つめた。イルゼは内心、ばれやしないだろうかと落ちつかない。

 イルゼの異母妹である少女は妙に勘が鋭く、持ち前の怜悧さで思わぬ真実を言い当てることも少なくないのだ。


「まあ、なんにしろ、兄様の好意に甘えるようなことはないようにね」


 イルゼの杞憂をよそに、ラートリーは『セレシア』に向かって釘を刺すように言った。

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