第34話 怒り
腕を掴まれたイルゼは、無理やり扉の前から引き離される。そして力任せに長椅子へと放り投げられた。
あっという間に逆戻りの状態となったイルゼは、驚愕の表情で自分を手荒に扱った人物を振り仰ぐ。するとそこには、自分を冷たく見下ろす異母兄――イヴェリッドが立っていた。
「俺は貴様に、ここで待っていろ、と言ったはずだよな? まさか、この兄の言うことを聞いていなかったのか? それとも野育ちの頭では、正しく言葉も理解できないのか?」
今までとは全く異なる侮蔑に満ちた声音と威圧的な視線。端麗な容貌からは明るい華やかさが消え、かわりに感情の窺えない酷薄な色が宿っている。
「兄上?」
イルゼはイヴェリッドの豹変に戸惑いを隠せない。そんな少年を黒緑色の双眸は冷然と見下ろしていた。
「あ、あの、少し気分が悪くて――。この部屋で焚かれている香は、その、僕には、あまり合わないみたいで……」
イルゼは胸を乱す気持ちの悪さに耐えながら、しどろもどろに弁明する。するとイヴェリッドは「まあ所詮、卑しい育ちの者が理解できる嗜好品でもないな」と鼻で笑った。
そんな理不尽な蔑みにもイルゼは反感を抱く余裕すら持てなかった。ただ一刻も早く、この部屋からの退出許可を得たかった。だからイルゼは、限りなく低姿勢を装って述べる。
「こんな体調ですと、せっかくの兄上からのお話をきちんと伺うことができないと思われますので……大変申し訳ないのですが、後日、改めてお話を」
「駄目だ」
イルゼの健気な懇願をイヴェリッドは余地なく撥ねつけた。
「今、外に出られたら、全てが台無しになるじゃないか。せっかく貴様のような奴に、希少な媚香を使ってやったというのに」
異母兄の言い分にイルゼは思わず眉を顰める。少年には、その言葉の意味が全く理解できなかったからだ。
「何、心配するな。今にすぐ、気持ちが良くなれるさ――」
意味ありげな笑みをたたえて、おもむろにイヴェリッドがイルゼの上に影を落とす。そして唖然とする少年に向かって身体全体でのしかかってきた。
「っ、何を……!?」
思ってもみなかった事態にイルゼは狼狽し、覆いかぶさってきたイヴェリッドを反射的に押しのけようとした。しかし、成熟した長身の大人である彼の身体と、まだ十代半ばの少年であるイルゼの体格差は歴然としており、その体勢はびくともしない。いや、それ以上に、部屋の中で充満する濃厚な香りが、イルゼから抵抗力と最良の判断を奪う。
(重たい! 苦しいっ……!)
嫌悪感をそのままに、イルゼはがむしゃらにイヴェリッドの圧迫から逃れようとした。ところが青年は、そんな抗いさえも楽しんでいるかのようで、鷹揚に少年の身体をまさぐり始める。そして、生暖かく湿った感触を首筋に押しつけてきた。
「なっ……あ、兄上!? 冗談はやめてください!!」
異母兄であるはずの青年が、自分に何をしようとしているのかをはっきりと理解してイルゼは悲鳴を上げた。
しかしイヴェリッドは、その行為をやめようとはしない。それどころかイルゼが逆らう分だけ、ますます息遣いを荒くさせ、絡み付き、その執拗さを増長させる。
服の内側に入り込んだイヴェリッドの手が、ゆっくりと反応を確かめるようにしてイルゼの肌を撫で回した。あまりの不快さに少年は飛び上がり、その動きをやめさせようとして必死でもがくが、それこそ青年を喜ばせているだけのようで、身体を弄ぶ手は更に範囲を広げていく。
昨日、握手を求められて握った異母兄の手は、うっすらと汗ばんでいた。それをイルゼは不快に感じ、思わず太股の辺りで拭ってしまった。そして今、イヴェリッドの手の平は、あの時よりも一層、湿っている。触れられた部分の素肌には、はっきりとその感触が残される。
容赦なく続けられる嫌らしい行為に、とうとうイルゼは感情を爆発させた。
「やめろ!!」
一際高く声を張り上げ、その勢いで異母兄を突き放す。と同時に、今の今まで耳元を這っていた生々しい感触からも解放される。
イルゼは激しい憤りでもって異母兄を睨みつけた。それに対してイヴェリッドは不遜な態度で少年を見下ろす。顔に吹きかかる熱い息と、感情に希薄な双眸の温度差にイルゼは慄然とした。
「貴方は……っ、こんなことをするために僕をここに連れてきたのかっ! アラリエルの日記なんて嘘で、話を聞かせてくれるっていうのも嘘だったのか!」
イルゼは震えそうになる声を叱咤して怒鳴った。そうでもしなければ恐怖で顔が歪んでしまいそうだった。そうなればきっと、この青年は喜び勇んで更にイルゼを虐げようとするだろう。
「大体、兄上と僕は異母とはいえ兄弟でしょうっ? 何故、こんな……!」
イルゼには理解ができない、有り得ない。もしかしたら悪い夢なのではないかとさえ思えてくる。
「ああ、そうだ、兄弟だ」
イヴェリッドは醜悪な笑みを浮かべた。
「だからこそ、面白いんじゃないか」
「なっ……」
イルゼの絶句を目におさめながら、イヴェリッドは楽しげに笑った。
「大体兄弟とはいっても、昨日今日、会ったばかりの赤の他人同然だろう。とはいえ、貴様に限らず、この皇城に住む者は皆そうさ。血の繋がりなど、なんの価値も意味もない。それがアドニス皇族ってものだ。今、貴様が学んでいる歴史通り、それは証明されていることではないか?」
イヴェリッドは狂気そのものの感情で、イルゼの顔を間近に覗き込んでくる。
「いいか、覚えておくといい。この皇城で貴様のような弱者が生き抜くために必要なのは、最も有力な者を見抜く洞察力と、その者に上手く取り入る処世術だ。俺には兄のガーヴァルがいるが、奴は粗野で頭の悪い粗忽者。その上、品位のかけらもない不器量者だ。周囲の者は皆、不安に思っている。恐らく次の皇王に推されるのは俺だろう」
そう言ってイヴェリッドは勝ち誇ったような笑みを閃かせた。
「貴様は自分の幸運を知るといい。その俺が貴様のような半端者を、こうして可愛がってやろうというんだ。俺のものになり、俺に逆らうことさえしなければ、貴様には特段の庇護をくれてやる」
「っ――誰が、そんなもの……!」
イルゼは精一杯に虚勢を張る。だが、それも限界だった。声はうわずって掠れ、瞳には怒りと悔しさで涙が滲んできた。
そんな少年をイヴェリッドは愉快そうに見つめる。
「弟といえば、親父似の無骨な不器量者ばかりだった。まだ見られたのは俺のすぐ下のシルヴィオくらいだったが、あれは精神的におかしいときてる。さすがの俺も、気狂いを相手にするほど物好きじゃない。だが、その点、貴様はいい。容姿も好みに値するし、可愛げもある。野育ちではあるが、そこは俺の調教次第でこれからどうにでもできるだろうさ」
そう言ってイヴェリッドは薄く口元を歪めた。
……こんなの、本当に冗談ではない――! イルゼは自分の身に迫っている現実に震え上がった。
「じゃあ、貴方が昨日、話して聞かせてくれたことには、少しも真実がなかったのかっ……! 母に会ったことも、日記のことも、血族同士の争いをなくしたいと言っていたことも全部!」
あの時点でイルゼは少なからず異母兄を警戒はしていたものの、彼に聞かされた話の内容自体は信じていた。それを裏切られたことが何よりも悔しく、それを愚かにも信じ込んだ自分が腹立たしかった。
「アラリエルの日記か」
イヴェリッドは鼻で笑う。
「そんなもの当然、嘘に決まっているだろう。あの女に日記に綴れるような楽しい出来事も余裕もあるわけないさ。アラリエルは敗戦国の女で、奴隷も同然の立場だったんだ。本来なら戦場で犯され殺されてもおかしくはなかっただろうが、大陸一の美姫と名高い噂が親父殿の耳に入り、その興味から無傷で捕らえられた。そしてその後は親子ほどに年のはなれた親父殿の相手を務めさせられていたんだからな」
くつくつと喉の奥で鳴る嫌らしいイヴェリッドの笑声が、絶望にあるイルゼを更に追い詰める。
「ちなみに兄弟姉妹で手を取りあって仲良くやっていこうっていうのも嘘だ。あんな馬鹿らしい話、本当に信じたのか? 大体、そんな回りくどいことをする必要なんてないだろう。こうして、力づくでねじ伏せてしまえば――……」
突然、イヴェリッドが声音を潜ませ、イルゼの唇に自分のそれを重ねようとする。だがイルゼは、すんでのところで顔を背けた。すると青年は嘲るような笑いをもらし、そのままイルゼの赤い髪に唇を寄せ、そこに埋もれていた耳朶を軽くはんでくる。
「……っ! 嫌だっ! やめろっ!!」
再び始まった身の毛のよだつ行為に、イルゼはあらん限りの悲鳴を上げた。
これほどまでに強烈な恐怖と屈辱を同時に感じることがあるだろうか。もはや冷静な思考はできず、怪しげな香によって身体は麻痺し、青年の強靭な手足は少年の弱々しい抵抗を完全に封じる。こうなればイルゼは無力で、ただ叫ぶことしかできなかった。
「だが、貴様の母親には会ったことがある。それは嘘じゃない」
イルゼの耳に触れていた青年の唇が囁いた。
「ただし、その頃のアラリエルは、話しさえも碌にできないほどに衰弱していたがな。親父殿に無理やり孕まされてから気が狂っちまったらしい。貴様が入っていた腹ばかりが目立って薄気味が悪かったくらいだ。あれじゃあ『亡国の得難き至宝』も見る影がなかったな」
イルゼの耳元で低い笑声が鳴る。
「分かるか? 貴様の母親だって似たようなものだったんだ。その腹から産まれた貴様だって同じだ。産まれた時から貴様は穢れているんだ。今更、躊躇うようなことでもないだろう?」
(そんなのっ……言いがかりじゃないか!)
イヴェリッドの束縛を振りほどこうともがきながらイルゼは心の中で叫んだ。
そんな少年の心の内など知る由もないイヴェリッドは、更にイルゼには理解のできない持論を展開する。
「ラートリーの母親だって同じようなものさ。今は生まれながらに高貴な者のように振舞ってはいるが、あの女は元々、淫らな格好で男どもの視線を集める踊り子だったんだ。それをたまたま目にした親父殿が妾妃に召し上げた。そして淫売さながらの巧みさで、親父殿と力のある貴族どもをたぶらかし、今の地位を手に入れたってわけさ」
(違う!)
イルゼはイヴェリッドの解釈を全面否定する。大声で叫びたかったが、のしかかる青年の体重が胸を押し潰し、上手く声が出せそうになかった。
クロレツィアは優れた政治的才幹と賢明な働きを周囲から認められ、皆に望まれて今の地位にいるのだ。今、自分にのしかかる男のような行為で得たものでは決してない。大体、今のアドニスにおける皇妃を、それ以上の功績でもって務め上げる彼女の非凡さは自明の理であり、それをイヴェリッドは推して知るべきなのだ。
だがイヴェリッドは、どこまでも優位に立つ者として話を続ける。
「その点、俺の母は貴様らを産んだ卑しい女どもとは違う。母は病弱でこそあったが、アドニス皇家の流れを汲む由緒正しき貴族の出だった。生まれからして俺は貴様らとは違うんだ」
(何を……ふざけたことを偉そうに言う!)
こんなことのする輩のどこが由緒正しき者なのか。これこそ、まさに卑しい恥知らずな振る舞いではないか!
イルゼは強いられる恥辱の中で、恥も外聞もかなぐり捨て、大声で泣き叫びたくなった。誰でもいいから助けを請いたかった。しかし、ここ西の棟でイヴェリッドが最大の権力者であるのならば、いくら叫んだところで助けなどこないだろう。
だが、それが無意味なことであっても、そしてこの異常な性癖を持つ異母兄を喜ばせるだけだったとしても、抗う術を奪われた恐怖に、もはや少年は耐えられそうになかった。悲鳴が喉から出かかり、しかし次に続いたイヴェリットの言い分が、イルゼの感情を激とさせた。
「貴様や他の兄弟達の母親は、皇王に奉仕するだけの卑しい女どもだった。ならば、その子供である貴様らだって、その身でもって次の皇王である俺に奉仕するのは当然だろう? 貴様も、もちろんラートリーもな」
(――ラートリー、だって……っ?)
イルゼの脳裏に、生意気な態度を見せながらも、自分を気遣ってくれた二歳年下の異母妹の姿が浮かぶ。
「まさか、ラートリーにも同じことを!?」
イルゼは喘ぎながらも声を絞り出した。
いくらなんでも、そんな馬鹿げた真似を――と思いながらも、実際に異母兄が少年に強いている醜悪な所業をかんがみれば、それは有り得ないことではなかった。
単なる杞憂であって欲しい――そんなイルゼの切なる願いは、見るのも耐え難い嫌らしい笑いで打ち砕かれた。
「さて、あれは三年くらい前のことだったかな。あいつもあの頃までは素直で可愛らしかったんだ。ちょっと優しくしてやっただけで、俺の言うことならなんでも聞いたし信用もした。人気のない場所に連れ込むのなんて簡単なことだったさ。ちょうど、今の貴様のようにな」
(……なんてことを!)
イルゼは声にならない悲鳴を上げた。
「さきほども言っただろう? 血の繋がりなど、なんの意味もないと。異母妹の中には、向こうから俺の庇護を望む者だっているんだ。それを考えれば俺のほうから望んだって、お互い様ってものじゃないか」
まさに押しつけの馬鹿げた持論だった。そこにイルゼもラートリーも全く関係がないのだから。ようはこの男は、イルゼや幼い異母妹を己の欲望のまま、好きなようにしたいだけなのだ。
(絶対に許さない!!)
噴き出した憤怒は、イルゼを支配していた恐怖をも吹き飛ばす。
……このまま、奴の好きになどさせてやるものか!
イルゼは今まで湧き起こらなかった反逆心を猛然とさせる。
まずはともあれ、イヴェリッドの圧迫から逃れなければならない。だが体格も力も格段にイヴェリッドのほうが優っている。まともに歯向かっても華奢な身体つきのイルゼに勝ち目はない。
(……だったら、少しの間だけでも、相手からの力を緩めることができれば――)
それこそ自分自身を餌にしてでも。
イルゼは少しずつ、イヴェリッドを押し退けようとしていた抵抗を弱めていった。それに気がついた異母兄は、くぐもった声で小さく笑う。
「……やっと媚香の効果が出てきたらしいな。それとも諦めがついたのか?」
イルゼはイヴェリッドの冷笑を超然と聞き流す。もはやこの青年からの言葉はイルゼの感情に全く影響を及ぼさなかった。
冷静になると色々と見えてくる。先程までは少しも見い出せなかった勝機が必ず掴めると信じられた。
部屋に焚かれた香は媚薬というよりも身体の神経を狂わす一種の麻薬なのだろう。このせいでイルゼは身体に力を入れることができず、こんな恥辱に屈しなければならなくなったのだ。ならばイヴェリッドも同じような状態になってもおかしくはないが、彼が媚薬の常習者ならば耐性を持っているのかも知れない。
「そうだ、そうやって大人しくさえしていれば、乱暴にはしない――」
容赦なくイルゼの身体を押し潰していた力が、ここにきて僅かに緩んだ。その緩和にイルゼは思わず息をついたが、そんな安堵も束の間だった。
イヴェリッドはイルゼの上衣に手をかけると、それをおもむろに乱し始めた。たちまち肩や胸を露わにされ、そこに青年の熱い息が吹きかかる。イルゼの忍耐は再び頂点に達しかけたが、それをなんとか堪えてみせた。
青年からの耐え難い汚辱は更に続いた。それでもイルゼは歯を食いしばり、息を潜めて反撃の機会を待つ。
荒い息を繰り返しながら、貪るが如くイルゼに執心するイヴェリッドの姿は、まるで腹を空かせた獣のようだった。いいや、獣のほうが遥かにまともだろう。獣ならば、そこに浅ましい考えなどなく、ただ生きるために獲物を食らうだけなのだから。
――どのくらいの時を堪え忍んでいたのだろうか。それはさほど長い時間ではなかったかも知れない。だがイルゼにとっては何十倍にも何百倍にも感じられたことだろう。
イヴェリッドはイルゼが無抵抗なのをいいことに、一層、淫らな欲望を甚だしくさせていた。もはや青年は、少年からの抵抗など少しも考えていないようだった。完全にイルゼが自分に屈したとでも思っているのだろう。
(……こんな嫌な思いを、恐怖を、ラートリーやフィーナは――)
イルゼは幼い異母妹や今は亡き大切な少女を思い、強く奥歯を噛んだ。
フィーナは汚らわしい欲望を果たそうとする男達に襲われ、だがそれでもその恐怖に屈せず、抗い、そして命を落とした。息を引き取る寸前、イルゼの花嫁になるのだからと小さく笑い、それが叶わぬ身を察して泣いた少女。そんな少女と共にあるべきだった己が、こんな輩に屈するわけにはいかない。
イルゼは彼の身体を弄ぶのに夢中になっている異母兄を冷ややかに見やった。
イヴェリッドは湿った両手をイルゼの両脇に添え、その下腹辺りを熱心にねぶっていた。素肌に吸いつく唇、ぬめるようにゆっくりと這う舌、その先で肉体の弾力を楽しむかのような動き――
(っ……吐き気がする!)
今までは青年の行為をなるべく見ないようにしていたイルゼだったが、それをはっきりと目の当たりにした途端、逆らいがたい衝迫に襲われた。心中はイヴェリッドへの拒絶と憤怒に燃え上がる。
そんな行為に合わせて、イヴェリッドの赤みがかった金髪が揺れ動いている。
……今ならきっと、異母兄の汚らわしい所業から逃れることができる――
イルゼはそうっと、イヴェリッドに気づかれないよう、その長く垂れさがった髪へと手を伸ばす。そして、その一房を素早く指に絡め取ると「押して駄目なら引いてみろ!」とばかりに思い切り引っ張った。
「――ぎゃあっ!」
次の瞬間、青年の凄まじい悲鳴が上がる。
ブチブチッと皮膚から髪が抜ける鈍い感触がイルゼの手に伝わった。それと同時に青年の身体が少年の上から飛び退る。
(やった!)
イルゼはイヴェリッドを思いっきり押し退けると、その下から素早く抜け出した。そして一気に、残った全気力を振り絞って、部屋の扉に向かって走り出そうとした――が。
「……このっ――クソ餓鬼がっ!!」
皇族とは思えない下劣な罵声を上げ、イヴェリッドは逃げ出そうとするイルゼの肩を引っ掴んだ。そして、そのまま強引に振り向かせられると、凄まじい勢いで頬を殴られる。
叫び声も上げられないまま、イルゼは床に転倒した。
「……ふざけるなよ、餓鬼が。多少の反抗は可愛げで済むが、いくら俺でも許せる限度ってものがあるぞ」
倒れ込んだイルゼをイヴェリッドが憎々しげに見下ろした。
「――それは僕のほうの言葉ですよ、兄上」
イルゼは自分でも驚くほどの冷静な声音で言った。殴られたせいか脳内がすっきりとしており、思考が鮮明になっていた。
「思いっきり殴ってくれて、ありがとうございます。これで周囲に言い訳が立ちます」
イルゼは冷たくうそぶき、口元を手の甲で拭いながら立ち上がる。拭った手の甲を見ると、鮮やかな赤い血で汚れていた。歯を食いしばる間もなく殴られ、唇を切ったらしい。そういえば、口内も独特の味で支配されている。歯が折れていないだけ、ましといったところか。
「何?」
イルゼの言い分にイヴェリッドは眉根を寄せる。
「イヴェリッド兄上は忘れているのではありませんか? 僕が能力持ちだってことを」
ここで初めてイヴェリッドの表情に怯んだような色が生じた。が、すぐに鼻先で笑う。
「だったら何故、今までその能力を使おうとしなかったんだ? ようは役立つものじゃないのか、上手く使いこなせないんだろう?」
「ええ、そうなんです。僕は、この能力を上手く使えません」
イルゼは目を細めて薄く笑った。
「お見せしましょうか? 実際に役立つものか、そうじゃないのかを。でも先程も言った通り、僕は力を上手く制御できませんので、もしかしたら兄上にまで危害が及んでしまうかもしれませんが」
「……貴様、この俺を脅すつもりか」
イヴェリッドは眉を逆立てる。
「脅す? おっしゃっている意味が分かりませんね。僕はただ、自分の身と尊厳は守るつもりです。これ以上、兄上が僕に不埒な真似をしようとするのならば、僕は持てる力を全て使って断固拒否をする」
イルゼとイヴェリッドは暫くの間、無言で睨み合う。そんな沈黙を先に破ってきたのはイヴェリッドのほうだった。
「貴様は自分の立場をまだ理解していないようだな。そんなに昔の境遇に戻りたいのか? この次期皇王として有力なイヴェリッド様を害した時点で、貴様は多くの貴族を敵方に回すことになるだろう。その意味が分からないほど馬鹿ではあるまい?」
そう言ってイヴェリッドはイルゼに向かって一歩、足を踏み出した。そんな青年を牽制するつもりでイルゼは言う。
「害するなんて生ぬるい。やるなら殺すつもりでやりますよ」
途端、イヴェリッドの表情が驚愕に満ちた。だがそれは、イルゼの言い草に対しての感情ではなかっただろう。
「う、なっ……!」
イヴェリッドは言葉にならない声をもらし、イルゼの周囲に目を走らせる。
「兄上は初めて見るのですか? これがアドニス皇族では唯一、僕しか持たない神の力とされるもの。始祖王達の血を引く確かな証です」
イルゼはできる限り冷酷な笑みを口元にたたえてみせる。
いまやイルゼの周囲は、室内に起こる筈のない風で巻かれていた。その風力は、部屋を散乱させない程度に緩やかなものだったが、時折、小さな電流を弾くさまはイヴェリッドにとって十分に脅威であることだろう。
「これ以上、貴方が僕に近づくようならば――今、僕の周囲で渦巻いている〈マナ〉を全部、貴方に向かって放ちます。そうなれば兄上は恐らく、命を落とすことになるでしょうね」
「……はっ、本気で言っているのか? 貴様は兄であり、次期皇王として有力なこの俺を殺すと言うのか? それがどんなに許されないことか理解しているのかっ?」
イルゼを馬鹿にした様子で、だが、隠せない動揺を滲ませながらイヴェリッドは芝居がかったようにのたまう。
「殺すつもりはなかった」
イルゼの静かだが明瞭とした声音に、イヴェリッドは無理にでも笑おうとしていたらしい表情を氷結させた。
「そう言えば問題はありません。兄上が僕に対して不埒な真似を強要しようとしたので思わず抵抗してしまった――とね。この腫れ上がった頬と、今の僕の姿を見れば、きっと皆、納得してくれるはずです」
「……そんなこと、俺がやったなどと誰が言えるものか! 俺の後見である母の実家は、アドニスでも一か二を争う有力貴族だぞ!」
イヴェリッドが怒鳴る。それに対してイルゼはせせら笑った。
「別に、公言していただく必要なんてありませんよ。暗黙のうちに納得さえしていただければね。貴方が死んでしまった時点で、全てが終わりなんですから。貴方の周囲が重視するのは、どれだけ次期皇王として有力であるかということであり、その価値は死んだ貴方には発生しない。となれば、僕の能力を目の当たりにしてまで、貴方のかたきを討とうとする者などいないでしょう。今まで貴方を引き立てていた貴族達は他の皇子達に鞍替えをするだけ。何せ貴方の他には七人もの皇子がいるのですから。僕を含めてね」
「っ……貴様のような奴が、皇族の一人として数えられるものかっ! 貴様など亡国の奴隷女が産んだ卑しい餓鬼じゃないか! 自惚れるな!!」
「貴方こそ自惚れないほうがいい。誰もが自分の思い通りになるなんて思うな」
イヴェリッドの癇癪にイルゼは鋭く切り返す。そしてちょうどこの時、イルゼの耳に届いた少女の声。
「イルファード兄様! どこっ? 返事をして!」
(……ああ、ラートリーの声だ――)
遠くから聞こえてきた騒々しい声に、イルゼは僅かに口元を緩ませる。きっと頼りない異母兄である少年を心配して駆けつけてくれたのだろう。
イルゼは再びイヴェリッドに視線を戻すと「いいか、今後二度と、僕やラートリーに近づくな」と凄んだ。
「なんで、ラートリーまで」
イヴェリッドが非難じみた声音を上げる。だが、それをイルゼは容赦なく遮り、
「もう二度とは言わない、分かったか!!」
そろそろ途切れそうになる気力を叱咤しながら怒鳴った。すると、その声に合わせて少年の周囲に発生していた風が微かな電流を孕んで短い閃光を弾く。
イヴェリッドは「ひっ」と小さく肩を竦め、だが精一杯の虚勢をはりながら、
「ああ、いいさ! あんな可愛げのない女、貴様にくれてやる! 淫売の産んだ餓鬼同士、お似合いだ! せいぜい乳繰りあって可愛がってやるんだなっ!」
「っ……僕達をお前と一緒にするな!!」
イヴェリッドの下劣な台詞はイルゼの感情を激しく高ぶらせる。更に勢い良く弾いた電光にイヴェリッドは怯えながらも忌々しそうにイルゼを睨みつける。そして素早く部屋から立ち去っていった。
それをイルゼは見届けると、一気に脱力して床に座り込む。周囲を巻いていた風も一瞬にして消え失せた。
過ぎ去った危機に安堵するよりも、自分を襲った恐怖と嫌悪に震えが止まらなかった。
「イルファード兄様!」
イヴェリッドが開け放ったままにしていった扉から、慌てた様子のラートリーが飛び込んでくる。その後ろには彼女の腹心である侍女ロジーの姿もあった。
ラートリーは部屋中をグルリと見回し、そして床に座り込んでいるイルゼの姿を見とめると、
「ああっ、いたわ、兄様! やあっと見つけたっ!」
と一層、騒がしく声を上げた。
そんな異母妹を見てイルゼは、ようやく安堵といえる溜め息を深々とついたのだった。
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