第33話 不穏な気配

「ごめんなさい、イルファードお兄様」


 イルゼの自室の前まで戻ってきた時、ラートリーは本日二度目の謝罪を口にした。

 だが今度こそは、謝罪に相応しい神妙さだったので、イルゼは思わず目を瞬く。

 そんな少年を上目遣いに見るとラートリーは続ける。


「本当はね、私……アラリエル様のことはあまり詳しくないの。アラリエル様が亡くなられたのは私が生まれる以前のことだし……今まであそこにアラリエル様の肖像画があったことなんて、すっかり忘れてたくらいだったの。でもアラリエル様にそっくりな兄様を見てたら急に思い出して――。兄様はアラリエル様のお顔を知らないだろうし、あの肖像画を見せたら、その……少しは兄様の慰めになるかしらって思って、ついつい知ったかぶりしちゃって……」


 ラートリーはイルゼから視線をはずすと、もごもごと言い訳をする。


「ただ私が知っている事実は、アラリエル様が元エスティア王国の王女で、アドニスが攻め入った際に捕らわれの身になられたこと、そしてその後、お父様に所望されて妾妃になられたってことだけで――そこまでに至る詳しい経緯は知らないのよ。あまり公然とできるようなことでもなかったし、当時、内部でも批判的な声があったみたいだから……」

「……そっか」


 イルゼはなんとも言えず、小さく溜め息をついた。


 確かに自ら攻め滅ぼした国の王女を妾妃に召し上げるなど、国内でも対外的にも聞こえの良いものではないだろう。


 しかし故郷を滅ぼされ、肉親を殺されながら、その身さえも屈しなければならなかった母の心痛はいかばかりだったのだろうか。そしてその結果、生まれたのがイルゼだ。やはり自分の存在こそが、幼く儚い母の命を奪い去ったのかも知れない。


(……それにしても、お母さんまで僕と同じように故郷を失っていたなんて)


 それはなんて皮肉なことだろうか。同じように父から望まれて皇城に上がり、そして今の自分と同じように、やはり心細い日々を一人で過ごしていたのだろうか――……


「あのね、アラリエル様のお話を聞かせてくれたのは私の母様なの」

「クロレツィア様が?」

「ええ、母様はアラリエル様とお年が近かったこともあって、彼女のお世話をしていたことがあったんだって。それで親しくなったらしいわ。アラリエル様は、とてもお綺麗で優しい御方だったっておっしゃってた」

「そう、なんだ……」


 イルゼはどこか感慨深げに呟く。


「ねえ、ラートリー。クロレツィア様に、お母さんのことを窺える機会っていただけないのかな?」

「母様に? ううん、そうねぇ……冬を控えた今の時期、母様も政務にお忙しいみたいだから、今すぐには無理だと思うけど」

「……そう」

「でも兄様がそう望んでいたってことは母様に伝えておくわ」

「うん、お願いするよ」


 イルゼはラートリーに感謝しながら頷いた。


「それじゃあ私、部屋に戻るわね。そろそろロジーが騒ぎ出す頃だし」


 ラートリーはロジーからの小言を想像したのか、軽く顔をしかめてからクルリと踵を返す。そんな彼女にイルゼは呼びかける。


「ありがとう、色々と心配してくれて。お母さんの肖像画、見ることができて嬉しかった」


 イルゼは心から礼を言った。すると少女は少し照れくさそうに唇を尖らせると「私も少し言い過ぎたとこがあったから、そのお詫び」とうそぶいた。

 イルゼは、少しひねくれていて不器用な優しさを持ったこの少女に対して、今では親しみと好感を抱くようになっていた。


「あのさ――もし良かったら、また色々と話を聞かせてよ。この部屋にはいないほうが多いかも知れないけれど、いつも書庫のほうにはいるから」


 イルゼは異母妹である少女との交流を大切にしたいと思い、そう伝えると、ラートリーも快く頷く。


「そうね。また今度、お茶を誘いにくるわ」

「うん。でも、今度は喧嘩別れをしないようにしないとね」

「あはは、そうね」


 イルゼの軽口に少女は晴れやかに笑う。そして「じゃあまたね、兄様」と言って今度こそイルゼから離れていった。


 そんな彼女の背を見送るイルゼの心は、久方ぶりに軽くて心地が良かった。

 少女の姿が曲がり角に入って見えなくなると、イルゼは少し物寂しい気分で小さく溜め息をつく。そしてヴィルキールの授業まで部屋で休息を取ろうと自室の扉に足を向けた――と、その時だった。


「あのひねくれ者をあそこまで手懐けるなんて凄いじゃないか」


 突然、そんな声をかけられ、イルゼは驚いて振り返った。するとそこには、目を惹く秀麗な笑みを浮かべる一人の青年が立っていた。


 年の頃は二十台半ば、軽く波打つ赤みの強い金髪と黒緑色の双眸を持つ背の高い美青年だ。ただ、その装いはあまりにも軽薄であり、肩まで伸ばされた髪は無造作に束ねられ、身につけた薄い絹の上衣はだらしなく着崩されている。だが、上流階級に育った者のみが持つことのできる品位はあったため、皇城に住まう者であることは知れた。


 その青年は「よう」といった気安い態度で軽く手を上げると、こちらに軽快な足取りで歩み寄ってくる。そして少年の目の前に立つと、


「へえ? お前がイルファードか」


 長身の身体を前にかがめて、イルゼの顔を不躾なほどに覗き込んできた。


(な……)


 息がかかるほどの距離に怯み、イルゼは一歩、青年から後ずさる。

 それでも青年はイルゼを矯めつ眇めつして見続ける。そんな嘗めるような視線は、イルゼの気分を悪くさせた。


「あの、貴方は誰ですか?」


 先程までの心地良い余韻を失い、イルゼは少し不機嫌な声で問うた。すると青年は悪びれた様子もなく「ああ」と言って、やっとイルゼから身体を離した。


「イヴェリッド=トゥール=アドニス。この国の第二皇子だ。お前の兄上ってやつさ。ちなみに二十五歳な」

「じゃあ、貴方が」


 四人いる異母兄のうちの一人で、生まれて間もないイルゼがアドニスを出奔しなければならなかった原因ではないか。


「その顔は随分と警戒している様子だなぁ」


 青年――イヴェリッドは、からかうような口調で言い、ニヤリと口端を歪める。


 図星を指され、イルゼは軽く息を飲んだ。一応は「そんなこと」と否定はしてみせたものの、どうしても声が小さくなってしまう。


「まあ、それも当然のことか。お前は生まれて間もないのに、皇子同士の派閥争いによって命を狙われる立場だったんだものな。でも言い訳をするのならば、あれは俺達自身の意思じゃないぜ。大体十四年も前じゃあ、俺だって十かそこらのガキだ。異母とはいえ、生まれたばかりの弟の命を狙ってまで皇位を望むなんてのは有り得ないだろう? ――まあ、しいて言えば、お前の命をもっぱら狙っていたのは、前皇妃である俺達の母上なんだけどな」

「前皇妃様が?」


 イヴェリッドからもたらされた初耳の事実にイルゼは驚愕の声を上げる。


 現在の皇妃クロレツィアは、前皇妃が病死したのち、その座についた女性だ。イルゼの四人の異母兄のうち、第一皇子と第二皇子イヴェリッドが前皇妃の息子、第三と第四はそれぞれの妾妃が産み、第五皇子は言わずと知れたアラリエルの子イルゼだ。更に、その下には四人の皇子達が続く。ちなみにクロレツィア皇妃に腹の痛めた皇子はなく、皇女ラートリーのみが実子だ。


「そうさ、お前の命を狙っていたのは俺達の母であるレスティーヌだった。理由は――何故だか分かるか?」


 何気なくといった雰囲気でイヴェリッドがイルゼに問うてきた。


「……血の繋がる自分の息子を皇王にさせたかったからでしょう? そのために僕が邪魔だと思えたのでは?」

「違うな」


 忌憚のないイルゼの答えにイヴェリッドは皮肉げな笑みを浮かべて否定する。


「お前が邪魔だったのは確かだろうが、それは俺達を皇王にさせたいがためじゃない。お前が彼女の地位を脅かす存在だったからだ」


 そう言って青年は続ける。


「母レスティーヌは皇族出身の祖母を持つ高貴な身であり、皇妃という地位に納まりながらも、生来の病弱さゆえに周囲から軽んじられていた。だが、それも俺達二人の皇子を産んだことによって解消され、母上の地位は不動のものとなったはずだった。ところが、お前という皇子が生まれた途端、周囲の反応が不穏なものへと変わった」


 イヴェリッドが意味ありげな視線をイルゼに向ける。


「しかも、その頃の父の寵愛はすでに母にはなく、お前を産んで亡くなったアラリエル妃からクロレツィア現皇妃に移っていた。父の寵愛を他の妃達に奪われた挙句、その末に生まれた皇子は類稀な能力持ち。いくら自分の産んだ皇子が第一第二であったからといっても、いつ自分の地位が他の妃に取って代わられるか分かったものではない――と、母上は不安に苛まれる日々を送っていたんだ。そんな中、周囲の貴族達にそそのかされて、お前の命を狙うに至ったというわけだ」


 イヴェリッドは大した物事でもないように言う。


「とはいえど、その母も今では亡くなっているし、このまま順当にいけば皇位は俺と同腹で三つ年上のガーヴァル兄上が継ぐことになるだろう。俺にしても、その補佐でもできれば重畳だと思ってる。ところで、お前は野心のあるほう?」


 急に向けられた思わぬ質問にイルゼは咄嗟に返答できず、代わりに慌てて頭を振った。異母兄の言う野心が何を指すのか明確には分からなかったが、取りあえずイルゼには皇族の権力に関することに興味などない。


「なら、いいさ。俺達が仲良くできない理由なんてない。そうだろう?」


 そう言ってイヴェリッドは親しげにイルゼに向かって右手を差し出してくる。


「……ええ、そうですね」


 イルゼは頷いて、ずっと年上の異母兄の手を取った。だが、その行動は納得してというよりも、そうしなければならないという強迫観念にとらわれてのものだった。


 そんなイルゼの心中など知る由もないイヴェリッドは、素直な異母弟の態度に満足そうな笑みを浮かべた。


「それじゃあ親愛のしるしに、いいことを教えてやろう。お前の母君アラリエル様のことだ」

「えっ?」


 イルゼは思わぬ言葉に目を見開いた。


「俺は子供の頃、アラリエル様に会ったことがあるんだ。そして彼女が亡くなった時に形見分けとして一冊の日記をたまわった」

(日記……!)


 見たい、とイルゼは瞬間的に思う。それを見ることができれば、どのように母が日々を過ごしていたのか、何を思っていたのか、そして自分への想いが少しでも知ることができるかも知れない。


「あの、それ……見せてもらえませんかっ?」


 イルゼが勢い込んで頼むと、イヴェリッドはもちろんとばかりに頷いた。


「俺もアラリエル様の息子が皇城に上がると聞いて、この機会をずっと待っていたんだ。だけど、お前はいつもこの部屋にはいないだろう? だが今日やっと、こうして出会えたってわけだ。じゃあ、今日これからでも俺の部屋にこいよ。そこで俺の知っているアラリエル様の話を聞かせてやるから」


 イルゼは思わず「はい」と頷きそうになったが、ヴィルキールの授業が午後に控えていることを思い出した。


「あの、今からは、ちょっと――」


 残念だが、イルゼのために行われる授業を簡単に休むわけにはいかない。


 その旨を伝えると、異母兄である青年はどことなく鼻白んだ様子で「へえ、イルファードは随分と真面目なんだな」と言った。

 機嫌を損ねてしまっただろうか、とイルゼは不安に思ったが、すぐにイヴェリッドは気を取り直したようで、


「まあ、それなら仕方ないか。じゃあ、明日の午後ならどうだ?」

「ええ、それなら」


 イルゼはホッとしながら頷く。


「それじゃあ、明日の午後、お前の部屋に迎えを寄こす。ああ、それから――この件はラートリーには内緒な。あいつ、どうも俺達のことを嫌ってるみたいだからさ」


 イヴェリッドはやれやれとばかりに肩を竦めた。


「まあ、あいつの母親と比べたら、俺達なんて毎日自堕落に遊んで暮らしているとでも思ってるんだろうな。だが、いくらクロレツィア皇妃への手助けを望んでも、そんな勝手ができるほど俺達に自由はないんだ。母方の貴族達の目もあるし、皇妃側の者達だって俺達を簡単に信用などしないだろう」


 イヴェリッドはどこか諦め顔で苦笑いを浮かべる。


「でもさ、せめて俺達の代からは、そういう血族間の溝をなくしたいと思っているんだ。アドニスの皇族は血で血を洗う悪しき歴史が多過ぎる。俺達の祖父も父の代も多くの親族の血が流された末に始まった御世だ。そういう忌まわしい因果を断ち切るのに必要なのは、常日頃から築く信頼関係というものだろう? だから俺は少しでも他の異母兄弟達との交流を深めようと普段から行動しているんだが――ラートリーには、それが下らない児戯のように見えるんだろうな」


 イヴェリッドは言い、小さく溜め息をついた。


「だが俺としては、あいつとも仲良くやりたい。もちろん、お前ともな。昔のことは色々と思うところはあるだろうが、こういう俺の気持ちは分かって欲しい」


 整った容貌を持つ異母兄は真剣そのものの表情で言った。


 大宗主国であるアドニスの皇王は、従属国から献上される美姫達を妾妃に迎えることが多いため、どうしても生まれる皇子皇女の数が多くなりがちだ。それは血族間の火種が多いということでもある。


 それを憂うイヴェリッドの試みは尊いものだと思うし、そういうことであればイルゼは過去の因縁など捨て去ることができる。

 何せイルゼ自身、元々は記憶にない出来事だ。それに異母兄が釈明した通り、その当時は子供であった彼に責任はないだろう。だからイルゼは「兄上のお考えは素晴らしいことだと思います」と畏まって答えた。


「そうか、分かってくれて嬉しいよ。これからは仲良くやっていこう」


 イヴェリッドは目を細めてイルゼに微笑む。そして「それじゃあ、明日を楽しみにしてる」と短く告げ、背を向けて去っていった。


 そんな異母兄をイルゼは見送りながら、どこか割り切れない思いを抱いていた。


(……大丈夫だよな、きっと)


 ラートリーからの忠告を振り返り、少しばかりの不安にかられる。


(だって僕は皇位に興味はないし、首謀者だった兄上の母親は亡くなっているんだし、もう命を狙われる心配はないんだし……)


 そうだ、きっと大丈夫だ。


 そう思いながらも左手に残る異母兄の感触を拭い去ろうと、イルゼは無意識のうちに手の平を太股へとこすりつけていた。




 ……なんだか、とても嫌な気分だ――


 次の日の午後、イヴェリッドとの約束を間近に控えたイルゼは自室の長椅子に座り、何度目かの溜め息をついていた。


 風邪でも引いたのだろうか、疲れているのだろうか、それとも朝に飲んだ甘ったるい紅茶が胃にもたれているだけなのだろうか――などと色々と考えてはみたが、どれも正しい理由にはならなかった。それもそのはず。要するに自分は、異母兄に会うのが嫌なだけなのだから。


(……でも、どうして嫌なんだろう? 優しそうな人だとは思えるのに)


 他人を意味なく嫌がる感情は、自分自身でも不快に思えるものだ。だからこそ、そう思う正当な理由を気分やら体調のせいにしたかったのだが、どれも無理そうだった。


(きっと異母兄に対して先入観があるからだ。何せ命を狙われていた原因だって聞かされていたんだし。いや、それとも、皇城で育った異母兄と僕とは育ちが違い過ぎるから、なんとなく引け目を感じているのかも……)


 いずれにせよ、今更、異母兄との約束を反古にすることはできない。それにアラリエルの日記というのも捨て置けない。


(本当に熱でも出て寝込んでしまえればいいのに――)


 そうすればイヴェリッドに無理をしてまで会わずに済む。異母兄にも自分にも言い訳が立つだろう。


 どうしようもない感情を持て余し気味で、イルゼは深々と溜め息をついた――と、ちょうどその時だ。


「イルファード様、第二皇子殿下のお迎えでございますよ」


 年老いた侍女の声にイルゼはギクリとした。そして、とうとうきたかと振り返り、そこにいる者を認めて驚いた。


「イヴェリッド兄上?」


 イルゼは慌てて椅子から立ち上がる。


「兄上がわざわざ、こちらにこられたんですか?」


 イルゼの部屋を訪れたのは、なんとイヴェリッド本人だった。その服装は昨日とは打って変わって整ったものであり、異母兄が持つ秀麗な容貌も相まって、まさに王侯貴族といった様相だった。


 イルゼはそんな異母兄を見て戸惑っていた。てっきり侍従が迎えにくるものとばかり思っていたからだ。通常、第二皇子であるイヴェリッドが格下となるイルゼの元に自ら、しかも先導もなしで訪れるなど有り得ないのだ。


 だが当のイヴェリッドはイルゼの当惑にも皇族の礼節にも無関心のようで、


「ああ、どうせだし、可愛い弟の部屋でも見ておこうと思ってさ」


 そう言ってイルゼの部屋をグルリと見渡した。

 だが、この部屋にイヴェリッドの興味を引くものなど何一つないだろう。案の定、ほどなくして異母兄は「随分と殺風景な部屋だな」と呆れたように呟いた。


 暮らし始めてから二週間しかたっていないとはいえ、イルゼの部屋には花の一つも活けられていない。あるのは机と椅子と書庫から借りてきたくすんだ色合いの書物くらいだ。

 それで違和感なく暮らしていたイルゼと、見るからに華やかな雰囲気を持つイヴェリッドは、恐らく対極の価値観を持っているのだろう。


 少年の住まいに対する異母兄の感想は、言外に『面白味のない奴』とでも揶揄されているようにイルゼには思えたが、次に出た「欲しい物があればなんでも言えよ。大陸内外からどんな物でも取り寄せてやるから」という言葉からして、単純に異母弟の生活を思いやってのことのようだった。


「それじゃあ、行くか」


 早々に異母弟の部屋から興味を失ったイヴェリッドは、イルゼを促して廊下に出る。年老いた侍女は恭しく二人を見送る。

 嫌な気分はいまだに続いていたが、イルゼのほうに選択の余地はなく、黙ってイヴェリッドについていくほかなかった。


 イルゼの部屋がある西の棟には、イヴェリッドを初めとして、その他の皇子皇女二十人以上の住まい部屋がある。それらは広大な敷地内にあり、お互いに会おうと思わなければ一生、会うことなく過ごすことも可能だろう。


 イヴェリッドの住まいは、彼と同腹の兄で第一皇子のガーヴァルと同じ上階層にあり、西の棟では一番、豪華な造りで広さも十分にある区画だった。ちなみにイルゼに与えられた部屋は、西の棟の入り口に一番近い区画にあり、造りも広さも質素なものだ。

 ようは新参者に対する末席扱いなのだろうが、イルゼとしては書庫への道のりが近いといった点で割りと気に入っていた。


 そんなイルゼの部屋からイヴェリッドの部屋まではかなりの距離がある。長い廊下を渡り、いくつかの部屋を通り過ぎる。

 その間、出会った侍女はもちろんのこと、高貴な装いをした男女も、イヴェリッドに対しては道を譲り、恭しい会釈を向けてくる。

 恐らく彼らはイルゼの異母兄弟達なのだろうが、イヴェリッドに遠慮をしているのか、誰一人として話しかけてくる者はいなかった。


 階段を上がるにつれて、人との遭遇も減ってきた。そろそろ異母兄とのたわいのない会話を探すのにも疲れてきた頃、やっと目的の部屋に辿り着いた。


「さあ、ここだ。入れよ」


 イヴェリッドに促され、イルゼは案内された部屋に足を踏み入れる。


 そこは思ったよりも控えめな内装が施された一室だった。午後の陽射しがあまり差し込まない場所のようで、部屋全体が薄暗く感じられた。こまめに掃除はされているようなものの、どこか生活感に乏しく、長らく人が立ち入っていないような空虚ささえあった。


「ここは……兄上の部屋じゃないですよね?」

「ああ」


 イルゼの確認にイヴェリッドは頷く。


「人目を避けた部屋を用意した。ここは普段は使用しない俺の私物が保管されている場所なんだ。アラリエル様の日記もここにある。こう言うのもなんだが、お前の母君に関する話は、あまり周囲に聞かせないほうがいいと思うんだ。まあ、俺達には色々としがらみがあるってことさ」


 イヴェリッドの説明に、そういうものかとイルゼは素直に納得する。確かにアラリエルとイヴェリッドの母レスティーヌは、正妃と妾妃という決して相容れない間柄だったのだから、そういう配慮は必要なのかも知れない。


「今、アラリエル様の日記を出してくるから、そこに座って待っててくれ」


 イヴェリッドはそう言い残すと、奥に続く部屋へと姿を消す。

 イルゼは言われた通り、示された長椅子に腰をかけた。歩き疲れたのか、身体が重たく感じられた。


(……なんだろう。少し熱っぽい……のかな)


 暫くたってからイルゼは自分の体調が悪くなっていることに気がついた。それは疲れだけのせいではないように思える。頭の奥からは気力を奪う鈍重な痛みが発せられている。


 イルゼは横にあったクッションに身体を預けた。無作法な態度だったが、そうでもしなければ気持ちが悪くて堪えられそうになかった。


(こんなに具合が悪くなったのは、この部屋に入った時から……だった、ような気がする――……)


 ぼんやりとした意識の中でイルゼは何気なく思い至り、次にはこの部屋に対する違和感を生じさせた。

 ……気のせいだろうか、この微かに甘い香りは――……


(違う、気のせいじゃない!)


 はっきりと認識した途端、イルゼの嗅覚が甘ったるい奇妙な香りを確かに捉えた。


(いつのまに? これはっ……?)


 今の今まで気づかなかった変異にイルゼは混乱した。知らず知らずにクッションにうずめていた頭をもたげる。その行動だけでも凄まじい気力を必要とした。


 今や部屋中の空気は、息の詰まりそうなほどの甘い香りに支配されていた。部屋に入った直後には、こんな香りはしていなかった。ということは、イルゼが部屋に入った途端、発生したということになる。そういえばイヴェリッドはどうしたのだろうか。何故、一冊の日記を出してくるだけでこんなに時間を要しているのか。


(……早く、この部屋を出ないと……!)


 イルゼは咄嗟に思い至ったが、そう思える事由など検証する気にもなれず、その直感に従って迅速に行動を起こす。


 新鮮な空気が吸いたい……!


 その願望とにわかに沸き上がる理由なき恐怖に突き動かされて、イルゼは部屋の扉に急いで向かった。

 そして、そこまであと数歩――といったところで、イルゼの腕を強く掴む者がいた。

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