第32話 東の皇女

 外見はお人形のように可愛らしいのに、なんて性格は可愛くない子なんだろう。あれが自分の妹だなんて、本当に信じられない――


 イルゼはラートリーについてそう思い、今後は関わり合いになることなど殆どないだろうと考えていた、が。


「おはよう、イルファードお兄様」


 ラートリーから悠然と挨拶をされ、イルゼは噛んでいた途中の朝食のパンを思わず丸呑みしてしまった。


「な、なんでっ……ここに君がっ?」


 イルゼは軽く咳き込みながら、早朝から唐突に少年の自室へと現れた少女を見た。


「なんでって用事があるからよ。お兄様、今日のヴィルキール先生の授業は午後からでしょう? だって、あの先生ってば、週末の朝には必ずラダスの街頭市場に出かけるものね。なんでも珍しい時代渡りの書物を捜すんですって。だからね、今日の午前中は私に付き合ってくださらない?」


 昨日の一件など全く気にしている様子もなく、ラートリーはニッコリとイルゼに微笑みかける。


「……でも僕は、書庫で読書を――」

「あのね、そんなこと、いつだってできるでしょう? せっかく、こうして淑女が誘ってあげてるんだから、喜んでの一言くらい、気の利いたことも言えないの?」


 悪気があるのかないのか、ラートリーの言い方にはやはり憮然とするものがある。大体、淑女とはどこの誰のことを指してるのかと確認を取りたいくらいだ。


「ほら、お兄様ったら早く食事を済ませちゃってよ」


 偉そうに指図をするラートリーを横目に、イルゼは出されていた朝食を平らげた。そして、部屋づきの侍女に出かける旨を伝える。


「で、どこに行くの?」


 部屋を出て廊下を歩き始めたラートリーを追いながらイルゼは彼女に問うた。だが、それにラートリーは答えず「お兄様のお部屋って随分と寂しいのね。侍女は一人だけみたいだったし……」と窺うように言った。


「それに毎日、お兄様は書庫に行ってらっしゃるって話だけど、貴族の子弟達からは少しもお誘いはないの?」


 そう言ってラートリーは首を傾げる。そこで彼女が何を言いたいのかをイルゼはすぐに理解した。


 確かにアドニスの貴族達は、十四年ぶりに皇王から直々に望まれてアドニスへと帰還した第五皇子――イルゼの存在を少なからず注目していたようだった。

 それを如実に物語っていたのが、皇城に上がる前から用意されていた七名もの侍女達だ。彼女らはアドニスの有力貴族達がそれぞれに用意した者達で、イルゼを監視する目的で遣わされた『目』だったのだ。しかし、実際に第五皇子と邂逅を果たした実父の皇王は、望んでいたどころか、その息子に全く関心を示さなかった。イルゼにしても愕然とした出来事だったが、貴族達にとっても拍子抜けした結果だったのだろう。


 かくして用意されていた七名の侍女達は、この二週間で一人二人と人員不足の配置換えと称して主達の元へと去り、今では別に用意された年老いた侍女一人のみとなってしまったのだった。


「きっとみんな、僕に気を遣う必要はないって判断したんじゃないのかな」


 イルゼは軽く笑った。だが、それは皮肉な笑いではなく安堵からのものだ。少年にしても清々したというのが本音だったのだから。大体、七人もの侍女達に終始、見張られているような生活など堪ったものではない。


「……なんだか、そうなったのを本当に喜んでるみたいね、お兄様は。自分の評価が下がったっていうのに変な人ね」


 ラートリーは理解できないとばかりに呟く。それにイルゼは肩を竦める。


「だって、その評価は僕自身には関係のないものだろう? ただ、お父さんが――僕をどう思っているのかどうかってことだけで……」

(つまり、お父さんの僕への評価は――期待も価値もなかったってことだよな)


 イルゼはふとそう思った。そして、ここにくるまではこんなはずじゃなかったのに――とも。


 会ったことのない実父が、死に別れた養父ダグラスのように敬愛できる人であれば嬉しいと思っていた。初めはお互いに距離はあるかも知れないが、少しずつでも分かり合っていければいいとも考えていた。なのにまさか、その父に会うことすらままならない事態になるとは思ってもみなかった。


 そこまで考えてイルゼの心は深く沈み込む。だがラートリーは対称的に声音を明るくする。


「でもまあ、そうよね。どうでもいいような人の評価なんて鬱陶しいだけだものね。あいつらなんてね、私のことを影で五月蝿いだの生意気な小娘だのって、さんざんなことを言ってるらしいのよ。なのに会ったら会ったで『ご機嫌麗しゅう、姫様』なんて、わざとらしく笑いかけてくるのよ? 正面きってじゃ、なんにも言えない弱虫のくせに腹が立つったらないわよね!」


 口を尖らせて文句を言うラートリーに、イルゼは思わず苦笑した。案外、年齢相応の物言いもするのだな、と可笑しく感じたのだ。

 そんなイルゼを見て、ラートリーはますます不機嫌な顔つきになった。


「……イルファードお兄様だって私のこと、生意気で五月蝿いって思っていらっしゃるんでしょう? 昨日だって、凄く怒ってたみたいだったし」

「え? あ――」

(昨日のこと、気にしてたんだ)


 不機嫌そうな表情の少女を見て、イルゼは少し意外に感じられた。てっきり他人から向けられる感情など全く気にしない性格なのかと思っていたからだ。


「あれは、あまりにも君が、その――初対面なのに、ずけずけとものを言うから……」


 とはいえ、ディオニセスに会うことができずに落胆していた時だったこともあり、その苛立ちを少女にぶつけてしまった部分は否めない。


「怒鳴って、ごめん。言い過ぎたと思ってる」


 イルゼは素直に謝った。するとラートリーは少し驚いたようにイルゼを見ると、


「ごめんなさい、イルファードお兄様」


 と、唐突に言った。それに「え?」とイルゼは呆気に取られる。


「実はね、昨日、ロジーに怒られたの。お兄様に向かって、あんな言い方はないってね」


 ラートリーは渋面になる。しかし、その口振りや表情は自分の態度を反省しているというよりも、怒られたこと自体が不本意だと言わんばかりの雰囲気だった。


「だから謝るわ。ごめんなさい」


 今度はイルゼを見もしないで、ぶっきらぼうにラートリーは謝罪を繰り返した。


「……ラートリー、もしかして――君が謝る理由って、ロジーっていう侍女に怒られたからってだけ?」


 それとなしに問うてみると、ラートリーはイルゼを一瞥し、


「そうよ。だって私、嘘や間違ったことは言ってないもの」


 ぷいっと、ふてくされたようにして顔を背ける。

 つまり、イルゼに対して悪かったとはあまり思っていないということだ。


(なんて、ひねくれた子なんだろう)


 イルゼは呆れ返ってラートリーを見つめた。一瞬でも、この少女は案外、しおらしい子なのかも知れないなどと思った自分はつくづく甘い。だが、それでも、昨日のような嫌悪の入り混じった反感は持たなかった。

 イルゼは自分の異母妹である少女に少しずつ興味を持ち始める。


「ラートリーはロジーって侍女と仲がいいんだ?」

「そうよ。ロジーは私の乳母の子で、私より六歳年上だけれど、生まれた時からずっと一緒なのよ」


 それが少女にとって、とても大事な宝物のことのように言う。


「この皇城の中で、私が大切だと思うものは二つだけ。母様とロジーだけなの」


 そう言い切るラートリーの横顔は真摯で偽りがない。


「……ラートリーは、お父さんのことが嫌いなの?」


 イルゼは昨日から気になっていたことを思い切って聞いてみた。すると「兄様は? 嫌いなの?」と反対に問われた。


「嫌いも何も、まだ一度だってまともに話したことがないよ」

「あらそう。だったら私だって同じじゃない?」

「あ……」


 イルゼは昨日のことを思い出す。そういえば彼女は言っていた。生まれてからまともに父親と会話したことがないと。


「じゃあ、なんで会うことに意味がないなんて言えるの? そんなこと、実際に会ってみなきゃ分からないじゃないか」


 イルゼの言葉に、ラートリーは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「そんなの、会わなくたって分かるわよ。会ったって邪険にされるどころか、見向きもされないでしょうよ。本当はお兄様だって分かってるくせに」


 ラートリーは意地の悪い視線をイルゼに向ける。


「私、知ってるんだから。お目通りの際、お兄様がお父様から全く相手にされなかったってこと。お兄様にしたら望まれて帰還が叶ったと思っていたのに、とんだ期待ハズレだったでしょ? でもね、私は初めっから疑わしいと思ってたわ。だって、あの人が息子や娘に興味を持つなんて有り得ないもの。全く、どこの誰が仕組んだ茶番なのやら」


 ラートリーの物言いは皮肉を含み、何故か楽しげだ。自分の予想が的中したことを喜んでいるかのようだった。


「いいこと、お兄様? お父様がお兄様を望んでいたなんて、嘘っぱちもいいところだわ。この皇城にお兄様が呼ばれた理由はね、お兄様の持つ能力がアドニスにいる誰かにとって有益で貴重だったからってことに過ぎないんだから」

「……たとえ、そうだったとしても」


 イルゼはラートリーを挑むように見る。


「僕は父に会ってみたい。そして話をしてみたい。そのために僕は、ここへきたんだから」


 ラートリーにとっては必要のない父親であっても。会って再び突き放され、心が傷つく可能性があったとしても。イルゼにとってはたった一人、残された父親なのだ。もしかしたら万に一つでも、そこに温かいものが微かにでもあると信じて何が悪いのか。


「……やっぱり、お兄様って変な人!」


 ラートリーは嫌そうに顔をしかめた。


「会ったって絶対に傷つくだけなのに。分かりきってるのに。わざわざ嫌な気分になりたいだなんて、そんなの馬鹿みたいだわ」

「うん、きっと僕は馬鹿なんだと思う。でも、だからこそ、もう何も知らないままなのは嫌だって思ったんだ。知ろうとしなければ、嫌なことも知らずに済むんだろうけど――」


 イルゼは今までの経験を思い起こす。もっと知ろうとすれば良かったと後悔したことがある。そのまま知らなければ幸せだったのではと考えたこともある。


「それでも、そうやって行動することによって、何かが変わるのかも知れないし」

「変わったって悪い方向に変わるのなら意味がないじゃないの」

「それは、そうかも知れないけど――」


 ラートリーの歯切れ良い口調に対してイルゼの声には力がない。


「でも、いい方向に変わる可能性だって、あるかも知れないだろう?」


 イルゼは自分に言い聞かせるようにして言った。するとラートリーは小さく息をつき、


「……変わること、ね。でも、やっぱり私には意味のないことだわ。だって私は変化なんて望んでないもの。父のことなんか今更、知る必要のないことよ」


 イルゼはラートリーの答えにもはや反論する気持ちにはなれなかった。少女には大切だと思える存在がいて、それで彼女は十分に満足をしているのだと分かったからだ。

 自分だって、あのままセオリムの村が襲われるようなことさえなければ――愛する少女が傍らにいてくれたのならば、このようなことを無理に望む必要はなかった。


 小難しく父との対話を望む理由を述べてはみたものの、単に今の自分は父親のこと以外に何も持たず、それに諦め悪く望みを託してすがっているだけなのだろう。


 暫くの間、イルゼとラートリーは無言で歩き続ける。どこへ連れられていくのかイルゼには見当もつかなかったが、とにかく行ってみれば分かることだろうと考えた。


「あの中に、お兄様に見せたいものがあるの」


 ラートリーはある方向を指差す。そこには皇城と渡り殿で繋がれる離れの建物が見えた。


「ここは?」


 イルゼは辿りついた建物の扉を見つめて問う。


「ここには主に代々のアドニス皇王と皇妃の肖像画、著名な画家に描かせた絵画などが保管されているの。イルファードお兄様を見て以前、ここで見た肖像画を思いだして――」


 ラートリーが手に持っていたらしい鉄製の鍵を錠前に差し込むと、ガチャリ、といった重たい音と共に扉の封印は解かれた。


「真っ暗……」


 建物の中に入るとイルゼは思わず呟いた。内部には窓が一つもなく、外からの陽光は完全に遮断されている。絵を損傷から守るための配慮だろう。


「こっちよ」


 どこからか持ち出してきたランプを片手に、ラートリーはイルゼを建物の奥へといざなう。ひんやりとした古くさい空間の中をイルゼは少女と共に歩き始めた。


「ねえ、これ――お父さん、だよね?」


 イルゼは足を止め、壁にかかっていた一枚の絵画に目をとめた。ランプの光に浮かび上がったのは、椅子に座した父ディオニセスと、その横に立ち添う若く秀麗な女性だった。


「ああ、これは確か……十数年ほど前、アドニスに滞在していた腕の良い画家に描かせたものだって聞いたことがあるわ」

「へえ、そうなんだ」


 確かに描かれたディオニセスは今よりも少しばかり若い姿をしている。しかし、それでも隣の女性との年齢差はかなりあるようだった。


「この二人――親子……とか兄妹じゃないよね?」

「ええ、れっきとした夫婦よ。年齢差は三十歳以上あるけれどね」


 ラートリーはイルゼの困惑くらいお見通しの様子で言った。


「お父さんには、その……どのくらいの奥さんがいるの?」


 庶民的な育ちをしたイルゼにとれば、複数の女性を妻にするなど不誠実な行為に思える。だが、皇王という立場上、やむを得ない事情もあるに違いない――そうイルゼは思いたかった、が。


「そうねぇ……皇妃のほかには妾妃だけでも十三人、その他にもお手つきになった侍女なんて数え切れないほどいるんじゃないかしら?」


 ラートリーの答えにイルゼは絶句する。


「言ったでしょ? その結果、大人数の兄弟姉妹がいるって。皇子だけでもイルファードお兄様を含めて八人もいらっしゃるんだから。皇女までも勘定に入れたら、それこそ二十人以上にはなるわよ」


 言葉を失ったイルゼに対してラートリーはこともなげに続ける。


「でもね、妾妃をもらうってことは政略的な面もあるんだから数なんか関係ないと思うけど。特にアドニスは多くの従属国を持つ大宗主国家だから、女が輿入れ名目の献上品である場合もあるしね。とはいえど、お父様の場合、生まれた子供の数から考えても、ちょっとお盛ん過ぎたのかも知れないけれど」


 少女の言うことにイルゼは唖然とし、おもむろに頬を赤らめる。その言葉の意味が解せないほど彼は子供ではないし鈍くもない。しかし十二歳の娘が、このようなことを平然と口にするとは一体どうなっているのか――と呆れを抱いてしまう。こうなれば親子関係が希薄になってしまうのも無理のないことなのかも知れない。


(そりゃ、王侯貴族の結婚を世間一般の常識で考えるほうが間違ってるのかも知れないけど)


 では、自分の母アラリエルの場合はどうだったのだろうか。やはり、その他大勢の一人でしかなかったのだろうか。

 イルゼはもう一度、その絵画に描かれた女性を見つめる。


 その女性はイルゼの母親アラリエルではない。絵画の中の彼女は青銀色ではなく、毅然とした雰囲気を醸し出す黒髪をしている。年齢は二十歳を少し過ぎたばかりの頃で、聡明そうな黒い瞳を持った貴婦人だった。


(――あれ、この人……)


 イルゼはふと思い至り、横にいる少女を見やった。するとラートリーのほうも小さく首を傾げてイルゼを見る。


「もしかして私に似てるって思った? そりゃそうよ。だってこの人、私の母親だもの」

「えっ?」

「クロレツィア=エルファ=アドニス。私の母様で現在のアドニス皇妃よ」

「じゃあ、君がクロレツィア様の……っ?」

「あら、母様のことを知ってるの?」

「知ってるも何も、今のアドニスを事実上、動かしているのは……と」


 イルゼは慌てて口をつぐむ。それは公然の秘密というもので、皇子と言えども口にすれば皇王に対する侮辱罪になりかねない。


 だがラートリーは全く気にした素振りもなく、


「さすがお兄様、毎日勉学にいそしんでいるだけのことはあるわね。そうよ、今の皇王なんてお飾りもいいところだわ。母様がいなければ、このアドニスは十年以上も前に動乱の時代に突入していたことでしょうよ」


 忌憚なくラートリーは言い放つ。


「当時のお父様は大陸内外から胡散臭い呪術師を招いたり、彼らが携える高額な呪封具を買い漁ったりといった奇行が目立ったらしいの。その上、財政を無視したインザラーガ山における離宮や神殿の建設、迎合した貴族達と毎晩の如く繰り広げる奇怪な夜会、それによって増え続ける国の赤字、安易な民達への重税――今と同様、国政になんか見向きもしなかったそうよ。そして当時の皇妃は皇王の行いを諌めるどころか、自分の世話さえもままならない病弱さ。そうこうしているうちに民衆達の不満は目に見えて表れるようになり、各地での暴動が増え続ける。頭を痛めた城の者達は、様々な知見と優れた識見を持ち、皇王の寵愛も厚かった妾妃の母様を頼ってきた。母様は早速、議会の召集を皇王に進言して認めさせると、アドヴァールで開催した大会議の場で民衆代表や商人組合の理解と協力を得て、すんでのところで革命を回避させることに成功したの。今の安定したアドニスがあるのは母様の働きがあってこそなのよ」


 ラートリーが得意そうになって話す内容にイルゼは素直に感心した。同時に、この少女のことを見直する。母親の偉業を理解し、それを誇りに思っているということは、それなりに政治には明るいということだ。


 イルゼとラートリーはクロレツィアの描かれた絵画の前をあとにし、建物中央に位置する階段を登り始める。すると今度は踊り場に掲げられた大きな絵画に目が行った。


「これは……」


 淡い光にさらされ、暗闇から表れた人物画を見て、イルゼは知らず知らずに溜め息をつく。


 絵画の中では皇族の正装に身を包んだ美しく凛々しい若者と、神々しい清廉な美貌を持つ女性が、まるで二人で一つとでもいうように手を取り合って寄り添っている。


 ラートリーもイルゼと同様に絵画を見上げ、


「フィルファラード大陸の統治王にして古代皇国フェインサリルの聖皇シエルセイド。そして、太陽神の娘であり、かの国の聖皇妃リースシェラン――」


 どこか敬意の表した密やかな声音で言う。


「私達の御先祖様ね」


 イルゼは不思議な気持ちで、伝説の始祖王達が描かれた絵画を見上げる。


 絵画の中で手を取りあう彼らは現在まで語られる伝説通り、今もどこかで〈闇からの支配者〉の封印を見守り続けているのだろうか? フィルファラード大陸の安寧のために――


 子供の頃から聞き親しんだ伝説に登場する彼らが、自分の御先祖様だといわれる日がこようとは思ってもみなかった。しかも自分の持つ力は、ここに描かれている神の娘から受け継がれたものとされているのだ。それはなんと不思議で実感のわかないことだろう。


「ラートリー、この左右に飾られた絵の人達は? もしかして僕にも縁がある人達なの?」


 イルゼは興味津々でラートリーに訊ねる。


 シエルセイドとリースシェランが描かれた絵の左右には、二枚の肖像画が掲げられていた。左側には壮年の夫婦らしき一組、右側には一人の青年。どちらも高い気格が窺える偉容とした姿だ。そして、そこに描かれた二人の男は、イルゼと同じ鳶色の髪と双眸をしていたのだ。


「ええ、そうよ。左側は私達の祖父母にあたる方々。前アドニス皇王のオズワルドお祖父様と、その皇妃カテリーナお祖母様よ。お二人とも、前世代の内部抗争で亡くなられてしまったから、私も直接、お会いする機会はなかったけれど」

「そっか、そうだったね……」


 イルゼはヴィルキールの授業で習ったばかりの歴史を思い返した。前皇王オズワルドは、皇位の簒奪を狙って謀反した異母兄アルセーニの手にかかることを良しとはせず、自らの手で命を絶ったという。


 きっと誇り高い人だったのだろうとイルゼは祖父であるという男に思いを馳せた。


「じゃあ、こっちの男の人は?」

「ああ、その人は――」


 一瞬、ラートリーは複雑そうな表情を見せる。


「……私達の父親であるディオニセスお父様よ」

「えっ? ――これが!?」


 イルゼは心底、驚いた。何せ、そこに描かれた青年は、鳶色の双眸に強靱な意思と健全な精神を窺わせる貴人だったのだ。今のディオニセスにはないものを画の中の若者は全て持ち合わせていた。


「まあ、驚くのも無理はないわね」


 ラートリーは皮肉そうに肩を竦める。


「そこに描かれているお父様は、このアドニスをアルセーニから奪還する前のお姿よ。お父様の教育係だったヴィルキールによると、その頃のお父様は奪還王と称されるに相応しい覇気と威風を持ち合わせた御方だった――という話だけれどね」


 ラートリーは鼻で笑うように若かりし頃の父親を一瞥する。


「まあ、昔はそうでも、今があれじゃあどうしようもないわ。――さ、もういいでしょう、お兄様? 早く先に行きましょう」


 ラートリーは踵を返すと更に階段をのぼっていく。イルゼはそんな異母妹の背をなんとも言えない気持ちで見たが、それ以上、何かを聞くことは憚られた。


 イルゼ達は二階へと進み、ある一室に足を踏み入れる。どうやらそこは小さめの絵画が保管されている場所で、壁一面の棚には様々な大きさの画板が無造作に収納されていた。


「こっちよ、兄様」


 ラートリーがイルゼに向かって手招きをする。


 顔料の匂いと古臭い空気に満ちる室内を物珍しげに見回しながら、イルゼはラートリーの傍らに近寄った。


「これ、見て」


 ラートリーは一枚の画板を手に取るとイルゼに示す。促されて覗き込んだそこには、一人の美しい少女が描かれていた。イルゼは瞬間、画の中の彼女に心を奪われる。


 月光を捉える水鏡のような青銀色の髪、それと同じ色彩を持つ透き通った無垢なる双眸。小さく愛らしい唇は白磁に添えた花弁のよう。滑らかな顎や頬の輪郭は思わず手を添えたくなるような繊細さ――


 イルゼの意識を奪った少女は、一点の曇りもない美というものを体現していた。


「……これって――」


 イルゼは画の中の少女を凝視して問う。


「そう、イルファードお兄様の母君アラリエル様の肖像画よ」


 ラートリーの答えを聞き、イルゼは我知らずに感嘆の息をついた。


「凄く綺麗な方でしょう?」


 ラートリーの言葉にイルゼは声もなく頷いた。その視線は、まだ母である少女を捉えている。


「確か二年くらい前だったかしら? ここにある美術品が全て搬出されて整理されたことがあったの。私も少し興味があったから何日間か見学してたんだけど――そしたら偶然、この肖像画が目に入ってね」


 そう言ってラートリーは画の中の少女に目を落とす。


「これは、まだ妾妃になられる前のお姿なの。ほら、ここに作品の年記が入ってるでしょ?」


 ラートリーは肖像画の裏側をイルゼに指し示す。


「ええと……大陸暦千三十五年……今から――十七年前か」


 ランプの小さな灯火のみで、イルゼは苦労しながらも掠れた数字を判読する。


「これはね、この皇城にアラリエル様がいらした直後に描かれたものらしいわ。確か御歳十四だったはずね」


 ラートリーの説明を聞きながらイルゼは奇妙な縁を不思議に思った。初めて目にした母は自分と同じ年齢だった。


 では、この肖像画が描かれた三年後に、母はイルゼを出産し、わずか十七歳という若さで、この世を去ったということになる。


(……お父さんとは、随分歳が離れてる)


 イルゼは複雑な気分になる。実父であるとはいえ、この幼く美しい母と彼とではあまりにも不釣り合いに思えた。やはり母も政略的な結婚を強いられ、仕方なく父と一緒になったのだろうか。


 イルゼはこの皇城に自分を連れてきた青年カルカースのことを思い出す。確か彼は言っていた。母アラリエルはイルゼを出産する以前から心が弱くなっていたと。故郷を遠く離れてアドニスへと嫁ぎ、様々な心労をわずらっていたと。そういえば絵画の中の母は、どことなく物悲しげだ。


 と、年記の下の黒ずんだ部分に、更なる筆記があるのをイルゼは発見する。


 少年は隣の少女からランプを借りると、その部分に光を当てて目を凝らした。


「……アラリエル……セファン=エスティア……?」

「ああ――アラリエル様の、後宮に上がられる前のお名前ね。アラリエル様は小さいながらも長い歴史を持つ王国の王女でいらしたから。ここアドニスでも『亡国の得難き至宝』って称されるほどの美貌だったって――」

「亡国の?」


 イルゼはラートリーの言葉を聞き咎める。すると少女は一瞬「しまった」といったような表情を浮かべた。


「ラートリー……亡国って、どういう意味? それに確かエスティアは、十七年前に宗主国であるアドニスから離反をしようとして攻め滅ぼされた王国の名前じゃなかった?」


 イルゼの強い口調にラートリーは今までにない動揺を見せた。


「さ、さすがは勉強家のお兄様。アドニスの歴史年表は、すでに暗記されていらっしゃるのね」

「ラートリー、そんなことはどうでもいいから、質問に答えて」


 ニッコリと愛想笑いを浮かべる妹に対して、兄である少年は不穏な声音を向ける。


「ラートリーは僕のお母さんのことについて詳しいみたいだし、きっと何か知ってるんだろう?」

「そ、それは、その……」


 イルゼに詰め寄られてラートリーは口ごもる。


「それは?」

「ええと……あっ!」

「えっ?」


 突然、少女の張り上げた声に少年は驚いて身を跳ね上げらせる。次の瞬間、ラートリーは素早い身のこなしでイルゼの横をすり抜けた。


「お兄様、もう戻りましょ! 私、すっごく大切な急用を思い出しちゃったから!」


 まんまとイルゼの追求から逃げ出したラートリーは、さっさと部屋の外へと姿を消す。


「ちょっ……ラートリー!」


 イルゼは慌てて少女を追おうとしたが、床に置いたままのランプに気がつき、少し煩わしい気分でそれを手に取る。そして今一度、淡い光に浮かび上がった母の肖像画を見つめた。


(……お母さん――)


 あまりにも若過ぎる母をイルゼは心の中で呼んでみる。


「お兄様ったら早く! 考えたら私、明かりがないと帰れないのよっ」


 ラートリーが焦れたように暗闇の向こうから叫ぶ。


「……もう」


 感傷的な気分をぶち壊され、イルゼは溜め息をついた。そして、母の肖像画をそっと棚に戻す。


(また、見にこよう)


 イルゼは心に決めて、その場から立ち上がった。

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