第35話 知る覚悟
「ああもう、なんて陰気で息苦しい部屋なのかしら!」
ラートリーは忌々しそうに声を上げると、つかつかと窓辺に歩み寄り、レースのカーテンをザッと掻き分けた。そして勢い良く窓を開け放つ。
すると途端、初秋の爽やかな風が室内に流れ込み、媚香の厭わしい残り香をさらっていった。
「それにしても兄様――それ、酷い顔ね」
ラートリーは振り向き、イルゼの腫れ上がった頬を見て顔をしかめた。
「ああ、これ……随分と思いきり殴られたから」
イルゼは酷い痛みを発し続ける頬に、そうっと手を当ててみた。手の平に伝わる感触から、これはかなり見苦しい状態になっているな、と思った。
「イヴェリッドお兄様がやったのよね、それ」
ラートリーは長椅子に座るイルゼの隣に腰を下ろし、見るのも痛いとばかりに渋面を作る。
「やっぱりもう少し、きちんと忠告をしておくべきだったわね。でも、なんていうか……正直に言ったところで信用なんかされないような気がしたし」
「まあ、そうだね……。実際、この身に起こった今でも信じられないくらいだもの」
イルゼは肩を竦めて小さく溜め息をついた。
「でも安心したわ。なんとか抵抗してくれてて。私、すっごく焦ったんだから。イルファード兄様がイヴェリッドに連れていかれたのを知ってね。このままじゃあ、兄様が変態の餌食にされちゃうわって」
ラートリーの明け透けな物言いは、相変わらずイルゼを困惑させる。しかし、そんな少年の戸惑いなど意にも介さず、少女は続ける。
「それにしてもやるじゃない、兄様。あのイヴェリッドを撃退するなんて」
……皮肉なことに、最後に自分の身を守れたのは、あれだけ使うのを嫌がっていた〈マナ〉のおかげだった。窮地に陥り、咄嗟に顕現できたのは、見覚えのある風の護りだった。以前、やはりあの時も窮地に陥り、同じ能力を持った少年と同調した時の感覚が身体に残っていたのかも知れない。
「奴にとっては相当な恐怖だったでしょうから、これからはもう兄様に手を出そうなんて思わないでしょうね」
そう言ってラートリーは愉快そうに笑う。そんな異母妹の無邪気さに、イルゼは複雑な気分になった。だから思わず「ラートリーはあんな奴が皇城をうろついてても平気なの?」と聞いてしまった。
少女は目を丸くする。イルゼは、しまった、余計なことを言った、と後悔した。
「……もしかして兄様――私のこと、イヴェリッドから聞いた?」
窺うようにラートリーから見つめられ、イルゼは一瞬、躊躇ったが、今更ごまかしようもないので正直に頷いた。
「あら、そうだったの……でも驚いたでしょ? あいつ、侍女や召使いだけじゃ飽き足らず、異母妹にまで手を出してるんだから。しかも最近じゃあ、どこからか見目の良い少年を連れ込んできては、いかがわしい真似をしているらしいの。以前なんて、お父様の妾妃を寝取ったのがばれて、危うく離宮に幽閉されそうになったのよ。だけど、その時はあいつの母方の貴族家が、その妾妃は皇王の命を狙う暗殺者だったなんて言いがかりをつけてね、早々に彼女を大陸外へと追放してしまったの。それで奴は難を逃れられたってわけ」
ラートリーは忌々しそうに呟くと、嫌な気分を振り払うようにして勢い良く立ち上がった。
「奴が異母妹に手を出し始めたのは、それ以降だったみたい。ただし、後ろ盾を持たないような妾妃の娘だけを狙うの。そうすれば逆らえる子なんていないに等しいから。反対に自分の立場を向上させようと目論んで、自ら身体を委ねる子達までいると聞くし……。そんな乱れた状態が許されるんだもの、あいつが増長しても仕方がない部分もあるのかも知れないわね」
イルゼに向けられたラートリーの背が、やり切れない想いで揺れたようだった。
「でも私は平気よ。だってイヴェリッドに襲われたのは三年も前の話だもの」
苦笑交じりに言いながら、ラートリーは振り返る。そんな異母妹の気丈さは、イルゼを慰めるどころか更に悲しくさせた。
「……ごめん、ラートリー……」
イルゼが呟くと、ラートリーは怪訝そうな表情を見せる。
「なんでイルファード兄様が謝るのよ?」
「だって――嫌だろう? こんなの、思い出すの。僕のせいで、思い出させてしまって……」
男のイルゼでさえ凄まじい恐怖と嫌悪を感じたのだから、この幼い少女が受けた傷はいかばかりか。それは想像を絶するに違いない。
ラートリーは、うなだれるイルゼを見て困った表情を浮かべた。
「まあ、確かに思い出すのは嫌だけど。でも未遂で済んだんだから、他の異母妹達に比べれば不幸中の幸いってところじゃない?」
「――えっ?」
イルゼの驚いた声に「あら、それは聞いてなかったの?」とラートリーは首を傾げた。
「そうよ、私、イヴェリッドごときに最後まで許してなんかいないんだから。つまり私は、今でも正真正銘の清らかな乙女ってわけよ」
ラートリーは何故だか偉そうに胸を張る。そんな少女をイルゼは呆気として見つめる。そして、程なくして、その言葉の意味を脳内に浸透させると、あまりのあけっぴろげさに唖然とするしかなかった。
どうもこの子には、恥じらいというものが少し足りないのではないだろうか――と、イルゼは疲労感をたっぷりに感じながらも、同時に心底、胸を撫で下ろしたのだった。
「なんなのよ、その嫌みったらしい盛大な溜め息は」
イルゼの長い溜め息にラートリーは不満そうに眉根を寄せる。
「いや、嫌みというよりも安心したんだよ。てっきり、その……勘違いをしていたから。それにしても、よくあの兄上から逃げ出せたね」
イルゼは頬の痛みを気にしつつも、イヴェリッドの執拗さを思い出しながら顔をしかめた。
「ああ、逃げ出せたっていうか――助けられたの、カルカースに」
「えっ、カルカース?」
「ええ、そうよ。ねえ、彼は今、どこにいるの? 兄様ならカルカースのこと、良くご存知でいらっしゃるのでしょう?」
期待に華やいだ少女の声に、イルゼは顔を曇らせて頭を振った。
「いや、ご存知も何も、一緒にいたのは数日間だけだよ。それにカルカースは僕を皇城に送り届けたその日に、また別の仕事でどこかへ行ってしまったみたいだし……」
「ええ? なんだ、そうなの? てっきりカルカースは兄様の専属にでもなったのかと思っていたわ」
ラートリーは拍子抜けしたように肩を落とした。
穏やかな容貌の中にどこか孤高の冷たさを含む青年――カルカースのことをイルゼは思い起こす。
彼は今まで知り得なかった事実をイルゼにもたらし、アドニスへの帰還を決心させた。カルカースはイルゼに優しかった。そしてイルゼのほうも理知的で穏やかな青年に好感を抱き、彼に対して頼りがいを感じていたのだ。しかし青年はそんなイルゼを「依存心の強い性格」と評し、突き放すような苦言を呈した。
それ以後、イルゼはカルカースと気まずい関係となってしまい、そのまま別れることになってしまったのだった。
「それなら見かけないはずね。せっかく近いうちに再会できるかと期待していたのに……」
ラートリーは心底、残念そうに呟く。
「カルカースは私をイヴェリッドから救ってくれた大恩人よ。あの時、彼に助けられていなかったらと思うと本当にゾッとするわ」
ラートリーがカルカースによってイヴェリッドの狼藉から救われたのは三年前。その頃のラートリーは三歳の時から預けられていた神殿から戻ったばかりで、皇城内部の異常な日常は一切、知らなかったのだという。ただ母クロレツィアからは、皇妃や妾妃の居住区である後宮――東の棟からは決して出ないよう、言いつけられてはいたそうだ。
「でも母様は皇妃として立たれたばかりでお忙しかったし、ロジーも元々、私と一緒に神殿にいた子だったから皇城での決まりごとを覚えようと必死だったし、しかも毎日のように口煩い教育係の女がしつこくつきまとってきて煩わしかったし――」
ラートリーはどこか言い訳じみたようにブチブチと呟いた。
かくして、この好奇心旺盛で勝手気ままな異母妹は、侍女ロジーの目を盗んでは東の棟から抜け出し、一人、皇城の散策を楽しんでいたというのだ。そしてたまたま、迷い込んだ西の棟で彼女はイヴェリッドと出会い、異母兄妹という親近感も手伝って親しくなっていったのだという。
「あの通り、イヴェリッドは見てくれだけはいいでしょう? それに優しかったし、大人だったし、異母とはいえ半分は血の繋がった兄だし……まさか、あんなことになるなんて普通は思わないじゃないの」
そう言ってラートリーは渋面になる。
それはイルゼも同感だし同様だ。イヴェリッドとの初対面で感じたのは多少の馴れ馴れしさくらいで、まさかあんな不埒な真似を強要されるとは思ってもみなかった。
ラートリーもイヴェリッドに一切の疑いを持つことはなかった。そしてある日、散歩をしないかと容易に人気のない庭に誘い出され、いきなりの暴挙に抵抗する間もなく引き倒されてしまったのだ。
「だけど私にのしかかっていたイヴェリッドの背後に、いつの間にかカルカースが立っていたの。そして、あいつの首に剣の切っ先を突きつけて『このまま速やかに立ち去るか、それとも力づくで切り伏せられるか、どちらかを選べ』って冷ややかに脅してね。そしたらイヴェリッドの奴、初めは威勢良く吠えてたけど、すぐにカルカースの迫力に負けて逃げ出していったわ」
その場面を思い出したのか、ラートリーは愉快そうに含み笑いをする。
「カルカースはそのあと、自分の外衣を私に貸してくれて、その上、抱きかかえて東の棟まで送ってくれたの。さりげない優しさと気遣いがあって、もうもうすっごく大人でカッコ良かったんだから!」
ラートリーは頬を上気させながら熱っぽく語る。どうやら彼女はカルカースに対して淡い憧憬の念を抱いているらしい。
「あのね、初めにイルファード兄様に興味を持ったのも、カルカースが長年、お父様から探すように命じられていた皇子だって聞いていたからよ。でも実際に会ってみたら、あんまりにも危なっかしい感じがしたから、ほうっておけなくなったんだけどね」
ラートリーは少しばかり鼻をそびやかして言う。イルゼは、そんな異母妹の、自分とカルカースとの扱いの差に少々憮然とする。
(そりゃ、カルカースさんは大人で頼りがいがあるだろうし、格好いいだろうけどさ)
なんとなくラートリーの件に関して思い悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えてきた。だが、なんにしても、この少し生意気な異母妹が取り返しのつかない傷を負わなくて良かった――とイルゼは心から思った。
「姫様、手当ての道具を持って参りましたわ」
水瓶と手水盥を手にしたロジーが部屋に戻ってくる。彼女はイルゼの傷を治療するために必要な道具を持ってきてくれたのだ。
「ああ、ありがとね、ロジー」
感謝を伝えるラートリーにロジーは微笑んで応じながらイルゼに近づいてくる。そして少年の顔を見るや否や「あらまあ」と驚愕の声を上げた。
「なんだか先程よりも一層、どす黒くなっていらっしゃるようなのですが……」
「そうなのよ、本当に酷い顔だわ」
ラートリーも同意して顔をしかめる。イルゼは二人の少女達から口々に言われ、少々居た堪れなくなった。
「とにかく少しでも冷やしたほうがよろしいですわね」
ロジーは言うなり、持参した手水盥を卓上に置くと、そこに向かって水瓶の水を注ぎ込む。そして、その水に清潔な布を浸した。
「頬には湿布をお貼りいたしましょうね。きっと今夜は熱を持って疼くでしょうが、少しはお楽なはずですわ。今すぐに塗布薬をお作りいたします。それまでは、こちらを頬に当てていてください」
てきぱきとした口調で言いながら、ロジーは水に浸しておいた布をしっかりと絞ると、それをイルゼに差し出した。
「ありがとう」
イルゼは礼を言い、言われた通りにそれを患部にあてた。腫れ上がった頬に冷たさが鋭く染みて、イルゼは思わず顔をしかめる。
ロジーは手早く湿布用の塗布薬を作る用意を始める。その様子を何気なくイルゼが眺めていると「兄様、それ、痛いのよね?」とラートリーが聞いてきた。
「そりゃ痛いに決まってるよ」
イルゼは当たり前じゃないかとばかりに唇を尖らせる。ラートリーの質問は聞くまでもないことだ。何せイルゼの頬は顔の輪郭が変形するほどに腫れ上がっているのだから。
「ううん、そうよねぇ……それに、そんな顔じゃあ、母様も驚かれるわ」
「母様って……クロレツィア様?」
何故、そこで彼女が出てくるのかをイルゼが疑問に思っていると、
「ロジー、もう湿布はいらないわ」
「えっ?」
ラートリーの言葉に驚いたのはイルゼだ。痛い、と答えているのに、湿布がいらないとはどういうことか。
「ですが、姫様」
ロジーも戸惑ったようにラートリーを見る。
「いいからあなたは下がっていなさい」
幼いながらも、さすがは生まれながらの皇族というべきか。イルゼには到底出せそうにない威厳のある声音でラートリーはロジーを退けた。
「ラートリー?」
「兄様、ちょっとこっちを向いてくれる?」
ラートリーは怪訝そうに眉根を寄せるイルゼに呼びかけ、自らも少年に身体を向ける。
イルゼには何がなんだか理解ができない。だが思いのほか少女の表情が真剣なものだったので、イルゼは彼女の要望通りにした。
と、ラートリーの右手がイルゼの腫れ上がった頬へと無造作に触れる。
「ッ!?」
予告のない少女の行動はイルゼを驚かせ、痛みに身体を跳ね上げさせた。
「ちょ、ちょっと、ラートリー! 一体、何を――」
痛みに顔を歪めながら非難の声をイルゼが出すと、
「兄様、ちょっと黙ってて。集中できないから」
ピシャリとラートリーに撥ねつけられる。
イルゼは仕方なしに口を閉じた。彼女が何をしようとしているのかは全く見当がつかなかったが、ここは黙って従ったほうが得策だと判断したのだ。
イルゼの頬に手を当てたまま、ラートリーは双眸を伏せる。そうして暫くの間、イルゼとラートリーは身動き一つせずに沈黙の時を過ごした。
開け放った窓から、甲高いヒヨドリの声が聞こえてきた。緩やかな風が室内の空気を揺らして密やかな音を鳴らす。それは呼吸さえも憚りそうな、静かな時間――
(……確か以前にも、こんなことがあったような……)
ぼんやりとイルゼが憶えのある感覚を思い起こそうとしていた時、
「はい、終わり」
ラートリーの黒い瞳が見開かれ、イルゼの頬に添えられていた彼女の手が下ろされる。
「姫様……」
それまで事の成り行きを見守っていたロジーが憂い顔でラートリーに歩み寄る。
「大丈夫よ、ロジー。久々だったから、ちょっと疲れたけど」
ロジーの心配を解消するかの如く、ラートリーはニッコリと微笑んでみせた。
「……ラートリー、今のは?」
どうもイルゼ一人が状況を把握できていない気がする。
「そこ、もう痛くないでしょ?」
「え?」
イルゼは自身の頬を指で示すラートリーを見、それからおもむろに自分の頬に手を当ててみた。
そこでイルゼは驚いた。手の平に当たる頬の感触が先程まではパンパンだったのに対し、今ではすっかりと元通りになっていたのだ。つまり、イヴェリッドに殴られたあとが跡形もなく消えたのだった。
「ラートリー、これは――」
「これが私の持つ能力。私は〈マナ〉を治癒力として顕現できるの。こういう能力の現れ方は四大皇国の皇族達の中でも珍しいみたい。とはいっても、大した怪我を治せるわけじゃないけれどね」
ラートリーはイルゼの受けている衝撃など気にもとめていない様子で言った。
「でもラートリー。君は以前に力なんか持っていないって言ってなかった?」
イルゼは少女と出会った日、彼女にも自分と同じ能力はあるのかと訊ねたのだ。するとラートリーは、はっきりと「ない」と答えたはずだった。
「ああ、それは――母様からね、力のことは誰にも言ってはいけないって、きつく言われているから」
ラートリーは嘘をついたことへの後ろめたさからか、少しばかり肩を竦める。
「母様は私が〈マナ〉を使えるってことを皆に知られたくないのよ。私が三歳の時から六年間、皇城の外で育てられていたのもきっとそのせい。私に対して色々なしがらみが出てくるのを嫌ったのでしょうね」
また本来ならばラートリーは、他の異母兄弟姉妹と同様に、西の棟で部屋を持って暮らすことになっていたという。しかし少女の母クロレツィアは、それを拒む形でラートリーを神殿に預けたのだった。
「今は母様が皇妃の立場であり、その恩恵を受ける形で私も東の棟に部屋を持っているけれど。じゃなきゃ、成人まで皇城に戻ることはなかったでしょうね」
ラートリーの説明にイルゼは納得をする。そして少年自身も力を持って生まれたばかりに、生後間もない赤子の身で命を狙われるはめになったことを思い出す。
「だから私が〈マナ〉を扱えるのを知っているのは、母様とロジーと私を預かって育ててくれた神殿の司祭様だけなの。それと今はイルファード兄様ね。そういうことだから絶対に誰にも言わないでちょうだいよ。バレたら大事になっちゃうんだから」
それは大事どころか他に知られようものならば、彼女の一生をも左右しかねないだろう。にも関わらず、それを打ち明けてくれたということは、イルゼを少なからず信頼してくれているのだ。それは単に、同じ力を持つ者同士の連帯感かも知れないが、イルゼは素直に嬉しいと思った。
「分かった、誰にも言わない。約束するよ」
イルゼは心から誓って頷く。それを見たラートリーは安心したかのような笑みを浮かべた。
「だったら兄様には母様と会わせてあげる」
ラートリーの言葉にイルゼは目を丸くした。
「え、でもクロレツィア様は今の時期、お忙しくていらっしゃるんだろう?」
「ええ、そうなんだけど――実は私、今日これから母様とお会いする約束があるの。だからそこに兄様も連れていってあげるわ」
「えっ、本当!?」
ラートリーからの思いがけない申し出に、イルゼは思わず喜びを露わにする。
クロレツィアはイルゼの母アラリエルと親しかったと聞く。ならばきっと彼女から詳しい母の話が聞けるに違いない。だが――
(そこに聞いて良かったと思える話などあるのだろうか)
イルゼはふと思った。
イルゼの母アラリエルはアドニスに攻め滅ぼされた国の王女であり、強制的に実父の妾妃に召し上げられたのだとイヴェリッドは言っていた。そして、このアドニスにおいては『奴隷同然の立場』だったとも――
それが本当のことであったのならば、そんな母の話を聞いたところで自分は辛い思いをするだけかも知れない。
「兄様?」
喜びから一転、眉根を寄せて黙り込んだイルゼをラートリーは不安そうに窺う。
「もしも兄様の都合が悪いようであれば、また時期を改めてということになるけれど――どうする?」
「いや、お会いするよ」
不安を振り切るようにしてイルゼはきっぱりと答えた。
正直、母アラリエルの話をクロレツィアから聞くことにイルゼは恐怖を感じる。彼女の口から語られるものは信憑性の欠けるイヴェリッドの話とは重みが違う。それはきっと聞いてしまったが最後、一生抜けることのない刺となってイルゼの中に存在し続けるだろう。
だが、それでも――
(それが真実であるというのならば、僕は全てを知るべきだ)
イルゼはそう思ったのだった。
イルゼとラートリーの二人は、クロレツィアが待つという温室に向かって庭を歩いていた。
「この先の温室は母様お気に入りの場所なのよ。そこでお茶をご一緒するお約束なの」
ラートリーは上機嫌でイルゼを振り返る。ここ数週間、クロレツィアは地方視察に出かけていたため、母娘がまみえるのは久方ぶりのことなのだという。
「でも、そんなところに僕が伺って、クロレツィア様はご気分を悪くされないかな?」
「大丈夫よ、そんなことで母様は目くじらを立てないわ。それに母様だって兄様と会ってみたいと考えていらっしゃるはずよ。――ふふっ、きっといきなり連れていったら吃驚するわね」
イルゼの不安にもラートリーは楽しげな含み笑いをもらす。イルゼは吃驚なだけで済むのならいいけれど、と肩を竦めた。
「ああ、ほら見えてきたわ。あれが温室」
ラートリーが指さした先には、陽光でキラキラと輝く硝子張りの建物が見えた。それは円蓋型の洒落た意匠の温室で、冬を控えた今の時期には目に眩しい色鮮やかな植物を内側に閉じ込めている。
そこにイルゼ達が近づいていくと、警備に当たっていた二人の近衛騎士が警戒したように温室の入り口を儀仗で阻んだ。そんな彼らを見て取ると、ラートリーは穏やかに微笑んだ。
「いつもご苦労様。母様はいらっしゃっているかしら?」
「ラートリー様」
近衛騎士の一人が少女を見てすぐに破顔する。
「ええ、つい先程、こちらへおいでになりました。ラートリー様とお会いされるのを楽しみにしていっらっしゃいましたよ」
そう言って一度は儀仗をのけようとしたのだが――
「あの、そちらの御方は?」
困惑気味でイルゼを見、その動作を止めた。
「ああ、こちら、つい最近に皇城へ上がられたイルファードお兄様。いきなりだったから予定にはなかったのだけれど、母様にお会いしたいってことだったからお連れしたのよ」
ラートリーの説明に近衛騎士達のイルゼを見る目が興味深そうな色を帯びる。まさに「これが、あの?」といったような珍獣でも見る目つきだ。皇城にきてから幾度となく少年に注がれてきた類の視線であり、当初は不快にも思えたが今ではすっかりと慣れてしまった。
「お兄様を中にお連れしてもいいわよね?」
ラートリーは気軽に確認したが、近衛騎士達の浮かべた表情は対照的なものだった。
「クロレツィア様へのお窺いなしでは、いくらラートリー様のお頼みであろうとも……」
「大丈夫よ。母様には私からご説明をするから」
にべもなく切り返すラートリーに近衛騎士達は困りきった表情を浮かべる。やはり許可しがたいといったような雰囲気だ。
しかしラートリーが「ね、お願いよ。私、どうしても兄様を母様に会わせてあげたいの」などと可愛らしい仕草と声音でねだり続けると、最終的には根負けした形で、彼らはその儀仗をしりぞけることになった。
「……このようなことは本来、許されない行為なのですよ。上に伝われば私達がお叱りを受けてしまいます」
「ええ、分かってる。感謝するわ、二人とも。今度からはきちんと事前に許可を申請するから。ありがとうね」
ラートリーは極上の笑顔を彼らに向けてから温室内に続く通路へと足を踏み入れる。それにイルゼも恐縮しながらあとに続く。
「なんだか無理やりって感じだったけれど本当に大丈夫かな」
イルゼは、自分達を渋面で見送る近衛騎士達を振り返りながら言った。
今更ではあったが、何か大それたことをしでかしているようで気が気ではない。確かに本来ならば、クロレツィアに前もって接見という形を希望するのが筋なのだから。
「大丈夫よ、私がついてるんだから。心配性ねぇ、兄様って」
ラートリーは全く平然とした様子で歩を進める。
温室の中へ入ると、そこは外との温度差がはっきりとしていた。
(……あったかい――)
イルゼは常夏のような空気に満ちた空間を見渡す。
深い緑の葉を茂らせた木々と精彩に咲き誇る花々。それらが硝子板の向こうから降り注ぐ淡い陽光に輝いている。どこか遠くから甲高い動物の声が耳に届く。
まるで暖かい地域の森林を切り取って硝子の入れ物に閉じ込めたようだ、とイルゼは思った。
「こっちよ」
ラートリーに誘われて木々の合間を進んでいくと、イルゼは少し広まった場所で東屋を目にする。その中では黒髪の貴婦人が一人、ゆったりとくつろぎ、周囲の鮮やかな風景を鑑賞しているのが見えた。
「母様!」
ラートリーが嬉々として声を上げ、そこに向かって走り出す。すると黒髪の貴婦人がこちらを向いて立ち上がった。遠目からもその姿と所作は優雅で上品だ。ラートリーを迎えるようにして東屋から降りてくる。
「母様、お帰りなさい!」
ラートリーは貴婦人の広げた腕の中に飛び込んだ。
「ただいま、ラートリー。元気そうで何よりだわ」
貴婦人は微笑み、自分と同じ黒髪を持つ少女を優しく抱きとめる。
と、貴婦人の黒い双眸が、少し離れた場所に立っていたイルゼへと向けられた。瞬間、その瞳が軽く瞬き、次には驚愕で大きく見開かれた。
「あなたは……」
貴婦人が洩らした呟きに、ラートリーが彼女の胸から顔を上げる。そして思い出したかのようにイルゼを振り返った。
「ああ、あのね母様、こちら――」
「ええ、分かっています。あなたがイルファード皇子ですね?」
貴婦人はラートリーを身体から離すとイルゼに向き直る。それにイルゼは「はい」と答えて頷いた。
「お約束もなく突然に参上したご無礼、どうかお許しください。僕は貴女にどうしても母のことを窺いたいと思い、こうしてここに参りました」
イルゼは恭しく頭を垂れた。この美しく聡明な女性の前では自然と敬意を表せることができた。
「……確かに私は、あなたの生母であられるアラリエル様のことを良く存じ上げております。当時、お互いに妾妃という立場で、おかしなものと思われるかもしれませんが、あの頃、私達は仲の良い友人同士でした」
黒髪の貴婦人は、どこか思いを馳せるような瞳でイルゼを見つめる。
「ですが私があなたにお教えできるのは、この目に映った有りの儘の出来事のみ。そこに伴うはずのアラリエル様のご心中までは私にも計り知れないものでした。それゆえに私が伝える事実は、あなたにとって残酷なものでしかないでしょう。そして、それはきっと、あなたに答えのない問いをもたらし続けることになります」
黒髪の貴婦人――クロレツィアは改めてイルゼを真っ直ぐに見つめる。
「事実と真実は異なるもの。あなたはそれを理解しているのでしょうか。そして、それでもなお、あなたは知ろうというのですか?」
クロレツィアの揺るぎない双眸を受けてイルゼは怯んだように息を飲んだ。だが、すぐに表情を改めて強く頷いた。
「……分かりました。あなたにも強い覚悟がおありなのでしょう。ならばお話しいたしましょう」
そう言ってクロレツィアは静かに目を伏せた。
のちになって少年は、黒髪の女性の前置きが自分に向けられた紛れもない警告であったのだと思い知ることになる。
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