第三章

第26話 カルカース

(――……ええと?)


 イルゼは心の中で首を傾げた。意識は完全に回復したが、自分の状況が全く掴めなかったからだ。


 何せ瞼を開けても真っ暗、声を出そうとしても息苦しくて出せない。加えて、手足も思うように動かせない――いや、それどころか、全身の動きを完全に封じられているようだった。


(……もしかして僕――攫われた?)


 自身で導き出した結論に、イルゼは暫し衝撃を受けて茫然とする。その答えに至った理由は、自分の身に起こった出来事を思い出したからだ。


 あの時、イルゼはセレファンスの剣を捜すために一人、化け物との死闘が繰り広げられた場所に戻っていった。するとそこは、すでに全てが片づけられたあとで、あの騒動が嘘のように何も残っていなかった。ただ、その辺りは随分と水浸しになっており――恐らく、化け物の体液を洗い流すために大量の水がまかれたのだろう――その濡れた石畳が周囲の灯火をぼんやりと映し出していて、どこか幻想的な光景を作り出していた。


 そんな空虚でひんやりとした空気の中をイルゼは一人で歩いた。まだ倉庫内の点検が続いているのか、遠くからは人の呼びかけや物音が聞こえてきていた。


(……やっぱり、誰かが持ち去ってしまったんだろうか)


 捜しても見つからない剣を思ってイルゼは小さく溜め息をつき、確認をとるようにして再度、辺りを見回してみたが、それでもやはり彼の捜し物は見つからなかったのだ。


(だったら、倉庫側にいる人達に訊ねるか、頼んでおいたほうが話は早いかも知れないな……)


 そう思ってイルゼが踵を返そうとした時である。「何か捜し物かい?」と人懐っこく声をかけてきた人物がいた。

 振り返った先にいたのは、見知らぬ一人の青年――しかもツワルファ族だった。それを認識した途端、イルゼは思わず身構えたが、考えてみると、すでに事件は終結したのだ。それにツワルファ族は自分達を危機から救ってくれた恩人でもある。


 イルゼは自分の態度をあるまじきものとして心の中で恥じながら、青年に事情を説明した。


「ああ、ここに転がっていた――その剣なら知ってるよ」

「えっ、本当ですか?」

「ああ。さっき、向こうにいるウラジミールの人間が持っていくのを見たからね」


 青年の言葉にイルゼは「良かった、じゃあすぐに聞いてみますね」と喜び、彼に礼を言ってその場から立ち去ろうとしたのだが、


「そうだ、どうせだからそこまで一緒に行ってあげよう。俺は剣を持っていった人の顔を覚えてるから、すぐに目的の人物を教えてあげることができるし」


 イルゼもそれはそうだと納得し、青年の申し出を有り難く受け入れたのだ。

 そのあとは敵もさぞかし拍子抜けしたことだろう。標的となったイルゼは少しの疑いもなくヒョコヒョコとあとをついてきたのだから。

 青年はイルゼに「こっちのほうが近道なんだ」と説明して薄暗い路地へと誘った。そして青年は無防備だったイルゼの鳩尾にきつい一発を食らわせ、少年の意識を呆気なく暗転させたのだった。


(……情けない)


 そこまでを思い出し、イルゼは自己嫌悪に陥った。


 油断が隙を生んだのは間違いない。だが全く抵抗もできずに気を失うなんて情けないにも程がある。


(それにしても何故、僕が誘拐みたいなことをされたんだ? まだ、セレなら分かるけど……)


 もっともセレファンスならば、ここまであっさりと見事に捕まりはしないだろうけれど。


(とにかく、どうにかしてここから逃げ出さないと)


 イルゼはセレファンスの怒った顔を想像しながら気概を奮い立たせる。きっとあの金髪の少年は「注意力が足りないから、そんなことになるんだ」とイルゼを猛然と叱るに違いないのだから。


 イルゼはできる限り、身体を動かそうと試みてみる。しかし、ガタガタと床がなるばかりで、一向に自由になれそうもない。

 どうやら自分は椅子に座らされていて、その背もたれに縄で頑丈に括りつけられているようだった。身体中の至る部位では縄がきつく食い込み、鈍い痛みと痺れを伴っている。ついでに背もたれの裏に回された両腕は手首で縛られ、両足は膝と足首でしっかりと固定されていた。更には背後に太い柱の存在を感じ、そこに椅子もろとも全身が括りつけられているようだった。


(……これだけ頑丈にされてたら、自分で解くのは到底、無理だ。助けを呼ぼうにも声は出せないし――)


 口には猿ぐつわを噛まされ、その上に帯が巻かれているため、叫んでも小さな唸り声程度にしかならないのだ。今の状態では口で息さえもできない。


(でも、どうやら見張りはいないようだな……)


 双眸にも目隠しがなされており、布ごしからの感覚ではあったが、周囲に明かりの存在がないことだけは分かった。同時に人の気配もない。


(まあ、だからこそ、こんながんじがらめに縛りつけたんだろうけど……)


 イルゼは心の中で溜め息をついた。実際には、それさえもままならない身なのが悔しい。


(どうしよう、なんでこんなことになっちゃったんだろう? 僕にはツワルファの人達に捕まる理由なんてないのに。このままじゃあ、セレ達に迷惑が――)


 と、そこで、イルゼの耳に小さな物音が届く。突然の変動にイルゼは身構える。


(誰か……くる……?)


 良く良く耳を済ませると、それは足音のようだった。人数は、どうやら二人だ。

 暫くすると、それらの足音が近くで止まった。そして、ギィと扉の開く音。


(誰か、ここの部屋に入ってきた……!)


 イルゼは恐怖に身を震わせた。この状態では何をされても抵抗ができない。有無を言わさず殺されるかも知れない。いや、それよりも、酷い拷問で死よりも苦しむことになるかも知れない。それともまさかとは思うが、セオリムの村の時のように、あらぬ欲望の捌け口として見られているのでは――


 いずれにしても、とんでもないことだとイルゼは慄然とした。問答無用でさらい、こんな状態で拘束するなど、どう考えても異常なことなのだ。


 焦るイルゼの耳に扉の閉まる音が聞こえてきた。そして、遠ざかっていく足音。


 一瞬、イルゼは光明を見出したが、すぐ傍で床を鳴らす足音を聞き、いまだ恐怖が近くにとどまっていることを知った。


(こっちにくる……!)


 その人数は一人。感情の窺い知れない足取りで、イルゼに向かって真っ直ぐに近づいてくる。


 その足音はイルゼの目の前で止まった。目隠しの布ごしに、イルゼの鼻先を行き交う橙色の明かりが感じられる。どうやら目の前の人物は、慎重にイルゼを窺っている様子だ。

 と、頬の辺りに人の指先が触れ、イルゼは反射的に身を震わせる。すると目の前の人物はイルゼの抱く恐怖心を感じ取ったのか、その動作を止めた。


「……これ以上、君に手荒な真似をするつもりはないよ」


 その声は穏やかで深みのある男のものだった。若い、というほど若くもないが、壮年という年代のものではない。恐らく三十代かそこらの人物だろう。


「君を怯えさせるような真似をして申し訳なかった。だが、こうでもしなければ、君にとって大事な話をする機会が得られないと思ってね」

(……大事な、話……?)


 イルゼは眉を顰めた。相変わらず緊張は解けなかったが、恐怖は幾分か柔らいでいた。それは思ったよりも目の前の人物が理知的な声の持ち主だったからだろう。少なくとも、ここでいきなり酷い目に合わされる心配はないように思えた。


「今、拘束を解いてあげよう。ただし、騒いだり暴れたりしないこと。それさえ守ってくれるのであれば、乱暴なことは一切しないと約束しよう」


 男の声はあくまで冷静で穏やかだ。だが、そこには逆らいがたい警告が含まれている。

 無理やりこのような場所に連れてきておきながら、暴れるなとは随分と手前勝手な注文だったが、ここで抵抗しても始まらない。イルゼは渋々ながらに頷いた。


「いい子だ」


 目の前の男は不満げな子供を宥めるようにして囁いた。


 男は手早くイルゼになされた拘束を解いていく。まずは足、身体、両腕、そして猿ぐつわ。それが外された時、イルゼは思わず大きく深呼吸をした。


 そして最後に残った目隠しが解かれ、ぼんやりと周囲が明らかになった。


 イルゼは何度か目をしばたかせる。長らく眼球を圧迫されていたせいか、視力が回復するのに時間がかかったのだ。


 まず、目に入ったのがランプの明かり。そして、自分をさらった犯人のものである衣服。それをたどるようにしてイルゼがそろそろと振り仰ぐと、そこには目を見開いて自分を見下ろす男の顔があった。


「……?」


 イルゼは怪訝に眉を顰めた。目にした男の表情が、何かに驚きを隠せないようだったからだ。


「あの……?」


 イルゼは男の視線に耐えかねて声をかける。


「……ああ、いや、すまない」


 イルゼの声に男は我に返った様子でぎこちなく微笑んだ。


「あまりにも君が、私の見知っている御方と似ていたものでね。正直、ここまで似ているとは思っていなかった……」


 男はイルゼを凝視したまま、呟いた。その語尾は独白のようで、嘆息交じりに響いて消えた。


「僕と似ている人って――」


 イルゼは何故か胸騒ぎを覚える。自分とそっくりな人。初対面の者が驚くほどに。それは何か、とても特別なことを意味しているのではないだろうか――


 そんなイルゼの想いを汲み取るようにして男は続けた。


「君は、その人に良く似ている。容貌はさることながら雰囲気もね。その御方は、君の母君である女性だよ」


 イルゼは息を飲んで男を見た。男の表情は真摯なものだった。


「あ、あの、それって……? 母親って、僕の本当の母親のことを言っているんですかっ?」


 イルゼの取り乱したような確認に、男は落ち着いた様子で「ああ」と頷いた。


「なんで、なんであなたがそんなことを……!?」


 イルゼは攫われた身の上であることなど忘れ去って、目の前の男に詰めよった。そんな少年を男は柔らかく押しとどめると、


「私がツワルファの青年に頼んで、ここに君を連れてきてもらった理由は、そのことについて君に話さなければならないことがあったからだよ」

「母のことで、ですか……?」

「ああ、そうだ。私は、そのために君と一対一で話をしたかった。だが、君の周りにはいつも金色の髪をした少年とお付きの女性がいるだろう? 彼らは私のような素性の知れない者を君に近づけさせたりはしないだろう。だが、かといって、この話は私がお仕えする御方から託された極秘のものだ。君以外の耳に、おいそれと入れるわけにはいかなかった。だからどうか、私の無礼を許して欲しい」

「いえ、それはいいんです。それよりも何故、あなたが僕の母親のことを知っているんです? それに、どうして僕のことを? あなたは本当に僕の母を知っているんですか……っ?」


 イルゼが待ちきれないといったように問い詰めると、男は再度、それをとどめるようにして少年の両肩に手を置いた。


「その前に、まずは落ちついて話のできる場所に移ろう。話は長くなるだろうからね」


 そう言って男は穏やかに微笑んだ。




 イルゼが通された場所は、向かい合わせの応接用の椅子と卓上が中央に設置された狭くもないが広くもない部屋だった。灯火台は一つのみで室内は薄暗い。


「今、飲み物を用意させよう」


 そう言って男は壁際に垂れ下がっていた呼び鈴の紐を引く。すると、然程もしないうちに年老いた女中が現れ、しずしずと薄明かりの中で午後の茶会ならぬ午前真夜中の茶の用意を始める。


 ここに向かう途中、通った廊下の窓からは、暗闇に映えるウラジミールの街が見えた。イルゼが男に自分が連れ去られてからどのくらいの時が経っているのかを訊ねると、大体二刻ほどだと教えてくれた。自分が行方知れずになってから一日も経っていないことを知り、イルゼは安堵した。


 窓の外の様子からして、まだまだ朝は遠いようだったので、この男の話を聞いたあとからでも十分に朝方までには帰れるだろうとイルゼは考えた。


 窓から見えた風景から察するに、どうやらここはグリュワードの邸宅からそう遠くはない場所にあるようだった。できることならば一度、自分の無事を知らせに戻りたいくらいだったが、恐らく男は許可を与えてはくれないだろう。


 きっとセレファンスらは自分のことを心配してくれているに違いない。だが母の話を聞ける機会を失うことは避けたかったし、何よりもその内容を早く知りたかった。結局イルゼは、その誘惑に打ち勝つことができなかったのだった。


「ここは、あなたのお屋敷なんですか?」


 茶の支度を終えて、部屋を退出していった女中を見送ってからイルゼは訊ねる。


「いや、私はそんな大層な身の上ではないよ。ここは私の知人の邸宅でね。だが、ここは別宅なので今は管理を務める執事と数名の女中しかいない。ここなら誰にも邪魔されず、君とゆっくり話ができると思い、一時的に借用をお願いしたんだ」


 そう答えた男は「まずは座るといい」と言ってイルゼを見るからに弾力性の富んだ椅子にいざなった。


 イルゼは慎重に椅子へと腰を下ろし、その感触に嘆息する。その椅子は見た目通り、柔らかくて心地の良いものだった。先程まで拘束されて座らされていた椅子とは大違いだ。


「飲みなさい」


 男の手ずからそそがれた紅茶がイルゼの前に置かれた。


「気分が落ち着くだろう。甘い菓子もある」


 そこでイルゼは一瞬、不用意に出された飲食物を口にすべきではないのではと思った。しかし、その態度はこれから話を聞こうとしている相手に失礼なものであり、目の前の男は信用に値するようにも感じ始めていたので、素直に好意を受け取ることにした。


 温かい紅茶を飲み、上品な焼き菓子をつまんで口に運びながら、イルゼはそっと男を観察する。


 穏やかに自分を見る双眸。薄く日に焼けた端正な顔立ち。こざっぱりとした装いと上品な所作。決して卑しい身分の者ではないとイルゼの目から見ても明らかだった。


「あの……母のことを教えてくれませんか? あなたは一体……」


 イルゼが思いを決めたようにして問いかけると、男のほうも了解したように頷いて表情を改める。


「私の名はカルカース=ルヴァズ=ヴィンクラー。先程も言った通り、私は私のお仕えする御方からの命によって君の元へと参上した。その御方とは、東皇国アドニス皇王ディオニセス=トゥール=ヴル=アドニス陛下。君の母君アラリエル様は、その妃であらせられる」


 あまりにも突拍子もないことを淀みなく告げられ、イルゼは呆けた表情で男――カルカースを見た。


 告げられたことに対して句の継げない少年にカルカースは苦笑する。


「確かに、いきなりこのようなことを言われても信じられないのは無理もないだろう。だが、そこに嘘偽りはないよ。君は、ディオニセス陛下とアラリエル様の血を受け継ぐ正統なるアドニス皇族だ。もしも私の身分を疑っているのなら、ここに陛下からくだされた勅令書もある」


 そう言ってカルカースは卓上に一枚の羊皮紙を広げた。そこには第一級の任務をカルカースに命じるといった内容が記述されており、上部中央には雄々しい大鷹を配した国章が見受けられ、洗練された署名の横には仰々しい押印がいくつもなされていた。


 真贋はさておき、取りあえず見た目には、とてつもない権力が凝縮されている代物のようにイルゼには思えた。


「あの、つまり……僕の父親はアドニスの皇王様で、母はその方のお妃様で、僕は皇族だって言うんですか?」


 イルゼは途方に暮れた状態で男の告げたことを反芻する。すると男は「ああ、そうだよ」と確かに頷いた。


 本来ならば、ここで喜ぶべきなのだろうか――とイルゼは思った。何せ長いこと求めていた両親の行方だ。しかも養父の死と共に失われてしまったはずの自身の出生話が知れるのだ。

 だが、真実として告げられた話は、あまりにも許容し得る範囲を超えていた。


「……証拠はあるんですか?」

「証拠?」


 やっと絞り出したイルゼの声に、カルカースは意外そうな表情を見せた。


「そうです。だって単なる人違いかも知れないでしょう? 大体、証拠がなければ、いきなり君は皇族だなんて言われても、そんな突飛なこと、信じられるわけがない」


 挑発的にイルゼが言い放つと、カルカースはおもむろにクスクスと笑い始めた。


「驚いた。思ったよりも慎重なものの考え方をするんだね。てっきり、疑うことを知らない素直な子かと思っていたよ。ツワルファ族の青年の嘘を簡単に飲み込んだ人物とは思えない」


 子供扱いに加えて、何気に皮肉を言われてイルゼはムッとする。それに反論しようと口を開きかけた途端、カルカースは言った。


「証拠はあるよ。揺るぎのない確かなね」

「……どこに?」

「君が持つ特異な能力。〈マナ〉を顕現して扱える不思議な力。それが証拠だ」


 イルゼは息をのんだ。それにカルカースは更に続ける。


「それはアドニス皇族に稀として現れる能力だ。古来より受け継がれる高貴な血のみがなせる業。それ以上の証拠はないだろう?」


 カルカースの指摘にイルゼは唖然とする。確かに自分には人とは違う力がある。


「――あ、でも!」


 イルゼは思い出したかのように声を上げた。


「セレも――ええと、僕の……友人なんですけど、彼も僕と同じような能力を持っているんです。だから別に皇族じゃなくたって、そういう力を持つ人はいるんじゃあ……」


 きっと自分も、そういった一人に違いない。セレファンスのように特異な家系の出であれば、捨て子になどならなかったように思う。だからきっと自分は、なんの因果か、力とは無縁の両親の元に生を受けたのだ。そして、彼らは変わった能力を有するイルゼを捨てた。それを不憫に思ったのがダグラスという男だ。彼は赤子だったイルゼを拾い、深い愛情でもって育てていったのだ――……


 イルゼは自分の人生に生じた空白をこのような憶測で埋めていた。欠けた部分を塗り込めて補うように。今のイルゼにとって、そんな根拠のない空想は半ば真実に等しい重みを持っていた。


「……まあ、君にだって今までの人生と価値観があるだろう。いきなり思いがけない事実を突きつけられて、すぐに受け入れられるものではあるまい。だが私は、君がアラリエル様の御子であると確信しているよ」


 そう言ってカルカースは柔和に微笑んだ。


「アラリエル様は美姫と名高い本当にお美しい御方だった。光り輝く青銀色の髪と瞳の……。私が君を見て驚いたのは、君が彼女と、とても良く似ていたからだよ」


 イルゼは表情に困る。見たこともない母に、しかも美しいと評判だったらしい人と似ていると言われ、気恥ずかしいような妙な気分だった。


「きっとディオニセス陛下は、アラリエル様の面影を持つ君を見てお喜びになることだろう。君の父君は、ずっと長い間、君を捜し続けていたのだから」

「ずっと捜し続けていたって……父と母は、僕を捨てたんじゃないんですか?」


 イルゼの言葉にカルカースは大きく目を見開き「まさか、とんでもない」と否定した。


「君が生まれたばかりの時、君を巡ったある陰謀が発覚してね。そのためにディオニセス陛下は赤子だった君を手放して遠くに預けなければならなくなったんだ。それはとても辛い選択だった。だから決してご両親は君を捨てたわけではないよ。だが予測のできなかった誤算が生じ、途中から君の行方が分からなくなってしまった……。その時、どれだけディオニセス陛下が嘆き哀しまれたことか。そして今回、やっと私は君を見つけ出すことができた」


 カルカースはイルゼを感慨深げに見つめる。


「……じゃあ、僕は――望めば、本当の両親に会いに行くことができますか?」


 イルゼは緊張した面持ちでカルカースに問うた。それはまるで夢物語のようだとイルゼは思う。だが、カルカースは現実のものとして頷いた。


「ああ、もちろんだ。ディオニセス陛下は長い間、君との再会を待ち望んでいらっしゃっるのだから。ただ、アラリエル様は――君の母君は……」


 その時、カルカースの声音と同様、イルゼの心がやおら暗雲とする。カルカースは一度、言いかねるようにして言葉を切り、再度、仕切り直して先を続けた。


「君の母君アラリエル様は、すでに亡くなられているんだ。君を産み落とされてから間もない頃のことだったと聞く」

「僕を産んで……すぐに?」


 イルゼが呟くとカルカースは無言で頷いた。


「もしかして、僕を産んだせいで?」


 イルゼの茫然とした呟きに、カルカースは軽く目を見張った。


「――いいや……」


 吐息のように言って、カルカースは労るような双眸をイルゼに向ける。


「それは君のせいじゃないよ。ただ、アラリエル様は――様々な心労をお持ちだった。故郷から遠く離れた地へと嫁ぎ、お心が弱くなられていた。きっと、そのせいだったのだろう……」


 それは真実というよりも、イルゼを案ずる心情から出た方便だろう。確かにイルゼの出産以前に母の心身は弱り切っていたのかも知れない。だが、自分を産んだことによって命の終わりを決定的なものにしたことだけは間違いないだろう。


「大丈夫かい?」


 悄然としたイルゼを見かねたのか、カルカースは気遣いのこもった声をかけてくる。


「ええ、大丈夫です。自分を産んですぐに母が亡くなっていたのには……ちょっと吃驚して。それに父――養父からは、母どころか両親とも、すでに亡くなっているって聞かされていました。養父は、僕に余計な期待を持たせたくなかったんでしょう。でも、そうは聞かされていても、やっぱり本当の両親に興味はあったし……でも、こうして二度と聞くことが叶わないと思っていた母の話を聞けただけ、僕は幸運だったんですよね。本当のことを知っていた父は、何も言わずに死んでしまったので……」


 イルゼは無念さを吐き出すようにして息をついた。


「君が父と呼ぶ人は、ダグラス殿だね?」


 カルカースの口から思いがけない名が出てイルゼは驚く。


「父を、養父を知っているんですか?」

「ああ、知っている。君の養父ダグラス殿のことはね」


 どこか意味ありげにカルカースは呟いた。


「それを含めて、これから一つ一つ話をしてあげよう。過去にあった出来事を。君が父君から引き離されてしまった理由を。そして、これからのことを――」


 カルカースはそう言うと、イルゼの知り得なかった話をし始めた。

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