第24話 闇に巣食う

『なにやら小賢しい口を利く者がいる』


 虚ろだったエルドの双眸が意思を回復したかのようにセレファンスを睥睨した。だが、その瞳は本来の銀色からどす黒い紅に変色しており、すでにエルドという青年の意識は一切、残っていないようだった。


『ほう――我は其の方を知っているぞ』


 目玉が零れ落ちそうなほどに双眸が大きく見開かれ、エルドの顔が楽しげに色づいた。そんな化け物に対して、セレファンスは怪訝そうに眉を顰める。


『幼き頃を思い出せ。其の方はすでに我と巡り会うている。其の方は最愛の母と姉を下賤なる者どもによって永遠に奪われた。だが、それを認めることができずに死した母と姉の姿を、なおもこの世に留め置こうとしたではないか』


 セレファンスの眉が微かに動いた。それを認めた化け物はエルドの顔でくつくつと薄く笑う。


『あの時、其の方は確かに我を求めたであろう? 最愛の母と姉を再びその手に取り戻したいと願ったであろう? 絶望と甘い微睡みの中で、幼いお前は母と姉と永遠でありたいと望んだ。ならば其の方こそ、最もこの世の摂理を嘆き、新たなる世界を切望する者』


 化け物の言葉に黙り込んだままのセレファンスを見て、イルゼは思わず彼の名を呼ぼうとした――が、それよりも一瞬早く、金髪の少年は皮肉な笑みで口元を歪めると、エルドのものである化け物の面をひたと見据えた。


「俺が何も知らない子供のままだとでも思っているのか? 母と姉が殺された原因は他でもない『お前』だろうに」


 セレファンスは双眸に激しい怒りを漲らせる。


「多勢の賊を今のエルド達のように帰属化して操り、母と姉を非業な死に至らしめた。今の俺には『お前』の誘惑など意味はなさない。今の俺が最も望むのは『お前』の存在を、その思惑ごと無に帰することだけだ!」


 セレファンスの宣言が終ったと同時に、辺りの空気が激しく震えた。穏やかだったはずの風がうねり、たちまち息が継げないほどの様相となる。


『これは……!』


 エルドの表情に焦りの色が浮かぶ。


「リィバとの会話に夢中で気がつかなかったのは幸いだ。おかげで俺は、ゆっくりと時間をかけて、お前の動きを止めるのに十分な〈マナ〉を創り出すことができた!」


 セレファンスは片腕を高く掲げ、声高に叫ぶ。


「親愛なる風の精霊よ! 我が意を知り、我が望みを扶翼せよ!!」


 途端、乱れ混じっていた風の動きが化け物に向かって一点集中する。


『ヒッ――ぎ、ぐ、あっ、ああああッ、あああああああッ!!』


 押し潰さんばかりの風圧と無数の鋭い鎌風に、化け物は心臓をえぐるような野太い怒号を上げる。


「レシィ!」

「はい!」


 セレファンスの呼びかけに女騎士はその意を瞬時に解し、素早く鞘を走らせる。


「待て……待ってくれっ!」


 飛び出そうとしたレシェンドの前に、すかさずリィバが身を呈した。


「あれは、あれは我が部族の者達だ! それをその剣で貫くつもりか!」


 怒濤の如く詰め寄られたレシェンドはあまりの気迫に気圧された様子で後退り、どうしたものかとセレファンスを振り返る。そんな彼女の代わりにセレファンスは酷薄な回答をリィバに突きつけた。


「彼らはもう助からない。あの醜怪な姿を見てみろ。あちらに完全に取り込まれてしまった証拠だ。あんたとは違って彼らは手遅れだったんだ。ならば、これ以上は犠牲者を増やさないために、すぐさま対処をするのが今やるべきことだ」

「だが……!」


 なおも言い募ろうとするリィバをセレファンスは切り捨てるように遮った。


「元はといえば、この事態はあんた達の浅はかな行動によって引き起こされたんだ。そして彼らは闇の声に惹かれて自ら望んで化け物に取り込まれた。彼らは、あんたのように己の弱さを認めることも打ち勝つこともできなかったんだ。ただ、その切っかけが何らかの手引きによるものだったことには同情する。でも、それでも、もはや助けられる術など残っていない」

「だったら……! せめて俺の手で、同じツワルファ族の手でやらせてくれ!」


 思いも寄らない申し出に、セレファンスは目を見張る。


「あんたが? やるのか?」

「そうだ、不名誉にもツワルファの――いや、人間としての誇りさえ失ったうえに異民族の手にかかるくらいならば同族である俺の手で引導を渡してやる。それが俺にできるせめてもの奴らへの手向けと責任だ」


 セレファンスは少しの間、何かを考えるようにして黙っていたが、おもむろに小さく息をつくと、


「俺の力で押し留めているとはいえ、危険であることには変わりはない。そこは理解してもらう」


 そう言って自身の帯剣を素早く鞘から引き抜くと、その柄をリィバのほうに差し向けた。すると青年は、その柄を握り締めて「それは承知のうえだ」と頷く。


「狙うのはエルドの顔面だ。他の部分の強度は分からないが、その部分は人のものと変わりないはずだ。俺の創り出した風の刃で傷つくくらいだからな」


 セレファンスは化け物に視線を送る。見ると風の牢獄でもがき続ける化け物の――苦しげな形相のエルドの面には、幾筋もの赤い傷ができていた。


「そこに剣を突き立てて奥深く刺し込め。必ず致命傷になり得るだろう」


 そんな残酷である指示をセレファンスは余計な感情を省いたように言った。そしてリィバも、やはり同じように頷いた。


「すまない、恩にきる」


 リィバは短く告げると、確かな足取りで化け物へと近づいていく。


「セレファンス様、彼は大丈夫でしょうか。土壇場になって、できないようであれば代わりに私が」

「いや、大丈夫だ」


 レシェンドの憂慮にセレファンスは頭を振った。先程のリィバからは並ならぬ決意が窺えた。己の存在をかけるほどの苦境から立ち上がったのだ。今までとは打って変わった意思の強さは当然のものなのかも知れない。


「エルド……! ルグ、ヤナリ、ガータ……っ!」


 化け物の一部となった仲間達の前で、リィバは呻きながら手にした剣を垂直に掲げる。刀身の切っ先で狙いを定めるのは、苦しげに喘ぐエルドの顔だった。


 暴風に押さえつけられた化け物は、苦しみから逃れようと必死にもがき、吼えていた。セレファンスの〈マナ〉で起こされた風は、標的以外には害をなさないため、リィバには風圧の影響が全くない。しかし、彼には分からない苦痛に身を置く仲間の表情は、ツワルファの青年に己で買って出た役目を逡巡させた。


「くっ……! 許せ、エルド!!」


 だが、とうとう全ての思いを金繰り捨て、リィバは剣を振り下ろす――いや、まさに、そうしようとした寸前。


「ああ、俺はお前を許そう――リィバ。俺達は一つになるのだから」

「な……!」


 リィバは目を見開き、エルドの顔面に視線を落とした。


 先程までの苦なる表情とは打って変わったエルドの笑顔が、まるで軟体の肉質が分裂するかのように左右へと大きく割れた。そして、そこに出現したのは、ぬめりと臭気に満ちた空洞――化け物の巨大で不気味なる口だった。


「うっ、うわあああああああああっ!!」


 リィバは可能な限りの悲鳴を上げ、手にしていた剣を振り下ろした。


 だが、その剣は化け物の口端に添って生える鋭い歯によって阻まれ、振り払われる。その反動でリィバも一緒に地へと転がった。


「なんでっ……!」


 セレファンスが愕然とする。自身の創り出した〈マナ〉で行動を封じていると思っていた化け物が、自由に動き出したのだから無理もない。


「くそっ……! 親愛なる風の精霊よ! 我が意を知り、我が望みを」

『ああああ、鬱陶しい!!』


 セレファンスの声を遮るようにして、化け物は苛立ちに達した怒声を発した。

 瞬間、辺りにパァンと弾けたような衝撃が走る。そして次に訪れたのは、水を打ったかのような静寂――


 セレファンスは現実を疑うようにして唖然とし、イルゼやレシェンドは何事が起きたのかも分からないまま茫然とする。

 そして、化け物の地を這うような笑声が響き渡った。


『ああ、爽快なこと、この上ない――思い知ったか、目障りな精霊どもめ。〈神の使い〉らと共に我らを封じた恨みは今もなお健在だ』


 化け物は大きく開き切った口からくぐもった声を発した。


「セレ、今のは何……っ?」


 いまだ唖然としたままのセレファンスにイルゼが答えを求めると、


「あいつ、一瞬にして、ここら一帯の精霊を消滅させやがった……!」

「えっ、じゃあ……」

「今の俺にはもう、奴の動きを止められる術はない。やっぱり、俺じゃ無理なのか? 『奴』を倒すことは……!」

「そんな」


 イルゼは愕然とする。このままではあの化け物は多くの人に害を与えることになるだろう。ここから飛び出して街にでも向かえば、更なる悲劇が始まってしまう。


 化け物がのっそりと移動を始めた。ゆっくりと目指すのは、へたり込んで震えるリィバの元だ。イルゼ達には目もくれない。


 唯一の標的となったリィバは、もはや悲鳴さえも上げられない状態で、近づいてくる化け物を凝視していた。


「……お前ならキット、そう言ってクレルと思っていた――異民族の手にユダネるよりも、自分の手で引導をワタそうとスルだろうと」


 リィバの目の前にはだかった化け物は、精霊を消滅させた時とは違う穏やかさで言葉を紡ぐ。


 それは当初に聞いたエルドの声のようだったが、どこか無感情で、ところどころに雑音が入り混じっていた。化け物が開いたままの生臭い口内は、うごうごと不気味に波打ち、粘着質な音をしきりにたてていた。


「おマエは仲間オモイの優しい男ダ。だからリィバ、俺タチとトモにイテくれるナ?」


 その言葉を最後に化け物の身体が一気に肥大化する。それはもはや蜘蛛の形ではない。まるで腐って溶けかけているような、軟体的な姿だ。それが天蓋のように空中で大きく開き、落下傘の如くリィバへ迫って覆いかぶさろうとした。

 が、ここでイルゼ達にとって思いもよらないことが起こった。天から雨のように訪れた矢が、化け物の背後へと向かって一斉に降り注いだのだ。


 ブヴォオオオオオオオオオオオォォッ


 もはや生き物の声とは思えない奇怪な低重音を発し、化け物は身体中に突き刺さった矢を恨みるようにして身をくねらせた。その事態に我へと返ったリィバは、慌てて化け物の傍から引き下がる。


「これは一体、何が」


 セレファンスは矢が射かけられてきた方角に目を向ける。


「あれは……!」


 イルゼ達の視線の先には、弓を構えた銀髪に浅黒い肌の男達――勇ましい姿のツワルファ族の一団があった。


「構え! ――放て!!」


 先頭に立った中年の男が、手振りを合わせたかけ声で一同を指揮する。一斉に弓から放たれた矢が再度、化け物の身体を突き刺した。


 グヴォオオオオオオオッ……!


 化け物は先程と同じように声を上げ、激しく暴れ続ける。だが、その動作や声音からは力強さが殺がれてきているようだった。


「凄い、このまま何度も射かけ続ければ、もしかしたら、きっと」


 思わぬ強力な助っ人に、セレファンスは期待に満ちた声を上げ、イルゼも力強く頷こうとしたが、


「いいや、我らの力のみでは不十分。今一つ、決め手が必要でしょうな」


 突然、背後からかけられた声に、イルゼ達は驚愕でもって振り返る。


 そこには中年の女性に付き添われた小柄な老人が立っていた。その浅黒い肌から、二人はツワルファ族の者だとすぐに知れた。もっとも老人のほうは銀髪ではなく、見事な白髪だったが。


 そしてこの状況だというのに、老人の白い髭が蓄えられた頬は温和に満ちていた。その齢は優に九十を超えているように見える。手には樫の杖を持ち、ツワルファ族特有の染め布を継いだ民族衣装に身を包んでいた。常に女性の手を借りている辺り、あまり身体は自由ではないのかも知れない。だが、どこか侵しがたい威厳に満ちた老人だった。


「耳を澄ましなさい、風の寵愛いと厚き御子よ。我らの破魔なる力で、ウラジミールの風は戻りつつある。あとは貴方の御力で、どうか、あれ達を苦しみから解放してやってくだされ」

「……貴方は?」


 セレファンスは独白のように呟いた。


「この方はツワルファ族の最長老ザカリヤ殿だよ」

「叔父さん」


 横から歩み寄ってきたグリュワードにセレファンスは視線を向ける。


「無事で良かった。お前に何かあれば、兄と亡き義姉上に申し訳が立たない」


 グリュワードは安堵の息を吐きながら、金髪の少年の頬に大きな手を添える。


「心配をかけてしまって、すみません。それにしても何故、ツワルファ族の人達がここに?」


 先程は危機から解放された安堵感に霞んで気がつかなかったが、良く良く考えてみると、知らせを受けて駆けつけたにしては彼らの登場は早過ぎる。

 セレファンスの疑問を正確に受け取り、老人――ザカリヤは説明を始める。


「今夜の我が部族の子らの不始末、本当に申し訳なく思っております。まさか、このような愚かしいことを若い衆が画策しているとは夢にも思わず……情けなくも、今の今まで気づくことができませんでした。ですが、我が村に滞在する客人からの報告と、グリュワード殿の迅速な計らいによって、なんとか寸前で駆けつけることができた次第です」


 ザカリヤはグリュワードを仰ぎ見、感謝を表すようにして頭を垂れた。それにグリュワードは「こちらこそ、機知なるご対応、感謝いたします」と応じる。


 グリュワードは今回の怪異がツワルファ族によるものだと判明した時点で、ザカリヤに使いを出していたという。それに平行して客人からの警告を受けていたザカリヤは、部族の男達を率いてウラジミール近くまで到着していた。

 しかし、普段でも入都規制が厳しい都内に彼らが入るのは難しかった。当然といえば当然だ。怪異が巻き起こっている夜の都市に大人数のツワルファ族を、しかも武器を携帯している者達の入都を許すわけがない。

 そんな途方にくれていたところでグリュワードの使いと遭遇。そうして彼らは迅速に、ここへと駆けつけることができたのだという。


「しかし、ここのところ森の精霊達のざわめきが激しいとは思っておりましたが、まさかこのようなことが起こるとは……」


 そこまで言ってザカリヤは、弓で化け物と対峙するツワルファ族の男達を振り返った。イルゼ達もつられるようにして彼らを見る。そこで三度目の矢が一斉に放たれる。化け物もなかなかにしぶといようだった。


 ザカリヤは視線を戻し、ひたとセレファンスを見た。


「再度、お願いを申し上げましょう。どうか風の精霊様の恩寵なる御力で、我が部族の者達を闇の呪縛から解いてやってくだされ。このようなことをお頼み申せる立場ではないが、我らの力のみではあれを消滅させることは難しい」


 思わぬ頼みにセレファンスは少し戸惑ったようだったが、すぐに表情を改めると「分かりました」と頷いた。


「次の矢が射かけられた直後が、貴方の御力を使うのに適した瞬間でしょう。ツワルファの射る矢には、破魔の力が宿っております。一時的に奴を取り巻く闇の力が急激に下がるはずです」


 ザカリヤの助言にセレファンスは頷くと、厳かに風の精霊への扶助を請い求め始める。


「親愛なる風の精霊よ――我が意を知り、我が声を聞け」


 セレファンスの声に誘われるようにして無音だったはずの空間に一陣の風が吹く。それは風の精霊が辺りに戻ってきていることの証しだった。


 ツワルファの凛乎としたかけ声と共に、四度目の矢の雨が化け物へと降り注いだ。その生々しい音と化け物の悲鳴を聞きながら、セレファンスは最後の句を高らかに命じた。


「汝の力を此の内に授け、我が望みを扶翼せよ!」


 途端、セレファンスの手前に風の急激な動きが生じる。


 セレファンスは不可視のそれをあやつるようにしてゆっくりと腕を振り上げると――勢い良く振りおろした。刹那、硝子を鋭く傷つけたような甲高い音が響く。


 次にイルゼが化け物に目をやった時には、すでにその巨体は縦真っ二つに分かれていた。そして、その左右に分かれた軟質な身体は、グニャリと力を失ったように萎え、そのまま怒涛に地へと倒れ込んだ。


 振動の余韻と土埃がおさまり、微かな風音が残る沈黙が訪れる。


 化け物は倒れた。恐らく、それはもう二度と動くことはないだろう。だが誰一人として、歓声や歓喜の声を上げることはなかった。ただ、ひっそりとした安堵と空々しい空気が流れる。


 こうして一連の騒動は、あまりにも静かに幕を閉じたのだった。




「愚かなことを。闇の囁きに耳を貸すなどと――」


 ザカリヤは嘆息して、守りの帯と布にくるまれた四つの遺体を見つめた。


 それはツワルファ族の者達によって、破魔の術を施されたエルド達四人。もはや意識のない亡き骸だったが、再び闇の力に利用されることがないよう、ザカリヤが施術を指示したのだった。


 一刀両断にされた化け物は、見る見る間に溶解して蒸発していった。そして、その場に残されたのは、ツワルファ族が放った大量の破魔矢と、エルドら四人の冷たくなった身体だけだった。


「それにしても――あのような化け物が、本当にこの世に存在するなんて」


 グリュワードは疲れたようにして呟く。するとザカリヤは不思議そうな表情を浮かべた。


「〈闇の従属〉という化け物については、貴方達フィルファラード人が慣れ親しむ神話でも明らかにされているではありませんか。そして、奴らのような悪しき化け物を生み出す存在――〈闇からの支配者〉についても」

「それはそうですが……今を生きる我々にとっては神話はあくまでも神話。あやふやな言い伝えの域を越えないものです。だから、そんなものが本当に存在するはずがないと――普通は誰でもそう思うものでしょう」

「ふむ……どうやら我々には、神話に対する認識の差があるようですな。神話とは伝承。伝承とは祖先が遺してくださった真実。我々ツワルファは、そのように捉えます。そして、神から賜る託宣もしかり」


 ザカリヤはここ数日、その託宣を授かるために祠へと籠っていたという。託宣とは〈神問い〉と似通ったものであるらしい。そして今日、彼が受け取った託宣では、ウラジミールにおいて〈闇からの支配者〉による凶事が起こると啓示されたというのだ。


 それをザカリヤから伝え聞いたグリュワードは、まさかそんなと言わんばかりに戸惑っていた。その内容を横で聞いていたイルゼも同様だった。今回、エルド達を使嗾したのは〈闇からの支配者〉だ、などと言われても素直に頷けるわけがない。


 ここフィルファラード大陸で最も有名な伝承である聖皇シエルセイド物語――四大皇国の源流である初代皇王シエルセイドが、混沌とした大陸を平定して大陸の統治王の座につくまでの英雄譚――においても〈闇からの支配者〉は人々を苦しめる悪である。

 この物語をイルゼが初めて養父ダグラスから聞かされた時、あまりの恐ろしさに幼心を震え上がらせた記憶がある。そして自分の前に〈闇からの支配者〉が現れたらどうしようなどとダグラスに泣きついたものだ。すると養父は息子の頭を優しく撫でながら、聖皇シエルセイドは大陸の人々が安心して暮らせるように、今でも〈闇からの支配者〉を封じた地を見守り続けていらっしゃるんだよ……と優しく答えてくれたのだった。


 とはいえ、それは無垢である幼い頃に限ってまでで、分別がつくほどにもなれば〈闇からの支配者〉など空想の中の存在に過ぎなかった。だが今、そうとしか説明のしようがない出来事を目の当たりにし、最終的にはイルゼもグリュワードも〈闇からの支配者〉という存在を現実のものとして認めざるを得なかった。


「セレは、こういうことが現実にあるって知ってたの?」


 イルゼはセレファンスに訊ねてみた。何故かというと、彼は動揺を隠せないイルゼ達とは対照的に、ザカリヤの説明を淡々と聞いていたからだ。

 するとセレファンスは一瞬、躊躇ったような表情を見せながらも、


「昔、一度だけ、そいつに引きずり込まれそうになったことがある。母と姉が亡くなってからすぐの頃だった」


 と、イルゼだけに聞こえる小声で教えてくれた。


 ザカリヤの説明では、心に激しい負的な感情を持つ者が闇につけ入られやすいと言っていた。だとしたらセレファンスも、その頃は絶望に打ちひしがれていたのだろうか。

 だが今では、いつだって自信たっぷりで弱さなど少しも見受けられないセレファンスだ、きっと今はそれを完全に克服したのだろう。


 そんな考えをイルゼが口にすると、セレファンスは「いいや、俺だっていまだにその弱さを引きずっているさ」と苦笑した。


「ただ弱さにも色々ある。持っているからこそ強くなれる弱さもある。だけど、あの頃の俺が持っていた弱さは、逃げて現実を否定するだけのものでしかなかった」


 そう言ってほんの少しだけ自嘲的に口元を歪めた。


 あの化け物がセレファンスに告げた『幼き頃を思い出せ』という言葉。それがその頃のことを指しているのは間違いない。永遠に失った最愛の者を今一度と望むのは、残された者としては当たり前の心情。叶わないと理屈では分かっていても、そう思うことは自然だろう。それはイルゼにも覚えがある願いだから良く分かる。


「しかしこの一件、末恐ろしいものがありますな」


 グリュワードが考え深げに呟く。


「ウラジミールだけの問題ではなく、ここ近年、不吉な出来事が絶えないフィルファラード大陸全体への警鐘のように思えますよ」

「ですが怖れてばかりいては、それこそ闇につけ入られやすい。それを考慮した上でのご配慮、深く感謝いたします」


 ザカリヤは静かな声音で礼を述べる。


 今回の騒動の詳細をウラジミール市民に知らせるに当たり、グリュワードは化け物については一切、洩らさないようにと、この場にいた者達へと厳命したのだ。

 人の口に戸は立てられないものだが、化け物を目の当たりにした者は少ないうえ、その物証はツワルファ族の遺体以外は消え失せてしまった。だとしたら隠された事実は、あやふやな噂以上のものにはなり得ないだろう。


「全てを明かして注意を喚起しようにしても、こればかりはいかんせん……今の人々にとっては〈闇からの支配者〉も〈闇の従属〉も伝説上のものでしかない」


 グリュワードは自らを思いみる様子で小さく肩を竦める。


「いくら我々が言ったところで、その存在を簡単に信じられる者はいない。ならば事実は隠しておいたほうが良い。余計な不安と混乱を市民に与え、全てを疑心で見るようにでもなれば、それこそ本末転倒というもの。では今回の一件、先程のように公表してよろしいのですね?」


 ここでグリュワードはザカリヤを見て確認を取る。


「ええ、そのようにしてくだされ。事実、エルド達はウラジミールの方々に許しがたい罪を犯し、そこに嘘偽りはないのですから。暫くの間は、我々に向けられる視線は厳しいものとなりましょうが、仲間の罪は部族の罪。甘受するのが当然というもの……」


 化け物の存在は隠し通せるにしても、エルド達の行いはそうもいかなかった。証拠は十分に揃っているし、目撃者も多い。何よりエルド達の罪まで隠してしまえば、全ての説明が不自然になり、この一件に人々は強い興味を持つことになるだろう。そうなれば、せっかく隠蔽ができるはずの化け物に関することまで話題になりかねない。


 ようはエルド達の罪を明らかにすることで、そちらに人々の関心を引きつけ、化け物の件はうやむやにしようというわけだ。ついてはエルド達のことをこのように公表することになる。


 今回、市内及び倉庫で起こった放火騒動の犯人は、ウラジミールにおける労働対価を巡って不満を爆発させたツワルファ族の若者七人であった。だが彼らは追い詰められて逃げ切れないと悟り、止める間もなく次々と自害。結果、犯人は全員死亡――……


 この説明から分かる通り、リィバについては触れていない。


「今回のような事件を彼らに起こさせた原因は我々ウラジミール側にもある」


 グリュワードは言い、同時に多くの若い死者を出したツワルファ族に対して配慮したものだった。


「最長老……」


 そんな陽炎のように頼りない呟きと共に表れたのは、そのリィバだった。


「私は……」


 そう言ったっきり、リィバはザカリヤの言葉を待つようにして、ただ茫然と佇んでいた。


「お前は今回、どれだけ愚かしいことをしでかしたのか、理解しているな?」


 感情を堪えるようなザカリヤの声に、リィバは「はい」と答える。その声音は悲しみのためなのか、それとも怖れのためなのかは分からなかったが、はっきりと震え乱れていた。青ざめた表情は死者にも劣らないものだ。七名もの親しい仲間を突然、信じがたい理由で失ったのだ。当然の状態だろう。


「わしのほうでもあまりのことで、今すぐにはお前にかけるべき言葉が思い浮かばない。とにかく詮議は集落に戻ってからだ」

「……はい――」


 リィバは押し潰されるようにして頭を垂れる。そして同行していた同族の者達に両脇を抱えられるとイルゼ達の前から去っていった。


 ふう……とザカリヤが長い溜め息をつく。


「本来ならば、あれはあなた達に引き渡すべき重罪人なのでしょうな」

「まったくですよ」


 そう答えたのは、もちろんグリュワードではない。リィバと入れ替わるようにして現れたデリックだった。


「グリュワードさん、俺には納得できませんね。今回の一件、ツワルファ族には何故、なんのお咎めもないのでしょうか? これだけウラジミールの都を騒がせ、その上、危うく我が商会の倉庫が消し炭になるところだったんですよ」

「……彼らは十分に罰を受けている。七名もの若者が亡くなっているのだぞ」


 デリックの平然とした非難をグリュワードは苦々しそうに諌める。しかしデリックは冷ややかに言い放つ。


「それは単に奴らの自業自得でしょう。自分らの力でなんとかできないものだから、他力本願で訳の分からない力に手を出すからだ。それにつけても先日、そちらの族長殿に我が商会との来季の契約を一方的に破棄されましてね。今までの長い付き合いよりもアドニスへの進出に力を入れたいのだとか。ですが今回の一件で、それも頓挫なんてことも――」

「デリック!」


 これ以上は言ってくれるなとばかりにグリュワードは声を荒げた。それにデリックは小さく肩を竦める。


「……確かに、今のは最長老殿に対していささか無礼でした。だが、俺は間違ったことを言ったとは思っていませんよ」

「兄さんの自分を信じて他を導く統率力の高さは認めるけど、それは一歩間違えば短所にもなりかねないね」


 それはデリックとは対照的な、穏やかで溜め息交じりの声。


「そこに他を省みる冷静な判断がなければ、それは単なる傲慢にしか過ぎないよ」


 その声の方角に一同が視線を向けると、そこにはサニエルとレワ、そしてイルゼ達には見知らぬ男二人がこちらへと近づいてきていた。

 その見知らぬ男二人――一人はレワの父親でありツワルファの族長でもあるガルダ、そしてもう一人は。


「……父さん! 何故、いつウラジミールに?」


 デリックが目を見開き、戸惑った様子で叫んだ。


「アーロイスとツワルファとの間で、いさかいが起こっているとグリュワードから手紙を貰ってな。身体の調子も悪くなかったことだし、久方ぶりにウラジミールに戻ってきた。……だがまさか、こんな怪事件までも引き起こすような事態になっているとは思ってもいなかったがな」


 厳つい表情を持った初老の男――デリックとサニエルの父ウォーレスは眉根を寄せて呟いた。

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