第23話 永遠に在るもの

「気をつけろ! そいつが狙っているのはリィバだ!」


 だが、咄嗟の警告は虚しく空回りする。リィバを連行しようとしていた者達は、そんなセレファンスの声に眉を顰めただけで、危険に対応しようとする素振りを見せなかった。


「ぎゃあっ!」


 次の瞬間、リィバの腕を抱えていた一人が悲鳴を上げて地に転がる。突如、上空から現れた鋭い動きの存在によって、勢い良く跳ね飛ばされたのだ。


「ひっ、ひゃあああっ!」

「な、なんだ、一体!?」


 騒然とする彼らの合間から、その謎の存在は素早く飛び上がり、再び周囲の薄闇に姿を隠す。それはまるで暗がりから獲物を狙う獣のような動きであった。


「痛いっ、痛い! 腕がっ腕がああああっ!」


 襲われた男が左の上腕を手で押さえながら気違いじみた叫喚を上げる。傷を押さえ込んでいる指の隙間からは真っ赤な血が溢れ出し、石畳へと滴り落ちていく。


「レシィ、彼の応急処置を!」


 セレファンスは自分を守るようにして寄り添っていた女騎士に命じる。


「ですがセレファンス様、私は――」


 いつもは主である少年に忠実なレシェンドだったが、この時ばかりは強い難色を露わにした。無理もない。彼女の使命はセレファンスを守ることで、周囲に危険が潜んでいる今、彼から一時たりとも離れたくはないと思うのが当然だった。だがセレファンスに再度「いいから早く!」と厳しい口調で叱咤されると苦い顔つきながらも「分かりました」と頷いた。


 怪我人に向かって駆け寄っていくレシェンドを見送り、次にセレファンスはリィバの周りにいる者達に叫ぶ。


「リィバから離れろ! さっきの奴は彼を狙ってる! 巻き添えを食うぞ!」


 再び発せられたセレファンスの警告に、今度こそ一同は悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「おい、あんた、狙われてるぞ! 一体なんなんだ? あの妙に素早い獣のような奴は!」


 セレファンスは剣を抜き放ちながら、へたり込んでいるリィバに鋭く問う。


「あ、あいつ――笑った、俺を見てせせら笑うように……! あれは、あれはエルドだった!」

「エルド?」

「セレ、危ない!」


 イルゼが叫んだ。周囲から気を放した一瞬の隙をついて、エルドと称された存在が金髪の少年に躍りかかったのだ。


「させるか!」


 渾身の力を込めてイルゼは両手で持った剣を下から上へと走らせる。その動きは毎日のようにレシェンドからしごかれた結実だろう――しかし。


「っ、避けた……!?」


 手応えの無さをイルゼは驚愕と共に受け止める。一撃で仕留められなくとも、今の一閃は確実に敵を捉えたと予測していたのだ。


「早い!」


 こちらを嘲笑うような敵の動作を目で追い、セレファンスは天を仰いだ。

 敵はまるで自在に空中を飛びかう燕のようで、その上、変則的な動きが可能のようだった。セレファンスに攻撃を仕掛ける寸前、そいつはイルゼからの攻撃に気がつき、咄嗟に進路を変えたのだから。


「セレ、気をつけて」


 辺りを慎重に見回しながら、イルゼは密やかな声で言った。


「ああ、悪い。助かった」


 セレファンスも周囲を窺いながら短い謝罪と礼を口にする。


 暫くの間、闇に潜む存在は攻撃を仕掛けてくる気配を見せなかった。それでもイルゼは油断なく身構える。


「……どうやら、こっちに隙ができるのを待ってるみたいだね」

「ああ、厄介だな」


 セレファンスは舌打ちを堪えているかのような表情で頷いた。

 こちらからは向こうの姿は見えない状況で、どうしても受け身になってしまうのだ。そんないつ襲われるか分からない緊張は、確実にイルゼ達の集中力と体力を削っていく。長引けば長引くほど、こちらにとっては不利な状況でしかない。


「しかも今度は器用に気配を消していて、さっきみたいに居場所を特定できない。学習能力はある奴らしいな」


 そう言ってセレファンスは忌々しそうに顔をしかめる。


「なんとか、姿さえ見せてくれれば――」

「セレファンス様、お怪我はありませんでしたか……!?」


 怪我人の手当てを終えたらしいレシェンドが、頬を強張らせながら少年達の元へと駆け寄ってくる。

 恐らくセレファンスが襲われた様子を見ていたのだろう――青ざめた顔をした彼女を金髪の少年は苦笑いで迎え、次には安心させるかのような笑みを浮かべる。


「大丈夫、イルゼのおかげで大事には至らなかった。それにしても、さすがレシィの厳しい稽古に耐えただけはある。もの凄い上達だ」


 そう言ってセレファンスはイルゼを見る。それにイルゼは「まだまだだよ」と謙遜しながらも、その努力と成果が認められたことは嬉しかった。


「それでレシィ、怪我人のほうはどうだったんだ?」

「はい、悲鳴の割には大した怪我ではありませんでしたから、簡単な止血を施して、あとは他の者に任せました。それとグリュワード様には、この区画からの避難を皆に促していただけるようにと」

「うん、そのほうがいいな」

「あと、彼以外のツワルファ族のことなのですが……」


 レシェンドはいまだにへたり込んだままのリィバへと視線を向ける。


「何かあったのか?」


 女騎士の思い悩むような表情に、セレファンスは怪訝そうに訊ねた。


「三名が遺体で発見されたそうです」

「……なんだってっ……?」


 それまで茫然自失だったリィバが途端、憤りを露わにした。


「どういうことだっ……? なんでそんな……! 貴様らが殺したのかっ!」

「違います。発見時にはすでに息がなかったそうですから。ただ奇妙なことに、彼らの遺体には致命傷に至るような外傷がなく、その上、皆一様に放心したような表情を浮かべていたそうです。まるで、魂を抜かれて死に至ったかのように――」


 レシェンドの説明にイルゼ達は小さく息を飲んだ。


「じゃあ、他の者達は捕まえることができたのか?」


 セレファンスが問うとレシェンドは頭を振る。


「いいえ、まだ誰一人として捕まってはおりません」

「ということは、まだ五人は逃亡中ってことか……」


 セレファンスは独白のように呟くとリィバを見下ろす。


「さっきお前が口走った『エルド』っていう名の奴も、その中に含まれているんだな?」

「……ああ、遺体のほうに奴が入っていなければな。エルドは俺達と同じツワルファ族の者で、今回の計画を主導していた同志だ」

「じゃあ今、俺達を狙っている奴が『エルド』だって可能性はあるよな」


 セレファンスの言葉にリィバは一瞬、その意味を取り損ねたかのように眉を顰める。そして次には大きく目を見開いて「まさか!」と叫んだ。


「あれがエルドだなんて、そんなことは有り得ない!」

「だが、さっきあんたはあいつを『エルドだった』と言ったじゃないか。その姿を見たから、そう言ったんだろう?」

「そ、それは、そうだが……でも、あんなのがエルドなわけがない……!」


 リィバはまるで今、ここで起こっている全ての出来事を拒絶するかのように強く頭を振った。


「あ、あれは――化け物だ……! 確かに笑った顔はエルドに見えたが、身体は化け物そのものだったんだ! それにお前達だって見ていただろうっ? あれは、どう見ても人間の動きじゃないじゃないか!」


 リィバは同意を求めるようにしてセレファンスに詰めよった。


「ああ、確かに、あれは人間の動きじゃない。だけど、それはエルドがまだ人間であればの話だ」

「……な、何を言ってるんだ?」


 冷静に言葉を紡ぐセレファンスに対して、リィバは狼狽えた声音を発する。金髪の少年は続ける。


「俺は以前、あれと似た感覚を持つ化け物と遭遇したことがある。その化け物も元々、守護樹と崇められていた普通の大木だった。だけど、それがなんらかの影響によって魂を変質させられて、無理やり異形のモノへと姿を変えさせられてしまったんだ。……あんた達からも、その化け物と同じ感覚が感じられる」


 淡々としたセレファンスの説明にリィバは唖然とする。


「お、同じ? 感覚? お前は何を言っている?」

「分からないか? エルドだけじゃなく、あんたも、ああいうふうになる可能性があるってことだぞ」

「なっ……俺も!? 何故っ? どうして!」


 悲鳴のように叫んだリィバにセレファンスは冷静過ぎる視線を向けた。


「俺にはあんた達がそうなった理由までは分からない。ただ、同じものを発していることだけは感じ取れるんだ」

「理由? 理由ってなんだっ? 俺達には化け物になる理由なんざっ……!」


 怒りを露わにしたリィバがセレファンスの胸倉を捕らえようとする。だが、それをレシェンドから阻まれる寸前にリィバは突然、動きを止めた。


「……?」


 そんなリィバを見てイルゼ達は眉を顰めた。彼らの視線を集める青年は、慄然として身体を硬直させていた。そして、おもむろに震える唇を動かし始める。


「……わ、分かった、葡萄酒だ――多分それだっ……! そうだ、今、分かった……! はっきりと自覚した! 俺の中には俺のものではない何かが巣くっている!」


 リィバの叫びにイルゼ達は目を見張る。


「今、この時も! ああ、あの酒のせいだ! あの男が持ってきた葡萄酒が皆を狂わせたんだっ! ちくしょうっ! だから俺もさっきまでっ……!」


 そうしてリィバは縋るようにセレファンスを見た。


「なあ、おい、助けてくれ! 俺もあの葡萄酒を飲んだんだ! きっとエルドのように化け物になってしまう! あの酒を飲んだ途端、レワの心を奪ったサニエルや俺の想いを裏切ったレワが憎くて憎くて仕方がなくなって……! 俺はレワにあんなことをするつもりじゃなかった! ただ、彼女を本当に愛していたから、俺の想いを分かって欲しかったんだっ! そうすればきっとレワは、少しずつでも俺のことを愛してくれるようになると思っ……」


 そこまで一気に訴えたリィバは突如として言葉を切る。そして「ぐええっ」と握り潰した蛙のような音を洩らすと石畳に吐瀉物を撒き散らした。


「く、苦しい……! 胸が焼けるようだっ! た、助けてくれ……! どうにかしてくれ!!」


 リィバは狂ったように叫び出す。すると、その悲鳴に重なるようにして、どこからともなく低い笑いが聞こえてきた。


「お前はやっぱり駄目だなぁ……いつもそうやって決意が中途半端になる。情けないことだ」


 どこか気怠げな、嘲笑に満ちた声。だが、それは人間の声に違いなかった。だからイルゼ達は、その声の主が現れた時、目を疑った。


「長老や族長は何故、お前のような奴を次期族長に据えたのか――俺のほうがきっと、その役目を素晴らしく務め上げてみせるだろうに」


 そう言いながら暗闇から進み出たそれは、身の毛もよだつ姿を持っていた。その外形を一言で言い表すと、人間よりも遥かに大きな蜘蛛だった。全身を黒光りする長い毛で覆い、両手足は鋭い鉤のように地を捉える。胴体に当たる部分は丸く膨れ上がり、時折、生々しく揺れ動く。そして顔に当たる場所には――浅黒い肌と銀色の髪と瞳を持つ青年の楽しげな笑みがあった。


「エ、エルドっ……? やっぱりお前、エルドなのか……!?」


 リィバは戦慄き乱れた声を洩らす。それにエルドの顔は悦とした表情を浮かべた。


「ああ、この姿に驚いたのか? そうだな、驚くのも無理はない――だが今の俺は、これまでに感じたことのない快絶な心地を得ている。素晴らしいよ、リィバ。俺はこんなことがこの世にあるなんて思ってもみなかった――。姿は少し変わってしまったようだが、その変わり今までの俺であったのならば得られることのできなかった超越なるものを感じている。だとしたら姿形など大した問題ではないだろう?」

「た、大した問題じゃないって、お前――それじゃあ、化け物じゃないか……!」

「化け物だなんて酷い言いようだな、リィバ」


 リィバの悲鳴に対してエルドとは違う声が苦笑する。


「仮にも同志に向かって、その言い草はないんじゃないのか?」

「……ガータ!?」


 リィバは驚愕に目を見開く。その声を発したのは化け物の丸い横腹に浮き出た人面だった。それはうごめくように揺れる毛の合間から、からかうような笑みでリィバを見つめている。


「全くだ。次期族長と取りざたされてからお前は変わったよ。昔は気の良い奴だったのに」

「リィバは不安だったのさ。いつ、その立場を誰かに取って代わられるかも知れないってね」


 複数の新たな人面が浮かび上がり、冷笑交じりの会話を交わし始める。


「ル、ルグにヤナリまで……! お前達、一体――!?」


 リィバは次々と化け物の腹に浮き出る見知った人面に取り乱した。そんな彼にエルドの顔は誇らしげに言う。


「どういうことかって? 簡単なことさ。俺達は一つになったんだ。さあ、お前もこいよ、俺達の中に。お前も、あの血の如く紅い誓い酒を口にした同志じゃないか。きっとお前ならば俺達と共に在る資格を得ることができるだろう――。残念ながらハガル達には、その資質がなかったようだが」

「ハ、ハガル達……? じゃあ、先ほど見つかったという三遺体は――ハガルにジェドとイングルードっ……?」

「ああ、そうだ。奴らは試練を乗り越えられなかった……その結果は悲しいかな当然で仕方のないことさ」

「と、当然って……彼らは俺達の仲間だぞっ? 幼い頃から一緒に育ち、多くの苦しみや悲しみ、喜びも分かち合ってきた家族だろう! それを、なんでそんな……!」

「そうだな、それもここで分かつ時がきた。だが心配するな。いずれ世界は一つになる」

「な、にを……」


 リィバはエルドの言葉が理解できなかったようだった。それはイルゼ達にとっても同じだったが。


「そうだ、なんだったら特別にレワも受け入れてやろうか? そうすれば、お前は隔たりのない世界の中で永遠にレワと混じり合いながら暮らしていけるぞ」

「な、何を言ってるんだ……俺達にも、お前達のように、その化け物の一部になれとでも言うのか……? そんなの冗談じゃない!」


 リィバの激しい拒絶にエルドは可笑しそうに笑った。まるで日常の雑談を交わしているかのような顔つきだった。


「確かに一部だが、お前の思うようなものじゃない。いわば今の俺達は新世界に帰属しているんだ。お前が化け物と称する存在は、その世界と繋がる窓でしかない。俺達のいる世界はいいぞ。どんなものでも平等で対等となれる素晴らしい世界だ。強き者が弱き者を受け入れ、混じりあうことによって弱者が強者と同等になれるのだ。今の俺達のようにな」


 エルドの顔が晴れやかに笑った。それに追従するように他の人面も笑い出す。それは言葉を失うしかない異様な姿だった。身体は大蜘蛛を思わせる化け物で、その顔と表情だけは人間のものと全く変わらないのだから。


 エルドは笑みを消して更に続ける。


「それに比べて見てみろ――お前達が存在する世界を。弱き者は強き者に踏みにじられ続け、いずれ何も残さずに消え果てる惨めな運命だ。だが、こちらの世界は違う。弱き者は強き者と混じり合って一つとなり、新たなる存在として生まれ変わる。それは、お前達の世で死者と呼ばれる存在も例外ではない。この世界では生者と死者の区別もまたないのだ。いわば人間も妖精も精霊も、神さえも同等だ。だが残念なことに今はまだ、この世界は完全ではない。だが、いずれはそちらの世界をも飲み込み、混ぜ込まれて一つの存在となる。そうなれば今ある俺達のような枠組みさえも消えるだろう。そして残るものは唯一つ、万物の混じり合う海のみだ」

「エ、エルド……俺には、お前が何を言っているのか分からない……」


 ようやく搾り出したような声でリィバは呟く。それにリィバは軽く笑った。


「今に理解できるようになるさ、俺達と混じり合うことによってな。俺達には個がなく異がないんだ。今ではそのエルドという名前さえも意味のなさないものだ。俺達は現世を憂う尊貴なる存在から選ばれ、新たな世界を創造する先鋒を任された。俺達は混じり合い、新世界の苗床となる。そう――我は混沌を強く望むもの』

「……!?」


 突如、その声質が変化する。それと同時にエルドの顔面から急速に表情が失われた。


『聞け、救いのない苦界に存在する哀れな者達よ』


 空虚な双眸を虚空に向けたエルドの口から、彼のものではない声が発せられる。


『我は、あらゆる存在の救世を担うもの。エルドと以下の者達は、我が意を受け入れ、永遠に救われたのだ。それはこの上もなく幸いなことである。リィバよ、我が一部を受け入れし者よ。さあ、その身を我に差し与えよ。さすれば汝にも救世は行われるであろう』

「い、嫌だ……! 俺は、お前達の一部になんてなりたくはない!」


 リィバは歯の根を打ち鳴らしながら頭を振る。


「お、お前が原因なのか? 俺達をおかしくしたのはお前か! エルド達を返せっ! 彼らは我がツワルファ族の者だ!」

『返せ、とは妙なことを言う。彼らは望んで新世界の一部となり、深い苦悩から救われたのだ。特にエルドという男にとっては、そちらの世界に存在する己など、もはや屈辱でしかなかったのだからな』


 不気味な響きを持つ声音はクッと笑いを響かせ、抑揚のない口調で続ける。


『このエルドという男、幼馴染で近い親類のお前を見下していた。だが同時に劣等感も抱いていた。今の族長や長老は歳の近いお前達を常に比べ、お前の不器用だが高潔な資質には好感を持ち、優れた知には富むが野心の強いエルドの性質を疎んじていた。それがエルドの劣等感を作り上げるに至った根底だろう。それでも、自分のほうが次期族長としての器があると自負していられた間は良かった。しかし、結果が目の前に突きつけられた時、エルドには耐えられなんだ』


 そう言って声音は溜め息にも似た笑いを零す。


『教えてやろう、リィバ。今回の計画はエルドにとって邪魔な存在を消すためのものだった。お前をこの計画の首謀者に仕立て上げ、部族の信頼を失墜させようと彼は画策していたのだ。お前がこの計画に加わろうと決意する前、お前はレワがサニエルに会うためにウラジミールに向かったことを人づてに知らされたであろう? そしてその結果、お前はレワの本心を突きつけられた。実はそれもエルドの思惑のうちだ。それによってお前の悋気を煽り、計画への参加を望むように仕向けたのだ。そうしてあとは嫉妬に狂った男が、ウラジミールに火を放ったという状況を作り上げようとしていた』


 知られざる事実を聞かされ、リィバは唖然とするしかないようだった。不気味な声は更に畳みかける。


『それが成功してさえいれば、お前は次期族長でありながら、仲間を諌めるどころか一緒になって軽率な行動に走った責任を問われることになっていただろう。リィバさえ失脚すれば皆は俺の真価に気づいてくれる――エルドは自身でも気づいていなかったが、深層ではそう思っていたのだよ』


 そんな声にリィバは信じられないとでもいうように頭を振る。


「まさかそんな……エルドは、どう見ても族長の座に固執しているようには見えなかった。彼の性格から考えても、奴にとって族長の立場は煩わしいものでしかなかったはずだ。なのに何故、そんな危険をおかしてまで――」

『確かにエルドが求めていたものは族長の座ではない。彼が欲しかったものは、お前よりも自分のほうが優れているという証明だった。だから願い通りにエルドが族長の座を射止めていたとしても、恐らく奴は辞退していたことだろうよ。そして結局はお前に族長の座が転がり込んできたはずだ。だが、それこそがエルドにとっては重要だった。お前に族長の座を恵んでやったという優越感が、これからツワルファ族として生きていく彼には必要だったのだ』


 エルドの口を借りる声音は、そんな青年の心情を嘆き余るようにして続ける。


『全く、なんと醜く哀れなことよ。無知で無力な己を受け入れることができず、弱き自分を嘆くこともできぬ。他人に助けを求めることも、前に進むこともできぬ。自身の殻に閉じ籠り、物事の限りを直視せず、ありもしない理想の自分を捜し求め続ける――』


 嘆き悲しむような声音は、次には労り溢れるものへと変化した。


『だが我には、その愚かしさが愛おしい。だからこそ、そんな哀れな愛し子達のために我は機会を与えているのだ。我が声に耳を貸す無力で無知蒙昧な存在に、新世界の礎石という気高い役目を与えているのだ。先ほどのエルドの表情を見たであろう? あれは我と共にあることで、人間であれば常に持ち続ける負の感情を昇華できたのだ。お前への根深く苦しい嫉妬から解放されたのだよ』


 暫くの間、リィバは声を失って茫然としていた。だが少しずつ身体を震わし始め、やはり震えた声で言葉を継ぐ。


「でも、そんなのは……そんなものはきっと間違ってる……! そこに意味はあるのか? それは単に弱い心につけ入られて利用されただけじゃないのか? 俺達は弱い人間だから、あんたのような存在に目をつけられたって言うのかっ……!」

『お前もエルドと同様、惨めで愚かしい愛し子よ。お前も少女の心を都合良く曲解し、己の心を守ろうと必死であっただろう? いつだって真実は彼女のひたむきな双眸を通して突きつけられていたというのに……』


 憐憫の含んだ声音にリィバは頬を強張らせた。だが、すぐに強い意思を面に閃かせ、無表情のエルドの顔を睨みつける。


「ああ、そうだ……俺はレワの心が俺にないことなんて、とっくの間に分かっていたさ! でも、認めたくはなかった……! レワを奪われたくなかったんだ!!」


 リィバは憤ったように怒鳴る。だが、次には泣き出しそうな表情で弱々しく言葉を継いだ。


「でも、さっきレワが俺の腕の中で助けてと叫んだ時、ふと昔のことを思い出したんだ。俺とレワは兄妹のように育った。幼かったレワを両腕に抱いてあやしてやった時だってある。あの頃のあいつは、いつだって俺に笑顔を向けてくれたし、愛してもくれた! それなのに今の俺は間違ってるって……!」


 リィバの叫声が悲鳴のような余韻を残して消えていく。それに不気味な声音は小さく息をついた。


『……何故、この慈悲深き我の心が理解できないのか。どうしてお前は無理に苦しみ続けようとするのか。お前達の世界で闇と光は相反するものだが、こちらの世界ではどんなものでも許容され、混沌という存在として永遠に在るようになる。始まりも終わりもなく、闇や光という区別もなく、個がなく異がない。全てがただ在るもので、それ以上でも以下でもない。それは隔たりばかりがあるお前達の世界では到底、成すことのできない究極の在り方だ。その中にさえいれば、お前は永遠に苦しまなくても良いというのに――』

「だけど、それは存在しているとは言わない」


 凛としたセレファンスの声音が夜の空気を打った。


「無限の中の無だ。可能性があるにも関わらず、見捨てられるようなものだ。リィバはそれに気がついた。自分の中の闇を見据え、光を見出し、自分で選んだ。だから彼はエルド達のように、あんたの誘いに乗ることはない。残念だったな」


 金髪の少年はエルドの顔を持った化け物を見据えて言う。


 横から毒気のある言葉を投げつけられ、化け物の関心はリィバからセレファンスへと切り替わったようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る