第22話 望みの果てに

「やっときたか。随分と遅かったじゃないか」


 イルゼ、セレファンス、サニエルの三人がアーロイス商会の倉庫に近づこうとした途端、そんな声が牽制のようにかけられた。


「誰だ!」


 サニエルが険しく誰何する。セレファンスは暗闇の先を窺うようにして手に持つランプをかかげた。しかし、ここからは距離があるためか、その正体を闇から暴くことはできない。


 イルゼ達はゆっくりと慎重に、その声がした方向に歩みを進めていく。すでに向こうからは、こちら側の様子はランプの明かりで丸見えだろうが、相手は声をかけてまで自身の存在を知らせてきたのだから、不意をついて自分達に危害を加えてくる可能性は低いだろう。だが、それでもイルゼとセレファンスは、突発的な攻撃に備えることを怠らなかった。


 ほのかな明かりが徐々に相手の姿を浮かび上がらせる。精悍な顔つきと強健な体躯、銀色の髪と瞳に浅黒い肌を持つ青年。一見しただけでツワルファ族の者だと分かる。そして、その屈強な腕には、後ろ手に拘束された同族の少女が捕らわれていた。


「レワ!」


 サニエルが悲鳴のように叫ぶ。

 名を呼ばれた少女は一瞬、喜びに表情を輝かせたが、すぐに泣き出しそうな顔で何かを懸命に訴えてきた。しかし彼女の口には猿ぐつわまでもなされており、声が出せない状態になっている。


「レワ……! お前は誰だ! 彼女を放せ!」


 サニエルは怒りに震えた声で怒鳴った。


「俺か? 俺はレワと同族で仲間だ」


 ツワルファの青年はサニエルの激情を淡々と受け止めた。


「仲間だと? じゃあ何故、レワをそんな酷い目に遭わせてるんだっ? そんな酷い仕打ちをする奴のどこが仲間だ!!」


 温度差のある青年の態度が更にサニエルの怒気を招いたようだったが無理もない。

 ツワルファの青年の表情には、どこか人を小馬鹿にしたような悪意が見て取れ、何よりも捕らわれた少女の姿が痛々しい有様だった。

 背に流れていたはずの銀髪は肩の辺りで無惨に刈り取られ、片頬は殴られたのか青紫に変色して腫れ上がっている。そして、身に着けた民族衣装と靴の履いていない両足は酷く土に汚れており、それ以上に銀色の双眸は色濃い屈辱と恐怖にまみれていた。


 どれほど手荒い扱いを受けたのか想像に難くない。そんなレワの姿を見て、その場にいる誰もが強い憤りを覚えたのだから、サニエルの怒りは計り知れないだろう。


「仲間でも部族の意向に背く行いをしたのならば罰せられるべきだろう。特にレワは俺の妻となる女だ。こいつの教育は夫である俺の義務だからな」


 ツワルファの青年は薄い笑みを浮かべながらサニエルを見る。

 一瞬、サニエルは怒りさえも忘れたように目を見開き、次にレワに視線を転じた。すると、それを避けるようにして彼女は顔を俯かせる。


 そこでサニエルは、全てを悟ったかのように小さく溜め息をついた。


「……レワが罰せられる理由なんて一つもない。彼女が僕に会いにきていた理由は、純粋にツワルファの将来を思ってのことで――」

「自惚れるな」


 鋭く忌々しげにツワルファの青年は吐き捨てた。


「こうしてレワを罰している理由が、お前への嫉妬からきているとでも思ったか。お前がレワに懸想を抱いていることなど周知の事実で今更だ。だが、レワは決して異民族の男のものにはならない。族長の一人娘である彼女は、二週間後の満月の夜、次期族長である俺の花嫁となる。それは族長や長老が望み、インザラーガの神も認められた絶対なる決定だ。これについては一切、部外者のお前が口出しすることではない」


 それらの言葉をサニエルは息を詰めて受け止めていた。そして気を落ち着かせるようにして再び息をつくと「じゃあ何が理由でこんなことを?」と問いかける。


「断罪だ」


 ツワルファの青年は喉にからむような声で宣言する。それにサニエルは怪訝そうに眉を顰めた。


「断罪?」

「そうだ。貴様らウラジミールの商人どもは、長年によりツワルファの尊厳を奪い続けてきた。その報いを今夜、この街にもたらすために我らツワルファの戦士は決起したのだ」


 青年の言い分にサニエルは理解しがたい表情を浮かべた。


「……つまり君は、ツワルファを軽んじてきたウラジミールの商人達を――主に僕達アーロイス商会の者が許せないから、こんなことをしているって言いたいのかい? でもそんなこと、レワには関係な」

「おい、そんなこととは、どういう意味だ」


 ツワルファの青年はサニエルの言葉に気色ばむ。


「分かってはいたが、お前達は自分達がどれだけツワルファの価値と誇りを踏みにじってきたのかを理解していないようだな。我々は、お前達の祖先に故郷から無理やり引き離されたはぐれ鳥だ。それでも慈悲深きインザラーガ神の御技によって、我らの祖先は奴隷という屈辱的な立場から逃れられ、かのお膝元で新たなる故郷を見出した。そして過去よりも未来を見据え、この大陸に根づいて生きていこうと決めたのだ。それなのにお前達は、再び違う方法で我々を蹂躙し始めた。苦難そのものの歴史の中で、ツワルファが必死の思いで継いできた伝統や文化を貴様らは己の利益のために汚したのだ! それは万死に値する行為だ!」


 青年の視線が鋭い刃物のように煌めく。それをサニエルは静かに受け止める。


「……確かに、ウラジミールの商人は更なる利益を追求した結果、本来は君達の手で作り出されるはずの精緻で美しい工芸品を、その粗悪な複製品によって貶めた。しかも、それらの複製品を大量に蔓延らせ、君達が手にするはずだった利益までも奪ってしまった。だけど彫刻などの工芸品は、ある程度の技量さえ持っていれば見よう見まねでそれなりの形のものが出来上がってしまうんだ。それゆえに意匠が同じ模造品が多く市場に出回ってしまったんだろう」

「だから仕方がない、当たり前だとでも言いたいのか」


 激しい憎しみで眼を爛々とさせる青年にサニエルは頭を振る。


「違う、当たり前だなんて思っていない。それによって本当に素晴らしいはずの君達の工芸品が影に追いやられてしまうことは僕も憂えているんだ。兄は――アーロイス商会は間違っているよ。君達からの仕入れ枠や報酬を減らし、安価で粗雑な複製品の枠を広げた。それは確かに一時的な利益を生むだろう。でも、それでは駄目なんだ。皆が皆、こんなことばかりを進めていたら、ウラジミールは偽物が当然のように蔓延する利益優先で進化の見込めない市場に成り下がってしまう。だけど、高額な正規品よりも安く手に入る模造品のほうが売れているのが現状だ」


 サニエルは苦々しい表情でうなだれたが、すぐに力強い視線をリィバに向けた。


「でも僕は、そんな今の流れを変えたい。いや、絶対に変わると思っている。まずは誰もが見ても違いが分かり、多くの人に認められる商品を作る。僕は君達の染めの技法には、その可能性があると思ってるんだ。きっとツワルファの工芸品は、他の商品と差別化を計れるだろう。だから僕は、それを少しでも手助けができればと思って――」

「そんな愁傷なことをのたまわって、また我々から技術を掠め取ろうとしているのか? お前達は、こちらを信用させて懐深く入り込み、そして裏切るのが上手い」

「違う、そうじゃない。僕は本当に君達の技術は素晴らしいと思うから……!」

「レワに近づいたのも初めからそのつもりだったのだろう? 今では他にも下心があると見えるが」


 聞く耳を持たずでツワルファの青年はせせら笑った。それにサニエルは失望の色を見せ、小さく溜め息をつく。


「……どうやら何を言っても受けつけてくれないみたいだな。君が僕の考えを理解できないのは仕方がない。だけど、それにレワを巻き込むことだけは絶対に許せない。彼女には責められるべき理由なんて一つもない。早くレワを解放するんだ」

「いいや、レワにも罪はある。族長の娘という立場でありながら、お前の卑しい思惑を見抜けずに洗脳され、内部から我らツワルファの結束を揺るがそうとした。……だが、それは幼く無知だったがゆえの過ちだろう。お前達に赦される余地はないが、レワにはまだ可能性がある。だからこうして俺は彼女を罰し、赦され得る可能性を探っているのだ。これはレワのためであり、俺の愛情でもある」

「馬鹿なことを! そんなふうに痛めつけることのどこが愛情だ! いい加減にレワを放せ!」


 もはや我慢の限界だとばかりにサニエルが怒鳴った。と、その時だった。


「サニエルっ……!」


 それは出せる状態になかったはずのレワの声。呼ばれた青年は驚きでもって彼女を見る。少女の口になされていたはずの猿ぐつわは、いつの間にか緩んで外れ、その効力を失っていた。


「サニエル、これは時間稼ぎなの! 早くしないと他の者達が倉庫の中に火をつけるわ! 早くみんなに知らせて止めてっ! ここにある全てが燃えてなくなっちゃう!」

「このっ……!」


 ツワルファの青年は鋭く怒気を発火させると、レワの短くなった髪を乱暴に掴んで地に引き落とした。


「余計なことを!!」

「痛いっ、やめて!」

「レワ!」

「近づくな!!」


 倒れ込んだ少女に駆け寄ろうとしたサニエルをツワルファの青年は鋭い声で牽制する。サニエルは気圧されたようにして動きを止めた。


「いいか、近づくなよ。レワの言ったことは本当だ。だが、俺の仲間がこちらの様子をずっと監視し続けている。少しでもお前達が妙な行動をとれば、すぐに彼らが計画を実行に移すだろう。そうなれば瞬く間に、ここら一帯の倉庫は大火に包まれる。何せ至るところに火炎剤を仕掛けてあるのだからな。ここに保管してある多くの品物は、あっという間に売り物にならなくなるだろう」


 優越感に満ちた顔でツワルファの青年は言った。それにサニエルは息を飲み、驚愕に目を見開く。


「火炎剤だって? なんで君達がそんなものを持っているんだっ? あれはアドニスの専売品で一般人がおいそれと手に入れられる品物じゃない。しかも長く空気に触れると自然発火する危険物で、テオフィルでは使用することはおろか、保有することさえ違法となる代物だぞ!」

「反応して欲しいところはそこじゃないんだがな」


 ツワルファの青年は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「良く考えてみろ。もし、それによって一気に火災が起こったのならばここはどうなると思う? 輸出予定の品は殆ど焼失、アーロイス商会はおろかウラジミール経済全体の信用を失墜させる事態になるだろうな。全く、これはあんたの浅はかな行動のおかげさ。レワの髪と、あんな内容の手紙だけで正直、こうも思惑通りに動いてくれるとは思わなかったよ。おかげで倉庫の奥深くに火炎剤を仕掛けることができた。きっと効果的に内部を燃やし尽くしてくれることだろう――」


 可笑しくて仕方がないといった様子でリィバは喉の奥で笑う。それにサニエルは唇を噛みしめた。


「だが、俺達にも慈悲の心はある。元々全てを奪おうなんて思ってはいない。ただ、我々の伝統を模造した品々と、ツワルファを奴隷の如く扱い続けたアーロイスに己の罪業を思い知らせてやることができればいい――」


 そう言ってツワルファの青年は、何かを求めるようにして手の平を前に差し出す。


「お前の持っている鍵を寄こせ。アーロイス商会の倉庫の鍵だ。それをこちらに放って寄こすんだ」

「……それを渡したら――どうするつもりだ」


 サニエルは搾り出すような声で問う。


「知れたことだ。お前らの倉庫の内部に火炎剤をばらまいて火をつけ、跡形もなく燃やし尽くしてやる。言っておくが違う鍵を寄こしたり、妙な真似をしようものなら、すぐに他の倉庫が犠牲になるぞ。それは後々、アーロイス商会の不名誉になることだろう。自己保身に走り、他を犠牲にしたとな」


 ツワルファの青年の勝ち誇ったような言葉に、サニエルは観念したようだった。


「分かった、鍵を渡そう」


 そう言ってサニエルは、横で彼らのやり取りを見守っていた金髪の少年を振り返る。


「セレファンス君、明かりを貸してくれ。鍵の識別番号が見たいんだ」

「――渡すんですか?」


 窺うように訊ねたセレファンスに、サニエルは余計な感情を押し殺したような声で答えた。


「仕方がない、渡すしかないよ。他の倉庫を犠牲にするわけにはいかない。それに元はといえばアーロイスが――僕達が招いたことだからね」

「早くするんだ。あまり待たせると、仲間に合図を送ってしまうぞ」


 苛立たしげにツワルファの青年が言う。


「少し待ってくれ。倉庫の鍵は全部、一緒に束ねられているんだ。この中から一つの鍵を探し出すのは時間がかかる」


 サニエルの返答に青年は舌打ちをした。そんな彼をレワは横倒しになったままで見上げる。


「リィバ、貴方は間違ってるわ……! こんなこと、インザラーガの神だってお許しにならない。だから今すぐやめて、みんなを止めて!」


 涙ながらの訴えをツワルファの青年――リィバは憎々しげに見下ろした。


「黙ってろ、レワ! お前が俺に利いていい口は容赦を願う言葉と服従の誓いのみだ。次に余計なことを言おうものなら、その細い身体を枯れ枝のように踏み折ってやるぞ!」

「リィバ! 貴方は一体、どうしちゃったの? こんなの、まるで別人みたいだわ! 今までの貴方にも、どこか支配的なものはあったけれど、こんなふうに人を傷つけたり、感情に任せて無意味な所業に手を貸すような人じゃなかった! だからこそ父や長老様達は、次の族長には貴方をと望んだはずなのに……!」

「そんなもの……! お前がっ……お前が悪いんだっ! お前が俺から離れようとするから!!」


 リィバの双眸に激しい憎悪が膨れ上がり、青年の片足が高く掲げられた。レワはそんな彼の仕打ちに耐え抜く覚悟を見せ、硬く目を瞑る。


「やめてくれっ! 鍵はあったからこれ以上、レワに乱暴をしないでくれ!」


 サニエルは悲鳴のように懇願し、一つの鍵を強調するようにして掲げてみせた。


「君が欲しいのは、この鍵だろう? これは君にやる。やるからもうレワを解放してくれ!」


 ツワルファの青年はサニエルに目をやると、上げていた片足をレワの上ではなく地にゆっくりと下ろした。


「……何かを勘違いしてやいないか? 今の取り引きにレワは関係ない。ここにレワを引き連れたのは、お前との取り引きに使おうと思ったわけではない。己の過ちに向き合わせ、目を覚まさせるためだ。俺は彼女を手放す気など少しもない」


 サニエルの取り乱す姿を目に納めながら、リィバは口元に薄い冷笑を浮かべた。それにサニエルは怒りを露わにして反論する。


「君の言っていることは根本からして間違ってる……! レワは物じゃないんだ、君が手放したくないからといって、なんで彼女がそこにいなきゃいけないっ? お前みたいな奴にレワと結婚する資格なんかない!」

「五月蝿い!! 御託はいいんだ、さっさと鍵を渡せ!! 他の倉庫が犠牲になってもいいのかっ!?」

「いいえ、そんなことにはなりませんよ」


 突然、凛と響き渡った女性の声。続いて周囲の灯火台がおぼろに灯り始める。


「すでに貴方達の計画は潰えましたから。サニエル殿が開けて回った倉庫内部を調べたところ、いくつかの火炎剤が発見されました。それに万が一のための消化剤の準備も万全ですからね」


 そう言ってリィバを睨みつけたのはレシェンドだった。一瞬にして暗から明へと切り替わった事態に、その場の誰もが驚きを隠せない。ただ一人、金髪の少年のみが「間一髪だったな」と安堵の息をついた。


「セレファンス君?」


 サニエルは全く訳が分からないといった様子で金髪の少年を見た。


「セレ!」


 赤毛と息を弾ませて、先程までセレファンスの傍らにいたはずのイルゼが離れた場所からこちらに駆け寄ってくる。その後ろにはセレファンスの叔父グリュワード、そして数人の男達を従えた厳つい体躯の男――アーロイス商会の長であり、サニエルの兄でもあるデリックの姿が見えた。彼に付き従う男達は、アーロイス商会の者達だ。


「良かった、間に合ったみたいで……!」


 セレファンスの前に辿り着いたイルゼは、そう言って大きく息をついた。そんな彼をサニエルは唖然とした表情で見つめる。


「イルゼ君……君、今までここにいたはずじゃなかったのかい?」

「いえ実は――サニエルさん達の言い合いが始まってからすぐに、セレから言われて、こっそりとここを離れてたんです。暗闇に紛れて誰にも気づかれないように門扉のところまで行って、レシェンドさんがグリュワードさん達を連れてくるのを待ってろって。そして今の状況を詳しく伝えてくれって」


 イルゼの説明にセレファンスは満足そうに頷く。


「それで、その首尾は?」

「うん、セレの予測通り、この辺りに放火犯は潜伏してたよ。それから――やっぱりツワルファの人達が犯人だったみたいだ。今日、入都したツワルファ族は全部で十名。その人とレワをはずせば八名。今、向こうで自警団の人や街の人達が一緒になって犯人達を追い詰めてる。きっと、すぐに全員、捕まえることができると思う」

「そんな馬鹿な……」


 イルゼ達の会話を聞きながらリィバは愕然とする。そんな彼にレシェンドは射竦めるような視線を向けた。


「セレファンス様はサニエル殿の話を聞き、中心街の放火は陽動であり、犯人の目的は倉庫の内部にあるのではないかと早くに気づかれました。そしてそれを実行しているのは、ウラジミールの商人に恨みを持つツワルファ族の可能性が高いと」


 その説明に頷いたセレファンスが続ける。


「サニエルさん達の兄弟喧嘩の理由や昼間、レワから聞いた話じゃあ、ツワルファとアーロイスの確執は深そうだったしな。何よりレワを利用してサニエルさんに倉庫を開けさせる手口は回りくどくて、いかにも倉庫の鍵が必要だと言わんばかりだった。となると、簡単に鍵を持ち出せるような立場の人とは考えにくい。それらを総合的に考えたら、悪いけど動機のあるツワルファ族が一番、疑わしかったんだ。そして同時に多発した中心街での派手な火災――あれは恐らく自然発火する火炎剤の性質を利用して起こしたものだろう。まあ、これは今、話を聞いて分かったことだけどな」

「つまり犯人達は街の放火に初めから立ち合っていなかったというわけだな」


 感心したように言って自身の顎を撫でたのはグリュワードである。


「火炎剤は長い間、空気に触れ続けると自然発火を起こす代物。それを利用して発火の時間を制御し、燃え移りやすい場所に放置しておけば――犯人は離れた場所からでも火災を起こすことができる」

「ええ、だから、どれだけ捜しても街では犯人が見つからなかったというわけです」


 グリュワードの適切な推論にセレファンスは同意する。それにデリックが苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをした。


「そういうことか。そうやって表では派手な陽動をし、裏では我が商会に危害を与えようと虎視眈々に狙っていたわけだな。全くふざけた真似をしてくれる。だが、その命運も尽きたようだな。リィバとやら、お前さん達の仲間はすぐにお縄になるだろう。さっさと諦めて命乞いでもしたほうがいいんじゃないのか?」


 デリックの嘲るような声音に対して、リィバは虚ろともいえる無表情を見せていた。今や完全に優劣は入れ替わっており、誰もがツワルファの青年の投降を予想していたのだが。


「まだだ……まだ、俺は目的を果たしていない!!」


 虚ろな表情に鋭い感情を閃かせ、リィバは素早い動きで手前に横倒れていたレワを引き起こした。「きゃあっ」とレワが短く悲鳴を上げる。


「サニエル! お前の持つ鍵を渡せっ! さもなければ、こいつの頬に大きな傷をつけてやるぞ!!」


 リィバは懐から取り出した小刀をレワの頬に当てた。その思わぬ行動に一同は唖然とし、暫くの間、張りつめた沈黙が辺りを支配する。


 と、そんな空気を初めに破ったのは、デリックに付き従っていたアーロイスの者達が洩らした失笑だった。


「何をたわけたことを言っているんだ? その娘はツワルファ族ではないか。そんな異民族の小娘のために何故、我が商会が犠牲にならなければいけないんだ?」

「貴様らなどには聞いていない!!」


 リィバは商会員の一人が口にした考えを鋭く跳ねつける。


「サニエル、いいのかっ? こいつの頬に一生、残るような大傷がついても!」

「……そんな、君はレワの婚約者でもあるんだろう? そんなことをして、なんになる?」


 サニエルは理解ができないとばかりに頭を振った。それにリィバは不快感を持たずには見られない嫌らしい笑みを閃かせる。


「頬に大きな醜い傷を持つ女など、誰も気味悪がって近づかなくなる。それは俺にとって好都合なことでしかない」

「なっ……!」


 尋常ではない答えにサニエルは絶句した。


「ほら、早くするんだ! もたもたしていると本当にやるぞ!」


 リィバは苛立たしげに持っていた小刀をレワの頬に押しつけた。すると刃が当てられた部分の彼女の肌に赤い筋ができる。次の瞬間、恐怖に彩られた甲高い悲鳴が上がった。


「いっ……いやあっ!」


 声の主である少女は無我夢中でリィバの束縛から逃れようとするが、彼女の身体に絡みついた屈強な腕はびくともしない。


「いや、いや! 助けて、助けてっ……! お父さん! お母さんっ! ――サニエル!!」


 少女は半狂乱になって泣き叫ぶ。恐らく今まで辛うじて保たれていた理性が、ここにきて一気に弾け飛んだのだろう。


「レワ!」


 サニエルが手に持っていた鍵を握り締め、一歩、前に進み出た。


「待てサニエル!」

「……兄さん!」


 サニエルは自分を制した人物――兄デリックを信じられないといった顔で振り返る。しかしそれに動じることなく、デリックは威圧のある声で弟に命じた。


「鍵を渡せ、サニエル」

「でも、レワが……!」

「いいから渡すんだ!」


 デリックはサニエルから乱暴に鍵を奪い取る。


「兄さん! 後生だ、その鍵を渡してくれっ! それがないとレワが……!」

「お前には渡さん! 渡す相手は――お前だ!!」

「あっ」


 一同は驚きに声を上げる。小さな鍵はデリックの手から放たれ、煌きながら宙に円弧を描き出す。そして、ちょうどリィバの目の前に甲高い音を立てて落ちた。


「兄さん!?」


 サニエルは驚愕して兄を振り返った。


「受け取れ、くそったれが……っ」

「兄さん、どうして……!」

「お前が奴に鍵を渡したとあっては、のちのち面倒ごとが持ち上がる。それに片腕となるべき弟に裏切られたなどと俺の面目も丸潰れだっ……!」

「兄さん」

「商会長っ! これは由々しき問題ですよ!? 商会長自ら、あんなツワルファの小娘のために我が商会の命運を手放すなんて!」


 商会員の一人が思わぬ展開に平静を失って叫んだ。するとデリックは、その部下を鋭く睨みつける。


「ああ、そうだ、あんな小娘だ。あんな小娘一人を犠牲にしなけりゃ守れないほど、先代や俺達の築いてきたものはヤワなのか? 命運だと? 馬鹿馬鹿しい!」


 デリックは憤怒に近い形相で商会員一同を睨めつけた。


「これくらいの逆境、超えられないようなら我が商会の展望も知れてるわ!!」


 腹の底から轟くような一喝に商会員らは首を竦める。しかし、その表情には不思議と畏怖のほかに信頼と安堵感のようなものも浮かんでいた。


「さて、リィバとやら。今度はお前さんの番だ。その鍵を使って、さっさと己の目的を達成させるんだな。たまにはそんな盛大な焚き火もいいだろうよ」


 デリックの気強い態度とは対称的に、リィバは茫然として目の前に落ちた鍵を見つめる。


「俺の……目的は……」


 そう呟いた青年の双眸からは、何故か闘志が失われていた。レワの身体を拘束していた腕がダラリと落ちる。


「……サニエル!」

「レワ!」


 ようやく自由の身となった少女は求めるようにして両腕を伸ばし、サニエルに向かって一直線に駆けていく。彼のほうも両腕を広げ、少女の身体をしっかりと胸に抱き止めた。


「私……っ、部族の者達があなたに酷いことをしようとしているって聞かされたからっ……どうしても、いてもたってもいられなくて、ついウラジミールまできてしまったの。そうしたらリィバ達に拘束されてしまって……まさか、こんなふうにウラジミールの人達に迷惑をかけることになるなんて思わなかった――。本当に、本当にごめんなさい……!」


 涙に濡れた声でレワは謝罪する。それにサニエルは少女の身体を強く抱きしめたまま「大丈夫だよ、もう大丈夫だから――」と何度も何度も呟いていた。


 停滞した緊迫の空気は解かれ、場は一気に安堵感と慌ただしい様相に変化する。


「やれやれ……これで一件落着か」


 グリュワードは長く深い溜め息をつくと、デリック達に身を拘束されるリィバに視線を向ける。

 イルゼも抜け殻のように動かなくなったツワルファの青年を見つめながら「何故、彼は急に勢いを失ったんでしょう?」と首を傾げた。


「さてな。彼の望んでいたものが、このような行為では決して手に入らないと分かったからかも知れんな」


 そう言ってグリュワードは抱き合う青年と少女を見た。


「なんにしろ、この件の功労者はセレファンスとイルゼだ。しかし良く分かったものだ、ツワルファの者達が犯人だと――……うん? どうしたセレファンス、気分でも悪いのか?」


 下唇に指を当てたまま黙り込んでいる甥の姿に、グリュワードは怪訝そうに眉を顰める。


「いえ、ただ、まだ何か――嫌な感覚が消えなくて」

「嫌な感覚って〈神問い〉の時も言ってたけど、それのこと?」


 イルゼはセレファンスを気遣いながら問いかける。


「いや、そうじゃない。あれは予言の類だし――それとはまた別だ。……でも、この感覚、以前にもどこかで――」


 ふとセレファンスが瞳を上げる。すると、ちょうどそこにあったイルゼの視線と交わった。


「……分かった、あの時と同じなんだ」


 セレファンスの青い双眸が大きく見開かれた。と、次に彼は視線を周囲に転じて、何かを探すかのように辺りを見渡し始める。


「セレ?」

「……あそこだ!」


 イルゼの訝しんだ声に重なり、上空を仰いで一点を凝視したセレファンスが叫んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る