第20話 夜陰に紛れ

 インザラーガ山の裾を覆う樹海は、闇と静寂に沈む刻限を迎えている。そんな密やかさを隠れ蓑にして、その場は設けられていた。


 擦り切れた布の敷かれた床には、小さな灯火が揺れる油皿が一つ。それを取り囲むようにして顔を付き合せる数人の男達。橙色の薄明かりに瑞々しく照らし出される褐色の肌に銀色の髪と瞳――それらの特徴で彼らが皆、ツワルファ族の者だと分かる。その者達は二十代前後といった年若い世代で、あどけない色を容貌に残す者もいた。


 彼らの集まっている場所はツワルファ族の者が森で狩を行う時期、活動の拠点として使用する古びた物置小屋だった。このような拠点は森中に点在しているが、ここの小屋は獣道から遠く外れていることもあり、滅多に使われることはなかった。それを彼らは知った上で、ここを密会の場所として選んだ。


 輪の中心に座した中核的な雰囲気を持つ男が口を開く。


「今日、族長がおこなった会議では、我ら部族の者をアドニスに派遣するという決定が下された。それはツワルファ族の未来に新たな可能性と発展をもたらす、とても喜ばしいことだろう。しかし我々は、このまま今まで我らを貶めた奴らを容赦しても良いものだろうか?」


 そう言って男は一同の顔を見まわすと、


「いや、このまま奴らを容赦するということは、我らの誇り高き精神は汚されたままになるということだ」


 険しい顔つきで自身の言葉を強く否定した。そんな彼に対して一同は頷く。


「全くだ。族長や長老達は分かっていない。奴らへの長い従属は、すっかり族長達の心を凋落させてしまった。だが今こそ、その失われた至高の精神を若い世代の我々が率先して取り戻さなければならない」

「ツワルファは誇り高き民族だ。それを証明するためにも我々は例の計画を実行するべきだ。そして奴らには、その苦痛と犠牲をもってして、我らに与えた穢れを昇華してもらう」


 若者達は次々と同意を口にする。声に出さない者も、周囲の意見に同意して何度も頷く。

 初めに言葉を紡いだ男は、そんな一同を満足そうに再度、見回した。


「我らは同じ至高の精神を共有するツワルファの戦士だ。その精神と同様、運命をも共有する同志だ。我々の崇高なる意志を阻むことは何人たりとて赦されない。その気高い決意は、インザラーガの神も高く称賛されていることだろう。今日という日は、七百年前の我ら祖先の解放をなぞる再来となる。我々は必ず、長年の雪辱を晴らすことができる!」


 決して大きくはない声だが、暗示のように言い聞かせる力強い響きを持った言葉に、若者達は一斉に表情を輝かせた。


「……ウラジミールの者どもに死よりも辛い恥辱を!」


 一人が叫ぶと嬉々として他の者も続く。


「我らの至高なる精神を取り戻せ!」

「アーロイスの欲深な罪人どもにインザラーガの鉄槌を下せ!」

「そうだ! あのアーロイスの強欲で醜悪な男に――!」

「――待て!」


 突然、中核である男が鋭い声音を発した。その制止に沸いていた一同は一瞬にして静まり返る。


「……どうした?」


 傍に座っていた青年が中核の男を不安そうに窺う。しかしそれに彼は応えず、傍らに置いてあった長剣を手に取ると、出入り口の扉に鋭い視線を放ちつつ立ち上がる。


「…………」


 一同は無言の緊張を強いられた。彼らが息を潜めて見守る中、男は一人、ゆっくりと音を立てずに扉へと近づいていく。その途中、おもむろに彼は剣を鞘から抜き出していた。そして静かに扉の取っ手に手をかけ――勢い良く、一気に開いた。


「……!」


 男の鋭かった面が驚愕に満ちる。そして徐々に力が抜けていくような表情を見せた。


「カルカース殿……」


 男は小さな溜め息と共に、不意の来訪者であった彼の名前を口にした。


「すまないな。どうやら驚かせてしまったらしい」


 大きく開かれた戸口の向こうには、苦笑を浮かべた一人の男が立っていた。


「……てっきり部族の誰かにつけられていたのかと。こんなところに黙って突っ立って、中に入ろうとする気配がなかったので」


 男は半ば無遠慮な物言いで来訪者を迎えた。


 来訪者――カルカースは、特に気を悪くした様子もなく軽く笑う。そうすると、近より難く感じられる端正な容貌が、品の良い笑みの魅力的な青年のものへと変化する。


「いや、気勢を上げている最中に入るのは憚られてね。しかし、部族の者を相手にするには物々しい」


 カルカースは男の持つ抜き身の剣を見やった。


「別に問答無用で振り下ろすつもりはないですよ」


 おどけたように肩を竦めてから男は剣を鞘に納める。


 カルカースの年齢は三十代半ばだ。目の前の青年は二十歳を少し過ぎたばかりの頃だろう。この一回りも下の青年は、わざと人を寄せつけない雰囲気を放つカルカースに対しても、初めて会った時から臆することがなかった。その若さゆえの気強さがカルカースには眩しく感じられる。しかし同時に、何も考えずに幸福を享受していた自身の若かりし頃を見ているようで、挫折を知らずに保てる気高い精神など根本から叩き壊してやりたくなるような薄黒い感情も沸き上がる。


(……あの少年もまた、迷いのない瞳をしていた)


 以前に出会った金髪碧眼の少年をカルカースは思い起こす。


 目の前の困難をいとも簡単に受け入れる潔さ。失敗することなど考えもしていないような豪胆さ。その心を映し出しているかの如く、眩く輝く金の髪と澄み切った青玉の双眸。それらは人の心を強く惹きつける力に満ちていた。


(あの子もまた、それに感化されたことだろう。だが、お互いにそれを失った時、どんな感情を持ち、どんな行動を取るのか――)


 とても楽しみなことだ、とカルカースは心の中で笑った。


「カルカース殿。貴方には様々な手引きを用意してもらい、大変感謝をしている。その労苦は今後、我々との末永い付き合いの中で必ず報いられることになるだろう。だが、貴方の役目はここまでだったはずだ」


 青年は明らかにカルカースの来訪を歓迎していない様子だった。それにカルカースは反感の意もなく頷いた。


「実行役に余所者は必要ない、ということは重々に承知している。君達がウラジミールの商人に奪われた至高の精神は、君達の宿意の念によってでしか取り戻せまい。それくらいのわきまえはある」

「ならば、何故ここに?」


 訝しげに問う青年に、カルカースは手に持っていた一本の酒瓶を目の前まで持ち上げた。


「アドニスの王侯貴族が好んで飲む葡萄酒だ。気高い君達の精神と計画の成功を願って差し入れを。それから、新たな賛同者を計画に加えて欲しくてね。彼を案内してきた」

「な……」


 一瞬、青年は気色ばんだが、カルカースの背後から現れた人影を見て驚愕に目を見開いた。


「……リィバ!」

「エルド、俺も計画に参加させてくれ。ここでは俺は新参者だ。お前の指示には全て従う」


 こもったような低い声音とは裏腹に、リィバは双眸を炯々とさせて言った。だが、この計画の中心となって指揮をする青年――エルドは、すぐに返答を出さなかった。


「どうして寸前になって心変わりをしたんだ? お前は俺達の計画を知っても黙認する意向を示したが一切、関わらないと伝えてきただろう。まあ、次期族長の座を危うくするような真似は慎んだほうがいいだろうしな。……まさか、俺達の計画を邪魔するためにきたんじゃないだろうな?」


 違う、とリィバは間を置かずに答えた。


「あのサニエルという男の絶望を直接、この目に焼きつけなければ気が済まない」

「サニエル?」


 その名の人物をエルドはすぐさま想起できなかったようだ。暫く眉を顰めた彼は「ああ、アーロイスの次男坊の名か」と呟いた。


「レワに懸想を抱いていた男だったな。レワのほうも、まんざらではなさそうだったが……。そういえばお前、今日もレワを追いかけてウラジミールに行ったそうじゃないか。まさか、お前が計画に加わろうと決意したのは、あいつに手酷く拒絶されたためか」


 失笑と共に指摘され、リィバはカッと頬を赤らめる。そんな彼の様子は図星だと公言しているようなものだった。


「いや、悪い」


 すぐにエルドは失言を謝ったが、その後も明らかに嘲笑めいたものを頬に浮かべていた。


「あいつは大人しそうな顔をして存外、気が強い。それに一度、惚れた男を早々に忘れられる器用さもないだろう。だが、かといって、全てを捨てて男に走る度胸までは持たない。ならば、いいじゃないか。二週間後、どうせあいつはお前のものになるんだ。それからゆっくりと毎夜の時間を優しく接してやれば、あいつだってそのうち、お前に情を持つようになるだろうよ」


 なんの問題もないとばかりにエルドは言った。この次点で彼は、リィバを計画に加える気などないようだった。


「でも俺は、レワの心を無理やり踏みにじるような真似はしたくない……」


 リィバは呻くように呟く。それにエルドはせせら笑った。


「それはあいつの心が変わるまで、あいつに触れないという意味か? だが、お前達の結婚は覆せない決定だ。ならば多少、強引なようでも、早めに諦めをつけさせてやることもレワのためだと思うがな」

「いや、あの男の不甲斐なさをレワに知らしめれば、きっと彼女から奴を見放すだろう。そうすれば、あいつは昔のように俺のことを慕ってくれるはずだ」


 次期族長である男は生真面目にそう言った。

 エルドは再度、嘲笑にも等しい表情を見せる。だが思ったことを口にすることは避けたようだった。


 カルカースもレワとは面識がある。人形のように整った容貌と小柄な体型を民族衣装で覆った愛らしい少女だった。女性であり年若いせいもあってか、周囲の男達から一歩引いたような居住いを見せていたので当初、その様子は慎ましく従順であるかのように思われた。しかし一対一で話をしてみると、そんな雰囲気からは見抜けなかったほどに自分の意思を強く持っており、彼女の中にある力強い本質はカルカースにとって小気味良く感じられたものだった。


 あの少女の心を向けさせるために必要なのは、決してリィバのいうような小細工ではあるまい。それでたとえ彼女の気を変えられたとしても、その心がこのリィバという青年に移ることはまずないだろう――とカルカースは思った。恐らくエルドも似たようなことを考えたのだろう。


「頼む、エルド。俺を計画に加えてくれ。邪魔になるようなことは決してしない」


 リィバの懇願にエルドは何かを思案するように黙っていたが、急にふと笑った。


「あんな小娘のために涙ぐましいことだな。まあ、それが俺よりもお前が次期族長に選ばれた理由だろうが。所詮、族長といえども、一人娘の幸福を願う父親に過ぎなかったというわけさ」

「……別に俺は、次期族長に選ばれようとしてレワを想っていたわけじゃない。俺は本当に昔からあいつのことが――」

「ああ、もういい、分かった」


 聞くのも鬱陶しいとばかりにエルドはリィバの話を無下に打ち切る。


「お前が計画に加わることを許可しよう。ただし先程、お前自身も言った通り、ここでは俺の命令が絶対だ。分かったな?」

「……ああ、分かっている」


 渋々といった様子ではあったがリィバは頷く。


「ならば同志よ、歓迎しよう」


 エルドは意味深な笑みを浮かべながら、新たなる仲間となったリィバと、彼らの話に付き合う形で戸際に立ち続けたカルカースを小屋の中央に招き入れた。


 一度は彼らを拒絶したリィバを、エルド以下の者達がどのようにして受け入れるかにカルカースは興味を持っていたが、特に異議を申し立てる者はなく、すんなりと彼らは新参者を認めた。それはエルドの強い統御力を表しているといえた。


 リィバと共に奥へと招き入れられたカルカースは、彼らのために持参した葡萄酒の栓をナイフと布を使って器用に抜く。そんな所作をツワルファの若者達は物珍しげに見つめていた。


「君達が好んで飲む濁酒ではないが、たまにはこういうのもいいだろう」


 赤い液体を硝子製の杯に満たし、それをカルカースはエルドに差し出す。青年は目の前の杯を暫し見つめてから、無表情のままに受け取った。そして、おもむろに口をつけて杯を傾ける。


「……舌に刺激のある味だが悪くはない」


 青年は目を細めて感想を口にすると、その杯を隣の若者へと手渡す。その若者も同じように杯を傾け、葡萄酒の味を確かめてから次にまわす。


 そうして杯は一巡りし、最後にはエルドの手元へと戻ってきた。王侯貴族の御用達である葡萄酒は、なかなかに好評のようであった。


「計画が成功した暁には、これ以上の美酒に酔うことが可能だろう。その時は、もっと多くの差し入れを約束しよう」


 カルカースの言葉にツワルファ族の若者達は期待に満ちた表情を見せる。


 エルドは空になった杯を持ったまま、カルカースの手にある酒瓶を渡してくれるように促した。その中にはまだ葡萄酒が残っていた。


 カルカースはエルドに酒瓶を手渡す。


「貴方が何故、ここまで俺達に肩入れをしてくれるのか――多少、気になる部分は残るが」


 エルドは酒瓶を傾けて残っていた葡萄酒を杯に注いだ。その様子を見つめながらカルカースは軽く笑う。


「確かに君達の計画は私にとっては無益なものだ。だが、君達の覚悟を確認するための儀式にはなり得ると思ってね。今後のツワルファを担う君達が、今までの過去を全て捨て去り、どれほどアドニスに対して忠誠を表せるのか――」

「忠誠というのは、それに値する相手に向けられるべきだ。アドニスがウラジミールと同じように我らを軽んずるのならば、同じ結果を繰り返すことになる」


 エルドが手に持つ杯から赤い液体が溢れそうになる。だが、そこでちょうど酒瓶の中の葡萄酒が空になった。


 エルドは顔を上げ、射竦めるような視線をカルカースに放った。それをカルカースは静かに受け止め、頷いた。


「ああ、それは良く肝に銘じておこう。だがアドニスで行われる予定の商談は、君達が行おうとしていることとは全く別の話だ。君達に荷担したのは、あくまでも私個人の好意だと分かって欲しい」


 エルドは暫くの間、その真意を探るようにカルカースの双眸を見据えていたが、


「この計画を貴方に知られて一時は決行を諦めたものだが、俺達は運が良かったのだろう」


 そう言って持っていた杯を手前に差し出した。


「ツワルファは与えられた恩義を決して忘れることはしない。必ず、その報いは貴方に帰ることになる」

「ああ、期待しているよ」


 カルカースはエルドから杯を受け取り、なみなみと満たされた赤い液体を一気に飲み干した。


 室内の空気は決行前の昂揚から息苦しい緊迫へと移り変わっていく。カルカースはツワルファの若者達に短いはなむけの言葉をかけると一人、その場をあとにした。


 戸外に出て、カルカースは暗闇に満ちた森を歩き始める。内の光が洩れないよう、全ての窓を布で覆った小屋は、すぐに森の暗闇に紛れ込んでいった。


 その小屋が完全に見えなくなった位置でカルカースは一旦、足を止めた。そして何事かを小さく呟くと、身体をくの字に曲げて大量の赤い液体を口から吐き出す。


 暫くの間、カルカースは嘔吐を繰り返した。


 どず黒くも見える赤い液体がカルカースの口から流れ続けて地を染める。周囲には葡萄酒の甘い芳香が漂った。


 完全に胃の中のものが無くなると、カルカースは呼吸を整え、無造作に口元を拭った。そして自身の吐瀉物を冷ややかに見下ろす。赤い液体は彼が吐き出すたびに地へと染み込んでいったが、その黒い物体だけは大地から同化を拒否されたかの如く、その場にとどまっていた。


「私は、お前達の人形になるつもりはない」


 その汚物は黒煙のような宙を漂う姿になり、カルカースの身に纏わりつこうとしていた。しかし彼の口から冷厳に言葉が発せられると、まるで打ち消されるようにして霧散する。


 その余韻が完全に消え去ると、カルカースは口元に酷薄な笑みを浮かべた。


「……さて、彼らの内に取りついた闇が、どのように育つか見物だな」


 半ば楽しげに一人ごちた彼は、ツワルファの集落がある方向へと揺らぎのない足取りで向かった。




「これを私に、ですか?」


 レシェンドは怪訝そうに柳眉を顰めて、イルゼの差し出した藍色のスカーフを見た。


「ええと、はい……」


 緊張というよりも、怯えに近い色を見せながらイルゼは頷く。


 イルゼとセレファンスは薄暗くなる時刻まで、たっぷりとウラジミール市内の観光を楽しみ、つい先程、テイラー邸に戻ってきたばかりだった。すると案の定、少年達の出し抜きをくらったレシェンドは不機嫌の頂点に達しており、しかも玄関先で彼らの帰りを待ち構えていたのだ。

 覚悟をしていた事態とはいえ、そんな彼女を目の前にした時の迫力は予想以上だった。


「そうなんだ、綺麗な品だろう? いつもレシィには世話になってるからさ、俺とイルゼからの感謝の気持ちってことで」


 取り繕うように言ったのはセレファンスだ。この事態を予想しながら高を括っていたはずの彼だが、レシェンドの憤然としたさまを目の当たりにすると、さすがに多少、対応が必要だと考えを改めたようだった。


「お二人からの?」


 驚きの感情によってレシェンドの顔から少しばかり怒りの色が薄らぐ。


「ええ、そうなんです」


 すかさずイルゼは力強く頷いた。


「でも、その色を選んだのはイルゼだけどな」

「……セレっ!」


 余計とも言える一言に、イルゼは思わず非難の声を上げた。


(一緒に選んだってことにしようって言ったのに!)


 本当ならば、セレファンスが選んだんです、とイルゼは言いたいくらいなのだ。そのほうがレシェンドの機嫌を直すには効果的だと思えるからだ。


(なんでだよ? いいじゃないか、その色、レシィに似合うと思うぜ。イルゼの見立ては、なかなか筋がいい)


 いかにも面白がっている様子でセレファンスが囁き返した。それにイルゼは苛立ちを隠せない。


(そう言って、全部の責任を僕に押しつけようとしてるだろう? 大体、いつもセレは調子のいいことばかりを言って――)

「これはツワルファ族の染物ですね?」


 イルゼから受け取ったスカーフを眺めながら確認のようにレシェンドが問う。


「えっ? ――あ、はい、そうです!」


 イルゼはレシェンドを振り返り、慌てて答えた。するとレシェンドは頷き、再びスカーフを見つめる。


「ツワルファの染物は四季が感じられる自然の色合いと、繊細で趣きのある移ろいがとても美しいと言われているんです。その染色技術は彼らにしか持ち得ない特別な技だと以前に聞いたことがあります」

「……そう、なんですか……」


 そう言えば、そのようなことをツワルファ族の少女も言っていたな、とイルゼは思い出した。しかし、そんな話の甲斐もなく、イルゼの選んだそれは色の移ろいどころか見事な藍の色一色だ。今更だがイルゼは選択の間違いに気づいて肩を落とす。そんな少年を見てレシェンドは続けた。


「ですが、その反面、彼らは斑のない一色染めも得意としているそうです。これなどは、きっと熟練の職人によって染められたのでしょうね。とても美しい藍の色ですから」


 そう言うとレシェンドは柔和に微笑んだ。


「ありがとうございます、お二人とも。大切に使わせていただきますね」


 率直な感謝と優しい微笑にイルゼは思わずきょとんとした。そして次には完全に狼狽えてしまう。レシェンドの反応が、あまりにも予想外だったからだ。


「あ、いいえ、だって、いつも僕のほうがお世話になっていますし、剣術だって、とても丁寧に教えてもらってるし」


 そう言ってイルゼは、とにかく精一杯の感謝を込めて頭を下げた。


「こちらこそ、いつもありがとうございます。それと、その……本当にすみませんでした。黙って出かけてしまって」


 イルゼが身を縮めて謝罪をすると、レシェンドは苦笑しながら頭を振った。


「別に、初めから怒ってなどいませんよ」

「でも、さっきは」

「ただイルゼが、あまりにも素直に落ち込むものですから少しからかっただけです」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて言うレシェンドに、イルゼは呆気に取られた。そこでセレファンスがすかさず楽しげに同意する。


「ああ、それは分かるな。イルゼって反応が馬鹿みたいに真正直だから、からかいたくなるんだよ」


 その言いようにはさすがのイルゼもムッとする。すると、そんな彼の気持ちを汲んだかのように、レシェンドは澄ました表情で、


「そういえば幼い頃のセレファンス様も、とても反応が素直でいらっしゃいましたね」


 と、のたまった。その言葉にセレファンスは、ぎょっとした様子で彼女を見た。


「レシィ、何を言って……」


 嫌な予感を覚えたのか、セレファンスの声音は強敵を前にして怯んだものとなっている。


「昔のセレファンス様は、それはもう素直でいらっしゃいました。悪さをされて私に注意を受けられた後には、いつもすかさず憎まれ口を叩かれていましたね? でも暫くすると、そっと傍らに近づいてこられて『レシィは、ぼくのことが好き?』と確認を取られるんです。そして私が『ええ、もちろん好きですよ』と答えますと『ぼくもレシィが大好きだよ』と、はにかんだようにおっしゃって――」

「レ、レシィ!」


 悲鳴のようにセレファンスが声を上げた。どうやらやはり彼女は怒っていたようだった。ただしイルゼにではなくセレファンスに。


「幼い頃のセレファンス様は、それこそ天使のように愛らしいご容姿をしており、時折り女の子にも間違われることがありましたから」

「へえ、そうなんですか?」

「ええ、あまりにも周囲から可愛い可愛いと言われ続けたせいか、ある時から一人称が『ぼく』から『おれ』なったのでしたね。それでも可愛らしいのは変わりませんでしたが」


 何故か誇らしげなレシェンドに、イルゼは笑いをこらえながら相槌を打つ。

 話の内容に興味はあったが、それに対して可笑しさを感じていたわけではない。セレファンスの慌てふためく姿が珍しく面白かったのだ。


「――ああもう! 分かった、悪かったよ! もう、無断でいなくなるような真似はしないから!」


 どうやらセレファンスも、この昔話がレシェンドからの罰だと悟ったようだ。そんな彼を見て苦笑を浮かべたレシェンドだったが、次に小さく息をつくと表情を改めた。


「セレファンス様、煩わしいと思われるかもしれませんが、どうかお聞き入れください。私の使命はセレファンス様をお守りすることにあります。ですから本来ならば終始、私がお供をしたほうが良いと考えますが、それではセレファンス様はご不満なのでしょう? ならばせめて、お出かけの際には行く先とお帰りの時刻を告げていただき、お一人では出歩かないと約束してください。今回はイルゼが一緒だったようですので良しといたしますが……ただし、これは安全な場所に限ってのことですからね」


 まるで幼い子供に言い聞かせるような内容だったが、彼女にとっては切なる願いなのだろう。セレファンスは居心地が悪そうにではあるが「分かった」と深く頷いた。


 セレファンスの返答を聞き、レシェンドは安堵したように微笑む。イルゼにとっては厳しい印象の強い彼女だか、セレファンスと接している時は優しく柔和な表情を多く見せる。それを見ていると母親を知らないイルゼであっても、それはきっとこういう存在なのだろうかと感じることができた。


「ではお二人とも、すでに夕食の支度は整っておりますので、まずは部屋で着替えを済ませてから食卓の間に下りてきてくださいね」


 どうやらレシェンドはテイラー邸に滞在中、炊事を自分の仕事としたようだ。彼女は少年達に身なりの確認を勧めると、炊事場のある奥へと歩いていく。


 イルゼとセレファンスは互いに互いの様相を見やる。そして苦笑いを浮かべて肩を竦めた。彼らは汗と埃にまみれて薄汚れており、そのまま食卓につけるような姿ではなかったのだ。


 やんわりとしたレシェンドの要求を満たすため、二人は割り当てられた二階の部屋へと足を向ける。一度、軽く身体の汗を拭ったほうが良いだろうと考えながら、イルゼは階段の中腹辺りで何気なく振り返った。


「セレ?」


 イルゼは怪訝にセレファンスを見た。彼がレシェンドの歩いて行った先を気にしながら、階段の手前で立ち止まっていたからだ。


「先に行っててくれ」


 ぶっきらぼうに短く言うと、セレファンスは踵を返す。


 そんな彼の背を見て、イルゼはレシェンドから聞かされた逸話を思い出して、一人、可笑しさを堪えながら階段を登り始める。


 恐らくセレファンスはレシェンドの元へと向かったのだろう。そしてきっと彼は、真摯な言葉と態度で謝罪と感謝を彼女に伝えるだろう。


(セレにとってレシェンドさんは本当に大切な存在なんだな)


 彼は幼い頃に不慮の事故で母親と姉を亡くしているので尚更なのかも知れない。レシェンドにしてもセレファンスに対して厚い忠義心のほかに、深い愛情を持って接していることが良く分かる。

 それはとても微笑ましいことではあったが、全てを失ったばかりのイルゼにとっては、寂しさも増幅させるものだった。


 その日の夕食は、仕事で帰りが遅くなるらしいグリュワードを除いた面々で取ることになった。レシェンドの美味なる手料理を堪能したあとは、思い思いに居間でくつろぐ。


 と、そんな彼らにウラジミール市内で起こる騒動の一報が入ったのは、それから暫くしてのことだった。

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