第19話 ツワルファ族

 フィルファラード大陸は大きく四つの盆地に分けられる。まずは北西から南東に向かってプレアデス山脈が大陸を斜めに横断する。更に北東から南西へ延びるウィローズ山脈がプレアデス山脈へ行き当たり、それら二つの山脈が交わる辺り――ちょうど大陸中央となる場所には、頂上を常に雲で隠したインザラーガ山が険しく聳え立つ。


 そこはかつてなだらかな高地で、古代皇国フェインサリルのあった地であり、聖皇シエルセイドが不在となった時から多くの地震が見舞うようになった。その影響によって激しい地殻変動が発生、のちにインザラーガと名づけられる主峰が隆起した。その時、フェインサリルの都は、激しい地変に巻き込まれて壊滅したと伝えられている。そして現在、その地には、かつての光の皇国を想起させる遺物は少しも残されていない。


 古代皇国フェインサリルを世界から消し去った地殻変動は、フィルファラード大陸にも大きな傷跡を残した。現在、インザラーガ山の聳える場所を基点にして、フィルファラードの地は南西の海へと向かって大きく地割れしたのだ。それが今の西領と南領を分断するように存在するバートラム大渓谷であり、その狭間を走る豊水はインザラーガ山から大西海へ向かって絶えず流れ込んでいる。


 こうした地形によって四つに分けられる盆地は、ちょうど東西南北に位置し、古代皇国フェインサリルの支流である四大皇国がそれぞれに統治しているのだった。


 そのうちの二国家、南皇国テオフィルと西皇国リゼットは、交易による互いの利権を尊重し合いながら良好な国交を保っている。その国境いにあり、物流の拠点である交易都市ウラジミール。そこからプレアデス山脈に向かって北東に進むと、インザラーガ山の麓までを覆う樹海が広がり、その奥深い場所に――ウラジミールの者であれば『人喰いの森』と呼び、迷い込むことを恐れて決して近づかない地にツワルファの部族は暮らす。


 彼らは他の少数民族と比べても格段に特徴のある身体形質――淡い褐色の肌、青みがかった銀色の髪と瞳を持つ。ツワルファ族の祖先は元々、フィルファラード大陸から最も遠い地とされる『世界の最果て』に住む未開民族だった。しかし古代皇国フェインサリル時代、大陸に出入りしていた奴隷商人によって、この地へと強制的に連行されてきたのだった。


 彼らは容姿端麗な者が多く、それに加えて芸術的な感性が優れていたため、娯楽に金を惜しまなかったフェインサリルの貴族相手に他の奴隷とは別格の高値で取引された。しかしフェインサリル滅亡と同時に、その奴隷の多くは混乱に乗じて逃亡し、または自身の身の振り方さえままならなくなった貴族達に良く言えば解放、悪く言えば置き去りにされたのだ。そんな窮状の中、彼らは一致団結し、後々の貴族達による勾引を恐れて、インザラーガ山麓の樹海に身を隠すようにして暮らし始めた。それが現在のツワルファ族の成り立ちである。


 今ではテオフィルもリゼットも奴隷制度を廃止しているため、ツワルファ族が勾引される恐れはまずないのだが、それでも彼らは樹海から離れて暮らそうとはしない。それは彼らの心に根づいたフィルファラード人への不信が七百年の時を経た今もなお、消え去らないほどに強いことを証明しているのだろう。


 そのせいもあってかウラジミールの市民はツワルファ族を疎ましく思い、文明を解しない土着民族と蔑視する向きも少なくはなかった。




「レワ。またアーロイスの次男坊のところへ行っていたのか」


 ツワルファ族の少女が夕暮れ時の薄暗い森の中を歩いていると、背後から厳しい声音に呼び止められた。


「お父さん」


 少女――レワの振り返った先には彼女の父親であり、ツワルファの族長でもあるガルダが立っていた。その表情は少女が怯えて首を竦めてしまうほどに険しい。


「あ、あの……やっぱりサニエルには一言、お別れだけは言っておいたほうがいいと思って……」


 レワは父親の理解を得るために、狼狽えながらも言葉を継ぎ出す。


「でも、すぐに挨拶だけを済ませて帰ってきました。だって彼は、ツワルファのために色々とアーロイス商会にかけあってくれていたでしょう? だったら、お礼くらいは――」

「言い訳はいい。私は今後一切、あの男に会うなと言ったはずだ」


 ガルダはぴしゃりと娘の弁明を遮る。


「……ごめんなさい」


 レワは気押されたように俯くと、弱々しく呟いた。父親の威圧的な視線を恐れて、少女は息を詰めながら俯き続ける。


「――よもやあの男は、お前に手など出してはおらんだろうな?」


 暫くしてからガルダの発した言葉の意味を、レワは瞬間的に捉えられなかった。戸惑いながら顔を上げた娘に、父親は再度、問うた。


「あの男はお前に、娼婦のような真似事をさせたりはしなかっただろうなと訊いている」


 先程よりも明確な確認に、レワは何を問われたのかを理解して唖然とした。ガルダは娘の貞操を疑っているのだ。


 レワには後ろめたい事実など一つもない。それでも、これほど表情と返答に困惑する質問はないだろう。ここはすぐにでも反論しなければならないところだったが、少女の頭の中は真っ白で、言うべき言葉が咄嗟に思いつかなかった。


「どうなのだ」


 ガルダは一層、表情を厳しくして問いつめてきた。


 恐らく、こちらも明確な言葉で答えなければ、この父親は納得するまい。はぐらかすことなどは到底、無理だと思われた。


 レワは心の動揺を吐き出すようにして大きく息をつくと、父親の視線を真正面から受け止めた。


「……お父さんの疑っているようなことは一切、私達の間にはありません。サニエルが私に対して不埒な態度を取ったことなど一度だってありません」


 毅然とした態度でレワは言った。ここで疑念を晴らすことができなければ、自分だけではなく、サニエルまでも同じ物差しで見られてしまう。


「インザラーガの神に誓ってもか」

「はい、誓って」


 ガルダの再確認にレワは強く頷いた。


 インザラーガの神とは、その名の通り、霊峰インザラーガに住まう神を指す。

 しかしこれはツワルファ族のみが持つ概念だった。彼らにとって霊峰インザラーガの隆起は、フィルファラード人に蹂躙されるツワルファ族を憂いた神が起こした災害であり、その後、彼らを見守るために気高い神がおわすようになったと信じられているのだ。

 このようなことからツワルファ族は時として、レワとガルダのようにインザラーガ山の神を誓盟の立ち会いにすることが多かった。だが対称的にフィルファラード人にとってインザラーガは、聖皇国を滅亡に導いた悪しき存在として忌まれることがある。


「ならばいい。ツワルファの族長となる男の花嫁が異民族によって汚されたとあっては、あの男の首を切り落とし、その浄化と容赦を神に願わなければならなくなるからな」

「……それは、どういう……」


 花嫁、というのが自分を指すのだとすぐに悟り、レワは戸惑いながら父親を見た。


「お前とリィバのことだ。次の望月の夜には、お前達は夫婦の契りを交わすことになる」

「な……」


 レワは父親が当然の如く言った内容に絶句する。


「お前は私のたった一人の娘だ。すでにお前の母は亡く、私も他を娶る気はない。お前が私の親族のうちから婿を取り、その男がツワルファの次期族長となる。それについては幼い頃から言い聞かせてきたはずだ。それに以前からもリィバとの結婚話はあったことだろう。何故、今更になって驚く?」

「でも、何故、そんな急に」

「今日の長老達を交えた会議で、我が部族の者をアドニスに派遣することが確定した。その統率者について皆に意見を求めたところ、族長の娘よりも次期族長のほうが部族の名代に相応しいとの発言が出たのだ。我々は評議をとり、それは良案との結論に達した。もちろん、お前も夫と共にアドニスへ向かうことになろうが」

「そんなこと、急に言われても」


 動揺する娘に構わずガルダは続ける。


「リィバはまだ若いが、老若男女を問わずに多くの信頼を受け、気骨のある男だ。次期族長として申し分ないだろう。長老達の推薦もあり、現族長の私としても異存はない。何より、最長老に告げられたインザラーガ神よりの託宣が、お前達の契りを祝福すると出た。それに私は大切な一人娘を託す父親としても、リィバを信頼のおける男だと認めている」

「お父さん……」


 レワは父親の言葉に自分へ向けられる深い愛情を感じ取る。レワの母親は彼女が物心つく前に病で亡くなった。しかし父親であるガルダは後妻を娶ることはしなかった。ツワルファ族の掟では、生母を失った族長の娘は、継母となる女性に今まで父母と共に暮らしていた母屋を明け渡すことになる。そして離れに追いやられ、事実上、継母に仕えることを余儀なくされるのだ。その時、どんなに娘が不憫な境遇に追い込まれたとしても、族長は家の中を取り仕切る妻のやり方に口を挟むことはできない。女には女だけの不可侵な領分が存在すると考えられているからだ。こうしたこともあり、下手をすれば継母の裁量次第で娘の人生は一変することにもなりかねなかった。


 恐らくガルダは、それを良しとしなかったのだろう。再婚を勧める周囲に対し、ガルダはレワが自分の親族の中から婿を迎えることを条件として、後妻を娶ることを拒んだ。そしてレワは今の今まで、父と二人だけで母屋に暮らし続けることが可能だったのだ。


 レワにしても、いずれは部族内の誰かと結婚をしなければならないことは了解していた。しかし、今はどうしてもそれを甘受する気にはなれなかった。


「リィバが、とても素晴らしいツワルファの男だということは私も知っています。でも私は、まだ結婚なんて……」

「これは神と族長と長老、三位一体にて下された決定だ。今更、取り消すことはできない。二週間後、お前達は祝言を挙げる」

「……お父さん!」

「何度も言うが、これは確定されたことだ。二週間後までにはお前も心構えはしておくように」


 もはや何も言うべきことはないとばかりに、ガルダは愕然とするレワを残してツワルファの集落がある森の奥へと歩み去っていった。


「そんな……」


 一人取り残されたレワは無意識に呟いた。染み入るような失意が心を支配し、知らず知らずに瞳は涙で満ちた。脳裏にはいつも優しく微笑んでいた青年の姿が掠める。


「レワ……」


 突然、呼びかけられた声に少女は心臓を跳ね上げさせた。それはもちろん歩み去った父親の声ではない。声の聞こえたほうを振り返ると一つの人影が確認できた。


「――リィバ?」


 声から推察した人物へとレワは眉を顰めながら確認を取る。すでに周囲は暗く、その人影から特定の誰かを見極めることは難しかった。


「ああ」


 肯定の答えと共に彼は姿を現した。少女と同じ色の肌と髪、双眸を持つ二十代前半の青年。精悍な顔立ちをしており、こちらへ向かってくる動作も剛健な気質を窺わせる。


 そのリィバという名の青年はレワの従兄に当たり、幼い頃から身近にいる頼もしい兄のような存在だった。しかし次期族長と取り沙汰されるようになってからは、目下の者への物言いが威圧的になった。レワに対してなど、まるで彼女が自分の所有物であるかの如く、その行動を兎角、監視するようになっていった。それにレワは強い反感を抱き、加えて頻繁にサニエルと会っていたこともあり、最近ではめっきりリィバとの関わりは疎遠になっていた。


「今の父との話、聞いていたの?」


 咎めるようなレワの口調にリィバは悪びれた様子もなく頷いた。


「立ち聞きするつもりはなかった。ただ、族長がお前をウラジミールへ捜しに行ったようだと聞いたから、同行するつもりで追いかけてきたんだ。俺もお前のことが心配だったからな」

「……心配することなんてないのに。ウラジミールにはもう何度も行っていて迷うことなんてないわ」


 レワは泣きそうになっていた事実を悟らせないため、わざとつっけんどんに応対した。


「違う、そういう心配をしているんじゃない。このまま、お前が帰ってこないんじゃないかと思ってた。あのサニエルという男のところへ行ったまま」


 リィバの言い分にレワは眉間にしわを寄せる。


「そんなこと、あるわけ」

「いいや、ある。お前は、あの男が好きなんだ」


 リィバの思わぬ言葉に少女は目を見開いた。


「何を言って――」

「そうなんだろう? 俺には分かった。それにあの男も、いつもお前のことを一人の女と意識して見つめているようだった」

「…………」


 リィバの指摘に、少女は思わず苦渋に表情を歪ませる。

 それはレワも感じ取っていたことだった。あの穏やかな青年は、直接、その想いを口にすることは一度もなかったが、持ち前の柔和な表情や仕草によって常に深い愛情を少女に伝えてきた。レワにはそんな青年の想いが不快ではなかった。むしろ温かくて心地が良く、いつまでも彼の傍にいたいとさえ思えたのだ。しかし今では、それも辛く悲しいことでしかなかったが。


 と、ここでレワはあることに気づき、訝しげな表情をリィバに向けた。


「……ちょっと待って。リィバ、何故、あなたがサニエルのことを知っているの? 今まで彼に会ったことなど一度もないはずでしょう?」


 問い質すレワに対して、リィバは口を閉ざしたままだ。


「――まさか、今まで私のことをつけてたの……!?」


 青年の態度から自身で導き出した答えに対し、レワは信じられないとばかりに声を高めた。しかしリィバは平然と言ってのける。


「悪いとは思っていた。だが仕方がないだろう。お前は、あの男にのめり込み過ぎていた。都会の男は口が上手い。お前のように世間知らずな娘を取り込むのはお手の物だろうからな」

「サニエルはそんな人じゃないわ!」


 レワの憤りにリィバはせせら笑うように頷いた。


「ああ、お前ならそう言うだろう。分かっている、レワは人を疑うような性格じゃないよ。だからこそ、俺のような監視役が必要なんだ。族長が心配するような、取り返しのつかない事態が起こらないようにね」

「……酷い! そうやって私達のことを疑って、いつも見張っていたのね!」


 レワはあまりの屈辱と湧き上がる憤慨に声を震わせる。それにリィバは悪びれた様子もなく切り返した。


「だが族長は俺の行動を認めてくださっていた。お前はまだ若く、夢見がちな部分があるから気をつけて見てやってくれと。族長も俺も心配だったんだよ。あの男に唆されて取り返しがつかなくなった時、お前が傷つくだけだと――」

「違う! あなたも父も、単に私を信用していなかっただけじゃないの!!」


 レワは悲鳴のように叫ぶ。

 監視されていたという事実よりも、父親と兄のような存在のリィバから、そのような目を向けられていたことが何よりも悲しく悔しかった。こんな時、母が生きていてくれたら――この惨めな感情から救ってくれただろうか。少女は、そう思わずにはいられなかった。


「……そうまでして何故、父は私がサニエルに会うことを止めなかったの? そうすれば、あなたを監視役に仕立てる必要もなかったでしょうに」

「それは……奴がアーロイス商会長の弟で、お前と会える状態にある間は、ツワルファに有益な行動をとってくれるだろうと」

「酷い」


 あまりにも酷薄な父親らの考えに、少女は青ざめて絶句した。そして顔を両手で覆うと、偽りのない優しさを持った青年を想ってすすり泣いた。


「レワ……」


 リィバの手が少女のか細く震える両肩を背後から捕らえようとする。だが彼女は素早く身を翻し、その手から遠く逃れた。


「レワ」


 リィバが少女の行動を驚愕の表情で見る。


「あなたが私に向ける心配は、私のためなんかじゃない。あなたが次期族長となるために必要な花嫁が失われることを怖れてだわ。あなたにとって私は、族長となるために必要な免状でしかないのだから」


 レワは皮肉な声音と意地の悪い表情で言い放った。するとリィバは「それは違う」と間を置かずに言い切る。


「俺は本当にお前のことを心から大切に思っている。族長の娘だとか、そんなことは関係ない。俺だってお前のことを一人の女性として愛しているんだ」


 突然の告白にレワは思わず青年を凝視した。二人の周囲を流れる時が、一瞬にして凝結したような錯覚を覚えた。


「……そんなこと、今までは一言も」


 戸惑いによる長めの沈黙から、やっとレワは口をつく。にわかに騒がしくなった心臓の音が、嫌に大きく耳の奥で聞こえた。


 納得できるかできないかは別にしても、部族の男との結婚という行く末はレワの中に当然の如くあった。しかし、それはあくまでも族長の娘である自分に課せられた役目であり、そこに少女自身へ向けられる想いなどは存在しないと思い込んでいたのだ。


 ところが目の前の青年は、少女を利害に関係なく愛していると言った。それは彼女にとって予想だにしていなかったことだった。


 リィバは動揺を隠せないレワにゆっくりと歩み寄ってくる。少女は一瞬、逃げ出したい衝動に駆られたが、それをなんとか思いとどまった。


「……確かに、こんなことは今まで一度も口にしたことはなかった。いや、あえて口に出す必要はないと思っていたんだ。お前も俺と同じ気持ちでいてくれると感じていたから――。それなのにあの男と会うようになってからは、どんどんと俺達の関係は冷え切っていった……」


 青年の主張に少女は内心、眉を顰めた。どうやら彼はレワが自分に好意を寄せていたのだという前提でもって話を進めているようだった。だが、それは彼の思い違いというものだ。今までレワがリィバに、そのような感情を抱いたことなど一度たりとてない。彼に持ったことのある感情は、幼い頃から今の今まで家族に対する類いの親愛のみだ。確かにサニエルの存在が多少なりとも従兄との関わりを疎遠にしていた原因ではあったかも知れないが。


 レワは急速に平静さを取り戻しながら小さく溜め息をついた。心さえも都合良く解釈されてしまうような境遇に自分はあるのだと、改めて確認させられた思いだった。


「レワ。俺達は昔、あんなに仲が良かっただろう? だから、これからだって俺達は上手くやっていける。俺はお前を大切にするよ。お前だけを一生、愛し続ける」


 リィバは自身の言葉に一切、迷いを持ち得ないような双眸でレワを見た。


 そんな青年の眼差しを受けながら、レワは心の中で乾いた笑いを発した。愛すという言葉がこれほどまで空々しく聞こえるものなのかと可笑しく思ったのだ。初めて受けた告白に陶然とする気など、少女にはもはやなかった。


 恐らく、この青年自身でさえも気づいていないのだろう。彼が少女の気持ちなど一切、必要としていないことに。その証拠に、今までの青年の言葉にはレワの心を計ろうとする声は一つもなかった。


「……たとえ、どんなにあなたが私を想ってくれても、そこに私の心の居場所は存在しないわ」


 諦念とした感覚に支配されながら、レワは独白のように呟いた。


「父もあなたも、私の考えや想いなんて少しも考えようとしてくれないのね。ううん、必要だと思わないから考えに至るはずもないんだわ。でも、サニエルは違った」


 レワは感情の凪いだ視線でリィバを見る。


「サニエルは本当にツワルファのこと、そしてウラジミールの将来を考えていたわ。いつだって自分の信念を大切にしながら、周囲の人達にとって最善の道を模索していた。それなのにあなたや父は、自分達部族のことしか頭にない。それどころか、サニエルを利用してま、で……!?」


 突如、レワの右頬に鋭い衝撃が走った。視界がぶれ、意識が急激に遠のく。


 自分に何が起こったのか、考える余裕すら与えられなかった。気がつけば彼女は地面に倒れ込んでいたが、衝撃を受けてからそこに至るまでの記憶が全くない。恐らく、短い時間ではあろうが気を失っていたのだろう。


 レワは意識をぼうっとさせながら上半身を起こした。右頬に疼きを感じ、知らず知らずにそこへと手の平を寄せた。すると、自身の手の冷たさが、はっきりと頬に伝わった。


 自分はリィバに殴られたのだ――そこでやっとレワは事実を認識した。痛みや恐怖よりも、驚愕のほうが上回った。


 おもむろにレワが見上げると、そこには無表情で自分を見下ろすリィバがいた。そんな彼の持つ雰囲気に少女は思わず震え上がる。その視線は嫌悪の対象でしかない虫けらを見下ろすが如く、冷酷なものだった。このまま無慈悲に踏み潰されてしまうのではないかとさえ思えた。


「サニエル、サニエルと……族長の娘ともあろう女が、異民族の男に執着するさまは見ていて見苦しいことこの上ないな。こっちが折角、お前の幼稚で夢見がちな精神構造に合わせてやったというのに」


 青年は吐き捨てるように言うと、嫌悪を露わにした表情に酷薄な冷笑を閃かせた。


「だが、いくら幼くとも、女であることには変わりないようだ。その甘ったるい香りで奴を籠絡するつもりだったのか? 全く、子供子供と思っていたが、そんな手管をいつの間に覚えたのやら。おぞましいこと、この上ない」

「――リィバ?」


 青年の口から出る下劣な嘲りにレワは耳を疑った。それでも青年はなおも続ける。


「いいか、お前がどう思おうと、俺達の結婚はもはや決定の下されたことだ。覆すことなんてできはしない。あの男のことなんて早く忘れたほうがいい。それだけ、お前が苦しむだけのことだからな」


 リィバは意味ありげな笑みを浮かべると、地に座り込んだままのレワを残して森の奥へと戻っていく。


 レワは茫然と青年を見送った。何度となくリィバに怒鳴られたことはあったが、手を上げられたことは初めてだった。それに加えて先ほどの口汚い悪口はなんだったのか。それはレワの知る質実剛健な気質であるはずの彼からは到底考えられない物言いだった。


「何故、こんな……」


 レワの双眸から大きな涙が零れ落ちる。そうして次々に流れる涙と比例して、悔しさと悲しさ、絶望、恐ろしい予感、多くの薄暗い感情が少女の中に満ち満ちた。


「サニエル……っ」


 レワはそれらの重圧に堪えかねて、愛する青年の名を呼んで泣き伏せる。


 少女にはこれから自分がどのように行動すれば良いのか、何一つ分からなかった。

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