第18話 街の散策
セレファンスの叔父グリュワード=テイラーは、交易協同組合の長として、この大都市ウラジミールで確固たる地位を確立しており、それと同時に市民や労働者から多くの尊敬と信頼を集め、何かと摩擦のある業者からも厚い信任を得ているのだとレシェンドは言った。それはグリュワードの気さくな人柄と周囲の反応からも窺え、イルゼも納得のできるところだった。
そんなグリュワードの住まいは、繁華街から遠く離れた閑静な区画にあり、緑豊かな広い庭に埋もれるようにして建っていた。昨日は夜遅くに到着したため、その暗々とした様子にイルゼは思わず息を飲んだが、早朝に庭へ下りると一変、そこは明るく爽やかな空気の渡る場所だった。
今、太陽の高くなったテイラー邸の庭は、多少残暑に厳しいが、それを遮る木々の緑は映え、色鮮やかに咲き誇る花々は目映く美しい。だが残念なことに、それらを楽しむ余裕はイルゼになかった。
「踏み込みが甘い! 何度、言わせる気だ!」
光に満ちた空間に、レシェンドの怒声が響き渡る。
イルゼは容赦のない体当たりに身体をよろめかせた。腕には跳ね上がるが如く衝撃を受けて、手の内の剣を取り落とす。
短時間で終わった立ち合いにイルゼは呆気としたが、相手であったレシェンドはそんな少年を冷ややかに見下ろすと、
「何故、すぐに剣を拾おうとしない? 首を取られるまで敵に失意を見せるな! 隙を与えず、次の行動に繋げることを考えろ!」
途端、そんな厳しい叱咤がイルゼの意識を殴りつける。
「あ、はいっ、ごめんなさい……!」
慌てて硬直を解いたイルゼは剣を拾った。そんな気の抜けるような反応に、レシェンドは呆れ果てた表情で溜め息をつく。
「あっはははははっ」
そんな様子を傍らで見ていたセレファンスが跳ねるような笑声を発した。
「イルゼは気が優し過ぎるんだな。それじゃあ、いつまで経ってもレシィには勝てないぞ」
「私は一生、彼に負ける気などありません」
セレファンスの言葉にレシェンドは本気であろう返答を口にする。
それを聞いたイルゼは肩を竦めるしかなかった。彼自身もレシェンドを打ち負かそうなどという望みは大それているようで持てそうにない。しかし、それを口にすれば、この熱血な女騎士はイルゼの気概の無さを烈火の如く叱りつけるだろう。
「でも短期間で随分と上達したじゃないか。まともな形になるのは、もっと先かと思ってたのに」
しょぼくれるイルゼに同情したのか、セレファンスは評価も口にした。すると意外なことにレシェンドも同意する。
「ええ、そうですね。イルゼは教えられたことを素直に吸収しようとしますから上達が早いのでしょう。それに聞くと彼は幼い頃に基本的な型を養父殿から教わっていたそうですから」
「――へえ、そうなのか?」
「うん、一応……」
初耳だと言わんばかりのセレファンスにイルゼは頷いた。
別に隠していたわけではない。自分の身につけている技術など実地に役立つものではなかったし、わざわざ披露するほどの経験でもなかったからだ。
イルゼは元々、好き好んで剣術の手解きを養父から受けていたわけではなく、身を守る術として半ば強制的に教え込まれていただけだった。事実、イルゼはダグラスが他界してからは今回に至るまで、一度も剣を握らずに過ごしてきたのだ。
「でも、教えにくくなかったのか?」
セレファンスがレシェンドを振り返る。質問の意味を正確に理解して、女騎士は少し困惑気味に頭を振った。
「それが――彼が身につけている型は、城に従事する騎士見習いが当初に教え込まれるものと良く似ていたので」
下手な癖がついているくらいならば、未経験者であったほうが教える側としては有難いのだ。
「ふーん……じゃあイルゼの親父さんは、どこかの城に仕官していた人なのかも知れないな」
セレファンスの言葉にイルゼは過去の記憶を探る。
「……そういえば村の人がそんなことを言ってたかな。父さんは十九歳の時に村を出て行って、どこかの国に仕えていたらしいって」
「らしい? 親父さんには直接、聞いたことはなかったのか?」
セレファンスの問いにイルゼは肩を竦めた。
「僕が生まれる前のことだし、そういうのを父さんは話したがらなかったから」
しかし、こうして考えてみると自分は、あんなに大好きだった養父のことを何一つ知らないのだと気づく。養父が自身の過去とイルゼの出生話を語らなかった理由は一体、なんだったのだろうか――
「……まあ、今日のところは、これで終わりにしましょうか」
レシェンドはイルゼの鬱々とした思考を中断させるようにして言った。
脱ぎ置いていた上着に向かう女騎士の背を見届けてから、セレファンスはイルゼに振り向いた。
「なあ、イルゼ。昼食の後、街に出ないか? ここの街はたくさん珍しい売り物があって面白いぞ」
楽しげに提案する金髪の少年を見て、イルゼは了承の笑みを浮かべて頷く。
養父のことは今更、考えても仕方のないことだ。悔やんでも、もう二度と元には戻らないものなのだから。
イルゼは気を取り直すようにして空を仰いだ。
「本当に賑やかだね」
「ああ。収穫期を迎えた今が一番、活気のある時期だからな」
イルゼの感想にセレファンスは頷く。
二人の少年は豊富な品々と人が溢れるウラジミールの目抜き通りを歩いていた。イルゼにとっては見るもの感じるものが全て新鮮で、目についた店先を冷やかすだけでも十分に楽しめた。
「でも、レシェンドさんに黙って出てきて大丈夫だったかな……」
イルゼはセレファンスの忠実なる女騎士を思い出して肩を竦める。
彼らは昼食の後、レシェンドの目を盗むようにしてテイラー邸から抜け出していたのである。
「仕方ないだろ。レシィに言ったらお供しますって言うに決まってるんだから。俺だってたまには付き添いなしで歩きたいんだよ。それにレシィにしても、俺のおもりから解放されて気分転換になるだろうさ」
そう言ってセレファンスは結論づけたが、
(レシェンドさんにとっては気分転換どころか、余計、心労が増すだけだと思うけど)
と、イルゼは思った。
「セレはいいよ、僕はあとでなんて言われるか……」
セレファンスの手前、言われないまでもかなり不機嫌な表情をレシェンドから向けられることは間違いない。それはイルゼにとって、なんとも理不尽なことだ。大体、セレファンスの行動をイルゼが制限できるわけがない。
「別にレシィだって本気で怒ってるわけじゃないんだし、そんなの気にしないけりゃいいのに」
その元凶であることを棚上げにしたセレファンスの言いように、イルゼは恨めしそうな表情を浮かべる。
そんなたわいのない会話を交わしながら歩みを進めるうちに、彼らは大きな円形状の広場に出た。そこは街の幹線道路が集束する場所のようで、多くの荷馬車と人間がそれぞれの行き先を目指して乱雑に行き交っている。それと同時に市民の憩いの場でもあるのだろう、備え付けられた長椅子や木陰では思い思いに寛ぐ人々の姿が見られた。
そんな光景を見渡していたイルゼの目に、見覚えのある姿がとまった。
「あれ、あの人って確か」
昨夜、酒場で暴力沙汰を繰り広げた兄弟の片割れである青年が、広場の中央近くにある花壇の傍らで何やら熱心に作業をしている。どうやら露店を開く準備をしているようだった。
イルゼ達は顔を見合わせると、そんな青年に近づいていった。
「こんにちは」
イルゼのかけた声に青年――サニエルは申し訳なさそうな顔を上げると、
「すみません、今はまだ準備中なんです。すぐに用意しますから――」
と、ここで、その表情が驚きに変わった。
「君達は」
どうやら彼のほうも少年達のことを覚えていたようだった。
「こんなところで店開きですか?」
セレファンスが無邪気な様子で訊ねると、何故かサニエルは少し困ったような表情を見せた。
「……いや、ちょっとね。独自の市場調査というか――そういえば組合の職員に聞いたんだけど、君はグリュワードさんの甥御さんなんだってね?」
窺うようなサニエルにセレファンスは目を瞬き、少し考え込んでから首を傾げる。
「もしかしてこれ、叔父に知られたらマズイとか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」
そう言ってサニエルは苦笑した。
「でも、できれば内緒にしておいてくれたら有難いかな。あんまり心配をかけたくはないし……。あ、グリュワードさんはね、僕にとってはもう一人の父親みたいな存在なんだ。子供の頃、良く組合の事務所に入り浸ってた僕を何かと面倒を見てくれてね」
穏やかに話す青年に、セレファンスは「ここでのことは話しませんから安心してください」と伝えた。
「ありがとう、そうしてくれると助かるよ。それにしても昨日は恥ずかしいところを見せてしまったね。あんな公共の場で殴り合いなんて……反省してるよ。申し訳なかった」
「昨日、言い合っていた相手って、お兄さんなんですよね?」
イルゼの問いに青年は頷く。
「兄は身体を壊して隠居した父からアーロイスという交易商会を引き継いだばかりでね。実は僕も、そこで働き始めたばかりなんだけど……どうも兄とはそりが合わなくて、いつもああして意見が分かれては喧嘩ばかりをしているんだ」
サニエルは肩を竦めて溜め息をついた。
「本当は、もっと冷静になって話し合わなきゃ駄目だって分かってはいるんだけど……でも兄は、僕の出す意見は下らないと頭から決めつけているような言動ばかりを取るものだから、ついカッとして……。そりゃあ確かに僕は、テオフィルの上学院まで行かせてもらっていたから、この歳でも未だに実践経験は足りないけどさ」
青年は子供っぽい仕草で唇を尖らせたが、少年達の視線に気がついて表情を改めた。
「ごめん、こんなことを君達に言っても仕方がないね。なんか、ちょっと気分的にも疲れてるみたいで……」
苦笑いをする青年とこうして近くで相対すると、彼の持つ穏やかさと育ちの良さが一層、強く感じられる。恐らく年齢は二十歳を少し過ぎた頃であろうが、柔和な容貌と性格がたたって、他人から軽んじられることも多いのではないだろうか。それにしても、良くあの厳つい兄と殴り合いなどできたものだとイルゼは感心した。
「これがアーロイス商会で扱っている品?」
セレファンスはサニエルの前に並べられていた品物を一つ取り上げた。それは白い光沢を持つ貝細工のブローチで、その他にはペンダントやブレスレットもある。
「ああ、そうだよ、綺麗だろう? 今、女性に人気の装身具なんだ」
「……ふーん」
「ほんとだ、キラキラしていて綺麗ですね」
セレファンスはいまいち鈍い反応を示し、それを補うようにイルゼはサニエルの説明に同意した。
「でも……」
「でも?」
イルゼの呟きを耳ざとく聞きつけ、サニエルが眉を顰める。それにイルゼは慌てて頭を振った。
「あ、いいえ、別に」
「正直に言ってくれ。ここで僕が店を開いたのは、そういう正直な消費者の言葉を聞きたかったんだから」
イルゼは少し迷ったが、思っていたことを正直に述べた。
「ただ、さっきも似たようなものが他でも売ってたなって思って」
「……でも、良く見て欲しいんだ。君が他の店で見たのは、きっと短時間で粗雑に作られた品のはずだ。でも、これは一つ一つ丁寧に心を込めて作ってる物なんだよ。繊細さとか、綺麗さとかが違うと思わないかい?」
サニエルは一生懸命に品物の良さを訴える。だがイルゼには、その違いを見出すことはできなかった。大体、先程のだって眺めた程度で、矯めつ眇めつして見たわけではない。
イルゼが答えに窮していると、セレファンスが隣で助け船を出してくれた。
「うん、これはいいな。微妙な色合いがすごく綺麗だ」
いつの間にかセレファンスが手に取っていた薄い色合いのスカーフを見ると、サニエルは「ああ」と納得したように頷いた。
「それは僕も良いとは思ってるんだけどね。ちょっと値段が高くて、なかなか売れないんだ。かといって、製作工程に手間暇がかかっているから単価も下げられないし……」
そう言って顔を曇らせたサニエルだったが、イルゼ達の後方に目を向けた途端、ぱっと日が射したかのような表情を見せた。
「レワ」
少し上ずった声で青年が囁く。
イルゼ達が背後を振り向くと、そこにはこちらの様子を少し離れた場所から窺う少女の姿があった。
彼女を見て、イルゼは思わず目を見張った。少女の肌は淡い褐色で、背に流れる髪と瞳は青みがかった銀色だったからだ。それらの特徴は、イルゼにとって見慣れないものだった。
そんなイルゼの不躾な視線を感じ取ったのか、少女は肩にかけていたショールを、おずおずとした仕草で頭に被った。
「レワ、大丈夫だからこっちへおいでよ。彼らはアーロイス商会の人間じゃないよ」
サニエルは柔和に少女へと声をかける。だが、それでも少女は躊躇いを隠さなかった。しかし誘われた手前、踵を返すのは失礼だとでも考えたのか、意を決したように彼らへと近づいてくる。
「……こんにちは、サニエル」
消え入るような少女の声。イルゼとセレファンスには、軽く視線と頭を伏せて挨拶とする。
「うん、こんにちは、レワ。珍しいね、こんな街中まで足を運ぶなんて」
サニエルは先程よりも明らかに昂揚した声と表情で応えた。
サニエルの正面に陣取っていたイルゼ達は、横に移動して少女の場所を作ってやる。すると少女は恐縮したように身を縮ませて、空いた場所にしゃがみ込んだ。途端、ほのかな甘い香りがイルゼの鼻腔をくすぐる。少量だが香水でもつけているのだろう。
しかし、そんな芳しい香りとは相反して、なんとも気まずい空気が彼らの合間を流れる。
少女は俯いて黙り込んだままだ。そんな彼女の頑なな様子に、サニエルはなんと声をかけていいのか考えあぐねているようだった。
と、セレファンスが何を思ったのか、少女の被っていたショールに手を伸ばした。瞬間、少女は身体を小さく震わせる。
「――この色、そこにあるスカーフと同じ染め方?」
「え?」
セレファンスの行動に身を強張らせていた少女が恐る恐る問い返した。金髪の少年はショールに軽く手を添えたまま言う。
「この不思議な色の移ろいが、そこのスカーフと似てるからさ、そうかなって」
「……分かるの?」
少女が驚いたように顔を上げた。ここで初めて二人の少年は、少女の容貌を確かに確認することができた。
年の頃は十四、五歳で端麗な顔立ちをした美しい少女だった。先程、遠目からも整った容貌の持ち主だとは認識していたが、間近で見るとその印象を更に強くする。淡い褐色の肌に銀色の大きな瞳が映え、眉は凛々しく整い、唇は艶やかに色づいている。一度、目にすれば、まず忘れることのない容貌だろう。
少女はスカーフを手に取り、ショールに重ねるようにして広げて見せた。基本色は違うが、それらは確かに色合いの階調が良く似ていた。
「……これ、私達の部族に伝わる染めの技法なの。代々、口伝のみで引き継いできた秘伝だから、この色合いは私達にしか出せないのよ」
褐色の肌の少女――レワは少し誇らしそうに言った。それにセレファンスは「へえ、そうなのか」と興味深そうにショールとスカーフを見比べる。
スカーフのほうは、まるで白い靄の中に青や薄紅の光が差し込んだかのような色合いを見せ、緑を基調としたショールは陽光に揺れる緑葉の色彩と輝きを持つ。どちらも職人の技を感じさせる代物だ。
「じゃあ義母と妹のお土産は、このスカーフにしようかな。ウラジミールにはあんまりにも色々な物が溢れてて、どれを買おうか迷ってたんだ。もし良ければ、職人の目から見立ててくれれば有難いんだけど」
そう言ってセレファンスは気安い様子でレワを見る。
「職人なんて……私はまだ補助役の見習いなの。でも、私で良ければ喜んで」
そこで少女は初めて少年達に笑顔を見せた。
ここからの彼らの会話は、土産選びの話を中心にして心地良く弾んだ。サニエルはレワの様子に安心した表情を見せると、彼女と共に品物の特徴を説明し始める。そんな二人の助言を聞きながら、セレファンスは義母と妹のために二枚のスカーフを選んだ。柑橘類で染めた落ち着いた暖色系のものと、可愛らしい雰囲気を持つ薄桃色の二種だ。
それらを手にして、セレファンスは満足そうな表情を浮かべていたが、
「そうだ、イルゼ。レシィにも買っていってやろうぜ」
名案だと言わんばかりにイルゼを振り向く。
「レシェンドさんに?」
目を丸くするイルゼにセレファンスが耳元で囁いた。
「それを差し出せば、きっと今回はお咎めなしで済むぞ。それに剣術の稽古だって、もう少し優しく教えてくれるようになるかもな」
それはどうだろう、とイルゼは疑問に思ったが、買っていくことに異論はなかった。レシェンドには様々なことで世話になっており、常々有り難くは思っていたが、こういう機会でもなければ改まって感謝を伝えることは難しい。
セレファンスに促され、レシェンドへのスカーフはイルゼが選ぶことになった。多種多様な中から吟味し、イルゼは一つのものを選び取った。それは単調な色合いだったが、闇夜に向かう一時の空を閉じ込めたかのような藍色で、凛々しい彼女にはそれが似合うのではないかと思ったからだった。
「ところで、レワ。今日、街中まできたのは、もしかして僕に話があったからじゃないのかい?」
イルゼ達が買い物を終えるのを待ってから、サニエルが口を開いた。すると少女は思い出したかのように目を見開き、途端、表情を翳らせた。
「レワ?」
少女の様子を見て、サニエルも不安そうな表情を閃かせる。
「……あのね、父が……アーロイス商会との取引を今期限りでやめるって言い出しているの。来期は契約の更新をしないって……それをサニエルに知らせようと思って……」
レワは俯きがちに呟いた。それにサニエルは「そんな」と茫然とした声音を洩らす。
「じゃあ、ウラジミールの他の商会と契約するのかい? でも、そんな話、組合からは一言も」
「違うの。ウラジミールの業者じゃないの。実は数日前から父のところに東皇国出身だという旅の方が滞在しているのだけど――」
「東皇国? アドニスの……?」
サニエルの戸惑いに満ちた問いにレワは頷いて続ける。
「その旅の方が私達ツワルファ族の染織技術をとても高く評価してくれたの。これなら目の肥えたアドニス人であれば、もっと正当な金額で取引してくれるだろうって」
レワの話にサニエルは複雑な表情を垣間見せる。すると少女は気まずそうに青年から視線を逸らした。
「それで……もし良ければ、懇意の貴族に頼んでアドニスの商業権を獲得できるように根回しをしてくれるとまでおっしゃってくれて。そうすればツワルファは、アドニスの都で工房を持つことが可能になって、理不尽な仲介料を支払わなくて済むようになるだろうし、それに旅の方も優秀な職人を故郷に招聘できることは光栄な限りだから是非にと……。今ではすっかり父もその気になってしまって、数名の若い者をアドニスに派遣しようとまで言い出しているのよ」
「あの族長が」
信じられないとばかりにサニエルは呻いた。
「そして、その派遣に、私も父の名代として同行しろと命じられたの」
「そんな、レワまでアドニスに!?」
今度こそサニエルは愕然とした様子で頭を振った。
「そんな話、突然でとても信じられないよ。大体、その旅人っていうのは本当に信頼できる人なのかい?」
「私も最初は怪しいと思っていたのだけれど……彼の持っているアドニスの市民権登録証は、きちんとした物のようだったし……」
「そんなもの……! 一般人の目を欺くだけのものであれば、いくらでも偽造できるさ!」
サニエルの勢い込んだ指摘に、レワは少しばかり反感の色を見せた。
「でも、そんなに悪い人には見えなかったわ。それに何より、ツワルファの技術を高く評価してくれたのが父にはとても嬉しかったのよ。それは私だって同じ。だってウラジミールでは技術よりも何よりも、とにかく短時間で安価に数多くの物を作らせようとするでしょう? 誰が作っても、同じような物ばかりを――」
「そ、それは……でも、それじゃあ僕も駄目だと思ってるんだ! だから僕は何度も兄にかけあって……!」
「あなただけがそうは思ってくれても、あなたのお兄さんを始め、ウラジミールの商人達は誰も思ってはくれないわ」
「レワ……」
突き放すようなレワの口調に、サニエルは茫然として彼女の名を口にした。
「……ごめんなさい」
少女は言い過ぎたことを後悔したかのように項垂れる。
「だからもう、ここにはこられないの。あなたと会うのも今日で最後。でもサニエルには、とても感謝しているのよ。誰も私達の声を聞いてくれない中で、あなただけが私達に向き合ってくれたから。あなたのおかげで私は、ウラジミールの街を少しだけ好きになれたの。あなたがいてくれたから私は――……」
少女は一瞬、薄く潤んだ瞳を青年に向ける。しかし、すぐに感情を抑えるようにして瞼を閉じ、再び青銀色の瞳を見開いた時には、その淡い情感は消え去っていた。
「もう行かなきゃ。ここには父に内緒できているの。あなたにはもう会っては駄目って言われたけど……どうしても、きちんと最後にお別れだけは言いたかったの」
少女は立ち上がる。そして青年を真っ直ぐに見つめると、
「さようなら、サニエル。今まで、本当にありがとう」
揺るぎのない声音でレワは告げた。
青年は茫然とした表情で、軽く身を翻す少女の動作を見つめていた。
「――追いかけなくても?」
去っていく少女の背に顔を向けたまま、セレファンスがサニエルに問うた。すると青年は我に返ったかのように金髪の少年を見、
「……追いかけたって、どうしようもないさ。今の僕には、彼女やツワルファのためになることなんて、何一つできないんだから」
「そういう問題じゃないと思うけど」
セレファンスは独白のように呟く。だがサニエルは、それには聞こえない振りを決め込んで、目の前に並べてあった商品を手早く片づけ始める。
「もう、こんなことをする必要もなくなっちゃったな」
そう言って青年は短い空笑いを発する。
後片付けを終えたサニエルは、イルゼ達に短く別れの挨拶を告げると、少女の去った方向とは正反対のほうへと歩んでいく。
一度も振り返らなかった青年の背は、イルゼの目にも忍びないほどの哀切が漂っていた。
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