第17話 夜のひととき

 イルゼ達はグリュワードに薦められた酒場で食事を取ることにした。今から食事処を探すのは面倒であるし、食事後はそのままグリュワードを待つことができると判断したためだ。


 組合内の扉から薄暗い通路を通り抜けると、グリュワードの言っていたとおりに酒場へと繋がっていた。


「あら、いらっしゃいませ」


 イルゼ達に目をとめた女性給仕が笑顔で近づいてくる。


「落ち着いて食事ができる場所を頼みたいんだけど」


 酒場の雰囲気を確かめながらセレファンスが言うと、


「はい、三名様ですね。では、こちらへどうぞ」


 はきはきとした明るい口調の給仕は、一行を壁際のテーブルへと案内する。

 席に着くとイルゼ達はグリュワードが絶品と称していた一品のほか、給仕の意見を聞きながら適当な注文を済ませた。


「なかなか良い雰囲気の店だな」


 セレファンスの感想にイルゼも頷いた。

 イルゼにとって酒場といえば、厳つい男達がたむろする場末めいた場所と想像してしまうが、ここは明るく清潔を保っている。酒を楽しむ者も周囲に迷惑を振りまくことはない。中には子供を含んだ家族連れもあり、皆、楽しげに食事と会話を交えていた。それらに水を差さない程度の音楽も心地良い。


 酒場の雰囲気と程なくして運ばれてきた湯気立つ食事と冷たい果実酒をイルゼ達は十分に堪能した。そうして一息を終え、イルゼが果実酒の火照りを冷まそうと給仕係に冷たい水を頼んでいた時、にわかに中央卓の辺りが騒がしくなった。


「なんだと? もういっぺん言ってみろ」


 それほど大きくはない声だったが、それは凄みがきいており、酒場中に響き渡った。


 そちらにイルゼが顔を向けると、椅子に座った体格の良い男と、その横に立つ背の高い青年が相対しているのが見えた。その二人が何やら揉めている様子であった。


「ああ、何度でも言うよ。兄さんのやり方は、あまりにも傲慢過ぎる。それじゃあ、誰にも認められない」


 ドンっと激しい音が鳴った。凄みのある声を持った男のほうが卓上に拳を叩きつけたのだ。


「お前に現場の何が分かるって言うんだ? 知識ばかりを詰め込んで、甘っちょろい机上の空論しかできねえ奴が! 大体、認められないなんて、どこをどう見て言ってやがる。今期のうちの経営状況を見てみろ! 明らかに上向きだろうが!」


 会話から察するに、どうやら兄弟で言い合っているようだった。『兄さん』と呼ばれた男は、声も体躯も並外れた威圧感を有し、それに対して彼の弟であろう青年は、知的な顔つきや物言いからも穏やかさが見て取れる。全く正反対の容貌と性格を持っている兄弟は、今や酒場中の視線を集めていた。


「兄さんだって分かっているはずだよ。それが本来の利益じゃないってことは。今は節約に節約を重ねてるんだ、それは当たり前のことでしかない。経費の見直しは賛成だよ。でも僕が言いたいのは、してはいけないところまですれば、あとから必ず摩擦が生じるってことなんだよ。特に、人間相手の経費削減は安易にするべきじゃない。このままだと本来の利益の成長さえも望めなくなる」

「……お前の言っていることは、ツワルファの連中の入れ知恵か? あいつらはまた、お前に難癖をつけてきているのかっ!」


 そこで再び兄である男は卓上を殴りつけた。


「奴らになんでも聞き入れようとする態度を見せるな! お前は万事につけてそうだから、いつもいいように利用されるんだ! まだ分からないのかっ? 奴らは甘やかすと際限がないってことを!」

「兄さん、甘やかすとか、そういうことじゃないよ。僕はただ、彼らの労働に見合った当然の対価を認めてやってくれと……」

「馬鹿か、お前は! それが甘やかすということだろうが!」

「違うよ、兄さん、もう少し落ち着いて考えてみてくれ」


 弟の懸命な言葉にも兄は強い苛立ちを露わにし、苦渋の表情で頭を振った。


「俺は落ち着いてるさ、落ち着いていないのはお前だろう……! そうやって、ふにゃふにゃと甘いことばかりを言ってるから、簡単に女の色香に惑わされるんだ……っ!」


 今までは兄を慮っている様子の弟だったが、その言葉を聞いた途端、はっきりとした嫌悪感を露わにした。


「レワのことを言っているのなら、この話に彼女は関係ない」

「関係がないだと? お前、業者内ではどういう噂を立てられているのか知らないのかっ?」


 兄は我慢の限界を超えたとばかりに顔を上げ、悪意の言葉を弟へと叩きつけた。


「アーロイスの次男坊は馬鹿げた夢想論で、ウラジミール全体の経営戦略に水を差してるってな! お前の一人善がりな行動が、ウラジミールで働く全ての労働者に悪い影響を与えてるんだぞ! しかもその理由が、山裾に住む土着民族の女に誑かされてなど……! アーロイス家の恥さらしも良いところだ!」

「そんなの……! 根も葉もない噂だ! 僕は僕なりに、ウラジミールやアーロイス商会の将来を考えて……!」

「ふん、どうだかな! 一体、ツワルファの族長に、どんな見返りを約束してもらったんだ? あの娘の処女をくれてやるとでも言われたか! まあ、お前のような馬鹿な男をたくさん誑かしているのなら、生娘かどうかも分かったもんじゃないがなっ!」

「――!!」


 弟の表情が激しい怒気に煌いた。と、次の瞬間、椅子の上にあった兄の身体が、激しい物音を立てて勢い良く床に倒れ込む。それに周囲のあちこちから驚愕と悲鳴の声が上がった。


「……僕のことはいくらでも言えばいい! だけど彼女を侮辱するのだけは許さないっ!」

「っ、この……!」


 殴られた事実を認識した途端、兄である男は弾かれたように立ち上がり、その勢いで弟の頬を殴りつけた。何倍もの力で応報された弟の争い事には向かないような身体は軽々と宙に舞い、背後にあった卓の上へと盛大に落ちた。


 顔をしかめたくなるような破壊音と人々の悲鳴が酒場の空気を支配する。

 兄である男が、卓上に倒れ込んで呻く弟の胸倉を掴み上げた。


「全く、お前みたいな軟弱者が弟だと思うと腹が立つ……!」

「……兄さんこそ、もう少し物事を深く考えてから行動したらどうだっ!」

「まだ言うか!!」


 兄が再び弟を殴りつけようと拳を振り上げた――と、その時。


「そこで何をやっている!!」


 鋭い一喝が、暴走していた兄弟の動きを完全に停止させた。


 イルゼ達も酒場中の人々も、その声の主に顔を向ける。


「これは一体何事だっ? 何故、こんな事態をここで繰り広げているのだ!」


 険しい表情と声音で兄弟に近づいて行ったのはグリュワードだった。


「……グリュワードさん」


 卓の上に身を置いたままの青年が茫然とした声音を洩らした。


 グリュワードは青年の胸倉を捕らえている手を見咎め、兄のほうである男に厳しい視線を放った。すると兄は、ばつが悪そうな表情で小さく舌打ちをした上で弟を解放した。


「何が原因で、どちらが先に手を出したんだ?」


 グリュワードに問われ、兄のほうが口を開く。


「原因は、お互いに持つ経営方針の相違ってやつですよ。先に殴りつけてきたのはサニエルのほうだ」

「サニエルが?」


 グリュワードは意外そうな顔を見せた。


「それは……! 兄さんがレワを侮辱するようなことを言ったからじゃないか!」

「あんなのは単なる軽口だろうが! まともに受け取るほうがおかしい!」

「デリック」


 再び始まった兄弟の言い合いに、グリュワードは静かだが韻のこもった声を挟めた。


「思慮のない言葉は暴力を隠し持ち、その報いを受けても仕方のないものだぞ。それからサニエル。寛容できない物事だからといって、暴力に訴えるのはもっとも恥ずべきことだ」


 兄弟は憮然として黙り込む。この頃になると周囲は落ち着きを取り戻し、給仕達が遠慮がちにだが後片付けに取りかかり始めていた。


「さて、次にお前達がするべきことは分かっているな? 自身の行いの後始末は、自身でつけようとするものだ」


 サニエルと呼ばれた青年は、グリュワードの言葉に項垂れた。だが兄のデリックのほうは、


「グリュワードさん、申し訳ないが俺はこれで失礼させてもらいますよ。こいつと違って俺は忙しい身なのでね」


 一瞬、見下げたような視線をサニエルに放つと彼らに背を向ける。そして「騒がせて済まなかった」と謝罪を口にしながら酒場の客らに顔を巡らせ、空いていた卓上に幾枚かの銀貨を置いた。

 その卓上に店の支配人らしき男が急いで駆け寄って行く。そしてそれを確認すると、すでに店から出ようとしていたデリックの背に向かって深々と頭を下げた。どうやら十分に納得のできる金額だったらしい。


「僕は……後片づけを手伝っていきます……」


 グリュワードの隣に立っていたサニエルは小さく言った。それにグリュワードは少しだけ表情を和らげて頷いた。


「待たせたな、セレファンス」


 イルゼ達の座る壁際の席に歩み寄ってきたグリュワードは、何事もなかったかのように声をかけてきた。


「いいえ。久しぶりにゆっくりと美味しい食事を楽しめて、ちょうど良かったですよ」


 セレファンスも、やはり動じた様子を見せずに答えた。


 そんな二人をイルゼは見ながら、セレファンスの肝が据わった性格は、彼ら一族特有のものなのだろうかと考える。


「それでは早速、我が家へ向かおうとしようか。本当なら夜のウラジミールを案内してやりたいところだが、お前達は今日、着いたばかりで疲れているだろうしな」


 グリュワードの言葉にイルゼは思わず心の中で頷いた。実のところ、腹が満たされたせいもあり、異常に眠りの園が恋しくなっていた。今ならば、寝台に入り込んで数秒の時間で眠りに落ちることが可能だろう。


 思わぬ出来事はあったが、十分に満足できた酒場を後にして、イルゼ達はグリュワードの住まいであるテイラー邸へと招かれることになった。




 暗闇と静寂に沈む静かな部屋。そこに安息を妨げるものは一切なく、イルゼは心地良い眠りを享受する――はずだった。


 何度目かも分からない寝返りを打って、イルゼは苦しげに嘆息した。早々と寝台に身体を預けたものの、彼の意識は静穏さからは程遠いところにあり、とてもではないが睡眠を受け入れられる状態ではなかった。


 ここは十分に夜が更けたテイラー邸の一室。ウラジミールに滞在するイルゼのために用意された個室だ。寝台のほかには応接用の卓や椅子、浴室などの日常に必要な設備が全て揃っている配慮の行き届いた部屋で、イルゼの身体を覆う毛布も清潔で柔らかく申し分ない。だが今のイルゼにとっては、それさえも不快な心地の要因にしかなり得なかった。


 イルゼは自身の身体に絡みついていた毛布を乱暴に跳ね除け、寝台の上で上半身を起こす。そして両膝を両手で抱え込んで、そこに額を押しつけ、再び深い溜め息をつく。


 眠たくないわけではない。何度も眠りの中へと落ちそうになった。しかしその都度、イルゼはある光景を脳内に閃かせ、飛び起きる羽目になっていた。


「……情けないな……」


 イルゼは汗に湿った背を冷たく感じながら、自嘲するように一人ごちた。


 ある光景とは、セオリムの村で起こった一連の出来事の様子だった。今までも幾度となく、その光景にうなされては夜半に目を覚ますことはあった。しかし、その時はいつも傍らにセレファンスとレシェンドの寝息があり、それを暫く聞くことによって、イルゼは再び眠ることができた。時にはうなされるイルゼに気づいた彼らが、悪夢から目覚めさせてくれることもあった。


 今まではそうした経緯もあり、まさか一人で眠りにつくことができない状態になっているとは思ってもみなかった。一体、自分は気づけていないところで、どれだけの迷惑をセレファンス達にかけているのだろう――そう思うとイルゼは、どうしようもなく情けない思いに捕らわれた。


 気分を転換させるため、水でも飲もうと寝台から立ち上がる。卓上に置かれた陶器製の水差しから、杯に水を満たし終えた――その時だった。


 コツコツと小さく扉が鳴った。こんな夜更けでもあり、一瞬、気のせいかとも思ったが、次に聞こえてきた声にイルゼは目を丸くした。


「イルゼ、起きてるか?」

「セレ?」


 声の主を認識して、イルゼは急ぎ施錠を外して扉を開ける。そこには夜着に薄い上着を肩からかけたセレファンスが立っていた。


「なんだ、まだ寝てなかったのか?」


 セレファンスは軽く眉を顰めながらイルゼに言った。恐らく扉を開けるまでの時間が短かったため、奇妙に思ったのだろう。寝台の中にいたのならば、ここまで迅速には行動できない。


「……いや、ちょっと寝つけなかっただけ」


 イルゼは心中を悟られまいとして苦笑いを浮かべた。夢が怖くて眠れないなどと、情けない理由を知られたいとは思わなかった。


「ふうん……まあ、なんにしても、ちょうど良かったな」

「何が?」


 今度はイルゼが眉を顰めた。するとセレファンスは、イルゼの身体を押し退けるようにして部屋の中に入り込んでくる。


 セレファンスの意図が掴めぬまま、イルゼは困惑する。そして金髪の少年が枕を一つ、小脇に抱えていることに気がついた。

 それを問い質す前に、セレファンスはイルゼを振り返った。


「実はな、一人で寝てたら静か過ぎて眠れないことに気がついたんだ。だから、ここで俺も寝ることにするな」


 セレファンスは先程までイルゼが使っていた寝台に歩み寄ると、その上に抱えていた枕を軽く放った。


「寝るって、ここで? 一緒に?」


 戸惑いを隠せないイルゼに、セレファンスは頷く。


「まあ、少し狭いけど、眠れないことはないだろ? ほら、早くこいよ。明日も早朝からレシェンドの稽古があるから、起きるのは早いんじゃないのか?」


 イルゼは困惑を引きずりつつも、セレファンスに促されるまま、再度、寝台へと上がった。続いてセレファンスも毛布に入り、持参した枕に頭を落とす。


「イルゼが起きててくれて助かったな。まさか、レシィのところへはいけないし」


 カラカラと笑うセレファンスを見ながら、イルゼは彼がこの部屋にきた理由を納得できずにいた。


「セレ、もしかして……」

「ん?」


 セレファンスは首を傾げてイルゼを見る。


「……ううん、なんでもない」


 きっと自分の思い至ったことは当たっているだろう。だが悟らせないことがセレファンスの優しさならば、黙って受け取ったほうが良いと思った。


 イルゼもセレファンスにならって身体を横たえる。先程は感じる余裕もなかった毛布の心地良さに気づき、今度は眠りを受け入れられそうな気がした。


「あのさ、イルゼ」


 暫くしてからセレファンスが声をかけてきた。


「〈ディア・ルーン〉って知ってるか?」


 その唐突な質問にイルゼは初めて聞く言葉を反芻する。


「ディア、ルーン?」

「知らないか?」

「うん、知らない……」


 イルゼの回答に、セレファンスは明らかに落胆の色を見せつつも続ける。


「〈ディア・ルーン〉っていうのは『捧げる言葉』って意味だ。でも、じゃあなんでお前はあの時、俺が教えた〈ディア・ルーン〉の続きを知っていたんだ?」

「……あの時?」


 イルゼが訝しげな表情を作ると、セレファンスは「ラヴィニアに捕らわれた時、変わった言葉を復唱させただろう?」と言った。


「ああ……」


 イルゼの脳裏には、初夏の頃に起こった不思議な体験が想起される。


 それはイルゼが壊滅したセオリムの村でセレファンスとレシェンドに助けられてから間もない頃。家族同様の村人達と最愛の少女を失い、出会ったばかりのセレファンスらと旅に出ることになり、悲しみと不安で胸が押し潰されそうになっていた自分に降りかかった怪事件。


 ラヴィニアとは、その怪事件を主導していた女性だった。ただし彼女も、それに協力していた人々も、人間ではなく森に宿る精神の化身――妖精だったが。

 度重なる人間達の愚行と蹂躙に耐えきれなくなり、それを放念する神の有り様に疑念を抱き、そうしてついには闇の力にまで頼った妖精達。そんな彼らによってイルゼ達は異世界に精神のみを捕らわれたのだった。

 彼らの目的は人間達に切り倒された守護樹の再生だった。その贄にイルゼは選ばれ、異形のものと化した守護樹に危うく身体を奪われそうにまでなった。


 その時、セレファンスから抗いの術として教えられたものが、不思議な韻を持つ言葉の羅列だった。それを唱えることによってイルゼは自分が創り出せるという不可思議な力――〈マナ〉を顕現することができ、ラヴィニアの思惑を拒むことができたのだ。


「でも、なんで知ってたんだって言われても、あれはセレが教えてくれたんじゃないか」

「違う。俺が教えられたのは途中までだった。俺は、あの言葉を全て知っていたわけじゃない。あとはお前が自分で言葉を紡ぎ出して〈ディア・ルーン〉を完成させたんだ。それに――」


 セレファンスは一瞬、考え込むような表情を見せると、


「ディ・ヴィトゥール・リタァス・エルバル、ヴィガール・エ・リクゥトゥ・アートス、リクゥトゥ・ド・ヴィガル・マナ」

「は?」


 唐突に意味不明の言葉を歌うようにして口にしたセレファンスに、思わずイルゼは間の抜けた声を出した。そんな彼にセレファンスは「今の言葉の意味、分かるか?」と訊ねてくる。


「……はあ?」


 イルゼはますます訝しげな表情を作った。


「そんなの、僕に分かるわけないだろう? 何それ、大陸外言語?」

「今の言葉の意味は『叡智に宿りし聖霊よ、我は其の下にあり、其は我が力なり』だ」

「ああ、それって……」

「そうだ、今のはあの時、お前に教えた〈ディア・ルーン〉の一節だ。――ってことは、きちんと意味を理解してるんじゃないか」

「え?」


 イルゼには何がなんだか分からず、やはり眉を顰める。そんな彼にセレファンスは言った。


「だったらお前、あの時は、この言語をきちんと理解していたってことだぞ?」

「――僕が? その意味不明語を?」

「ああ」


 セレファンスが肯定するとイルゼは驚いて叫んだ。


「まさか! だってあの時は、普通の大陸言語を使っていただろう? そんな訳の分からない言葉じゃなかった!」

「〈ディア・ルーン〉は神に伝えようとする祈りだ。元々の言語じゃないと〈ディア・ルーン〉とは言わないし、効果もなさない。俺はお前に、そのままの言語で〈ディア・ルーン〉を教えた。本来は意味を重ねながら紡ぐ言葉だが、あの時はそこまで教えていられる状況じゃなかったからな」


 そう言ってセレファンスはイルゼを真っ直ぐに見る。


「つまり、お前は意味を理解しながら、しかも知り得るはずのない〈ディア・ルーン〉を完璧に紡ぎ上げた。――何故だ?」


 イルゼはセレファンスに見据えられ、困惑した。


「何故って言われても……僕はただ、意識に届いた言葉を復唱していただけに過ぎないし、それに今じゃ、あの言葉は殆ど覚えてないし……」

「覚えてない? 殆ど?」

「うん」


 イルゼも惜しいような気持ちで頷く。だが、あの混乱した状況の中で、あんな長文を暗記するのは至難の業だ。セレファンスは疑問を整理するようにして呟く。


「あの時には理解していたのに、今は理解できない。あの時は知っていたのに、今は覚えていない……なんでなんだろうな」

「そんなこと言ったって、別に嘘をついてるわけじゃ」

「分かってる、疑っちゃいない。大体、嘘をつくにしたって、いくらイルゼでも、もう少しマシな嘘をつくだろう?」

「……なんか今、ちょっと馬鹿にされた気がする」

「気のせいだ、気にするな」


 セレファンスは少々、意地の悪い笑みを浮かべた。


「まあ、とにかく真面目な話、忘れる原因と理由っていうのは必ずあるはずなんだ。もしかしたら、記憶になんらかの制限がかかっているのかも知れない」

「制限……」


 セレファンスの言い分にイルゼは困惑するしかなかった。そうは言われても、全く自覚がないからだ。


 少しの間、セレファンスは何かを思案するようにして天井を見つめていたが、


「確かイルゼは、血の繋がらない親父さんに育てられたんだったな」


 と、宙に視線を向けたまま、イルゼに訊ねてくる。


「うん、それが?」

「〈マナ〉や〈ディア・ルーン〉についての話とか、その……本当の両親についての話は何も聞いてないのか?」


 少し遠慮がちに問うたセレファンスにイルゼは頷いた。養父のダグラスは一切、それらのことについては何も語らずに亡くなった。それはイルゼにとっても後悔の種となっている。


 セレファンスは「そうか」というと、それ以上は追求してこなかった。イルゼの表情を見て配慮したのかも知れない。


「ねえ、僕も少し聞いていい?」


 イルゼは寝返りを打ってセレファンスに顔を向ける。


「僕達が持つ力――〈マナ〉って一体、なんなの?」

「……なんなの、って?」


 セレファンスは横目でイルゼを見る。


「だから、どういうものなのかなって。……正直、怖いんだ。小さい頃から力は使えたけど、こんなふうに思うことはなかった」


 むしろ幼い頃のほうが、自然と力を使えていた気がする。いつからかそれを怖れるようになり、今となっては恐ろしくて幼い頃のように顕現させることができなくなった。


「僕はこの力が怖いよ。いつか僕が僕じゃなくなるんじゃないかって、何も分からなくて」


 そう言って目を伏せたイルゼに、セレファンスは静かに口を開いた。


「残酷なことを言うようだけどさ、その力でイルゼがイルゼでなくなることはないんだぞ? 〈マナ〉はあくまでも使う者の付加要素であって、その精神を変質させるものじゃない。だから〈マナ〉によって引き起こされた全ての現象は、その者の心が望んだことだ」


 数呼吸ほどの沈黙のあと、イルゼは皮肉そうに笑った。


「本当に残酷だ」

「悪い、でも――」

「分かってる。セオリムの村で僕がしたことは、確かに僕自身が望んだことだから……」


 イルゼは身体を仰向けに横たえ直す。そして、暗闇に沈む天井へと目をやった。


 そこに浮かぶのは、赤い炎に包まれる故郷の村。理不尽な暴力で息絶えた親しい人々。教会堂で静かに息を引き取った何よりも大切だった少女。そして――怒りにかられ、この手にかけた多くの人間の顔――……


 イルゼは顔をしかめて思わず目を瞑った。背がたちまち冷たく湿り、心臓が恐怖に翻弄されて、にわかに大きく跳ね上がり始める。

 瞳を閉じていてもなお、嫌な光景は消えることなく、気持ちの悪い眩暈に脳内が支配される。それはまるで、嫌な夢に引きずり込まれる前兆のようだった。


 気持ちが悪い――そう思って大きく息を吸った、その時だった。

 耳の辺りにくすぐったい感触を覚え、ふとイルゼは瞼を開く。するといつの間にかセレファンスが腹ばいになり、イルゼの髪を軽く指先で弄んでいた。


「……何?」


 セレファンスの行動にイルゼは怪訝な視線を送る。


「いや、イルゼの髪って赤いっぽいなあと思って。薄闇でも分かる。本当の両親のどちらかが、よっぽど赤い髪だったんだろうな」

「……そうなのかも知れないね」


 イルゼは力なく、なんとなしに答えた。セレファンスの意図は分からなかったが、拍子抜けしたように肩の力が抜け、嫌な気分が少しだけ緩和されたのは確かだった。


「で、さっきの続き」


 唐突にセレファンスの声の調子が軽く変化した。


「え?」


 イルゼは覗き込むようにして近づいた彼の顔を見返す。


「〈マナ〉のことについて知りたかったんだろう?」

「あ、ああ、そうだったね」


 正直なところ、すでに探究心は失せていたが、イルゼはセレファンスの無邪気さに押されて頷く。するとセレファンスは、それに応じたかのようにして説明を始めた。


「まず基本として〈マナ〉ってのは、その者の持つ資質と精霊からの扶助をかけ合わせて顕現する奇跡だと言われている。そして、その奇跡は神々から引き継がれたものだと今日まで伝えられているんだ。ようするに俺達の祖先には神の眷属がいたってことだ」

「神の?」


 大仰と思える謂われに、イルゼはつい疑念の声を上げてしまった。それにセレファンスは苦笑する。


「まあ、真偽のほどは定かじゃないけどな。とにかく祖先の中に、そういう類の力を有する者が、ある時から現れたんだろう。そこからその血を受け継ぐ者は俺達のような力を持つようになった――と考えられる」


 イルゼは表情を改めて神妙に頷く。セレファンスも気を取り直したようにして説明を続ける。


「以前にも話したと思うけど、俺の母方の血統も、そういう力を有する一族だったんだ。俺を含めて母や姉も〈マナ〉を顕現できる者だった。特に母は近代では稀なほどに優れた能力の持ち主で、彼女が得意としていた〈神問い〉は――」


 と、ここでセレファンスは一旦、言葉を切ると補足を入れる。〈神問い〉というのは、自然界における精霊の力を体内に取り込むことで、これから起こり得る未来、または遠い過去や世界――フォントゥネルに蓄積された知識などを覗き見ることのできる『知る能力』のことだと言った。


「その〈神問い〉で母は断片的にではあるが〈マナ〉についての知られざる知識を得ることが可能だった。俺が知っていた〈ディア・ルーン〉の一部も、母が〈神問い〉によって得たものだったんだ。母は〈神問い〉で知った全てを詳細に記述で遺していたから」


 セレファンスは母親の死後から数年後、それらの知識が記された手記を発見し、暗記するほどに読み込んだのだという。


「母の手記の中では〈ディア・ルーン〉とは、この世に〈神に属する力〉を呼び込むための手段だと述べていた。優れた資質と強靱な精神力によって紡がれた〈ディア・ルーン〉は、神の扶助を得ようとする祈りになるのだと。ただし、その言葉は元々、人間のためのものではなく、この世の破壊と創造を司る存在のものだったと母は記していたが」


 そんなセレファンスの説明に、イルゼは「はあ」と気の抜けたような溜め息を洩らした。

 正直、彼にとれば、セレファンスの言う事柄は、あまりにも突拍子がなく現実味がなかったのだ。


 そんなイルゼの様子にセレファンスは一瞬、苦笑いを見せたが話を続ける。


「きっと俺達の祖先は、破壊と創造を司ると言われるほどに強い力を有した者だったんだろう。そして〈ディア・ルーン〉っていうのは、彼らが最も効果的に〈マナ〉を駆使できる唱文だったんじゃないか、と俺は考えている。事実、それを唱えた時、イルゼも強い〈マナ〉を顕現できただろう?」

「――うん」


 イルゼは〈ディア・ルーン〉を唱えた時に沸き起こった感覚を思い起こした。

 どこまでも力を放出したくなる心地、理性という名の箍が外された忘我の境地、それに伴う浮遊感。

 それらは決して嫌な感覚ではなく、どちらかというと清々しい解放感だった。

 ただ、それはどこか、セオリムの村で力を振るった時と似ていた――


(……やっぱり、この力を使うことは凄く嫌だ。何か、取り返しのつかないことが起こりそうで怖い……)


 しかしセレファンスは、そんなイルゼの内心など知るよしもなく続ける。


「長い時間の経た現在では〈ディア・ルーン〉の知識は人間から失われてしまった。でも一方で、俺の母やお前のように失われたはずの知識を取り戻せる者もいるんだ」


 感銘に満ちた視線を向けてくるセレファンスに対してイルゼは肩を竦めた。


「だけど僕は君のお母さんみたいに、その記憶を残してるわけじゃないし……」

「でも一度は確実に取り戻したんだ。きっとまた思い出すことができるさ」

「……そうかな……」


 イルゼは内心、自分から振った話題だったが、この話はもう終わりにしたいと思った。しかしセレファンスは、なおも続ける。


「なあ、少しずつでも良いからさ、きちんと〈マナ〉の使い方を覚えないか?」

「〈マナ〉の使い方を?」


 イルゼは思わず嫌悪感を露わにした。そこでさすがにセレファンスの声が躊躇いがちになる。


「そりゃ……嫌だと思うのは分かるけどさ。でもお前が力を持っていることは変えられない事実なんだし、このままそこから逃げてても何も変わらないと思うんだ」

「それは、そうかも知れないけど……」

「だったらきちんと〈マナ〉の扱い方を覚えるべきだ。そうすれば、お前が抱いている不安も少しは解消されるんじゃないのか?」

「…………」


 セレファンスの言っていることは恐らく正しい。だが、それを認めて実行するのには、自分の持つ力の結果を――過ちを見据える必要性がある。しかし、その過ちに夢でうなされている現段階では、そんな勇気を持つことは難しいとイルゼには思えた。


「うん……でも、もう少し考えさせてくれないかな。教えてもらうにしても、自分を納得させてからにしたいし……」


 イルゼの答えにセレファンスは少し残念そうな表情を見せたが、


「まあ、そうだな。焦ることはないか。少しずつ、進んでいけばいいんだから――」


 どこか自分に言い聞かせるように呟いてから、ぽすんと枕に頭を落とした。そして再び視線を天井に戻す。


 暫くすると、静寂に満ちた夜が徐々にイルゼの意識を安らかな休息へと導き始める。すぐ傍らには、いつの間にか規則正しい寝息が聞こえていた。


 きっと今度は、嫌な夢に捕らわれることはないだろう――。イルゼは深い安心感を胸に抱きながら瞼を閉じた。

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