第二部

第一章

第16話 商業の都ウラジミール

 荷馬車に乗ったまま、外壁の向こうに繋がる大きな門をくぐる。弓なりの天井は仰ぎ見るほどに高く、通路はいくつもの馬車が行き交えるほどに広く真っ直ぐに延びていた。そして通路を通り抜ける手前には、背の高い鉄柵が横切っており、その向こうには陽光の下で活気づく街並みが見て取れた。


「凄い、広い」


 イルゼは半ば呆けた表情で周囲を見渡した。


 田舎の生まれで田舎の育ち、つい最近まで故郷の村から一歩も出たことのなかった彼なのだ。口から出るのは驚嘆ばかりだった。


「まずは入都の手続きをしなきゃな」


 イルゼとは対照的な様子で周囲を見回しながら、金髪碧眼の少年――セレファンスは言った。


「セレファンス様、あそこの窓口が一番、空いているようですよ」


 常に主である金髪の少年に忠実な女騎士レシェンドは、左側にある窓口を指し示し、御者台で馬の手綱を操る。


 通路左右の壁面に設けられた複数の窓口では、この都市に到着したばかりらしい戦士風の者や商人、団体の旅行客、とにかく様々な種類の人々が、壁の内側に座る者と何やら会話を交わしていた。そこでやり取りを終えた旅人達は揃って鉄柵へと向かい、開かれた門扉を通り抜けて向こう側に見える賑やかな大通りへと入っていく。


 イルゼ、セレファンス、レシェンドの三人も、たった今、フィルファラード大陸有数の交易都市として名高いウラジミールに到着したばかりだった。荷馬車に乗った一行は、都市の玄関口である通路をゆっくりと進む。


 イルゼがセレファンス達との旅を決意した時分には初夏だった季節も、今では夏の終わりに差しかかろうとしていた。これまでイルゼ達はリゼットを目指してテオフィルの地を北上しながら、いくつもの町や村を通り過ぎた。


 その間、イルゼはセレファンスからは一般的な地理や大陸史、レシェンドには剣術の指南を受けていた。それらをイルゼが求めた時、セレファンスは快く応じ、意外だったがレシェンドもすんなりと了承してくれた。


 二人の優秀な教師を手に入れたイルゼは、旅を続けながら学ぶ毎日を過ごしていた。新しいことを知ったり覚えたりするのはイルゼにとって楽しいことだったが、それ以上に、そうして何かに熱中している間は、セオリムの村での出来事を忘れていられた。それが何よりも有り難いことだった。


「じゃあ、入都の手続きをしてくる。レシィはここで待っててくれ」

「はい、セレファンス様」


 レシェンドの操る荷馬車が停止すると、セレファンスは身軽に荷台から飛び降りた。


「あ、待って! 僕も行く」


 イルゼの上げた声に、セレファンスは怪訝そうに振り返った。


「行くって、手続きをするだけだぞ?」

「うん、だって色々と覚えて勉強しなきゃいけないし」

「なんだそりゃ」


 セレファンスは笑ったが、イルゼにとっては大真面目だった。


 周囲の様子を見て、この都市が入都する人間を審査して把握する仕組みを採っている――というのは理解できたが、実際のところ、どのような手続きをするのか見てみたかったのだ。


 最近のイルゼはなんにでも興味を持ち、知りたいと思えば臆することなく追及するので、セレファンスからは「世界に目覚めた子供みたいだな」と苦笑された。


 セレファンスが窓口に座る男性職員に声をかけると、まずはイルゼ達の氏名や年齢、性別を確認された。イルゼは、そんな彼らのやり取りを傍らで聞くことになった。


「入都の目的は観光ですか?」

「いいや、この街に旧知がいるんだ。そこに数日……まあ、十日間くらいかな。世話になりながら仕事をする予定なんだ」

「では、就労目的ですね。滞在日数十日……人数は三名、男性二人に女性一人」


 職員はセレファンスから聞き取った情報を一枚の書類に記入していく。


「それでは、ここに代表者の署名を」


 職員から差し出された筆と書類を受け取ると、セレファンスはサッと文面に目を走らせてから、指定された部分に洗練な文字を書き記した。


 書類を返還された職員も、書類を一通り確認すると、


「はい、よろしいです」


 ぼんっと大きめの印鑑を勢い良く押す。


「こちらの書類を門扉の前にいる衛兵に確認させてから入都してください。出都時も、この書類を手続きの窓口に呈示してください。紛失した場合、または内容に間違いや変更があった場合は、ただちに入都管理局へ届け出るように。違反者には罰金、または刑罰が科せられますのでご注意ください」


 職員の事務的な口上にセレファンスは頷く。


「では改めて、ようこそ、テオフィル最北の交易都市ウラジミールへ。あなた達にヴィエラの女神が微笑みますように」


 職員は書類を差し出しながら、事務的だった口調と表情を和らげる。


「ありがとう」


 セレファンスは書類を受け取って笑顔で応えた。


「行くぞ、イルゼ」


 書類を手にしたセレファンスがイルゼに振り向く。


「まずは街の中に入ろう。今後の予定は道すがらに話すから」


 セレファンスはレシェンドの待つ荷馬車へと足早に向かう。聞くと、夕刻の混雑が始まりつつあるので、それに巻き込まれないよう、早めに門扉を通りたいとのことだった。確かに周囲の様子が先程よりも活発になってきている。


 少年達が荷台に乗り込むと、レシェンドは荷馬車を鉄門扉へと向ける。

 門扉はいくつかあり、それぞれ入都目的によって分けられているようだった。

 衛兵の一人がイルゼ達の荷馬車に近づき、書類の呈示を求めてきた。セレファンスが書類を差し出すと、


「ああ、就労目的の方々ですね。では、あちらのほうで確認を行いますのでどうぞ」


 衛兵はイルゼ達の荷馬車を右端の門扉へと誘導する。


 そこでは簡単な人数と荷の確認が行われ、イルゼ達は問題なしと判断された。


「お気をつけて」


 衛兵の気遣いに見送られ、イルゼ達は鉄門扉を通り抜ける。そのまま進んで通路の出口である門をくぐると、目の前には夕暮れ近い日射しに包まれた大通りが広がった。


「わあ……」


 思わずイルゼは感嘆の声を洩らす。


 道の左右にある店先には量も種類も豊富な商品が並べられ、それらを揚々と紹介する店員達の声が競い合うようにして上空を飛び交っている。色鮮やかな果物、大きな籠に盛られた調味料、風に吹かれて揺れる色彩豊かな布地と装身具などなど……。そして、それらを見て動き回る大勢の買い物客。


 まるでお祭りのようだ、とイルゼは思った。彼にとれば、こんな人出は生まれて初めての経験だったが、この街ではこれが日常の風景だとセレファンスに教えられる。


 イルゼ達を乗せた荷馬車は、人波と喧騒の溢れる大通りを進んでいく。


 交易都市ウラジミールは、南皇国テオフィルの北西端に位置し、西皇国リゼットとの境界を傍らに持つ国境都市でもある。隣国であるリゼットは、世界を相手に幅広く交易を行う海上貿易国家であり、テオフィルにはウラジミールを通して様々な舶来品が流れ込んでくる。テオフィル側も、肥沃な土地と高い農耕技術を活かした農作物を多く輸出しており、ここウラジミールは二国の産物が入り混じる国際色豊かな拠点となっていた。この都市が時として『海の入り口』とも称される所以だ。ちなみにこの街では、ヴィエラという名前の富と名声の女神が人気だった。


「そっか、だから窓口の人があんなことを言ってたんだ」

「そう。ここは商売の都市だし、ようは成功を治められますようにっていう挨拶さ」


 イルゼの納得いった表情にセレファンスは頷く。


「まあ、これから仕事をしなきゃいけない俺達には、ぴったりの挨拶だな」

「仕事? するの? 僕達が?」

「そう、するの。何度も言ってただろう? 入都の目的は就労だって」

「ええっ? ウラジミールに入るための口実じゃなかったの?」


 てっきりそう思い込んでいたイルゼは、セレファンスの説明に驚きの声を上げる。


「それだったら素直に観光目的って言ってるさ。実はな、リゼットは今、一般の入国者を厳しく制限してるんだ。だから、まともに入国査証を申請して許可が下りるのを待っていたら、間違いなく一ヶ月以上の待機を余儀なくされる」

「一ヶ月以上?」


 イルゼは思わず眉根を寄せた。そんなに待機していたら、この街で初冬を迎えることになってしまう。


「だけど、査証を必要としないで国境を越えられる方法――っていうか、仕事があるんだ。それがリゼットへの輸出品に付き添う『運び手』っていう任さ」


 セレファンスの話によると、その『運び手』というのは、交易品が相手国まで安全円滑に渡るように従事する荷の管理者なのだという。そのため『運び手』の彼らは、リゼット側の交易拠点である都市カナンまで、国境を越えて輸出品に付き添うことになる。その際の入国査証は、特待的に免除されているとのことだった。


「つまり、その『運び手』にさえなれれば、すぐにでもリゼットへ入国できるってこと? でも、そんな重要な仕事、たった今、街についたような新参者に任せてくれるようなものなの?」


 イルゼのもっともな疑問に、セレファンスは大丈夫、と言わんばかりの笑みを閃かせた。


「それについては伝手がある。その『運び手』は、ウラジミール交易協同組合っていう組織の管理下にあって、そこの組合長が父の弟なんだ。彼に頼めば臨時的な『運び手』の仕事を斡旋してくれるだろう。ちょうど今の時期は、収穫された大量の農作物を輸出する作業で人手が足りないはずだしな」


 そして今、荷馬車が向かっている先が、その協同組合の本部なのだとセレファンスは言った。


「へえ、この街に叔父さんがいるのなら、君のお父さんもここの出身なんだ?」

「ああ、父は元船乗りだからな」

「え、そうなの?」


 イルゼは意外な気がして目を丸くした。セレファンスはてっきり裕福な家の出身だとイルゼは思い込んでいたので、父親が船乗りという職業があまり彼の雰囲気とは結びつかなかったのだ。セレファンスは中性的で整った顔立ちをしており、体躯も細身だ。荒くれ者の代名詞でもある海の男とは対極の容姿をしている。


「なんか言いたそうな顔だな」


 不躾に彼を見ていたのが分かったのか、セレファンスが胡乱げな目をイルゼに向けてきた。


「あ、いや、セレのお父さんが船乗りって、あんまり想像がつかないっていうか」


 セレファンスが男らしくないと思ったことはないが、思うように筋肉がつかない体質を嘆いていた彼を知っていたので、なんとなくイルゼは誤魔化して笑う。だがイルゼの思考は見破られており、セレファンスは更に不満な顔つきになった。


「俺は母親似なんだよ」


 そっぽを向いて拗ねた顔を見せたセレファンスに、イルゼは正直に思ったことを言った。


「セレのお母さんって相当に綺麗な人だったんだろうね」


 目の前の少年を通しての感想だっただけに、間接的に男らしい見た目ではないと言われたも同然で、セレファンスは少しだけ顔を顰めた。しかし悪意のない感想だけに、文句も言えずに「まあな」とだけ呟く。


「セレファンス様の御母君は、月の女神と称されるほどに美しいお方でしたから」


 レシェンドが御者台から教えてくれる。だがそうなると、更にセレファンスが似ているという母親と、船乗りの父親の接点が分からなくなってくる。


「セレのお母さんって、貴族か何かだよね?」

「なんでそう思う?」

「え、だって、セレってお母さん似なんだろう? で、どう見ても君って一般庶民じゃないっていうか……まあ、レシェンドさんがついてる時点でそうなんだろうけど」

「ああ、そっか」


 そうだよなとセレファンスは納得したかのように頷いた。


「確かに母は生まれも育ちも良いほうだな」


 セレファンスの両親の出会いはなかなか突飛なものだったらしく、十代の時に母親がお忍びで街へ遊びに出かけた際に、絡んできた無頼漢から助けてくれたのが当時二十代半ばの若者で船乗りの父親だった。そんな彼に一目惚れをした母親は、その若者を追いかけ回した末に周囲の反対を押し切って結婚をしたという。


「うわあ、なんか凄いね。でも、分かる気がするけど」

「なんでだよ」

「だってセレのお母さん、行動がセレに似てる気がするから」


 そこでレシェンドが笑いを吹き出したのか、その背中が不自然に揺れてセレファンスから睨まれた。


「母には悪いが、俺はそこまで無鉄砲なことはしないぞ」

「でもセレファンス様は、こうと決められたら絶対に曲げませんよね」

「それは――まあ、そうだけどさ」


 レシェンドからの指摘にセレファンスは面白くなさそうな顔つきをする。恐らく彼も自分の母親と同じで、周囲の反対を押し切って家を飛び出してきたのではないだろうか。

 そんな想像をイルゼが口にすると、セレファンスは不貞腐れたように再びそっぽを向いたので、当たらずも遠からずだったのかも知れない。


 彼らを乗せた荷馬車は、活気のある市場を通り抜け、別の意味で賑やかな地区へと入っていく。その頃になると、強過ぎる西日はいつの間にか消え失せ、空は多少の朱を残した薄い藍色の色彩を見せていた。


 建ち並ぶ屋台からは腹の音を誘発する香りが漂い、開け放たれた酒場の扉からは男達の怒号めいた笑声や女達の甲高い嬌声が、律動的な音楽に乗って流れてくる。

 灯火の薄明かりに照らされるそれらの様子を、イルゼは遠い物事を眺める心地で見つめていた。


「着いたぞ」


 セレファンスが言った。同時にレシェンドの操る荷馬車が煉瓦造りの建物の前で停止する。

 その建物を見上げると『ウラジミール交易協同組合本部』という看板が門戸の上に掲げられていた。


「レシィは荷馬車を見ててくれ」


 セレファンスの言葉にレシェンドは「はい」と答える。


「イルゼは? 来るか?」


 セレファンスに問われ、もちろんとばかりにイルゼは頷いた。


 二人の少年が荷台から降りると、レシェンドは他の出入りに配慮したのだろう、荷馬車を別の場所に移動させ始める。


 イルゼはセレファンスに伴って建物の中へと入った。途端、多忙な雰囲気を持つ空気が二人を出迎える。

 それほど広くはない事務所内には、数名の男女が忙しそうに立ち回っていた。しかし誰一人、イルゼ達が入ってきたことに気をとめない。それぞれの作業に没頭していて本当に気づかないのか、いちいち反応を示すのが面倒なだけか、判断に苦しむところだった。

 そんな様子にイルゼは少し気後れしたが、セレファンスは全く気にする様子もなく、奥に設けられた受付台へと真っ直ぐに近づいていった。


「すみません」


 セレファンスが声をかけると、少年達の前を忙しく通り過ぎようとしていた若い女性事務員が、こちら側に気がついた。彼女の両腕には、顎の下まで積み重なった大量の書類束が抱えられている。


 女性事務員は周囲を見回し、対応できるものが自分しかいないことを確認した上で、イルゼ達のほうへと近寄ってきた。

 書類束を重そうに受付台に置いてから、女性事務員はセレファンスを見て首を傾げる。


「はい? 何かご用かしら?」


 女性事務員は疲労を漂わせながらも、務めたように柔和な様子で微笑んだ。

 どうやら彼女は、イルゼ達を迷子の観光客とでも判断したようだった。その表情や声音は組合に訪問してきた客に相応しいものではなく、年下の彼らを慮るような雰囲気を持っていた。この辺りは宿屋や飲食店が並ぶ界隈なので、そうして迷い込んでくる者も少なくはないのだろう。


 が、セレファンスにとっては、あまり気分の良いものではなかったらしい。子供扱いされたとでも感じたのかも知れない。


「……こちらにいるグリュワード=テイラー氏にお会いしたいのですが」


 少しぶっきらぼうにセレファンスが用件を伝えると、女性事務員は途端に目を丸くした。


「組合長に?」


 全く思わぬ用件だったのだろう、女性事務員は驚きの表情を隠さなかった。


「テイラーは只今、奥で会議中なのですが……お約束はございますか?」

「約束――一応、近日中に伺う旨は知らせてあります」


 口調を改めた女性事務員に問われて、セレファンスは答える。


「分かりました。それでは、そちらにおかけになって、もう暫くお待ちください」


 女性事務員は興味を含んだ表情を少年達に向けながら、傍らに備えつけられた椅子を示す。


 そうしてイルゼ達が椅子へ向かおうとした矢先、奥にある扉の向こう側がざわめき始めた。


「ああ、ちょうど今、会議が終ったようですね」


 扉に視線を向けて、女性事務員が教えてくれる。


 暫くすると、開かれた扉の向こうから、壮年の男を先頭にした数名の男達が現れた。


「組合長、このままルアド商会に出向いて、先程の件を早急に対応してもらえるかどうかを窺ってみます。あちらもまだ、事務所に残っているはずですから」


 男達の中でも年若い一人が、壮年の男に向かって申し出る。


「ああ、そうだな、頼む。それから、倉庫側への連絡も忘れずにな」

「はい!」


 張り切ったように若者は返事をすると、すっかりと暗くなった戸外へと俊敏な動作で飛び出していった。それを見送った壮年の男は、


「足りない『運び手』の手配は、グスタフ君がやってくれるんだったな」


 と、落ち着いた雰囲気を持つ男に振り返る。問われた男は頷いた。


「はい、すぐにでも対処いたします」

「手間はかかるが、慎重に身元と経歴の調査は行うように。それから先日、言っていた件だが」

「ええ、甥御さんが『運び手』の仕事を希望されているとか。人員不足なので助かります。それで彼らはいつ頃、こちらに到着する予定なのですか?」

「ああ、手紙によると、もうそろそろウラジミールへ着くはずなんだが……」


 と、ここで壮年の男の視線が、離れたところに立っていたイルゼ達の姿を捉えた。すると彼の双眸が見開かれ、驚愕に満ちる。


「セレファンス!」

「ご無沙汰してました、叔父さん」


 セレファンスは微笑むと軽く会釈した。


「ご健勝のようで何よりです」

「来てたのか! いつ、ウラジミールに着いたんだ?」


 壮年の男は驚きと喜びを綯い交ぜにした表情で少年達に近寄ってくる。


「ついさっきです。入都して、そのままこちらに寄らせてもらいました。ついでに、この辺りで食事も済ませたかったので」

「そうだったか。遠慮せずに我が家へ向かえば家の者が何かを用意してくれただろうに。まあ、ウラジミールの食を楽しむのならば、この辺りが最適だろうがな」


 男は快活な笑声を発する。


「しかし本当に良くきてくれた。久しぶりに可愛い甥の顔を見られて嬉しいぞ。これから実家のほうへ戻る予定なのだろう? 確か――三年ぶりだったか。兄も愛息の成長ぶりを喜ばれることだろう」


 と、ここで、男の視線がイルゼの上で止まった。


「おお、彼か。手紙で話していた少年は」

「ええ」


 セレファンスは遠慮がちに後方で立っていたイルゼの背を軽く押す。

 前触れもなく男の前に押し出されたイルゼは、戸惑いながらも丁寧に挨拶を済ませた。


「初めまして。イルゼと言います。宜しくお願いします」

「グリュワード=テイラーだ。私はセレファンスの父親の弟に当たる。君には甥が世話になっているそうだね」

「いえ、そんなこと――。どちらかというと、迷惑ばかりかけてます」


 謙遜ではなく本当にそう思っていたので、イルゼは答える声を小さくした。

 そんな鳶色の髪の少年に、グリュワードは好感の持てる笑顔を向ける。


「いやいや、気難しいこの子が、憚りなく友人を紹介してくれただけでも十分なことさ。器量は十分にあるはずなのに、許容するのは従者がただ一人だけというのは寂しい気がしていたが――君のような友人ができるようならば心配はいらないな。セレファンスを宜しく頼むよ」


 グリュワードは強引にイルゼの手を取ると、その願いを込めるようにして上下に力強く振った。そんな言葉にイルゼは、セレってそんなに気難しいかな、むしろ人懐っこいほうじゃないのかと不思議に思っていると、


「叔父さん」


 セレファンスは堪りかねたような口調で口を挟んだ。


「おお、すまんな、ついな。だが照れなくとも良かろうに。私はお前の叔父だぞ。可愛い甥の心配をしたところで、それは当たり前のことだろう?」

「別に、照れているわけでは――」

「ところで、お前の保護者であるレシェンド殿はどうした?」


 憮然としたセレファンスの言葉を遮ってグリュワードは問うた。それにセレファンスは、もう何も言うまいといった様子で答える。


「……レシィは外で荷馬車を見てもらってます」

「そうか。この後、食事を取ると言っていたな。お薦めは、そこの通路と繋がっている隣の酒場だ。あそこで出される黒金貝の酒蒸しは絶品だぞ。荷馬車なら、ここの裏手に止めておくといい」


 そう言うとグリュワードは、傍で彼らの会話を聞いていた一人の若い男性事務員を振り返り、傍らに呼び寄せた。


「はい、なんでしょう」

「頼みたいことがある。甥の荷馬車に待機している女性を、この裏手の敷地に案内してやってくれないか。黒い髪と瞳をした見目麗しい女性だ。一目見れば、すぐに分かるだろう。年齢は二十代半ば。ふむ、ちょうど君と同年代だな。ちなみに彼女は独り身だ。どうだ、頼まれてもらえるかな?」


 青年は一瞬、きょとんとした表情を閃かせたが、すぐに淡い期待を瞳に輝かせた。


「え、ええ、もちろん喜んで」


 素直な反応で頷く青年をグリュワードは満足そうに見、ただし、と途端、からかいの笑みを浮かべた。


「彼女は甥の姉同然の存在でね。粉なんぞをかけようとすれば彼が黙ってはおるまい。ちなみに甥は剣術に長けており、彼女自身も甥の剣術指南役で腕前は達人級だがね」


 楽しげにのたまうグリュワードに、青年は情けない顔をした。


「……それはないですよ、組合長……」

「甘い話には裏があるものだ。言われたことを全て信じるな、賢い者は用心をもって進む、と常々言ってあるだろう。だが『はい』と言った以上、果たしてもらうべきは果たしてもらうぞ」


 グリュワードは軽快に笑い飛ばした。青年はやれやれといった様子で肩を竦め、苦笑いを滲ませながらも誓約を果たすために踵を返す。


 セレファンスは外に向かおうとする青年に軽く感謝を伝えてから「相変わらずですね」とグリュワードに苦笑を向けた。


「言葉は神から与えられた人生の調味料だ。豊かな口は精神と財産を築き、周囲を楽しませる。ただし、知識と分別なきおしゃべりは、害あって利なしだがね」


 グリュワードは肩を軽く上下させて言った。


 暫くたってから先程の青年に連れられて、レシェンドが事務所内に姿を現す。

 グリュワードの話の種にされたレシェンドは、組合員達の納得がいったかのような視線にさらされた。何も知らない彼女は、彼らの奇妙な雰囲気に困惑する。


「セレファンス様?」

「なんでもない、気にするな」


 セレファンスはやはり苦笑ぎみの表情で彼女に言った。


 レシェンドは納得しきれていない様子を見せたが、グリュワードに声をかけられると彼への挨拶を優先する。それにグリュワードは労いをもって応えてからセレファンスに顔を向けた。


「お前達が食事を終える頃には、私の仕事も一段落するだろう。それから一緒に我が家へ向かおう」


 こうしてグリュワードとイルゼ達は、後ほど隣の酒場で落ち合うことになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る