第15話 再生

(あれ……?)


 唐突にイルゼは身体の自由が戻っていることに気がついた。


 今まで自分は身体の異変にも気がつけないほど、セレファンスから教えられた言葉を心地良く歌い続けていたらしい。しかし不思議なことに、たった今まで歌っていたはずの内容を全く思い出せない。


(……おかしいな、なんでだろう? 確かに覚えていたはずなのに、まるで目の前にあったモノが突然、消えてなくなっちゃったみたいだ……)


 自分から大切な存在が離れていってしまったかのような深い悲しみを覚えた。だが何故、それを失ってそんな感情を抱くのか、イルゼには全く分からなかった。


(なんにしても、とにかく助かったみたいだ……けど)


 イルゼは周囲を見渡す。


(一体、僕はどうなっちゃったんだろう?)


 イルゼを囲む風景は、どこまでも真っ白に光り輝いている。周囲にあったはずの森はなくなり、背後に広がっていた水面も姿を消していた。目の前でイルゼを見下ろしていたラヴィニアもいない。

 まるで自分だけが不可思議な力によって別の空間に飛ばされてしまったかのような――それは以前にも体験したことがあるような。


(――っ!)


 そこでイルゼは脳裏に忘れ難い光景を閃かせ、戦慄した。


(まさか僕はまた……!?)

「セレ、メリル……っ?」


 混乱に突き動かされ、イルゼは彼らの姿を捜す。


「セレっ、メリル……! レシェンドさん!」

(まさか、また僕が……っ? 僕の力で、みんなを!?)


 だが彼の絶望は、すぐに解消されることになる。


「イルゼ!」


 それは確かにセレファンスの声。


 慌ててイルゼが振り返ると、真っ白でしかなかった空間に薄らとした人影が現れる。それは徐々に鮮明となり、こちらに手で合図をしながら近づいてくるセレファンスと、それに寄り添うレシェンドの姿を認めることができた。


「セレっ! レシェンドさん! 良かった、二人とも無事で……!」


 彼らの無事をイルゼは喜び、そんな少年を前にしたセレファンスは目を丸くした。


「まさか、泣いてたのか?」

「え」


 開口一番に言われた言葉にイルゼは動揺する。泣きそうになっていたのは確かだったが、反射的に「泣いてなんかいないよ!」と強めに否定した――が。


「にしては、随分と情けない顔をしてるな」


 からかうようにセレファンスから笑われ、イルゼの虚勢は意味をなさなかった。


「だ、だって、僕はまた、あの時みたいにみんなを、セオリムの村みたいになったんじゃないかって……!」

「そんなの大丈夫さ。イルゼがそれを望まなければ、そんなことにはならない、絶対にな」


 セレファンスは、イルゼが常に抱いていた恐怖を朗らかに笑い飛ばす。


「それよりも、体調のほうは大丈夫なのか? 気分が悪いとか、そういったことはないか?」


 続けてセレファンスから心配そうに顔を覗き込まれ、イルゼは困惑から目を瞬く。


「なんだ? やっぱり具合が悪いのか?」

「え、ええと……ううん、大丈夫だよ、なんともない」

「そうか、それなら良かった」


 安堵したかのようにセレファンスは笑う。それを見て、どうしてかまたイルゼは泣きたくなった。だが再び情けない顔と言われては堪らないので、それを表に出すことはどうにか避ける。


「それより、メリルは? それにオルウッドさんやラヴィニアさん達は――」

「ああ、メリル達は……多分、大丈夫だ」

(多分?)


 イルゼは怪訝そうにセレファンスを見た。『多分』という推測は、この状況を彼が多少なりとも理解していることを示す。


「セレ、もしかして何かを知って」

「闇の力で構築された幻影は、イルゼの〈マナ〉によって掻き消された。あとは、この空間に俺達を捕らえる力を解除をするだけ――」


 そう言ってセレファンスは、ある一点に視線を向けた。


「そういうことだろう? ラヴィニア?」

「……侮れない御方。いつから気づいていらっしゃったのですか?」


 薄ら白く輝く空間が、風にそよぐヴェールのように揺らめいた。するとそこには、静かな表情を湛えたラヴィニアが現れる。


「……!」


 イルゼは驚愕で目を見開いたが、セレファンスは少しも動揺することなく続ける。


「メリルが聖域で駆け回っていた時。日の射す草地の上には映るはずの彼女の影がなかった。濃霧に包まれていた場所では気づけなかったけどな。そこからあとは意識を集中させれば、この空間にある様々な異様さを感じとることができた。俺は元々、そういうのには敏感なほうだし」


 セレファンスの答えに、ラヴィニアは皮肉そうな笑みを浮かべた。


「メリルは年若く経験も浅い。ふとした油断が隙を生んだのでしょう」

「もう諦めろ。あんた達の力じゃ、イルゼを捕らえ続けることはできない。それに今のイルゼの〈マナ〉で守護樹は――」

「わたくし達は!」


 途端、鋭い声が上がる。同時に向けられたラヴィニアの瞳には、見過ごせないほどの激情が宿っていた。


「今の今まで沈黙を保ってきました。それが、この世に定められた摂理であり、いつかは報われると信じて。我らの犠牲は意味のあるものだと納得させて……!」


 ラヴィニアの声音は、悲哀と屈辱感の入り混じった様相で消え入った。暫くの間、無音がイルゼ達を支配する。イルゼ達は圧する空気に声を洩らすこともできず、ただ息を詰めて銀髪の女性を注視していた。


 彼女は一つ息をつくと、寒々しい微笑を湛えて続ける。


「ですが、やっと気づいたのです。我々が愚かだったことを。人間のように利己的に生きなければ、使い捨てにされ、ただ蹂躙されるだけの存在であったことを」

「……じゃあ、だからってどうするんだ? さっきも言った通り、あんた達にイルゼを繋ぎ留められるほどの力はない」

「ええ、確かに。イルゼ様の御力を、わたくし達の支配下に置くことは不可能でしょう。ですが、この空間に貴方達を留め置くことくらいはできる――」


 ラヴィニアは目を細め、艶やかな口元を悪意で歪めた。それにセレファンスは「何を馬鹿なことを」と顔をしかめた。


「まだイルゼの力が分からないっていうのか? イルゼの顕現する〈マナ〉で俺達が無理やりにでも外に出ようとすれば、この空間自体、その衝撃に耐え切れずに崩壊するだろう。そうしたら、あんた達の本体である森だって無事じゃ済まないはずだ」

「だったらそのようになればいい」


 ラヴィニアは笑みを消し、静かに言い放った。


「全てを破壊し尽くしてしまえばいい。今更、何を躊躇うのです? 人間は今までそのようにしてきたではありませんか!」


 そんな二人のやり取りをイルゼは茫然と見守っていたが、


「セレ、ラヴィニアさん達は一体……」

「ラヴィニア達は森に住まう妖精――つまり、木々が持つ精神の化身だ」

「木々の化身……妖精?」


 イルゼはラヴィニアを凝視した。しかし目の前の美しい女性は人間以外の何ものにも見えない。


「じゃあ、メリルやオルウッドさんは」

「彼らもわたくしと同じ、この森に住む木々の化身。人間どもが、なんの罪悪も抱かずに殺し続けてきた存在ですわ」


 メリルが人間じゃない?

 イルゼはその事実と、それに伴うラヴィニアの言葉を、どう受け止めて良いのか分からなかった。


「イルゼ様、貴方様が御力をお使いになれば、この空間を難なく破壊することができましょう。そうすれば、貴方達は容易に外へと抜け出せますわ」


 立ち尽くすイルゼに向かって、ラヴィニアは意地の悪い笑みを閃かせた。それにセレファンスは苦々しい表情を滲ませる。


「そんなことをして、あんた達に一体、なんの意味があるっていうんだ」

「ええ、そうですわね――そこに意味などないのかも知れません。ですが今までにだって、わたくし達に意味などなかった。イルゼ様の御力を得られなかった今、恐らく我々は近い将来、滅びを迎えることになるでしょう。それがこの世界の意思ならば……存在し続ける望みを得られないのであれば、滅びの時くらいは我々で決める。このまま唯々諾々と人間どもに食い潰されて堪りましょうか」


 そこまで言うとラヴィニアは、おもむろに表情を柔和なものへと切り替えた。


「さあ、イルゼ様、二者択一ですわ。ここにとどまるか、それとも全てを破壊して外へと出るか。お好きなほうをどうぞ。ですが、あまり選択に時間をかけていると、貴方達の器のほうが持たないかもしれませんわね」

(器?)


 イルゼは思わずセレファンスを見遣った。しかし金髪の少年はラヴィニアに視線を据えており、視線のみの問いかけには気づかない。


(……なんだか良く分からないけれど、のんびりとしていられる状況じゃないみたいだ)


 イルゼは呼吸を整え、ラヴィニアに向かって進み出た。そして改めて銀髪の女性を見つめる。


「ラヴィニアさん、僕は、ここにとどまることはできません」

「そうですか、仕方がありませんね。では、この空間も我々の森も、貴方様の御力で破壊するということですわね」

「いいえ、それもできません」


 頭を振った鳶色の少年に、ラヴィニアは訝しげな表情を送る。イルゼは続けた。


「だからラヴィニアさん。この空間から僕達を出してください。それを貴女はできるのでしょう?」

「……何を言っているのですか? まさか、今までの話を理解していないわけではないでしょうに」

「ええ、理解はしました。でも了承はしていません」


 イルゼは揺るぎない口調で言い切る。

 ラヴィニアの瞳が鋭利な刃物のように細くなる。イルゼは一瞬、気押されそうになったが、それでもなんとか気勢を保つことはできた。


「ラヴィニアさん、お願いです。僕達を外に出してください」

「……理解に苦しみますわ。何を躊躇うことがあるのでしょうか。この空間を壊すことなど、貴方様の御力では容易いことでしょうに」


 溜め息のような口調でラヴィニアは呟いた。


「貴方は力を解放すれば良いだけのこと。ただ、それだけのこと」

「……力を解放するだけならば簡単なのかも知れないけれど……でも、壊すことは簡単じゃない。それはとても怖いことです。今まで存在してきたものの未来を奪うことですから。壊したら最後、もう二度と元には戻らないから――」


 奴らが滅ぼしたセオリムの村のように。そして、自分が手ずから消し去った奴らの命のように。


「だから僕にはできません。貴女達が刻んできた長い時を、そんな簡単に握りつぶす行為が正しいなんて僕には思えない。本当は貴女達だって、そんなことを望んではいないはずだ。……失うことは、とても悲しいことだから」


 ラヴィニアはイルゼの言葉に目を伏せ、少し笑ったようだった。


「貴方様のお考えは分かりました。では、ここにとどまれないのは何故ですか? 貴方はあの村で、大切な者を奪われて死を望んだはずです」


 ラヴィニアの言葉にイルゼは目を見開いた。


「なんで、そんなこと」

「わたくし達は人間と違って本来、言葉を持ちません。その代わり、意識のみの疎通が可能なのです。遠い地の出来事であっても、そこに同胞があれば知ることができます」


 本当に、人間ではないのだ――

 イルゼは改めて奇妙に思ったが、だからこそ正直に想いと考えを述べることができるような気がした。


「……それは――」


 地に視線を落とし、イルゼは自身の内側を探りながら言葉を継ぐ。


「破壊することも、諦めることも、あの時までは簡単だったと思う。でも、今は簡単じゃないから」

「それは何故ですか?」


 イルゼは言葉に詰まる。その答えは確かに自分の中にある。だが正直、それを口にすることは躊躇われた。飾ることのない本心ほど、口に出しにくいものはない。


 少しの間、イルゼは黙り込んでいたが、おもむろに小さく口を開いて、消え入りそうな声でラヴィニアに伝える。


「今もこれからも、僕を心配して信じてくれる人がいるって、思えるようになったから」


 それが誰のおかげかまでは、伝えずとも良いことだろう。


「……貴方は闇に逃げ込むのではなく、光のもとを選んだのですね」


 ふと目の前の女性が寂しげに微笑んだ。


「かつてはわたくし達も、この地に住まう人間達に木洩れ日のような温もりを見い出していました。彼らはわたくし達の恩恵に感謝をし、大地に長く根を張る我らを敬い、森を大切にしてくれた。しかし、いつしか彼らは、我らからの恵みを当然のものとして考えるようになり、それ以上の利を求めて荒々しい搾取を始めた……」


 今のラヴィニアの表情には、先程のような怒りや憎悪ではなく、ただただ深い悲しみだけがあった。


「闇の力を借り、この世の理をはずれた我々は赦されないでしょう。神々の破片を受け継ぐ貴方達が、この地へ訪れることになったのも恐らく必然――我々を見捨てた存在の意思、それに歯向かったが故に与えられた断罪なのかもしれません」

「ラヴィニアさん……」


 イルゼは無意識に女性の名を呟いた。しかし彼女の想いを掬い上げられる言葉までは見つけられなかった。


「いいえ、ラヴィニア様。きっと、それは違います」


 突然、挟まれた声に一同は振り返る。そこには一組の父娘が立っていた。


「我々は見捨てられてなどいなかった。だからこそ、彼らのような人間が御力を有したのではないでしょうか」

「オルウッドさん、メリル!」

「イルゼお兄ちゃん!」


 駆け寄ってくるメリルをイルゼは両腕で受け止めた。


「メリル……!」


 胸に擦り寄ってくる少女の体温は、人間の子供と変わらずに暖かいものだった。


「……オルウッド、あとはあなたに任せます。わたくしは疲れました――」


 ラヴィニアは短く言い残すと踵を返して、光り輝く空間に歩み去っていく。


「え、ラヴィニアさんっ? ちょっと待って!」


 イルゼは慌ててラヴィニアを振り返ったが、


「大丈夫ですよ、イルゼさん。私が責任を持って皆さんを外にお連れいたしますから。それが、ラヴィニア様の出された答えです」


 そう言ってオルウッドは柔らかく微笑んだ。

 イルゼはもう一度、ラヴィニアの消えた方角を見やった。しかし、そこに人影を見出すことは二度と叶わなかった。


「皆さん、まずは謝らせてください」


 オルウッドはイルゼ達に向き直った。イルゼ達もオルウッドに顔を向ける。小さく息をついたオルウッドは意を決したように話し始めた。


「本当は初めから私も解っていたんです。イルゼさんが守護樹様の代わりとして、この地に封じられようとしていることを。それによって皆さんの生命が危険に晒される結果になることも。全てを知っていながら私は、貴方達を救世主などと言って歓待し、それによって自身の罪悪感を和らげ、卑怯な行為から目を背けていました……本当に、申し訳ありませんでした――」


 オルウッドは自身の言葉に押し潰されるようにして深く頭を垂れた。


「ただ、言い訳が許されるならば――私は本当に人間を憎んでいました。憎んでも憎みきれないほどに。我々が生き残るためには、人間の一人や二人を犠牲にしても厭わないほどに。……あの日、守護樹様が切り倒され、その倒木に私の伴侶や多くの仲間達が巻き込まれ、多くの大切な存在を消された時から――私は、この世界を、人間を信じることをやめたんです」


 その告解をイルゼ達は静かに聞き、オルウッドは続ける。


「でも貴方達のような人間に出会って、自分達のしていることが間違っているような気がしてきて……それでも自分を誤魔化し続けました。それを認めるのはあまりにも怖くて辛かった。勇気を持てなかった。でも……」


 そっと隣に寄り添ってきた愛娘をオルウッドは愛おしげに見下ろした。


「偽り続けることの愚かしさを、この子が気づかせてくれた」


 オルウッドは再び顔をイルゼ達に向ける。その表情はまだ全てを納得させ得たものではなかったが、彼本来の力強さを取り戻しているようには見えた。


「メリルのように偽りのない心で貴方達を見ていたら、我々のことをまだ慮ってくれる人間がいるのではないか――……今もなお、そう信じられる自分がいることに気がつきました。でも正直、やはり人間が憎くて仕方がなくなる時があります。簡単に存在を消された仲間達のことを思うと……」


 複雑に表情を歪ませたオルウッドの腕に、メリルが手を伸ばして頬を寄せた。それを見てオルウッドは微笑む。


「でもやっぱり、もう少しだけ人間を――いえ、貴方達のような人達もいる世界を信じてみようと思います」


 オルウッドは自身の左腕をイルゼ達の目の前まで持ち上げる。そこには当初、イルゼ達が見せられたラヴィニアの髪で編まれた腕輪があった。


「もしかして、それが」

「ええ、これが――この空間に貴方達を捕らえていた呪縛です」


 腕輪を見つめたままのセレファンスにオルウッドは頷いた。

 オルウッドは手首と腕輪の隙間に指を差し込むと、それを軽く引っ張った。すると、丁寧に編み込まれていた銀色の輪は容易く千切れ、地へと落ちる寸前に霧散した。


 途端、周囲の風景が胎動のような様相を見せ始める。一切、乱れの存在しなかった空間が不安定な薄膜のように揺らめき、イルゼ達に軽い気圧を伝えた。


「これは……」

「お別れです、皆さん」


 オルウッドは短く告げた。その間にも空間は歪んで形を変え続ける。


「お兄ちゃん達、メリル達のこと、忘れないでね」


 微笑む少女の姿が、まるで波間へ浚われていくように遠ざかっていく。


「メリル……!」


 イルゼは別れを察知する。もはや空間は完全に秩序を失い、止められない崩壊の一途を辿っていた。


「なあ、メリル!」


 セレファンスは遠ざかる少女に向かって叫んだ。


「あの時はわざとだったんだろう? 自分の影を消して見せれば、この空間の真実に俺達が気づくと思って!」


 セレファンスの言葉にメリルはニッコリと笑った。


「メリル、お兄ちゃん達は大好きだから」


 少女の答えを最後に、イルゼ達を束縛していた空間は完全に消滅した。




「ん……」


 ゆっくりとイルゼは瞼を開く。

 まず目に入ったのは、光に透ける緑葉と、その隙間から零れ落ちる眩しい陽光。


(……僕は……何をしていたんだっけ……?)


 煌き揺れる木洩れ日を見つめながら、ぼんやりとイルゼは思考を巡らせる。すると、茶色の髪に赤いリボンを結わえた愛らしい少女の笑顔が閃いた。


「メリル」


 イルゼは小さく呟き、身体を起こして周囲を見渡そうとした。と、ここで、イルゼは自分が荷馬車の上に横たわっていたのだと気がつく。

 その荷馬車はイルゼ達がメリル達の村に向かう際、森の前に残していったものだ。そして同じく残していった馬は木の幹に繋いでいたはずなのだが、すでに彼は自由の身となっており、近くの草地でゆったりと緑の食事を食んでいた。


「これは……一体……」

「んんっ……」


 イルゼが茫然とする背後で小さな呻きと人の気配が動く。振り向くと、セレファンスが顔をしかめながら上半身を起こそうとしていた。


「ここは――ああ、外に出られたんだな」


 セレファンスは軽く周囲を確認してから、疲れ切ったような長い溜め息をついた。


「外って……どういうこと? メリルは? オルウッドさんは? それにラヴィニアさんや村の人達は――」

「言っただろう? メリル達は木々が持つ精神の化身だったって。つまり彼らは、この森に住む妖精達だったんだよ。そして恐らく俺達は、彼らの創り出した異空間に精神だけを囚われていたんだ」

「精神だけを?」

「セレファンス様――」


 御者台のほうからレシェンドが顔を出した。どうやら彼女は、そこに横たわっていたらしい。


「レシィ、大丈夫か?」

「ええ、私はなんとも……セレファンス様こそ、お身体に大事はありませんか?」

「ああ、心配ない」


 セレファンスとレシェンドのやり取りを聞きながら、イルゼは改めて周囲を見てみる。


 そこは変哲のない森の中。霧など一切発生しておらず、穏やかな光に満ちている。時折、心地良い風が頬を撫でた。耳には久しぶりに聴いたかのような鳥達の軽やかな歌声が届けられる。


 と、森の奥に小さな煌めきを見出し、イルゼは荷馬車を飛び降りた。


「イルゼ?」


 セレファンスが怪訝そうな声をかけてきたが、それに構わずイルゼは道のない森の奥へと分け入っていく。


「……!」


 行き着いた先で、イルゼは密やかな場所を見つけた。そこには多くの草花が自生する沼地が広がっており、その恩恵を求めて集まった昆虫が飛び交っていた。そして、その奥まった場所には、見覚えのある光景が存在していた。


「もしかして、あれは――」


 いつの間にか背後にいたセレファンスが呟く。


「……うん。あれが多分、現実の守護樹の根元なんだね」


 イルゼは頷いた。二人の視線の先には、あの不思議な空間で見たものと寸分違わない大きな切り株があった。ただし、周囲の様相は大分違ったが。


 イルゼ達は足下に気を配りながら切り株に近づいていく。沼地の中には無惨な姿となった木々が大量に折り重なっており、足場に困ることはなかった。恐らく、守護樹を切り倒す作業場を確保するために、わざと人間達が放り込んだものだろう。


 守護樹の無残な切り株を前にして、イルゼはポツリと呟いた。


「助けたいなんて偉そうに言っておいて結局、なんの役にも立てなかった」


 それどころかラヴィニア達が守り続けてきた守護樹の枝までも、彼らを助けるために使おうとしていた力で消滅させてしまった。

 それは身を守るためには仕方のないことだったのかも知れないが、その事実はイルゼの心に重くのしかかった。


(……こんな力、無ければ良かった)


 イルゼは心の中で呟く。そうすれば、こんなふうに苦しむことなど一切、無かっただろうに。


「なあ、イルゼ、こっちを見てみろ」


 セレファンスは巨大な切り株の横に回り込み、手招きをする。


「……?」


 イルゼは言われるがままにセレファンスの傍らに近づいた。そして、そこで目にしたものに対して驚愕を露わにする。


「セレ、これ……!」

「ああ、守護樹は死んじゃいない。まあ、大きくなるまでには、かなりの年数が必要だろうけどな」


 少年達の視線の先――根株の表面からは、小さな葉を幾枚かつけた細い枝が伸びていた。注意深く観察すると、他の部分からも所々、爽やかな色合いの新芽が吹き出している。


「……良かった――」


 イルゼは思わず泣きそうになりながら、安堵と喜びと強かな生命への感嘆を口にする。


「セレファンス様!」


 レシェンドが沼地の対岸で金髪の少年を呼んだ。セレファンスはもちろん、イルゼも一緒にそちらを見やる。


 すると二人はあることに気がついた。レシェンドの背後にある木々が、上から押し潰されたように薙ぎ倒されていた。


「……もしかして、あそこって切られた守護樹が倒れた場所?」

「みたいだな」


 二人の少年は再び沼地の倒木を渡ってレシェンドの元まで戻る。


「レシィ、何か見つけたのか?」

「いえ、ただ少し気になるものが……見ていただけますか?」


 セレファンスの問いにレシェンドは草木の茂った奥を指し示す。


 イルゼ達は痛々しい森の損傷を辿るようにして、その奥へと進んだ。その道すがら彼らは、利己的な人間達が犯した罪の深さを目の当たりにしなければならなかった。

 それでも時折、へし折れてもなお、守護樹のように力強い生命を見せる樹木もあった。だが大半の木々は、完全に断ち折れて枯れきっていた。


 暫く進むと森の傷が終わりを告げる。ちょうどその終着点に――ぎりぎりで損害を免れた場所に、その木は立っていた。二人の少年は、その木に引き寄せられるようにして歩んでいく。


 それは赤くて小さな花を満開に咲かせた若木。その高さはイルゼ達の背より少し大きいくらいだ。周囲に同じ種の木はなく、それだけが特に目立ってイルゼ達の目を引いた。


「メリルの木だ……」


 その木を見つめたまま、イルゼは呟いた。


「え?」

「この木『メリル』っていう種の樹木なんだよ」


 セレファンスの問い返しにイルゼは答える。


「雌株のみ、初夏には可愛らしい赤い花をつけるんだ。そして秋になると、黄色の甘い小粒の実がなる」

「……そうなのか」


 セレファンスは小さく呟いた。

 暫くの間、二人の少年は赤い花を鮮やかに咲かせた小柄な木に見入った。


「なんか、メリルらしいよな、可愛いし」

「うん……そうだね」


 イルゼが答えると、セレファンスはゆっくりと『メリル』の木の傍らまで歩み寄る。


「ありがとな、メリル。俺達を助けてくれて」


 そう言って一本の細枝を優しく手に取り、そこに唇を寄せて瞼を伏せた。

 イルゼも『メリル』の木に近づくと、一人の人間としての謝罪とイルゼ個人の感謝を深く心に表した。


 口には出さずとも、きっと少女に想いは伝わっているはずだ。何故ならば、彼女達は言葉を持たない代わりに精神を共有する種なのだから。


「行くか、イルゼ」

「うん」


 促すセレファンスにイルゼは頷く。

 離れた場所で待っていたレシェンドの元に向かう途中、イルゼはもう一度『メリル』の木を振り返った。


(また、いつかきっと、ここに来るよ)


 心の中でそう呟く。

 ――そうだ、いつかこの地に戻れるようになりたい。辛過ぎる記憶も増えてしまったが、多くの暖かい思い出を共有し、自分を育んでくれたテオフィルの地に。戻れるように強くなりたい――たった今、メリルに告げた約束を守れるように。


 イルゼは踵を返す。その刹那、少し強めの風が吹き、光の中で木々がざわめいた。


 前方に転じる間際の視界に一瞬、イルゼは小さな少女の微笑みを捉えたような気がした。



第一部 完

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